以前お会いした元学校の先生に、私は「子供は完全ですよね」というお話をしたら「そんなことはない。子供は何もわかっていないのだからきちんと大人が教えなくてはいけない」というご意見を頂きました。
周りにいる方も、「完全というより、真っ白ということですよね?真っ白だから大人が教えていかなくちゃいけない、ということですよね」という補足をしました。
私は「ちょっと違うんだけど、、、」と思ったのですが、「子供は完全」という意味をうまく説明できる言葉をもっていなかったので、その場は押し黙ってしまいました。
私が共感しているサティシュさんのお話では「どんぐりは、どんぐりの時からどんぐりの木になる可能性で満たされている。りんごの種は既にりんごの木になる力がある。だからどんぐりや種に手を加えたり何かを外から持ち込む必要はない。農家は種が芽を出し、すくすくと育つような環境を整えるだけでいい。りんごがりんごになるための教育は必要ない。りんごは育てるものではなく育つもの。子供も同じ」といいます。
私の解釈では、「子供は無限の可能性をもっていて、その時点で完全で不足なものはない。おかしなことは、それは外から与えられた環境、大人の振る舞い、情報の影響を受けているだけ。本来、自然はそのままで美しく完全であって、人の都合にあわせて欲しいものを欲しいだけ収穫しようとするから、手を加えてしまうけど、本当はそのままで十分。子供も自然と同じで、子供は自然な環境と仲がよい家庭や子供の話を良く聞く大人やお友達に囲まれていれば、すくすく育つ」というものでした。
でも、なんだかすっきり説明できませんでした。
今朝、ふとんの中で、ふと理解が進みました。
まず学校教育というのは、「知識、情報を詰め込むもの」という前提があります。
「知らないことを放っておいても知ることはできない。だから、きちんと教えることでわかることが増えていく」という発想でしょうか。
そして、前提が「子供は何も知らない」というところから始まっている。
この「前提」が根本的な、「一番大きな違い」なんだ、と気づきました。
国語、算数、理科、社会、道徳などなど、「体験したことないこと、知らないこと」が子供にはあって、これらは「知らないといけないもの」という前提があります。だから、これらを「教え、点数評価し、まだわかっていないか判断し、ある一定レベルに到達するまで教えなければいけない」という考え方が教える側には「当たり前」としてあるわけです。
そして、教育の目的が「偏差値の高い大学に行き、大企業や官庁に就職する」ということになっています。
でもその「目的」は本当にあっているのでしょうか?
そして、その「教えるべきこと」は、本当に必要なのでしょうか?
過去の偉人を見ても、学校の成績は悪くても、立派な偉業を成し遂げた方がたくさんいます。
今だった学歴とは関係なく、大きな志をもった大人や、地域のために役に立つ大人はたくさんいます。
だから学校で教えることは「必要なこと」ではなく、「知っておいた方が良いことの1つ」という考え方が正しいのだと思います。
これは学校が間違っているといっているのではなく、オンリーワンであるという発想は正しくない、という考えです。
海外の教育を知れば日本のシステムが特異だということがわかります。
ホームスクールやフリースクールを知っている人、あるいは海外留学したことがある人ならば、この意味がわかると思います。
教育のありようは1つではなく、たくさんある、ということですよね。
現在は何もかも学校に頼りっきりになっていますが、本来は学校の役割、家庭の役割、寺子屋や塾の役割、地域の大人の役割などがあって、それらが一体になって「教育」だったのが、いつの間にか「教育=学校=教え込むこと」になってしまっているのが問題なんだと思います。
そして子供にとって何が大切かというと、それは「子供らしい時間をたっぷり満喫すること」でないでしょうか?
子供は感受性、好奇心の塊です。
そして未来への憂いがなく、「今」が大切です。
「結果」というものがなく、「今」がとにかく連続しています。
日々が新しく、日々が刺激に満ち溢れています。
この「毎日」を楽しく過ごすことで、一番大切な心が養われます。
有名な話ですが、心が健全に育たない子供は体も育たないそうです。心と体は一体なんですね。
小学校高学年から中学生になるまでは、「心」という概念がそもそも子供にはなく、全てが一体だそうです。
そう考えると、子供は花を摘んで、泥遊びをして、友達と群れ、親の愛情を受け、美味しい手料理を食べ、仲の良い家庭で育ち、地域のおじちゃんおばちゃんからも愛されていれば、十分、「今」を満喫でき、すくすく心身が成長するわけです。
つまり、子供は子供らしくいられる場所があれば、そのままで十分、ということだと思います。
発達段階に応じて、しつけや規律、また読み書き、算数などが必要になってきますが、大切なのは「子供は健全な環境があれば健全に育つもの」という前提だと思います。
「真っ白だから教えなければいけない」という発想は、近代農業と同じです。
「この時期にこれだけの収穫を欲しいから、畑に肥料を入れ、草や虫を敵とし、結果を求める」わけです。
子供も同じです。
子供は本来、好奇心を満たせる環境が溢れていれば勝手に遊んで遊びから学んでいきます。
野花を摘み、泥遊びをし、水遊びをし、虫を捕まえ、お友達と群れ遊びをし、冒険ごっこをし、色々なことを学んでいきます。
大人が文字を書けるようにしたいとか、ピアノを上手に出来るようになって欲しい、といった「目標」を持つから、その目標からみると「足りない」と勝手に思い込むわけです。
しかし、子供は本来「子供として完全」なのです。
放っておけばきちんと子供らしく遊び、遊びの中から学べるんです。
子供としての力を持っており、そういう意味で「子供は完全」なんです。
そして、「子供時代を満喫したから、心身ともに丈夫で、何かあっても工夫し考え、立ち向かえる力をもった大人になれる」んだと思います。
もりこびの奥村さんの言葉ですが「最近、子供時代を満喫していない中学生が多くなってきている。」と言います。
変に点数や何かが上手に出来ること、といった「大人の目標」を与え「大人が教え込み」「大人が評価」するから、子供は大変なのではないでしょうか?
「子供が子供らしい時間を満喫できる環境」を整えること。
そして大人はきちんと目をかけ、お話を聞き、語りかけ、優しいまなざしで見つめてあげること、
そして大人自身がきちっと衣食住の生活をしている姿を見せること。
それがあれば、子供は十分だと思います。だって、子供は子供として完全なのですから。
最後に、サティシュさんの言葉を引用します。
「教育(education)の語源は、educare(エデュカーレ)、つまり『引き出す』という意味のラテン語なのです。子供たちは、どんなものにでもなれる可能性を秘めている。ライター、ミュージシャン、詩人、芸術家、教師、農民、、、。どんな職業に就くにせよ、彼らは素晴らしい人間になる素質を持っている。教師は、ただその可能性や素質を引き出すだけでいいのです」
周りにいる方も、「完全というより、真っ白ということですよね?真っ白だから大人が教えていかなくちゃいけない、ということですよね」という補足をしました。
私は「ちょっと違うんだけど、、、」と思ったのですが、「子供は完全」という意味をうまく説明できる言葉をもっていなかったので、その場は押し黙ってしまいました。
私が共感しているサティシュさんのお話では「どんぐりは、どんぐりの時からどんぐりの木になる可能性で満たされている。りんごの種は既にりんごの木になる力がある。だからどんぐりや種に手を加えたり何かを外から持ち込む必要はない。農家は種が芽を出し、すくすくと育つような環境を整えるだけでいい。りんごがりんごになるための教育は必要ない。りんごは育てるものではなく育つもの。子供も同じ」といいます。
私の解釈では、「子供は無限の可能性をもっていて、その時点で完全で不足なものはない。おかしなことは、それは外から与えられた環境、大人の振る舞い、情報の影響を受けているだけ。本来、自然はそのままで美しく完全であって、人の都合にあわせて欲しいものを欲しいだけ収穫しようとするから、手を加えてしまうけど、本当はそのままで十分。子供も自然と同じで、子供は自然な環境と仲がよい家庭や子供の話を良く聞く大人やお友達に囲まれていれば、すくすく育つ」というものでした。
でも、なんだかすっきり説明できませんでした。
今朝、ふとんの中で、ふと理解が進みました。
まず学校教育というのは、「知識、情報を詰め込むもの」という前提があります。
「知らないことを放っておいても知ることはできない。だから、きちんと教えることでわかることが増えていく」という発想でしょうか。
そして、前提が「子供は何も知らない」というところから始まっている。
この「前提」が根本的な、「一番大きな違い」なんだ、と気づきました。
国語、算数、理科、社会、道徳などなど、「体験したことないこと、知らないこと」が子供にはあって、これらは「知らないといけないもの」という前提があります。だから、これらを「教え、点数評価し、まだわかっていないか判断し、ある一定レベルに到達するまで教えなければいけない」という考え方が教える側には「当たり前」としてあるわけです。
そして、教育の目的が「偏差値の高い大学に行き、大企業や官庁に就職する」ということになっています。
でもその「目的」は本当にあっているのでしょうか?
そして、その「教えるべきこと」は、本当に必要なのでしょうか?
過去の偉人を見ても、学校の成績は悪くても、立派な偉業を成し遂げた方がたくさんいます。
今だった学歴とは関係なく、大きな志をもった大人や、地域のために役に立つ大人はたくさんいます。
だから学校で教えることは「必要なこと」ではなく、「知っておいた方が良いことの1つ」という考え方が正しいのだと思います。
これは学校が間違っているといっているのではなく、オンリーワンであるという発想は正しくない、という考えです。
海外の教育を知れば日本のシステムが特異だということがわかります。
ホームスクールやフリースクールを知っている人、あるいは海外留学したことがある人ならば、この意味がわかると思います。
教育のありようは1つではなく、たくさんある、ということですよね。
現在は何もかも学校に頼りっきりになっていますが、本来は学校の役割、家庭の役割、寺子屋や塾の役割、地域の大人の役割などがあって、それらが一体になって「教育」だったのが、いつの間にか「教育=学校=教え込むこと」になってしまっているのが問題なんだと思います。
そして子供にとって何が大切かというと、それは「子供らしい時間をたっぷり満喫すること」でないでしょうか?
子供は感受性、好奇心の塊です。
そして未来への憂いがなく、「今」が大切です。
「結果」というものがなく、「今」がとにかく連続しています。
日々が新しく、日々が刺激に満ち溢れています。
この「毎日」を楽しく過ごすことで、一番大切な心が養われます。
有名な話ですが、心が健全に育たない子供は体も育たないそうです。心と体は一体なんですね。
小学校高学年から中学生になるまでは、「心」という概念がそもそも子供にはなく、全てが一体だそうです。
そう考えると、子供は花を摘んで、泥遊びをして、友達と群れ、親の愛情を受け、美味しい手料理を食べ、仲の良い家庭で育ち、地域のおじちゃんおばちゃんからも愛されていれば、十分、「今」を満喫でき、すくすく心身が成長するわけです。
つまり、子供は子供らしくいられる場所があれば、そのままで十分、ということだと思います。
発達段階に応じて、しつけや規律、また読み書き、算数などが必要になってきますが、大切なのは「子供は健全な環境があれば健全に育つもの」という前提だと思います。
「真っ白だから教えなければいけない」という発想は、近代農業と同じです。
「この時期にこれだけの収穫を欲しいから、畑に肥料を入れ、草や虫を敵とし、結果を求める」わけです。
子供も同じです。
子供は本来、好奇心を満たせる環境が溢れていれば勝手に遊んで遊びから学んでいきます。
野花を摘み、泥遊びをし、水遊びをし、虫を捕まえ、お友達と群れ遊びをし、冒険ごっこをし、色々なことを学んでいきます。
大人が文字を書けるようにしたいとか、ピアノを上手に出来るようになって欲しい、といった「目標」を持つから、その目標からみると「足りない」と勝手に思い込むわけです。
しかし、子供は本来「子供として完全」なのです。
放っておけばきちんと子供らしく遊び、遊びの中から学べるんです。
子供としての力を持っており、そういう意味で「子供は完全」なんです。
そして、「子供時代を満喫したから、心身ともに丈夫で、何かあっても工夫し考え、立ち向かえる力をもった大人になれる」んだと思います。
もりこびの奥村さんの言葉ですが「最近、子供時代を満喫していない中学生が多くなってきている。」と言います。
変に点数や何かが上手に出来ること、といった「大人の目標」を与え「大人が教え込み」「大人が評価」するから、子供は大変なのではないでしょうか?
「子供が子供らしい時間を満喫できる環境」を整えること。
そして大人はきちんと目をかけ、お話を聞き、語りかけ、優しいまなざしで見つめてあげること、
そして大人自身がきちっと衣食住の生活をしている姿を見せること。
それがあれば、子供は十分だと思います。だって、子供は子供として完全なのですから。
最後に、サティシュさんの言葉を引用します。
「教育(education)の語源は、educare(エデュカーレ)、つまり『引き出す』という意味のラテン語なのです。子供たちは、どんなものにでもなれる可能性を秘めている。ライター、ミュージシャン、詩人、芸術家、教師、農民、、、。どんな職業に就くにせよ、彼らは素晴らしい人間になる素質を持っている。教師は、ただその可能性や素質を引き出すだけでいいのです」