半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

子供は真っ白で教え込むもの?

2013年04月30日 | 自分の時間
以前お会いした元学校の先生に、私は「子供は完全ですよね」というお話をしたら「そんなことはない。子供は何もわかっていないのだからきちんと大人が教えなくてはいけない」というご意見を頂きました。

周りにいる方も、「完全というより、真っ白ということですよね?真っ白だから大人が教えていかなくちゃいけない、ということですよね」という補足をしました。

私は「ちょっと違うんだけど、、、」と思ったのですが、「子供は完全」という意味をうまく説明できる言葉をもっていなかったので、その場は押し黙ってしまいました。


私が共感しているサティシュさんのお話では「どんぐりは、どんぐりの時からどんぐりの木になる可能性で満たされている。りんごの種は既にりんごの木になる力がある。だからどんぐりや種に手を加えたり何かを外から持ち込む必要はない。農家は種が芽を出し、すくすくと育つような環境を整えるだけでいい。りんごがりんごになるための教育は必要ない。りんごは育てるものではなく育つもの。子供も同じ」といいます。


私の解釈では、「子供は無限の可能性をもっていて、その時点で完全で不足なものはない。おかしなことは、それは外から与えられた環境、大人の振る舞い、情報の影響を受けているだけ。本来、自然はそのままで美しく完全であって、人の都合にあわせて欲しいものを欲しいだけ収穫しようとするから、手を加えてしまうけど、本当はそのままで十分。子供も自然と同じで、子供は自然な環境と仲がよい家庭や子供の話を良く聞く大人やお友達に囲まれていれば、すくすく育つ」というものでした。

でも、なんだかすっきり説明できませんでした。


今朝、ふとんの中で、ふと理解が進みました。


まず学校教育というのは、「知識、情報を詰め込むもの」という前提があります。
「知らないことを放っておいても知ることはできない。だから、きちんと教えることでわかることが増えていく」という発想でしょうか。

そして、前提が「子供は何も知らない」というところから始まっている。

この「前提」が根本的な、「一番大きな違い」なんだ、と気づきました。


国語、算数、理科、社会、道徳などなど、「体験したことないこと、知らないこと」が子供にはあって、これらは「知らないといけないもの」という前提があります。だから、これらを「教え、点数評価し、まだわかっていないか判断し、ある一定レベルに到達するまで教えなければいけない」という考え方が教える側には「当たり前」としてあるわけです。

そして、教育の目的が「偏差値の高い大学に行き、大企業や官庁に就職する」ということになっています。


でもその「目的」は本当にあっているのでしょうか?
そして、その「教えるべきこと」は、本当に必要なのでしょうか?

過去の偉人を見ても、学校の成績は悪くても、立派な偉業を成し遂げた方がたくさんいます。
今だった学歴とは関係なく、大きな志をもった大人や、地域のために役に立つ大人はたくさんいます。


だから学校で教えることは「必要なこと」ではなく、「知っておいた方が良いことの1つ」という考え方が正しいのだと思います。
これは学校が間違っているといっているのではなく、オンリーワンであるという発想は正しくない、という考えです。

海外の教育を知れば日本のシステムが特異だということがわかります。
ホームスクールやフリースクールを知っている人、あるいは海外留学したことがある人ならば、この意味がわかると思います。
教育のありようは1つではなく、たくさんある、ということですよね。

現在は何もかも学校に頼りっきりになっていますが、本来は学校の役割、家庭の役割、寺子屋や塾の役割、地域の大人の役割などがあって、それらが一体になって「教育」だったのが、いつの間にか「教育=学校=教え込むこと」になってしまっているのが問題なんだと思います。


そして子供にとって何が大切かというと、それは「子供らしい時間をたっぷり満喫すること」でないでしょうか?
子供は感受性、好奇心の塊です。
そして未来への憂いがなく、「今」が大切です。
「結果」というものがなく、「今」がとにかく連続しています。
日々が新しく、日々が刺激に満ち溢れています。

この「毎日」を楽しく過ごすことで、一番大切な心が養われます。
有名な話ですが、心が健全に育たない子供は体も育たないそうです。心と体は一体なんですね。

小学校高学年から中学生になるまでは、「心」という概念がそもそも子供にはなく、全てが一体だそうです。

そう考えると、子供は花を摘んで、泥遊びをして、友達と群れ、親の愛情を受け、美味しい手料理を食べ、仲の良い家庭で育ち、地域のおじちゃんおばちゃんからも愛されていれば、十分、「今」を満喫でき、すくすく心身が成長するわけです。

つまり、子供は子供らしくいられる場所があれば、そのままで十分、ということだと思います。

発達段階に応じて、しつけや規律、また読み書き、算数などが必要になってきますが、大切なのは「子供は健全な環境があれば健全に育つもの」という前提だと思います。

「真っ白だから教えなければいけない」という発想は、近代農業と同じです。
「この時期にこれだけの収穫を欲しいから、畑に肥料を入れ、草や虫を敵とし、結果を求める」わけです。


子供も同じです。
子供は本来、好奇心を満たせる環境が溢れていれば勝手に遊んで遊びから学んでいきます。
野花を摘み、泥遊びをし、水遊びをし、虫を捕まえ、お友達と群れ遊びをし、冒険ごっこをし、色々なことを学んでいきます。
大人が文字を書けるようにしたいとか、ピアノを上手に出来るようになって欲しい、といった「目標」を持つから、その目標からみると「足りない」と勝手に思い込むわけです。

しかし、子供は本来「子供として完全」なのです。
放っておけばきちんと子供らしく遊び、遊びの中から学べるんです。
子供としての力を持っており、そういう意味で「子供は完全」なんです。

そして、「子供時代を満喫したから、心身ともに丈夫で、何かあっても工夫し考え、立ち向かえる力をもった大人になれる」んだと思います。
もりこびの奥村さんの言葉ですが「最近、子供時代を満喫していない中学生が多くなってきている。」と言います。

変に点数や何かが上手に出来ること、といった「大人の目標」を与え「大人が教え込み」「大人が評価」するから、子供は大変なのではないでしょうか?


「子供が子供らしい時間を満喫できる環境」を整えること。
そして大人はきちんと目をかけ、お話を聞き、語りかけ、優しいまなざしで見つめてあげること、
そして大人自身がきちっと衣食住の生活をしている姿を見せること。

それがあれば、子供は十分だと思います。だって、子供は子供として完全なのですから。

最後に、サティシュさんの言葉を引用します。
「教育(education)の語源は、educare(エデュカーレ)、つまり『引き出す』という意味のラテン語なのです。子供たちは、どんなものにでもなれる可能性を秘めている。ライター、ミュージシャン、詩人、芸術家、教師、農民、、、。どんな職業に就くにせよ、彼らは素晴らしい人間になる素質を持っている。教師は、ただその可能性や素質を引き出すだけでいいのです」



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畑と田んぼの様子

2013年04月29日 | 農的体験・生活
最近の畑です。

スナップエンドウは相変わらず愛らしく好奇心をくすぐります
小さな実もなり始めていますので、今週半ばには収穫開始です


畑ではソラマメがいよいよ花をつけてきました。

しかし、ソラマメはどうしてもアブラムシが大量に付く傾向があります。
どれどれと覗いてみると。。。やっぱりうぎゃって、いうほどついています


こっちは黒いアブラムシが。。。


株によっては全くアブラムシがいないものもあります。
無肥料栽培なので、株のもっている力や地中から肥料分を吸い上げる力、あるいは時期に対する株がもつ栄養素など色々なバランスで、アブラムシが大量に付く株、全くつかない株に分かれるんでしょうね

高柳さんに、ソラマメのアブラムシがつかないようにはできないか聞いてみると、「つくものはつく。」ということでした。ごもっとも


こちらは根本さんの田んぼです。
田んぼ一面にレンゲが咲いています



とても甘い香りで、ハチがブンブン飛んでいました

これから機械で刈って、乾燥させてからすきこむそうです。

春に咲いた草も花を咲かせ枯れていき、これから夏草がぐんぐん育ってきます。

暦の上ではもうすぐ夏。田んぼも畑もにぎやかになります
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ネギ坊主は煮ては食えん

2013年04月28日 | 農的体験・生活
日曜日は、プレーパークの畑仕事をしていました。
そこで頂いてきたのがネギ坊主

この時期は、長ネギの頭にまん丸いボールのようなネギ坊主ができます。
これをてんぷらにするとシャクシャクして香りも良く、とっても美味しいんです



ただ、ちょうどてんぷらをやって油を使ったばっかりだったので、「出来るのかな?」とちょっと疑問も持ちつつ、あえて煮てみました。
味も香りも強烈なので、砂糖、みりん、味噌で甘辛く煮て見たのですが、、、、こりゃだめだ

とっても苦くて食べれるものではありませんでした

ということで、ネギ坊主は煮ては食えん、ということがわかったのでした

食べるなら、てんぷらにしましょう
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ヨモギ団子♪

2013年04月27日 | 農的体験・生活
毎年この時期はヨモギ団子を作るのですが、なかなか安心してヨモギを採取できる場所がなくて今年はまだやっていませんでした。
で、昨日高柳さんの畑の隅っこからたヨモギを頂いてきたので、今年初のヨモギ団子作り


毎年、季節のあわせた料理を子供達とみんなで作る、そんな当たり前のことが、とっても素敵なことだと思います


美味しい食べ物があると、とっても幸せですよね
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外で遊べることの素晴らしさ

2013年04月26日 | 素敵な家族・子供との時間
金曜日は高柳さんのお話会の3回目を行いました。
今回は高柳さんのご自宅までみんなで伺って、周りを散策しながらお話を聞いたり質問をする、という形式にしました

とっても良い雰囲気でした。

私は主に子守をしていたのですが、子供達は、街中とは違う雰囲気を自由にたっぷり楽しんでいました

ハウスの中で稲の苗が育っています。
子供にとっては緑の絨毯がどこまでも広がっている感じなんでしょうね


畑の隅にある小川。
新緑がとってもきれいです
そこに溶け込む子供達の風景。昔はこうやって外で遊ぶことが当たり前だったんでしょうね。
なんて美しい風景なんだろう~


川底には貝がたくさんいて、手づかみで捕まえていました。


これってたぶん、ホタルが食べるカワニナという貝なんでしょうね。
でも、高柳さんいわくこの辺ではホタルは昔は出たけど今は出ないといっていました。

女の子は花を好きなだけ野花を好きなだけ摘んでいます。
街中で花壇の花をつんでしまうと怒られてしまうのに比べると、やはり野山は好きにして良いので子供に最高の環境ですよね



そして川底の泥を手ですくって、花を混ぜておままごとをずっとやっていました。



頭では「子供は外で遊ぶのが好き」なことはわかっているのですが、住宅街だと「車に気をつけて」とか「お花は摘んじゃだめ」といった周りを気にせざるを得ません。

子供達は本当は、目いっぱい自由に遊びたいのに

自然体験を子供にさせたいという親御さんも多くいて、「勉強するより小さい頃は外で遊んできなさい」と言いたいのでしょうが、それがなかなか出来ないのが環境です。

だからこそ、こういったまだ里山環境は子供達にとってパラダイス、ですよね

レジャーで訪れる刺激あふれるイベントより、やっぱり心健やかに育つ自然の中で、自由に好きなことを満喫させてあげること、そういった時間を意図して持たなくてはいけない、大人にとっても子供にとってもちょっと悲しい時代。

逆にいえば、そういった意識がどんどん高まっている時代でもあります。


「子供は環境に同化する」

心身ともに健やかに育って欲しい子供達に適した健やかな環境でたっぷり遊べるようにしていきたいですね
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自分の住んでいる地域を考えることで、世界の問題が身近になる

2013年04月25日 | 自分の時間
大根畑のお手伝いをしながら、ふと思いついたこと。

それは「やっぱり自分の地域のことを学び、考えるから、すべては身近なことになるんだよな~」ということ。


自分が会社で忙しく働いていたとき、仕事とは「マネージメント」なるものをしたり、メールをしたり、資料を作ったりすることでした。
組織を動かし、最終的な成果を獲得するためににそういった仕事があるわけですが、これは半分バーチャルな世界でした。
人やものに直接触れていない仕事でした。主にパソコンのキーボードにタッチするのがリアルな世界でした。このブログもそうなのですけどね


畑をしていて通りゆく中学生が「こんにちは~」と大きな声で挨拶をしてきました。
こちらも気づかなかったのでびっくりしましたが、「こんにちは~」と返答。

こういったコミュニケーションはリアルです。

この中学生は、自分の地域が田舎だな~、とか、畑でいつも仕事しているおじさんがいるな~、といったことを何気なく感じているでしょう。
そしてこういった風景を目の当たりにしているからこそ、たぶん「農業」「農家」「野菜作り」といったことはリアル、つまり現実としてどういったものなのかを彼なりに理解しているでしょう。

だから放射能が舞い散った3・11直後は、「あ~、畑に色々放射能が混じっているんだな」ということが身近に感じられたでしょうし、農薬を撒く風景もリアルに見ているから「農薬の問題」というと「あ~、いつも噴射しているあれだな」とわかるでしょう。
TPPについても、もしかしたら反対運動をしている大人よりよっぽど身近に感じているかもしれません。


一方、私は農家さんを身近に感じない環境で育ったので、そういったことは「文字面上」のこととして捉えられませんでした。
私だけでなく、都会や都市部に住んでいると、往々にして「頭」で理解しているつもりになりがちです。

思うに、学校教育やネットであふれる情報は、ほとんどが「バーチャル」なものであって、実体験を通じて知れることはそれほど多くありません。体験をもって理解すること、つまり「体得」していないんですね。

子供のころ、技術・工作、美術、音楽、体育が楽しくて思い出に残っているのは体験を通じて学んだから。面白かったから。
一方でその他の教科の内容が頭に残っていないのは、体得、つまり体で覚えたことではなく、情報を頭だけで詰め込んだからでしょう。


だから、本当に勉強、本当に自分のこととして考えられるようになる「勉強」は、リアルな感覚をもって、身近に考えられるようにしないと、将来どう生きていくか?_といったことを考える際に、あまり意味を持たないのでしょう。


そんなことを畑でふと思った時、冒頭に書いた「やっぱり自分の地域のことを学び、考えるから、すべては身近なことになるんだよな~」という思いが沸いたのです。

成田で言えば、宗教のこと、仏教が日本に渡ってきたときの歴史、仏教文化が日本の生活様式に与えた影響などは、成田山のことをお坊さんから聞いたりすることで、より身近にわかるでしょう。

経済、雇用の問題については、成田空港のことを勉強すると良くわかるはずです。
お金の大切さ、雇用の大切さを考えると成田空港の価値がわかりますし、成田市の財政や政治についても空港を学ぶことでわかると思います。
一方で、飛行機が爆音を立てて理発着する三里塚地域、空港対策費用、また市民の環境の権利、あるいは農民を大地からひきはがして建設された成田闘争のことを学ぶことで、「経済のメリットと、それが地域に与える問題」についても学べると思います。
成田空港のことを学べば、沖縄の「基地と経済が切り離せない実情」から「原発の雇用の問題」なども身近に感じるでしょう。

食べ物のこと、フードマイレージといったややこしい言葉ではなく、成田の野菜がわざわざ東京や千葉に運ばれて、それがトラックでまた成田に戻ってきてスーパーで売られている、という流通の現状を知ることが出来ます。

成田の古墳や遺跡を学ぶことで、その土地に2000年以上前から住んでいた先祖のことを思い、人間の進化の過程、あるいは何百年も同じ土地で住み続けている農家さん達の思い、「先祖から引き継いだものを未来へつなげていく」という生き方を学べるでしょう。
里美八犬伝とか千葉にまつわる歴史漫画や小説を読むのもとっつきやすくていいかもしれません。

環境問題でいえば、手賀沼や印旛沼のことを学べば、十分でしょう。
これを学ぶことで、水俣病、最近の光化学スモッグや排ガス規制、中国のPPMなど色々なことを考えられます。

国語、歴史、社会などは大体のことが地域のことを教材にすればいいでしょう。

理科や算数・数学については、目に見えにくい世界ですが、「自然科学」といった視点をもつことで、例えば規則正しい正六角形のオクラからでも不思議さ、美しさが学べます。

鳥はなぜ卵を産むの?人間はなんで赤ちゃんなの?
電話はなぜつながるの?電気はなぜつくの?
影はどうして出来るの?
雨ってどうして降るの?雲の中はどうなっているの?

そういった「子供のなんで?」に答えるのが自然科学であって、その好奇心を満たそうという視点で考えれば、自然科学は一番子供達がワクワクする強化になるはずです。

だから、算数や理科は、森や畑や川の近くでやるのがいいかもしれませんね
足し算もその辺の小石を拾って数えれば楽しいでしょうしね


各教科では、1つのことをきちんと地域のことから学ぶことで、「世界の問題を理解が出来る基本、素養」が出来ると思います。
そうすれば、教科書や文字だけのことでも、1つの問題意識を自分の中で形成しているので、すすっと理解が深まると思います。
もちろん、学校の点数も上がるでしょうしね。


自分の住んでいる地域のことを考える。
そんな当たり前のことが出来るだけで、深く、かつ広く学べる子供達が育つと、大根畑で思ったことでした
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エディブル(食べれる)庭作り

2013年04月24日 | 自分の時間
トランジション・タウン運動の1つで、ゲリラ的に街のあちこちで食べれる野菜を育てるというものがあります。

そういった「食べれる野菜を育てる」ことは、色々なところで「ムーブメント」として、市民の楽しい活動として世界的にどんどん広がっているようです。

「エディブル=食べれるという意味」がキーワードです


例えば、イギリスやアメリカでは学校の校庭でも食べれる野菜つくりが進んでいます。
http://diamond.jp/articles/-/33205

日本でも学校で田んぼをやったりするところが増えていますしね。
プランターで1人1人がオクラを作ったりしているようですが、さつまいも畑やミニ田んぼぐらいなら学校でできますもんね


「アクポニックファーム」というのもあるらしいです。魚と植物を一緒に育てる仕組みだそうです。
魚の糞が分解されて水と一緒に植物に吸収され、植物はその栄養素を吸収して水を浄化して水槽に戻す、という一挙両得の仕組みのようです。
http://greenz.jp/2012/01/19/aquaponic_farm/

TEDというアメリカのとても面白いプレゼンイベントがあるのですが、そこで地域を食べれる庭つくりで変えていった事例が「食べれる景色がある町作り」として紹介されています。
世界各国から見学者が後を絶たないそうです。
http://www.ted.com/talks/pam_warhurst_how_we_can_eat_our_landscapes.html

こういったことは何も地域社会つくり、市民活動だけでなく、企業としてもしっかりとした「差別化」、「商品」にもなります。

大和ハウスがやっているのが「エディブルガーデン」です。
https://www.daiwahouse.co.jp/release/20081222115408.html


食べれる野菜つくりというのは、食べものがどこからきているのか?といったことや、街の癒しの場、人の心のケアなど色々な意味で現代の社会にとってもマッチした活動ですよね
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時期をあわせて生まれてくる

2013年04月23日 | 農的体験・生活
今日、農家さんの大根畑のお手伝いをしていたのですが、卵をお腹に抱えたクモをあちこちで見かけました。

バッタの赤ちゃんは少し前に生まれてきていますし、カエルやヤゴやザリガニも既にいっせいに生まれてきています。

でも、この前見つけたカマキリの卵はまだ孵化していません。

となると捕食動物のカマキリやクモはこれから生まれるんですよね。

これって、捕食される虫がたくさん出てきたころに、捕食する側の子供達が生まれてくる、そういった順番になっているのかな?と思いました。


最近、モンシロチョウが飛び回り、卵をどんどん産み付けています。

そういった「えさ」になる生き物が増えてくるころに、ちょうど捕食する側の生き物も大量に出てくるんでしょうね。

そう思うと、自然って、みんな時期をあわせて生まれてくるようになっているんだな~、と感心しました
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初の授業参観♪

2013年04月20日 | 素敵な空間・イベント
今日は初の小学校の授業参観でした

入学式の際には一抹の不安が募りましたが、始まった給食を毎日楽しみに行き始めた我が子。

入学してまだまだ慣れていない状態ですぐに授業参観とは、生徒だけでなく先生も大変だとは思いながら教室へ

中に入ると壁には子供たちの「好きなもの」の絵がいろいろ貼っていました。
食べ物や猫やらいろいろありましたが、我が子の絵は「幼稚園の運動会に、パパ、ママ、弟、おばあちゃんが応援している絵」でした。

家族の姿をいつも描く我が子にはいつも嬉しく感動させられます

さて、授業はというと、これがすごい授業でした

すごいというのは、「さすがベテランの先生」と言える授業だったのです。

1人1人の子供たちを授業に集中させようと目配りしながら、優しい言葉使いながらも、背筋も正すように促し、話を聞き逃さないようにさせる、すごい技術と集中力が保たれている授業でした。

学校教育においてここまでやりきる我が子の担任の先生は、おそらくかなりハイクラスなんだろうな~、と。

あれだけ集中力を持続させたら子供たちも疲れるだろうけど、先生はもっと疲れるんだろうな~、と思いました。あの芸当は私にはとても出来ない

本当に凄い先生だな~、と感服しました。


一方で、多少気になったことは、「答え」があって、わからなければ「答え」を教えて言わせるようにしていること、また歌の時間は幼稚園のお遊戯と違って、各自の席のところで直立不動で立って歌うというものでした。

今の学校制度の中では無理なのでしょうし、先生はそういった制度の中ではかなり集中して頑張れるように工夫を盛り込んでいたので、先生の授業内容には全く異存はありません。本当に凄い授業だな~と感服しています。

その上で、現在の学校教育の考え方を初めて体験できた場にもなりました。

シュタイナーや今の子供の状態をつぶさに観てみると、やっぱり歌っているときは体を動かしたい時期です。それは、心も体もまだまだ同じ年頃だから。

だから、国語の教材のお話の中についても、特に教科書の答えでなくて自分でイメージしたことに浸ってもよい年頃だと思いますし、まだまだ歌を歌うときは体も動かすお遊戯で良いと思います。

しかし、日本は昔から5歳ぐらいで寺子屋で正座をして孔子を読むなど、本当に勤勉な日本人を作り上げる教育システムがありました。

だから日本人は世界に類を見ない勤勉さ、真面目さ、集中力、規律正しい行動ができるのだと思います。

小学校に入ったらその「世界に通じる日本人の規律正しさを指導する教育」が始まるのは歴史的に当然といえば当然。
一方で、親として「子供らしさをもっともっと堪能して欲しいな~」という思いもあります。

この2つをどう折り合いをつけていくか?

学校は学校としての機能をきちんと果たそうと努力をしている。

親は学校と子供の心と体の成長具合のバランスを見ながら、きちんとケアをしていくのが今の時期は大切なんだと思います。


ちなみに休み時間は6年生のお兄ちゃん達が1年生を遊びに校庭に連れていって、遊んでくれていました

また、午後のPTAはなんと7割以上が委任状で出席者は超少なくシャンシャンと終わってしまい「両親と先生が子供たちの為に手を取り合いながら何かをしている組織なんだろうな~」という淡い期待は消えてしまいました

ただ、校長先生が自分たちのことを「チーム」と言っていた姿はとっても良い印象を受けました
先生たちの人間関係も良さそう


今の日本の教育システムはベストではないけど、今のうちの子供が通う学校はベターであることは間違いないと思います。

ベストにするのは、地域や親次第、ってところかな、と思った1日になりました。
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セカンドスクール思案中

2013年04月19日 | 自分の時間
本日、ママ友のさらにそのご友人達が集まるお茶会でいろいろお話をしました。

「高柳さんのお話会」に参加したママ友が、そのご友人に聞いたことを伝えて、関心を持った方々だそうです。
また私の「セカンドスクール」構想についても関心を持ってくださっているということです。

そこでお話したことは、ずっと考えてきたことですが、しかし、まだまだ深めないと具体的なところまではいかない、というものでした。

今はまだ固まっていないのですが、整理をするために、今の状態を書きながらまとめてみます。


■前提の考え方(子供達に語れる生き方を、そして30年後を考える)
 そもそものベースにある考えは、やはり原発事故が発端です。
原発事故により「今まで電気を垂れ流すように使っていたのに、原発については全く勉強してこなかった。つまり知らぬ間に認めてきた」という事実。
これにより「全く責任がない子供達に対して、このような世の中を作ってしまった無責任な大人の1人として、初めて責任を感じた」というのが根本にあります。

そして、私が「以下の中2の女の子のお話」をネットで見つけたとき、本当に申し訳ないという気持ち、大きな反省をし、もし自分達が子供達に「原発事故があった後、大人としてどうしたの?」と聞かれたときに、少なくとも自分ではこういったことをしてきた、と語れることはやろうと決めたのでした。

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中2の女の子のお話(ある原発反対集会で)

 「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。

 「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。

 「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。

 「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。

 私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。

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 原発を調べてみると、世界のエネルギー争奪戦からことが始まっており、戦後の復興や高度経済成長のために原発を世界各国がこぞって開発し始めた時代背景もありました。

 そして、日本では1950年代の構想(妄想?)から「夢のエネルギー」として国家をあげて1960年代から取り組みはじめたわけです。
つまり、戦後の「復興」の目玉の1つだったわけです。

 その50年後、福島の大事故がありました。それで初めて「原発を今後も続けるのか?」といった国民的議論がなされ、昨年の夏に、民主党が「原発は無くして行く方向性」を定めただけでなく、「高速増殖炉」を継続するのか?といったが日本で初めて検討されるという抜本的な見直しへ道が開かれたのでした。といっても、自民党に戻ったら「原発推進」に戻ってしまいましたが。。。

 ここで知ったのは「原発は廃炉を決定してから、廃炉にするまで30年の時間が必要」ということ。

 つまり、福島事故後、原発を廃炉にすると決めても、原発がなくなるまでに今の子供達は大人になり、その子供が生まれるころにようやくなくなるという時間軸でした。(核廃棄物をどう処理するのか?というのは決まっていませんが)

 すると、「今ようやく社会の仕組みを変えると決めても、それが社会に反映されるのは30年後なんだな」という考え方が生まれました。
「孫が生まれてくる時代がどういった社会であるべきか」を考えて動かなければいけないんだな、という考え方を持つようになりました。


 なので私の前提の考え方は

・今の子供達に少なくとも「こういったことをしてきた」と語れるような生き方を送ること
・30年後を考えて今の活動を行うこと

の2つを持っています。


■問題は社会の仕組みにある
 さて、次に今私達が生きている問題に目を向けて見ます。
 仕事をバリバリしていたころは「そんなことを考える余裕はなかった」のですが、今のような生活を送るようになると、よくよく考えれば昨今の日本の社会は「とんでもない問題」が山積みだということに気づくわけです。

例えば、命の問題
・毎年、なんと3万人が自殺している
・whoの統計では、10万人に24人が自殺している
 →未遂は少なくとも10倍はいるといわれています。つまり、10万人都市で考えれば、240人は毎年自殺未遂をしているという恐ろしい状態です
・遺書がある自殺の理由の30%は経済問題が理由とのこと。つまりお金がらみで人が自殺する社会
・子供達が、いじめにより自殺している(毎年100人以上)
・子供による殺人事件がおきている
・老人が家族に見守れることなく、孤独死している

例えば、食べ物や健康の問題
・小学1年生で生理になっている子がいる
・小学生の3割が成人病予備軍
・高校生の4割が何かしらが3大成人病の1つにはかかっている
・食品添加物は日本人が平均で年間6kg摂取している(塩より多い)
・赤ちゃんの死亡の一番の原因は奇形
・農薬を使うのが当たり前になり、安全といわれていたものが20年経ってようやく「やっぱり危険なので禁止」というのが今でも続いている
・ファイバーミニのようにβカロチンが一時ブームになったけど、発がん性物質が含まれることがわかり、いつの間にか消え、特保の健康油「エコナ」もトップシェアだったけど、これまた発がん性物質が発見され消えました
・学校給食の容器がプラスティックなのですが、もう安全、もう安全といわれながらポリプロピレン→メラニン→次のプラスティック、と次々問題が指摘され変わってきていますが、今のものもまた問題が指摘されながら使われ続けています
・ガンによる死亡が3人に1人だったのが、ついに2人に1人になった
・アトピーがとにかく増えている


こんな問題の1つをとって立ち止まって考えれば、とても恐ろしい社会になっています。
食べ物のことも真面目に議論すると「そんなこといったら、何も食べるものがないじゃないか」と怒られそうですが、そこで思考停止にならずに、そうなんですよね。実際にまともな食べ物がいかに少ないか、がわかります。

子供の問題もそう。
「今の子供」はゲームやらテレビをたくさんやり、お菓子を食べ、すぐに切れる、という批判を大人がしますが、そんな子供を作ったのは全て「大人の責任」であるということを議論する人が少ないのですよね。

電車の中で堂々とペチャクチャ大声でおしゃべりしたり、携帯の音を鳴らしまくったり、孫に電子音のおもちゃやお菓子を買い与えたりしている大人が、電車で騒ぐ子供やゲームばかりやる子供を批判する権利はありませんよね。

子供は全て完全に大人になる力を備えていて、どんな環境で育っていくのか、で大きく変化していきます。
そうすると「子供の問題は全て親の責任」となります。

例えば私達の子供や私達の生活習慣などは全て私達の親の責任です。

アトピーにしても、私達が食べたものが全て子供に移っている。だからアトピーの原因は私達の親の世代が作った食品や環境が原因という話もあります。3世代先に行く、という話がありますので。

しかし、そんな親世代が悪いのかというと、戦後の高度経済成長で一生懸命働いた結果であって、親世代は「お金はあるが人間的生活や関係に乏しい世代」になってしまっています。ある意味、親世代も社会の被害者です。


結局、「子供が悪い」→「その原因は親が悪い」→「その原因はその親が悪い」→「そんな生き方を強いた社会が悪い」という流れなんだな~、と思っています。


となると、大人の責任として、子供達が大人になったとき、住みよい社会をどう作るのか?を考え続ける必要があるという結論に達したわけです。


■教育にたどり着く

でも、何ができるの?

大きなことは出来ません。政治活動をやる気もありません。

それは、やはり「自分の生き方」をまっとうにすること、そして「自分が住む地域のために働くこと」の2つが考え方の柱になるんだと思っています。

そして、ちょこちょこ色々やってきましたが、最終的には「教育」が根本であるということに行き当たったのです。


私の世代は、まだ「就職することがゴール」の学校社会でした。
小中はなんとなくでしたが、高校から「受験」が始まり、高校の目的も「大学受験」。
大学に入ってようやく自由な時間が出来、ろくに勉強もせずサークル活動ばかりしていましたが、それが一番生きる力になったのは間違いありません。自分で考え、仲間と語り、企画を立て、実行し、組織のこと、仲間のこと、チームのこと、色々学びました。

そして4年生になると、またもとの規定路線に戻り、最後の目標として提示されていたのが「就職」でした。

学歴社会というのは、結局「就職するためのもの」でした。

そして、就職した後は、会社での社内競争、あるいは成績などを問われ続けます。
子供が生まれたら「家を買う」のが常識として残り、ローンを抱え、ローンのためにお母さんも働きに出て、退職までお金の返済が続きます。子供達の学費ローンも重なるかもしれません。


ところが、今の時代は就職もままならない時代になりました。
じゃあ、就職を唯一の目標ではなく、いくつかある選択肢の1つという捕らえ方をしたらどうだろう?と思うのですが、社会としては「より難関になった就職活動を勝ち抜くのだ」という考え方がまだまだ根強いです。

しかし、今の20代の若者は、就職にしがみつく子もいますが、自由にゆるやかに生きる子供達も増えています。
今の「受験→就職」という流れでは無い生き方が実際に広がり始めています。


30年前は就職するのが当たり前。日本も右肩上がりでぐんぐん成長していました。
30年後の今は、世界を代表する家電業界も落ちぶれてきました。かつて鉄鋼や造船が花形産業だったのが、時代の変遷にあわせて斜陽化したように。
だから、これから30年後は、おそらくトヨタでさえ落ちぶれ斜陽化するかもしれません。

世界はよりグローバル化し、貧富の差も徹底的に開くでしょう。
かつて「年収300万円時代を生き抜く」みたいな本がはやりましたが、これからは300万ならいいじゃないか、という時代に入ります。サラリーマンの平均が今は400万ちょっとですから、300万代になるのは時間の問題です。またそもそも論で正社員であることが、年収以前に「優位」という時代なのですから。

そして、一部のヨーロッパ諸国のように、金を稼げる人はグローバル企業で世界を飛び回り、そうではない人達の中で、地域に根ざしたローカルな生き方、商店、職人、農家といった生き方が見直されていて、トランジションタウン運動や有機農業など本来の生活や地域に根ざした生き方をするグループが今よりももっと普通に存在しているでしょう。

人口も9000万に減り、そこら中に老人があふれる国になります。
仕事は海外に流出し、内需は減り、過疎化が進み、都市部と地方の格差も広がります。
「大きな会社に就職する」ということは、安全ではなく、「成長する会社で見事に出世するか、自分のキャリアをあげて上手に転職を繰り返しステップアップしていく」のでなくては、サラリーマンはとっても難しいポジションになります。サラリーマンでいる限り、自分の人生を考える時間より、会社の仕事を考える時間の方が多く、会社を辞めた時に自分の道を考える思考力が弱っているという弊害もあります。


さて、そんな30年後、今の子供達が大人になって子供を持つ時代に、どんな生き方をして欲しいか?

今の社会は、徹底的にこれでもか、これでもか、と企業がものやサービスを売るための情報を浴びせてきます。
学校では、知識教育を徹底します。

こういったことを考えると、自然を愛すること、人がお金よりも人間関係を大切に良い意味で依存しあうこと(おかげさまの発想)、感謝しあうこと、生きることはとっても素晴らしいこと、といった当たり前のことを学べる教育の場が必要だと思うようになりました。

グローバル社会の弊害を考えると、やっぱりちょっと前の地域社会に根付いた生き方の方が安全ですし、楽しいです。
お金は大切だけど、お金よりも家族や地域を愛すことに時間をかける生き方の方が、安定しますし、楽しいし、持続的です。
ものを買うより自分で作る喜びの方が何倍も大きいです。

そんな場所を作ること、そういったところで子供が自分の人生を考えていく時間を与えていくことをやりたいな、という思いが「セカンドスクール」という発想です。

経済、知識、情報、グローバル、こういったことは現代にあふれています。それは既存の機関や組織に任せておいて、家庭で、地域で整えるべき教育環境、それを考えているところです。












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