半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

勉強と時間

2019年05月17日 | 自分の時間
ちょっとした気づきがありました。

「一般的なお受験の勉強にはタイムリミットがあるけど、大人の勉強は死ぬまで出来るから、いつか必ずわかる時が来ると思って学び続けられる」


大げさな話ですが、そんなことを思いました。

これは勉強の本質なんだろうな~と。


私の中には「子どもに勉強しろと言う以上に世の中の大人が勉強し続けなければいけない」という思いがあります。
だって、世の中の社会問題は大人である私たちが原因だから。

その一方で、子ども達には「学校の勉強」と言うのがあり、大人以上に子供の方が勉強しているのが現代社会です。

最近、お友達家族の中学生の子の勉強を少し見始めたのですが、先日、あるお母さんとちょこっと立ち話をしたら「中学の勉強が見れるなんて、凄いですね~。私にはもうとても無理です」という言葉を聞きました。


私からすれば中学勉強ぐらいはちょっと思い出せば、大体出来ると思い込んでいるのですが、そういう意味で、私は勉強が出来た方だと思います。

ただ、高校からは勉強がわからなくなってきました。

「高校の頃は授業がわからなかったし、大学はほとんど真面目に授業を受けなかったな。就職の時とかもマッキンゼーとか入る人は、俺とは違うレベルだな」と思っていました。

「わからないことがある」「自分では理解できないレベルの事だ」と思っていました。

ただ、最近思ったのが「それはその時にはわからなかったけど、今思えば、今ならわかるんじゃないか」という事です。

当時、全く触れることが無かった考え方、世界であっても、今思えば「そういった事を学んでいる環境にいれば、わかったのかもしれない」ということ。

私はお受験の時ほどではありませんが、大人になって、特に自営業者になってからは、ずっと勉強し続けています。
そうして大人になって今、頭は固くなっているでしょうが、色んなことが頭にインプットされているので、「あぁ、今思えば、あれはこういうことだったのね」とわかるんです。

例えば、中高の勉強も、今、改めて見ると「何を学ばなければいけないか」が整理出来るので「どう学ぶか」がわかるのです。
例えば、就職の時に「あいつら違うな」と思っていたマッキンゼーの世界戦略の話なんて昔は想像もつかなかったのです。
でも、今、色々勉強してきたので、戦略立案というものも、「俺も出来るな」と思えるのです。


お友達の子どものお勉強を手伝うようになり、この1カ月で10冊ぐらい本を読んでインプットしたし、自分なりに整理をしています。

そんなことをしている自分がいる事を自覚したのですが、「あぁ、わからないことをわかるまで時間がかけられるのが大人なんだな」という事を思ったのです。

私の場合は、原発事故をきっかけに社会問題について関心を持ち続けてきました。
また、例えば何で戦争が起きるのか?何で人は憎しみあうのか?日本の歴史とは?世界はどう動いているのか?大人の生き方は?などなど、ひたすら本を読んだり考えたりしてきました。

これは自営業になったからこそできる生き方なのですが、会社を辞めてから、そんなことばかり考えてきました。

自営業というのはお金と生活が一体のようなもので、その中で、社会問題や自分の器を広げる事など、全部、生きながら出来る本来の人間の生き方を体現できる道の1つだと思っています。

で、ふと今日、本を読んであれこれ考えている時に思ったのです。

「あぁ、勉強し続けているからこそわかる時が来る。というより、わからないことをわかるまで学んでいこうとする姿勢って、一番大事なんだろうな」

これが勉強の本質なんでしょう。

もっと簡単に言えば、時間をかければわからない事の大半がわかるようになる、という事です。

ところが、子ども達の勉強はそうはいかない。

カリキュラムがあり、1年生で学ぶべきことは1年生の1年間で学ばなければいけない。
3年間で学ぶべきことを身に着けて受験に臨まなければいけない。

子ども達には「タイムリミット」があるのです。

そこで一番の悪いことろは、他人との比較や点がとれないというレッテルが貼られてしまって、「勉強が出来る=点がとれる」「点がとれない=勉強が出来ない」という事になってしまうんですよね。

当たり前のようにレッテルとして貼られてしまう。

これはゆくゆく人生を決める大きな問題になる気がしまう。

そうすると、大人になっても「自分は勉強が出来なかったから」という事で、自分の能力を伸ばせなくなってしまう。


ところが、大人は実は「時間制限」があるようで無いんです。

だって、じいさんになるまで、死ぬまで時間を使えるのだから。

環境問題だって何だって「これは何でだろう?」と疑問をもち、その疑問がわかるようになるまで勉強し続けていけるのは、大人の特権です。

というより、勉強と言うのは、本来はそういったものだと思うのです。

例えば、中学英語を学べば会話は出来る、と言いますが、大人が本気になったら中学英語は必ずマスターできます。
色々な英語教材がありますが、大人でも要するに「スイッチ」が入るかどうかです。

仕事で英語をマスターしなくてはならない状況になったら、3カ月でマスターせざるを得ない。というか出来てしまう。

でもそういった状況が無いと、なかなか子供の頃に貼られた「自分の勉強が出来る程度」のレッテルは貼り変えられないのではないか?

それが自分を小さくしてしまう原因な気がします。

もちろん、大人になっても「効率よく勉強する」というのは必要なのでしょうが、人それぞれのペースがあり、人それぞれのスイッチが入る時があるわけで、それよりも「探求心」というのか「疑問を放っておけない」性質というのでしょうか、のんべんだらりと過ごすのではなく、ずっと考え続ける、ずっと疑問を持ち続ける、そして事あるごとに勉強する、そういった姿勢を持つことが大事だと思います。

大人は死ぬまで勉強し続けられるし、勉強とは本質的には「いつまでに解を出せ」といったように時間制限をされるものではないのでしょうから。

そのためには、子どもの頃に下手なレッテルが貼られないように子ども達を面倒みないといけませんよね。
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