映画的・絵画的・音楽的

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アクトレス 女たちの舞台

2015年11月20日 | 洋画(15年)
 『アクトレス 女たちの舞台』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)ジュリエット・ビノシュが出演する映画だというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭はスイスを走る列車の中。
 大女優マリアジュリエット・ビノシュ)の個人秘書のヴァレンティンクリステン・スチュアート)が、電話で、「撮影は1日だけニューヨークで。きついけど、そういう約束。またかけ直して」、「マリアはパリにいません。彼女は今列車に乗っています」、「よく聞こえません。アルプスなので」、「X-MENの続編から名前は削除して」などと、マリアのスケジュール調整などにあたっています。

 マリアが、ヴァレンティンに隠れて、係争中の離婚訴訟について弁護士と電話で話していると、ヴァレンティンが「ヴィルヘルムが亡くなった」と知らせに来ます。
 ヴァレンティンは、「劇作家ヴィルヘルム 72歳 死去」を報じている新聞を読みますが、どうやらマリアは、ヴィルヘルムに与えられる賞を彼に代わって受け取りにチューリッヒに向かっているようです。

 ヴァレンティンが、「予定とは大分変わる。悲しい授賞式になる」と言うと、マリアは「辞退して帰るべき」と応じ、さらにヴァレンティンが、「あなた以外にいない。彼のことを思うなら出席すべき」と言うと、マリアは「でも、彼のことをよく知らない」と答えます。

 マリアは、フランスのラジオ局からのインタビューに携帯で応じます。



 列車がチューリッヒに到着すると、出迎えの男たちとともにマリアたちは車に乗ります。
 車の中で、授賞式関係の男が、「ヘンリクハンス・ツィシュラー)を招きました。彼が、代わりに賞を受け取ってもかまわないと言っています。ヴィルヘルムの作品の多くは彼のために書かれましたから」と述べます。

 この後授賞式があり、ホテルに戻ると、新進の演出家のクラウスラース・アイディンガー)が来ていて、マリアにある企画を話します。
 さあ、その内容はどんなものであり、マリアはどう対応するでしょうか、そして話は、………?

 本作では、主人公の大女優マリアが、かつて若い時分に演じた舞台劇に違う役柄で再出演することになり、その劇の上での女性同士の関係と、マリアと彼女の若い女性秘書との関係や、マリアとその再演劇で昔彼女が演じた役を演じる若い女優との関係が重なり合ってきて、随分と見応えある作品となっています。加えて、舞台となるスイスの山々の風景がとても美しく描き出されているので、大層面白く映画を見ることが出来ました(注2)。

(2)本作においては、前回のエントリで取り上げた『起終点駅 ターミナル』において見られた関係の2重写しが、3重構造にもなっているところが興味深い点だと思います(注3)。
 なにしろ、ヴィルヘルムの戯曲「マローヤの蛇」におけるジグリットとヘレナ、同戯曲の再演に際してヴィルヘルムの山荘で台詞の練習するマリア(ヘレナ役として)とヴァレンティン(ジグリット役として)、さらに実際の再演の舞台におけるマリア(ヘレナ役として)とジョアン(ジグリット役として:クロエ・グレース・モレッツ)というような重なりが見られるばかりか、実際にも、マリアとヴァレンティン、マリアとジョアンとの間には、戯曲のジグリットとヘレナの間に描かれているような愛憎入り混じった関係が見られるのです(注4)。

 とはいえ、実際に映画を見ている最中は、決して図式的に感じられることもなく、次々に様々の試練がマリアに襲ってくるものだと思えるに過ぎませんでしたが。

 そして、クマネズミには、そのような試練をマリアが被るように仕向けたのが、自殺した劇作家のヴィルヘルムのように思えて仕方ありませんでした。
 というのも、ヴィルヘルムは、マリアが世に出るきっかけとなった戯曲「マローヤの蛇」を書いた人物であり、個人的な関係はなかったように見えるとはいえ(注5)、その劇で主人公の20歳のジグリットを演じたマリアに、今度はその相手役で自殺する40歳のヘレナを演じさせたら、相当混乱するだろうことがわかっていたのではないかと思われるからですが。
 そんなヴィルヘルムが、自分の代わりにマリアに賞を受け取ってくれと依頼して(注6)、自分の山荘にまで呼んでおきながら、そのまさに授賞式当日に自殺してしまうとは、背後に何か計画的なものがあるように思えてしまいます。
 クマネズミの妄想に過ぎませんが、新進演出家のクラウスが、ヘレンの役で「マローヤの蛇」の再演に出演してくれとマリアのもとに依頼しにやってくるというのも、ヴィルヘルムの意向を踏まえてのものではないでしょうか(注7)?

 そんなことはともかく、こうしたことが描かれる舞台の背景となっているのが、原題に使われているシルス・マリアという土地であり、「マローヤの蛇」という現象です。



 マリアを「マローヤの蛇」が見える山に連れて行ったヴィルヘルムの妻・ローザアンゲラ・ヴィンクラー)は、「これは秘密だが、夫はここを見せたかった代わりに命を絶った」と言い(注8)、「マローヤの蛇」についてマリアが質問すると、「雲の形が蛇のようだから。雲はイタリアから蛇のようにやってくる」と答え、さらに、映画では『マローヤの雲の現象』という映画が映し出されます(注9)。

 こうなると、本作で「マローヤの蛇」が象徴しているものは何なのかとちょっと考えてみたくなります。
 例えば、どんどん雲が形を変えて流れ去っていくところから、時は留まらないのだという思いに繋がり(注10)、ひいてはマリアのように過去に囚われるべきではないということになるかもしれませんし、逆に、同じ形の雲がいくつもいくつも繰り返し流れてくるところから、マリアのように過去を愛する姿勢を受け入れるべきだということになるかもしれません(注11)。

 そんないい加減な解釈はさておいて、本作は、様々な視点からの議論を誘発する実に興味深い作品ではないかと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「大女優を演じるビノシュの複雑な表情、若手女優を演じるモレッツの輝きと、女優陣は皆、好演だが、何と言っても達観した位置にいながら愛憎を内包するヴァレンティンを演じたクリステン・スチュワートの演技が見事に際立った」として70点をつけています。
 中条省平氏は、「3人の女優が絡む人間ドラマがじつに濃密だ。貫禄をつけたビノシュに挑む秘書役のスチュワートが素晴らしくシャープだが、モレッツもラストの捨て台詞ひとつで見せ場をさらう。これは往年の名画『イヴの総て』を見事に現代化した作品なのである」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「「女優」という題名からは、映画界の舞台裏を巡る華やかなドラマが連想される。だが描かれるのはむしろ、時間に呪われた女優の孤独と焦燥だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『夏時間の庭』(この拙エントリの(2)で若干触れています)のオリヴィエ・アサイヤス
 原題は「Sils Maria」(英題は「Clouds of Sils Maria」)。

(注2)出演者の内、最近では、ジュリエット・ビノシュは『GODZILLA ゴジラ』、クリステン・スチュワートは『アリスのままで』、クロエ・グレース・モレッツは『モールス』で、それぞれ見ました。

(注3)3重構造といえば、本作では、劇作家ヴィルヘルムの自殺の知らせで幕を開けますが、その作家が書いた戯曲「マローヤの蛇」の中でヘレナは自殺しますし、またその戯曲の再演の舞台で主役ジグリットを演じるジョアンの恋人(ジョニー・フリン)の妻も自殺を図り、都合、「自殺」が3度も出てくるのです。

(注4)例えば、マリアとヴァレンティンは、一緒に裸になって湖で泳ぐかと思えば、役者のヘンリクについて、「顔も見たくない」と言うマリアに対し、ヴァレンティンは「役者として好きよ」と言ったりします(あるいは、戯曲「マローヤの蛇」についての解釈を頑として変えないマリアに対して、ヴァレンティンは「戯曲は物体にすぎない。様々な立場から異なった見方ができる」と反論したりします)。



 また、ジョアンは、一方で、マリアに対し「あなたとの共演は光栄」「ハリソン・フォードと共演の映画は15歳の時に見た」「「かもめ」の舞台も見た」などと言いながら、他方で、再演の「マローヤの蛇」のリハーサル中に、マリアはジョアンに「今の演じ方だとヘレナが存在していないように見えてしまう」「少し間を置いて欲しい」と意見すると、ジョアンは「ヘレナなんか誰も気にしていない」と一蹴してしまいます。



(注5)上記本文の(1)に書きましたように、ヴィルヘルムの訃報を耳にしたマリアは、授賞式に出席すべきとするヴァレンティンに対して、「彼のことをよく知らない」と言って欠席しようとします。
 ですが、ヴィルヘルムの山荘での会話の中で、ヴァレンティンに対してマリアは、「ヴィルヘルムに惹かれていた」「これ以上の関係は危険だと思った」「恋以上のものだった」などと語っています。

(注6)なぜヴィルヘルムは、よく知っているヘンリクではなしに(ヴィルヘルムの妻ローザは、「ヘンリクについて夫は、「考えなければいいやつだ」と言っていた」とマリアに語っています)、マリアに授賞式に出席するように要請したのでしょうか?

(注7)これらがクマネズミの妄想に過ぎないと思えるのは、ヴィルヘルムがそんなことをする動機がよくわからないからですが。
 ただ、マリアは、授賞式にやってきた俳優のヘンリクについて、「役者としては評価するが、顔も見たくない。私が言いなりにならなかったから激怒したのだ」と述べています。上記「注5」で申し上げた点もありますから、あるいは同じようなことがマリアとヴィルヘルムとの間にも起きていたのかもしれません。

(注8)ローザは「夫は、ずっと病気のことを隠していたの」と言い、ヴィルヘルムの自殺もそれに関係しているのかもしれませんが、このローザの言葉からすれば、あるいは何か目的を持ってのことなのかもしれません。

(注9)ローザは、「夫はこの映像に夢中だった」と述べます。
 ちなみに、この作品はこのYouTubeで見ることが出来ます。

(注10)もしかしたら、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」云々に繋がるのでしょうか?

(注11)あるいは、シルス・マリアで晩年を過ごしたF・ニーチェの「永劫回帰」の思想につながってくるのでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:アクトレス 女たちの舞台