『モールス』を新宿のシネマスクエアとうきゅうで見てきました。
(1)この映画は、ヴァンパイア物があまり好きではないので圏外に置いておいたのですが、『キックアス』のクロエ・モレッツが主演し、評判もわるくはなさそうなのでドウしようかなと思っていたところ、夏休み中の水曜日にテアトル新宿で『一枚のハガキ』を見ようとしたものの一時間前で立ち見といわれてしまい、それではと「シネマスクエアとうきゅう」に回ってなんとか中に入ることが出来、この『モールス』を見た次第です(この映画館も、水曜日はレディースデイのため、女性客でほぼ満席でした!)。
映画のオリジナルとされるスウェーデン映画『ぼくのエリ』を見ていませんし、ヴァンパイア物は殆ど知りませんから大きな口は叩けませんがが、評判が良いのは分かる気がします。
劇場用パンフレットに掲載されている柳下毅一郎氏のエッセイを見ると、オリジナルの「エリ」の方は実は男性(「第2次性徴を迎える前の少年」)のヴァンパイアだったようで、それならこのリメイク版のように、明確に女の子にする方がよいのではと思いました。
また、そのヴァンパイアを演じるクロエ・モレッツも、『キック・アス』とは随分と違い落ち着いた雰囲気を出して好演していて、作品毎にドンドン成長しているのだなと思わせました。
ただ、なんだかこの映画の主役はクロエ・モレッツ演じるアビーというよりも、むしろコディ・スミット=マクフィー演じるオーウェンの方ではないか、との印象を持ちました。
登場している時間もオーウェンの方が長そうな感じですし、何よりその性格がかなり複雑に描かれているのではと思いました。
例えば、「エリ」の外見は女性ながら実は男性だったというオリジナルの設定が、アビーからは失われて、むしろオーウェンの方に移されているような感じです。
むろん、彼が「女の子」として苛められるのは、単に弱虫だからでしょうが、何回もそう言われると、雰囲気的にも「女の子」的な感じが漂いだしてきます(ただ、実際には、隣家の夫婦の様子を望遠鏡で盗み見たりしているので、れっきとした男性の設定なのでしょう:注1)。
また、オーウェンは、彼のことをそっちのけで離婚の話し合いを良人と電話でしている母親の元に置かれているのです(オーウェンが学校から戻ってきても、母親が家にいないことがどうも多そうで、実に孤独です)。
それに、オーウェンは、アビーと付き合うことによって、目が開かれた感じになります。例えば、彼を絶えず苛める3人組に対して、アビーの忠告に従って長い棒で対抗しようとします。
さらには、アビーがヴァンパイアであることや、殺人を犯していることを知りながらも、警察に届けようとはしません(自分以外にアビーを保護できる人間はいないのだ、と次第に理解するようになるのでしょう)。
他方、アビーの方は、オーウェンと付き合っても、その性格や行動はそれほど影響を受けないように見えます。それは、オーウェンよりも遙かに長い年月を生きているのですから、当然でしょうが。
(なお、クロエ・モレッツがヴァンパイアの本性を現して、木に登ったり、通りかかった女性から血を吸ったりするときの様がコマ落としで描かれますが、スピード感というよりも滑稽感を伴ってしまいます。)
劇場用パンフレットのIntoruductionによれば、スティーヴン・キングは「この20年でNo.1のスリラー」と述べているそうですが、クマネズミがこうしたヴァンパイア物に「スリラー」的なものをマッタク感じないのは、あるいはキリスト教国(注2)で生まれなかったことによるのでしょうか?
特に、アビーがヴァンパイアだと分かったオーウェンは、父親に電話で、「絶対的な悪という物は、この世に存在するの?」などといった疑問を投げかけますが、こんな内容のことは日本の子供なら絶対に話さないでしょう。オーウェンがこうなってしまったのは、母親が敬虔なキリスト教徒で、いつも食事の前などに神に向かって祈りを捧げているせいなのかも知れませんが(注3)。
なお、原作小説のタイトルは『MORSE 』ながら(今回の邦題と同じ)、映画の原題は『Let Me In』となっているのですが(オリジナル映画の原タイトルは『Let the Right One In』)、これは映画の場合、アビーとオーウェンが、モールス信号を使って壁越しにコミュニケーションをとることに、ほとんど重要性を与えられていないのに対して、“Let me in”という言葉は大層重要な意味を持っていることから、原題の方がずっとふさわしいと思われます(注4)。
というのも、アビーは、オーウェンの家に遊びに来た時に、“Let me in”と言うのですが(注5)、オーウェンが何も言わないのでそのまま家の中に入ると、アビーは体中から血を噴き出してしまいます。そこで急いでオーウェンが、「入っていいよ」と言うと、その症状が治まるのです。
どうもアビーは、なにやら呪文が唱えられないで結界を跨いで中に入ると死んでしまうようなのです。
そうしたことから、ラストについては別様もありうるのでは、と思ってしまいました。
すなわち、仮にそうだとしたら、アビーは、あれだけたくさんの人間を殺しているのですから、そしてこれからも殺さなくては生きていけないのですから、ここはオーウェンに勇気をふるってもらって、アビーが結界を跨ぐ際に呪文を唱えないようにして殺してしまうというラストも考えられるのでは、と思ったところです。
とはいうものの、この映画は、これまでクマネズミが見た映画にかかわりのある俳優が随分と出演しています。
いうまでもなく『キック・アス』のクロエ・モレッツが主演で、『扉をたたく人』で主役を演じていたリチャード・ジェンキンスがアビーの父親(実際は保護者)役ですし、
また、『キラー・インサイド・ミー』に出演していたイライアス・コティーズが一連の殺人事件を追う警察官の役を演じています。
そして、それぞれが熱演していることもあり、好みではないヴァンパイア物ではありますが、おしまいまで飽きずに面白く見ることができました。それには、無論、『クローバーフィールド』のマット・リーヴスが監督したことも大きく与っていることと思われます。
(2)映画は、ヴァンパイア物ですから、当然に血の赤が強調されることになります。なにしろ、映画の初めの方では、リチャード・ジェンキンス演じる父親(実際は保護者)が、殺した男を木の枝に吊るして、首から血液を絞りとる光景が描き出されるのですから。
そうだとすると、夥しい血が流れる映画『冷たい熱帯魚』についての記事で触れたフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』でもかまいませんが、ここでは、なんだかアマンダ・セイフライドの『赤ずきん』(原題も“Red Riding Hood”)と比べてみたくなります(と言って、こちらの作品自体は見逃してしまったので、予告編などからの推測にすぎませんが〔10月に出されるDVDで、より詳細を確認することにいたします〕。
というのも、
a.両者とも、前の映画で評判を呼んだ若い女優が主演を務めています。
『モールス』のクロエは、言うまでもなく『キック・アス』ですし、『赤ずきん』のアマンダは『マンマ・ミーア』(あるいは『ジュリエットからの手紙』でしょうか)。
b.『モールス』は、スウェーデン映画のリメイク作ですし、『赤ずきん』の方はグリム童話に基づく作品で、そのお話自体は何度も映画化されています。
それに、『モールス』に登場するヴァンパイアは人間の血を吸う話ですし、『赤ずきん』に登場する“人狼”も人を食べるわけで、両者ともかなりよく似た話だと思われます。
c.なによりも、上で述べたように、『モールス』はヴァンパイア物ですから、当然に血の赤で溢れているところ、『赤ずきん』も、主人公ヴァレリーは赤い頭巾をいつも被っているのです(そういえば、アビーもヴァンパイアの姿になっているときは、頭巾をかぶっています!)。
と、ここまで辿ってきたものの、実を言えば、こんなことを言ってみたくなったのも、蓮實重彦著『赤の誘惑』(新潮社、2007年)の「誘惑」に負けてしまったからなのですが。非才のクマネズミにはここから先にはとても進むことはできませんので、以降は同書に従って、目眩く「赤の氾濫」を味わいつつ(注6)、「フィクション論」へと進んでいただければ、と思います(注7)。
(3)渡まち子氏は、「ハリウッドらしい長所が光るのは、主役の二人に抜群に上手い子役をキャスティングできたことだ。クロエ・グレース・モレッツの射るような、それでいて哀し げな瞳。コディ・スミット=マクフィーのピュアな存在感。この組み合わせが、身の毛もよだつ恐怖を無垢な初恋の成就へと昇華する。孤独な少年は、少女がこ の世ならぬ存在と知ってなお、受け入れることによって、確かに成長する。オリジナルにあった“饒舌な余白”のトーンはないが、少年少女の目線がより強く なったことで切なさとけなげさが前面に出た」として65点をつけています。
(注1)望遠鏡で隣家を覗くというのは、ヒッチコックの『裏窓』などでお馴染みですが、クマネズミとしては『ディスタービア』(2007年)が印象的でした。『モールス』では単にオーウェンが隣家の様子を覗いているだけながら、『ディスタービア』では、隣家の男が連続殺人事件の容疑者ではないかとの疑惑を持つようになるのですから。
(注2)冒頭、病院の中にあるテレビ受像機にレーガン大統領の演説風景が映し出されますが(この映画の設定が1983年!)、その中ではフランスの政治学者トックビルの言葉―アメリカの強さは教会を見れば分かる、と言ったような内容―が引用されています。
不思議なことに、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・樋口泰人氏のエッセイの冒頭でこのレーガン演説を取り上げているものの、そこではキリスト教には一切触れられていないのです。
(注3)父親が電話を通して話している内容からすると、この点が両親の離婚の原因の一つにもなっているようです。そして、これは、『陰謀の代償』の記事の中で触れた映画『ストーン』に登場するロバート・デ・ニーロの妻にも当てはまる姿でもあります。
(注4)オリジナル映画のタイトル『ぼくの「エリ」 200歳の少女』は、その意味からふさわしくありませんし、上記の柳下毅一郎氏によれば、内容的にもネタバレという点でも間違っていることにもなります。
(注5)ここの部分の字幕では、「中に入ってもいいよ、って言って」となっていたように思います(うろ覚えですが)。とすると、そんなものを映画にタイトルには出来ないでしょうから、『モールス』でも仕方がないのかもしれません!
(注6)蓮實重彦氏の著書では、シャルル・ペローの『赤頭巾』やアンデルセンの『赤い靴』のみならず、例えば、森鴎外の『かのように』が、「薄暗がりの中に「ぼうっと明るくなっては、また微かになって」ゆく小さな「赤」の誘惑によって始まっている」こととか(P.106)、正岡子規の『墨汁一滴』に、地球儀を巡って「日本の国も特別に赤くそめられてあり」と述べられていることなど(P.186)、さまざまの「赤」が溢れかえっています。
さらに、文学だけでなく、「18世紀の経験論から批判哲学を経由して20世紀の分析哲学にいたるまで、引用された語彙としての「赤」の系譜ともいうべきものが脈々と息づいているという事実」(P.274)とまで述べられているのです!
(注7)とはいえ、「「―ひとは誰でも自分の思想を完全に言葉に再現することはできない」というニーチェのアフォリズムをあまりにも軽視しすぎ」る姿勢は、「「私はフィクションの概念について論文を書いている」という命題をめぐって、それが「真剣」で「文字どおり」のものであるが故にフィクションではないと断言したサールと同じ素朴さを露呈させている」(P.283)などと蓮實氏に言われてしまうと、手も足も出なくなってしまいますが。
★★★☆☆
象のロケット;モールス
(1)この映画は、ヴァンパイア物があまり好きではないので圏外に置いておいたのですが、『キックアス』のクロエ・モレッツが主演し、評判もわるくはなさそうなのでドウしようかなと思っていたところ、夏休み中の水曜日にテアトル新宿で『一枚のハガキ』を見ようとしたものの一時間前で立ち見といわれてしまい、それではと「シネマスクエアとうきゅう」に回ってなんとか中に入ることが出来、この『モールス』を見た次第です(この映画館も、水曜日はレディースデイのため、女性客でほぼ満席でした!)。
映画のオリジナルとされるスウェーデン映画『ぼくのエリ』を見ていませんし、ヴァンパイア物は殆ど知りませんから大きな口は叩けませんがが、評判が良いのは分かる気がします。
劇場用パンフレットに掲載されている柳下毅一郎氏のエッセイを見ると、オリジナルの「エリ」の方は実は男性(「第2次性徴を迎える前の少年」)のヴァンパイアだったようで、それならこのリメイク版のように、明確に女の子にする方がよいのではと思いました。
また、そのヴァンパイアを演じるクロエ・モレッツも、『キック・アス』とは随分と違い落ち着いた雰囲気を出して好演していて、作品毎にドンドン成長しているのだなと思わせました。
ただ、なんだかこの映画の主役はクロエ・モレッツ演じるアビーというよりも、むしろコディ・スミット=マクフィー演じるオーウェンの方ではないか、との印象を持ちました。
登場している時間もオーウェンの方が長そうな感じですし、何よりその性格がかなり複雑に描かれているのではと思いました。
例えば、「エリ」の外見は女性ながら実は男性だったというオリジナルの設定が、アビーからは失われて、むしろオーウェンの方に移されているような感じです。
むろん、彼が「女の子」として苛められるのは、単に弱虫だからでしょうが、何回もそう言われると、雰囲気的にも「女の子」的な感じが漂いだしてきます(ただ、実際には、隣家の夫婦の様子を望遠鏡で盗み見たりしているので、れっきとした男性の設定なのでしょう:注1)。
また、オーウェンは、彼のことをそっちのけで離婚の話し合いを良人と電話でしている母親の元に置かれているのです(オーウェンが学校から戻ってきても、母親が家にいないことがどうも多そうで、実に孤独です)。
それに、オーウェンは、アビーと付き合うことによって、目が開かれた感じになります。例えば、彼を絶えず苛める3人組に対して、アビーの忠告に従って長い棒で対抗しようとします。
さらには、アビーがヴァンパイアであることや、殺人を犯していることを知りながらも、警察に届けようとはしません(自分以外にアビーを保護できる人間はいないのだ、と次第に理解するようになるのでしょう)。
他方、アビーの方は、オーウェンと付き合っても、その性格や行動はそれほど影響を受けないように見えます。それは、オーウェンよりも遙かに長い年月を生きているのですから、当然でしょうが。
(なお、クロエ・モレッツがヴァンパイアの本性を現して、木に登ったり、通りかかった女性から血を吸ったりするときの様がコマ落としで描かれますが、スピード感というよりも滑稽感を伴ってしまいます。)
劇場用パンフレットのIntoruductionによれば、スティーヴン・キングは「この20年でNo.1のスリラー」と述べているそうですが、クマネズミがこうしたヴァンパイア物に「スリラー」的なものをマッタク感じないのは、あるいはキリスト教国(注2)で生まれなかったことによるのでしょうか?
特に、アビーがヴァンパイアだと分かったオーウェンは、父親に電話で、「絶対的な悪という物は、この世に存在するの?」などといった疑問を投げかけますが、こんな内容のことは日本の子供なら絶対に話さないでしょう。オーウェンがこうなってしまったのは、母親が敬虔なキリスト教徒で、いつも食事の前などに神に向かって祈りを捧げているせいなのかも知れませんが(注3)。
なお、原作小説のタイトルは『MORSE 』ながら(今回の邦題と同じ)、映画の原題は『Let Me In』となっているのですが(オリジナル映画の原タイトルは『Let the Right One In』)、これは映画の場合、アビーとオーウェンが、モールス信号を使って壁越しにコミュニケーションをとることに、ほとんど重要性を与えられていないのに対して、“Let me in”という言葉は大層重要な意味を持っていることから、原題の方がずっとふさわしいと思われます(注4)。
というのも、アビーは、オーウェンの家に遊びに来た時に、“Let me in”と言うのですが(注5)、オーウェンが何も言わないのでそのまま家の中に入ると、アビーは体中から血を噴き出してしまいます。そこで急いでオーウェンが、「入っていいよ」と言うと、その症状が治まるのです。
どうもアビーは、なにやら呪文が唱えられないで結界を跨いで中に入ると死んでしまうようなのです。
そうしたことから、ラストについては別様もありうるのでは、と思ってしまいました。
すなわち、仮にそうだとしたら、アビーは、あれだけたくさんの人間を殺しているのですから、そしてこれからも殺さなくては生きていけないのですから、ここはオーウェンに勇気をふるってもらって、アビーが結界を跨ぐ際に呪文を唱えないようにして殺してしまうというラストも考えられるのでは、と思ったところです。
とはいうものの、この映画は、これまでクマネズミが見た映画にかかわりのある俳優が随分と出演しています。
いうまでもなく『キック・アス』のクロエ・モレッツが主演で、『扉をたたく人』で主役を演じていたリチャード・ジェンキンスがアビーの父親(実際は保護者)役ですし、
また、『キラー・インサイド・ミー』に出演していたイライアス・コティーズが一連の殺人事件を追う警察官の役を演じています。
そして、それぞれが熱演していることもあり、好みではないヴァンパイア物ではありますが、おしまいまで飽きずに面白く見ることができました。それには、無論、『クローバーフィールド』のマット・リーヴスが監督したことも大きく与っていることと思われます。
(2)映画は、ヴァンパイア物ですから、当然に血の赤が強調されることになります。なにしろ、映画の初めの方では、リチャード・ジェンキンス演じる父親(実際は保護者)が、殺した男を木の枝に吊るして、首から血液を絞りとる光景が描き出されるのですから。
そうだとすると、夥しい血が流れる映画『冷たい熱帯魚』についての記事で触れたフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』でもかまいませんが、ここでは、なんだかアマンダ・セイフライドの『赤ずきん』(原題も“Red Riding Hood”)と比べてみたくなります(と言って、こちらの作品自体は見逃してしまったので、予告編などからの推測にすぎませんが〔10月に出されるDVDで、より詳細を確認することにいたします〕。
というのも、
a.両者とも、前の映画で評判を呼んだ若い女優が主演を務めています。
『モールス』のクロエは、言うまでもなく『キック・アス』ですし、『赤ずきん』のアマンダは『マンマ・ミーア』(あるいは『ジュリエットからの手紙』でしょうか)。
b.『モールス』は、スウェーデン映画のリメイク作ですし、『赤ずきん』の方はグリム童話に基づく作品で、そのお話自体は何度も映画化されています。
それに、『モールス』に登場するヴァンパイアは人間の血を吸う話ですし、『赤ずきん』に登場する“人狼”も人を食べるわけで、両者ともかなりよく似た話だと思われます。
c.なによりも、上で述べたように、『モールス』はヴァンパイア物ですから、当然に血の赤で溢れているところ、『赤ずきん』も、主人公ヴァレリーは赤い頭巾をいつも被っているのです(そういえば、アビーもヴァンパイアの姿になっているときは、頭巾をかぶっています!)。
と、ここまで辿ってきたものの、実を言えば、こんなことを言ってみたくなったのも、蓮實重彦著『赤の誘惑』(新潮社、2007年)の「誘惑」に負けてしまったからなのですが。非才のクマネズミにはここから先にはとても進むことはできませんので、以降は同書に従って、目眩く「赤の氾濫」を味わいつつ(注6)、「フィクション論」へと進んでいただければ、と思います(注7)。
(3)渡まち子氏は、「ハリウッドらしい長所が光るのは、主役の二人に抜群に上手い子役をキャスティングできたことだ。クロエ・グレース・モレッツの射るような、それでいて哀し げな瞳。コディ・スミット=マクフィーのピュアな存在感。この組み合わせが、身の毛もよだつ恐怖を無垢な初恋の成就へと昇華する。孤独な少年は、少女がこ の世ならぬ存在と知ってなお、受け入れることによって、確かに成長する。オリジナルにあった“饒舌な余白”のトーンはないが、少年少女の目線がより強く なったことで切なさとけなげさが前面に出た」として65点をつけています。
(注1)望遠鏡で隣家を覗くというのは、ヒッチコックの『裏窓』などでお馴染みですが、クマネズミとしては『ディスタービア』(2007年)が印象的でした。『モールス』では単にオーウェンが隣家の様子を覗いているだけながら、『ディスタービア』では、隣家の男が連続殺人事件の容疑者ではないかとの疑惑を持つようになるのですから。
(注2)冒頭、病院の中にあるテレビ受像機にレーガン大統領の演説風景が映し出されますが(この映画の設定が1983年!)、その中ではフランスの政治学者トックビルの言葉―アメリカの強さは教会を見れば分かる、と言ったような内容―が引用されています。
不思議なことに、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・樋口泰人氏のエッセイの冒頭でこのレーガン演説を取り上げているものの、そこではキリスト教には一切触れられていないのです。
(注3)父親が電話を通して話している内容からすると、この点が両親の離婚の原因の一つにもなっているようです。そして、これは、『陰謀の代償』の記事の中で触れた映画『ストーン』に登場するロバート・デ・ニーロの妻にも当てはまる姿でもあります。
(注4)オリジナル映画のタイトル『ぼくの「エリ」 200歳の少女』は、その意味からふさわしくありませんし、上記の柳下毅一郎氏によれば、内容的にもネタバレという点でも間違っていることにもなります。
(注5)ここの部分の字幕では、「中に入ってもいいよ、って言って」となっていたように思います(うろ覚えですが)。とすると、そんなものを映画にタイトルには出来ないでしょうから、『モールス』でも仕方がないのかもしれません!
(注6)蓮實重彦氏の著書では、シャルル・ペローの『赤頭巾』やアンデルセンの『赤い靴』のみならず、例えば、森鴎外の『かのように』が、「薄暗がりの中に「ぼうっと明るくなっては、また微かになって」ゆく小さな「赤」の誘惑によって始まっている」こととか(P.106)、正岡子規の『墨汁一滴』に、地球儀を巡って「日本の国も特別に赤くそめられてあり」と述べられていることなど(P.186)、さまざまの「赤」が溢れかえっています。
さらに、文学だけでなく、「18世紀の経験論から批判哲学を経由して20世紀の分析哲学にいたるまで、引用された語彙としての「赤」の系譜ともいうべきものが脈々と息づいているという事実」(P.274)とまで述べられているのです!
(注7)とはいえ、「「―ひとは誰でも自分の思想を完全に言葉に再現することはできない」というニーチェのアフォリズムをあまりにも軽視しすぎ」る姿勢は、「「私はフィクションの概念について論文を書いている」という命題をめぐって、それが「真剣」で「文字どおり」のものであるが故にフィクションではないと断言したサールと同じ素朴さを露呈させている」(P.283)などと蓮實氏に言われてしまうと、手も足も出なくなってしまいますが。
★★★☆☆
象のロケット;モールス
間違いじゃなく細かくは覚えてないが少年なんて、どこにもなかったはず。
公式HPのStoryを見ると
「僕と付き合ってくれる?」「無理だわ、女の子じゃないもの」
とあるが、それは200年も12歳のままのヴァンパイアであって
“人間ではない”という意味しかないはず。
柳下氏の“裏目読み”なら、別に構いませんが少女の格好をする意味・必要は
まったくないしオスカー(オーウェン)が“女の子”であってエリ(アビー)
が“男の子”である、といった性的アイデンティティの問題や性的な交流を
くみ取る必要はないと思う。“血の誓い”を見ても分かるように、彼にとって
彼女は(ひとまず)性の対象ではない。どうやら原作小説では少年がオカルトや
黒魔術に興味がありモールスもその手の交流の手段として使ったのではと思う。
いずれにしろ原作はB級ホラーではないかと…
恥ずかしながらオリジナルにモールスによる交流があったかも覚えてないが
メモを見るとやはりあった。しかしクマネズミさんも書いているように
モールスよりLet the Right One In.やLet Me In のほうが明らかに両方の
映画にふさわしい。それにしても、トワイライト・サーガもそうだが
“恋”する相手は襲わないものなんですかね。
一般的な話として階級や属する社会の違う者との恋愛を成就するのは困難で
上のものが下に降りて一線を踏み越えることでしか成功しない。
それは言い換えれば Le The Right One In.になるわけです。
両方見ての感想は、公式HPでのローリング・ストーンズ紙のコメント
「ハリウッド版リメイクがこの作品を台無しにする前に、今これを見るべし」
のとおりです。恐らく僕もオリジナルを見ていなければ、興味深い話だし面白いと
思っただろうが、オリジナルと較べると“分かりやすくする”ためにオリジナル
の持つ不可思議な曖昧さがなくなり魅力が半減。まあヨーロッパ映画とアメリカ映画
のテイストの違いなんでしょう。当然オリジナルが多くの賞を獲得したのに対し
リメイクでは賞を取れないでしょう。まあ驚くほどストーリーは一緒ですが…
ちなみに僕は二流三流の映画も好きなのでヴァンパイアものも数多く見ていますが
リメイクでは棺桶ならぬバスタブで眠り溶けはしないものの窓からの太陽の光に
苦しむといった吸血鬼ものの定番の場面を入れたりしてホラーの要素が強い。
オリジナルには警官を遅う場面もなかったはず。
あと関係ないですが蓮見でも蓮実でもなく蓮實重彦ですので、よろしく。
去勢された少年だということです。
映画で、それを匂わす部分があったかは
見直さないと分かりませんが。
http://ameblo.jp/kamiyamaz/entry-10585923348.html
“ボカシ”の部分ではっきりするらしい。
『クライング・ゲーム』のように
milouさん、早速のコメントをありがとうございます。
実は、クマネズミの書き方が不十分だったようです。
クマネズミが、「オリジナルの「エリ」の方は実は男性(「第2次性徴を迎える前の少年」)のヴァンパイアだったようで」と申し上げたのは、柳下氏がそのエッセイで、「はるかな昔、エリは第二次性徴を迎える前の少年だった」と述べていることを踏まえてのものでした。
ですが、柳下氏は、そのスグ後で、「その時にさる残虐な貴族にペニスを切られ、不具者にされてしまったのだ。そのまま吸血鬼にされ、年をとらぬ永遠の存在になったのである。彼女は男でも女でもない」と述べているのです!
従って、柳下氏はオリジナルを誤って解釈したり“裏目読み”をしているわけではなさそうです。
クマネズミの方は、リメイクの特徴を明確化しようとしたあまり、柳下氏の文章に余計な言葉「ヴァンパイア」を付け加えたり、その後の文章を端折ったりしてしまいました。
まあ、見ていないオリジナルと無理に比べようとしたのがいけなかったのだと反省しています。
ところで、前回のスウェーデン版の方を「オリジナル」とし、今回のハリウッド版の方を「リメイク」と一般に言われているところ、それには何か馴染めないものを感じます。
無論、どんなものでも、第1作目を「オリジナル」、第2作目を「リメイク」と呼ぶというのであれば、単なる呼称ですから、別段異をたてるまでもありません。
でも、“元の独自なもの”という意味合いが「オリジナル」には含まれますから、何か奇異な感じを受けるのです。というのも、今回の作品も、建前としては、原作小説(『モールス』)の映画化であって、何もスウェーデン版を元にして制作されたわけではないからであり、むしろそれと同列に置かれるべきものではないかと思われるからです〔例えば、今度公開されるラッセル・クロウ主演の『スリーデイズ』の場合は、どうも原作小説がなさそうで、フランス映画『すべて彼女のために』(2007年)を元に制作されているようで、従ってそれをオリジナルとし、今度のはリメイクだと言われても、すんなり受け入れることが出来ます〕。
ということもあって(元々、ヴァンパイア物は好みではないのですが)、スウェーデン版は見ませんでした(注)。
でも、milouさんが、リメイクは「オリジナルの持つ不可思議な曖昧さがなくなり魅力が半減」とまでおっしゃるのであれば、丁度レンタル可能となっていますので、TSUTAYAに行ってこようかと考えているところです(ですが、「台無し」にされた後ですから、どれほどの意味があるのか疑問かもしれません!)。
なお、「蓮實」氏に関するご指摘はありがとうございます。早速修正いたしました。
(注)ここで申し上げているのは、元の原作がある場合、それを忠実に再現しているのが良い映画だということではありません(一度出来上がった映画作品は、それ自体として評価すべきだと思われるところです)。単に、映画制作に至る切っ掛けに関する事柄ですので、どうでもいいと言えばドウでもいい話です。
かといって適当な日本語を思いつかず、再映画化では同じ意味になるし…
A:同一原作を別の監督が撮る場合。
これをリメイクと言うのは変ですね。
B:原作はなく、すでにある映画を別の国や別のキャストで撮る場合。これはリメイクと言っていいでしょうが、Aと本質的な違いはない。
便宜上オリジナルという言葉を使ってますが
複製芸術時代においてオリジナルとは何かという別の大問題がありますが。
そもそも厳密には映画も上映されるたびに別の作品に変わらざるをえない1回性のライブですが…
ぼくは、これがホラーだと聞かされ、
そういうつもりで臨んだら
なんとも切ない、愛の物語。
と、その線でとても気にいっていたのですが、
「ぼかし」の件を知らされ、
なんとも複雑な気持ちになっていました。
でも、クマネズミさんのご指摘ですっきりしています。
これは『ぼくエリ』のリメイクでなく、
原作の二度目の映画化。
その小説をモチーフに、
マット・リーヴスが自分のテーマを掲げ、
それに添って世界を構築していった。
ということで、再び気持ちを持ちなおし、
またまたこの映画が気にいっています。
あっ、ケアレスミスのご指摘ありがとうございました。
「オリジナル」と「リメイク」のことについては、上記のmilouさんのコメントに対するクマネズミの再コメントでも触れていますので、お読みいただければ幸いです。
なお、「ケアレスミス」に関しては、milouさんのコメントにありますように(「蓮見でも蓮実でもなく蓮實重彦です」!)、こちらは入力ミスだらけです。でも、自分のには気がつかないのに、他人のミスにはスグに気がついてしまうのも不思議なことです!
元の「エリ」のほうは実は男性のヴァンパイヤだったとのことで、「ボーイズラブ」的な要素もあったようですが、こうした意味では女性らしいリメイク版のほうがよいと感じます。吸血鬼やアンダーグラウンドあるいは同性愛的な映画は好きではありませんから、元の作品がそれなりの話題作だと知っていても、行くことはなく、リメイクになってクロエ・モレッツに免じて見てきた次第です。こういう者もおりますから、一概に原作やオリジナル作品のほうが良いとはいえませんし、少なくとも観客・興収を十倍ほどにもして本作を広く知らしめた意義はあると思われます。
少年はその境遇故にアビーのほうを採ったのでしょうが、総じてストーリーは自然な展開でもあり、「純愛」かどうかはともかく、ハリウッド映画にしては背景などの画面が綺麗でした。でも、アパートでは二人はモールス信号で何を伝えあっていたのだろうか。原作小説の題名でもあったので、その辺が多少気になります。意思伝達は移動列車の箱の中という最後の場面だけではないのでしょう。
この映画について、『エリ』にあった「複雑な要素をすっきりシンプルにした面もあって、それなりに高く評価する」とされる点については同感です。
ただ、「元の「エリ」のほうは実は男性のヴァンパイヤだった」との点につきましては、上記のコメント欄のmilouさんとのやりとりの中で書きましたように、劇場用パンフレットに掲載されているエッセイで、柳下毅一郎氏が、「はるかな昔、エリは第二次性徴を迎える前の少年だった」が、「その時にさる残虐な貴族にペニスを切られ、不具者にされてしまったのだ。そのまま吸血鬼にされ、年をとらぬ永遠の存在になったのである。彼女は男でも女でもない」と述べているようなことではないか、と思っています。
なお、『エリ』のラストではモールス信号が使われていて、それはスウェーデン語で「PUSS」(英語では“small kiss”)を意味しているとのことです。
私も同じくオリジナル版は未鑑賞なのですが、これはこれで非常に良い作品だなと思いました。
確かなことは言えませんが、ヒロインを女の子に絞ったことで(吸血鬼に性別はないというエクスキューズ付きですが)、何か女性の怖さみたいなものが際立ったのかなと感じました。
リメイク関係なく、良い作品だと思います。