半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

食べ物、親、根っこにあるもの

2019年03月31日 | 仕事の中で
 最近、ドタバタしていてブログを書けていませんでした

 今日、朝採れ野菜ボックスのお客さん向けのイチゴ狩りツアーをやっていたら、「いつもお野菜に入っているお手紙、読ませて頂いています。とっても勉強になります」と嬉しい言葉を頂いたので、その時のお手紙を転記しますね。


 「さて、この前の日曜日は「食と命の教室」でした。

 毎年、色々な背景をお持ちの方が参加されていますが、今年度の参加者の1人で、いわゆる発達障害と呼ばれるお子様を支援している会社のスタッフの方がいます。

 その方のお話では「食べ物を変えると、子供が変わるんです」と言います。
 また、「親御さんが変わると子供も変わるんです」とも。
 「うちの子、宜しくお願いします」と任せてしまう親御さんもいる一方で、親御さんが他人任せではなく、子供と一緒に食べ物だけでなく生活を落ち着いたものにすると、これまた子供達が変わるそうなのです。

 この話を聞いて、一昨年参加されていた生殖医療(いわゆる妊活指導)をされている方が言っていたことも思い出しました。

「例えば、妊娠には良質な脂肪も大事なのだけど、今はダイエットなどで脂質を摂らない方が多いんです。そういった食べ物を変える事も大事です。ただ、それが夫婦間で同じ方向を向いていないで食べ物を変えれば良いわけでもないんです。それより、二人が同じ方向を向いてバチっと合った方が、子供が出来る事が多いんです」

 子供の命が宿ったり、子供が育っていく過程で、食べ物も大事と言うことが1つありますが、もう1つ、親が心身ともに落ち着いて生活をすることも大切なんでしょうね。

 そう思うと、健康のために無農薬の野菜を食べるとか、子供のために習い事をさせる、というのも良い事だと思いますが、それ以上に親がどっしり落ち着いた生活を送っている事も大切な気がします。

 例えば「おてんと様と大地が育ててくれた命を戴くんだよ。そして農家さんにも感謝しようね」と言って一緒に「戴きます」と言って一緒にご飯を食べる親と、「作ったんだから、ダラダラしていないで、さっさと食べなさい!」と言う親では、子供も育ち方も違いますよね。

 行動するだけでなく、その土台にある考え方、思想、精神も大切なことだと改めて思いました」

 子育てで私が「あぁ、その通りなんだろうな」と思っている言葉があります。

 「子どもは親の言う事は聞かない。親がしていることをする」

 子供が問題を起こした時、もちろん叱りますが、その原因はすべて親にあると思っています。

 だから、子どもは本質的に悪くはない、というのが私の信念で、すべて自分のあり方、生き方、言動を反省する鏡です。

 なので、子育て中は親も勉強をし続けられるので、本当に子供の存在は有難いですよね~

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節目の春

2019年03月19日 | 素敵な空間・イベント
今年の春は色々節目の年。

長男は小学校卒業で4月から中学生。
今時男子というのでしょうか、ディズニーに男友達同士で出かけていきました
バレンタインの友チョコも男同士でやったり、まあ時代が違いますね~。

そして小6を卒業したお祝い?にスマフォを買ってもらっているお友達が続出。

成田では新しい場所になる公津の杜の方では、ほぼ100%に近い確率でスマフォを中学生が持っていて、持っていない子は「後で、ラインするから」というのに対応が出来ないので、お友達と遊べなくなってしまうらしい

我が地区の中学校の普及率はどんなもんじゃろのう~?

そして、長男に続き、私も4年間務めていた「放課後子ども教室のコーディネーター」を卒業。
子ども達の放課後の居場所を学校で作る教室なのですが、これのおかげで学校に出入りして、学校の雰囲気、先生、子ども達の事を良く知ることが出来ました。

奥様は無類の学校好きで、毎週行っていましたし、私も月3回ぐらいは顔を出していましたから、まあ、我が家ほど夫婦で小学校に入り浸っていた家は無いでしょうね

そんな私も手が空くので、長年の夢想していた「教育事業」へステップを踏みたいと思っています。

そして次男も幼稚園の年長からかれこれ5年間続けてきたスポーツクラブを卒業です

年中の頃、お友達がやっていたので何となく見学に行き、年長から始めたスポーツクラブ。
幼稚園で開催しているものなので、のんびりというか、緩やかな感じで、世の中にある体操クラブに比べると物足りない感じかもしれませんが、小学校に行ってからも毎週幼稚園の体育館に通い続け、楽しい時間を過ごしているようでした

思えば、10歳の子どもから見れば、人生の半分をこのスポーツクラブに通っていたわけで、凄い話ですよね~。
幼稚園の頃から一緒にじゃれ合いながら続けてきたお友達とも、これでお別れでちょっと寂しいかも。

先生は格闘家のプロの人でして、最後の挨拶で「まだわからないかもしれないけど、続けることでその先に見えることもあると思います」という真面目な話をしていました。

まあ、低学年が多いので、半分の子供達は聞いていませんでしたが

ということで、今年は我が家はそれぞれが節目の年。
新しい学期も充実して成長できる学期になるといいですね
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あぁ、懐かしの「はしが台幼稚園」時代

2019年03月18日 | 素敵な空間・イベント
我が息子が2人とも大変お世話になったのが「はしが台幼稚園」。
時代に流されず、送迎バスや給食は出さず、むしろ「雨の日も風の日も晴れの日も、子ども達との送り迎えの時間が宝物」という考えや、「おうちの方が作ってくれるお弁当を通じて伝わる愛情」が、子ども達にとっていかに大切か、という事を伝え続けている幼稚園です。

昔は成田市内だけでなく佐倉市など遠方から「子どもの本来もっている力を育てたい」と考える親御さんが通わせたと聞きます

給食やバス送迎が無いということで応募しないお家がある一方で、「それでもはしが台幼稚園は素晴らしい」とう噂や口コミで、「大変かも?」と思いながら通わせてみたら、「やっぱり、はしが台に通わせて良かった」というお母さんが続出する幼稚園です。

そういったお母さんたちが集まる幼稚園だから、保護者の質が良い

そして、先生も抜群

例えば、ママ友の陰湿ないじめがあって他の幼稚園から逃げてきたお母さんと子供に対し、「お母さんも頑張ったんですね」と心から共感をし、話を聞き、あるがままで受け入れてくれたり、障害を持っている子供で他の幼稚園では断られた家族に対しても「よく来てくれましたね」と受入れ、強い愛情をもってお母さんや子供たちに接してくれるのです。

そんな幼稚園だから、例えば小学校でボランティアとかに積極的に参加してくれたり、あるいは子ども達に接する姿勢などがとても良いお母さんに聞いてみると、多くが「はしが台幼稚園」出身なんです。

という事で、今でも「はしが台に通わせているんです」とか「はしが台卒園なんです」というご家族とは、初めて会ってもすぐに仲良くなれちゃうんですね~


前置きが長くなりましたが、そんな愛する「はしが台幼稚園」関連するイベントが2つありました


1つは、「卒業した6年生がみんなで幼稚園に集まろう」です。

あるママさんが、はしが台幼稚園を6年前に卒園し、先日小学校を卒業した子ども達で「久々に幼稚園に集まろう」と企画して、幼稚園にかけあってくれたイベント。

まず凄いのが、卒園して6年経ったのに口コミだけでこのイベントが行き渡るのも「さすが、はしが台繋がり」と思います

私も途中から顔を出してみたら、まあ、6年生が幼稚園の園庭を走りまわったりキャッキャしている様子は、何だか不思議

小学校毎に固まっていましたが、「懐かしの顔」に会うと、子ども達も久々にぺちゃぺちゃお話したり。
まあ、一番ぺちゃぺちゃしゃべっていたのは、やっぱりお母さん方でしたが

そして、年中、年長でお世話になった先生、園長先生も出てきてくれて、みんなで記念撮影

そして、先生がたは、昔のようにママさん達の話を「うん、うん」としっかり聞いてくれるのです。

「あぁ、そういえば、はしが台の先生達は、お母さんたちの子育て悩み話を良くこうやって聞いてくれて、そして元気づけ励ましてくれていたな~」と思い出しました

そんな久々の「はしが台幼稚園」での園庭開放を楽しんだ後、近くの公園で次のイベントに。

実は卒園式の後、お友達家族で集まって「タイムカプセル」を埋めていたのです

「小学校を卒業した時にまた集まろう」という事だったのですが、今回、みんなが集まるので、「掘り上げよう」となったわけですね

 最初、どこに埋めたか見当もつかなかったのですが、当時の写真を撮っていてくれたママさんがいたので、場所が特定できたのが凄い

 そして、みんなで掘り当てた時は、さすがに「お~、これだ凄い」と歓声が上がっていました。

 女の子は静かに読んでいましたが、男子は幼稚園の自分から今の自分へのメッセージに対し、内容よりも「字、汚ね~」みたいな盛り上がりでしたが

 その後は、「鬼ごっこしようぜ」といった声がけと共に、公園のどっかに飛んでいってしまいました

 幼稚園の頃は、子どもは親とある意味、一心同体のようなもので、とにかく楽しかったわけです。
 
 小学校、中学校と歳を重ねると、「ただただかわいい」というのではなく、子どもから大人への成長を促し見守る、というように役割が変わってきます。

 それはそれで楽しいのですが、 今、振り返れば、やっぱり幼稚園時代が一番楽しい時期でしたよね~。

 送り迎えを一緒にしていたあの頃が、懐かしい
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卒業式

2019年03月15日 | 素敵な空間・イベント
今日は長男の卒業式でした

橋賀台幼稚園の卒園式はウルウルでしたが、小学校の卒業式はどちらかというと、普通のイベントの1つ、という感じでした。

というのも、長男自身が「別にみんなとこのままだし」という反応で、特別感が全く無いのです

まあ、確かにそんなもので、小学校から中学校にそのまま上がって、友達も9割変わらない、という学区なので、言われてみればそんなものかも。

「中学校ってどんなところだろう」ぐらいな気持ちは私も卒業式の時はありましたが、確かにそれほど感傷的にはなっていなかったことを思い出しました

過去、放課後子ども教室のコーディネーターや学校評議員として出させて頂いた卒業式では、「さようなら」という言葉を何回も言っている間に、泣き出す女の子がいたり、担任の先生からはなむけの言葉の時間があって、その時に先生がつい感傷的になって言葉が詰まる、なんて場面があったのですが、そういった時はこちらもウルルときました。

でも、そういった事があまりないと、こちらもそれほどウルルとはしないものですね

どちらかというと、「まあ、6年間、無事に大けがや大病をせずに通えてよかったね」という感じです。

日赤病院にある「あすなろ学級」の子達は、いつ日赤に出れるかわからない子もいます。
なかには、「将来の夢」という卒業の時に書かされる夢自体を書けない、みんなが当たり前と思っている大人になるということさえ出来るかわからない子ども達がいます。

また、不登校の子も実際にいるわけです。

そう思うと、「6年間、無事に通えてよかったね」と思うのです

ちなみに、卒業式自体というと、少しずつ変わっていって、例えば、卒業証書を授与した後、そのまま着席するはずだったのが、今年はいったん壇上の上で立ち止まり、証書を見開いてこちら側に見せる、という場面がありました。

私は卒業したよ、という事を示すためなのでしょうが、多分、親御さんへのシャッターチャンスサービスなんでしょうね

また、その間、ずっとピアノの生演奏が続いていて、静かな授与式ではなく、BGMがあっての卒業授与式でした。

あと思った事は、「やっぱり写真とビデオが多いな~」という事。

これは橋賀台幼稚園の時に、「保護者の方、写真を撮るのではなく、是非、気持ちを込めて拍手をしてあげてください」と言われて、確かにその通りだと思って、入園、卒業式はほとんどの人が拍手をしていました。

一方、小学校への入学式の8割の人が子ども達が入場する時に拍手をしない。
つまり、スマフォやビデオでひたすら我が子を追いかけているのです

卒業式も同じで、拍手をしている人は2割ぐらいだったでしょうか?

いや、気持ちはわかりますが、せめて入場の時ぐらい拍手しようよ、と思うのです。

まあ、旦那さんが仕事で立ち会えないからビデオに撮っておいて、という依頼もあるのでしょうし、人それぞれ、家それぞれでしょうが、個人的には6年生にもなると写真やビデオを撮っても、あとで見返すということが幼稚園の頃に比べればほとんどなくなったのでね

最後に、うちの小学校は校舎の周りをあえてぐるりと回って校門の外に出るまで、在校生が道を作ってくれて手を出してタッチをしながら見送る、という伝統があるのです。

今年から3年生は出なくなったので、4年生、5年生の2学年が見送ってくれたのですが、あれはいいですね

そして、校門の外に出た後も、みんなでじゃれあったり、先生の周りにたむろしたり。

何だかこちらも微笑ましくなってしまいました

これで6年間終わり。

何事もなくこのまま中学生になるのでしょう。

その当たり前が有難い。

6年間、お世話になりました


p。s いつもお世話になっているママ友さんが「放課後子ども教室を今まで有難うございました、というのと、ご卒業おめでとう、ということも含めて」ということで、なんとシフォンケーキをプレゼントしてくれました

びっくり

こんなことをさらりと出来る人って、素敵ですよね~

人を喜ばせてくれる素敵な方がお友達にいて、良かったな~


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今年も3.11

2019年03月11日 | 自分の時間
今年も3月11日がやってきました。

家にいてテレビを見ていたり、車でラジオを聞いたりしていると「あ~、今年もやってきたな」と思いますが、仕事に没頭していると、ついつい、記憶が風化していきます。

記憶の風化、というのは決して悪いものではありません。

今も思い返しますが、あの原発事故があった時、世の中全体が「福島はもう人の住めない場所だ」というような風潮になりました。

あの時は、それほど衝撃的で、日本人にとって未知なる体験だったのですよね。

ただ、私はあの時、感情は他の方と同じように大変でしたが、理性では「そんなことはない」と思い続けていました。

それは「広島だってそうじゃないか」という事を自分の中で根拠にしていたのです。

広島は原爆が落とされた後、壊滅しました。

それこそ放射能だらけでした。

それでも、今、「広島に行ったら被爆する」なんて人はいません。

それを思ったのですね。

あの時、私たち以上に福島に住んでいた人は「故郷にもう戻れない」と大変な状態だったでしょう。

ところが、今は、一応戻れる地域が増えてきています。

今、思えば、当時の「福島にはもう人は住めなくなる」といった風潮は、大変酷い話です。

福島の人は全く悪くない。むしろ、福島原発の電力を享受していた私達首都圏民の方が責任を感じるべきだったのに。

しかし、いろんな意味で「風化」することで、例えば、福島のある地域で農家民宿が増えて、そこに泊まるお客さんが増えている、という番組を見ました・

これは、1つの「放射能への怖さの風化」です。


一方で、良くない風化は、「原発は電力が供給されるために、あった方が良いよね」という人がまた増え始めたこと。

あるいは、東京オリンピックを誘致する際に、安倍首相が「原発はアンダーコントロールだ」と言った言葉を使っていましたが、そんなことは全く無い、という事です。

火力発電所は温暖化を進めるとか、北海道地震で原発のおかげで電力が安定化されたとか、自然エネルギーは不安定だとか、色々な説がありますが、それはすべて反論、反駁できます。

ただ、そんなことを書くと長くなってしまうので、1つだけ言わせてもらうと

「原発の中で何が起こっているか、今も何もわからないじゃないか。誰も中に入れないじゃないか。どう処理すればいいか、未だに誰もわからないじゃないか」

という事実です。

これは、私の師匠の農家の高柳さんの言葉でもあります。

その通りです。

原発はあってはならない。
子どもでもわかる話です。

8年たった今も、「現場がどうなっているか入れないからわからない」のです。

「40年かけて廃炉にする」という計画を作ったのは知っている人も多いでしょう。
それは、「最初の5年で調査を出来るロボットを開発して、次の3年で現場を検証して、その後…」という「仮定」を積み上げただけの空論でした。

例えば、放射線量が凄すぎて、ロボットが動かせない、という事で、「ロボット開発」を進めているのですが、これがなかなか出来ない。
そもそもの「現場調査をするための最初の工程」が進まず、毎年「後ろ倒し」になっています。

調査さえ出来ないほどの事が起きています。

ただただ、水で冷やして核融合を停止し抑え込んでいるだけで、「アンダーコントロール」と言っているだけなのです。


例えば、北朝鮮が日本を混乱に陥れるなら、1発、原発にミサイルを撃ち込んだら、日本はおしまいです。

東電の、あるいは日本の脆弱なシステムに、テロが入り込んだらおしまいです。

世界の活火山、地震スポットの2割が日本にあると言われている「地震大国」に、原発があるのは誰が考えてもおかしいです。

「リスクをコントロールすればいい」と言いますが、コントロールできないのです。

「想定を超える」ことは、50年、100年に1回は起きるからです。

そして、「想定」をしている人がいるのに、「そこまでは」といって、対処しないのが人間です。

今回の地震でいえば、「大地震で予想以上の津波が来る」という事が研究チームから提出されていたのに、「それは過大評価だ」といって、東電が堤防を作らなかった、という「事実」があるのです。

2000年ぐらいから提出されてきた資料に基づいて、「万が一」の事を考えて堤防を作っていれば、あれほどの惨事になりませんでした。

この「事実」が、「原発事故は人災だという証拠だ」として、訴えている弁護団の根拠の1つになっています。

わかっていても、そこまではお金がかかるし、まあいいじゃないか、というのが東電の対応でしたが、東電に限らず、人間はそんなものです。

2012年、3月の新聞を見て驚愕したことを覚えています。

原発事故後、q年経った後の記事だったと記憶していますが、1カ月に2回も「停電」が起きているという記事でした。

理由は「配電盤の配電線をネズミがかじった」ためです。

「そもそもネズミがいる屋外に配電盤があることのリスク管理の甘さ」を記事では指摘していました。
それはとても小さな記事ですが、私は「頭がおかしいんじゃないか?」と思いました。

あれほどの事故を起こしたのに、ネズミにかじられ、それが1度あったのに対策をせず、1カ月で2回もかじられて停電になる。

普通の会社では、叱り飛ばされれば済む話もあるでしょうが、こと原発に関しては、叱って済まされる話じゃない次元の話です。
あれほどの事故を起こしたのに、「リスク管理」が出来る、「アンダーコントロール」という言葉がいかに机上の空論か。

。。。原発の事について熱くなってしまうので、この辺で止めますが、たまたま「ブラジルに渡った日本人の50年」みたいな番組を見たら、原発につながる人が出ていてびっくりしました。

20歳代で旦那さんとブラジルに渡った女性がいました。
1960~70年代までは、「ブラジルに移住して、大規模な土地を開墾して、一攫千金」という人が沢山いました。
色々な苦労を経て、旦那さんはお店を作り、繁盛し始めました。
ところが、旦那さんが急死。
日本の実家のある青森に帰ってきて、子ども達が育った後、「終の棲家」として、福島の沿岸部に土地を買い、そこで「最後の暮らし」として「幸せな自給自足の生活」を始めました。

ところが、そこは原発が見えるほどの所の土地だったのです。

ブラジルに行って、夢半ばで帰国し、子どもを育て上げて移住した福島から今度は強制的に出され、人の人生と言うのは本当に山あり谷ありというか、色々な事が起きます。

ただ、原発事故に関しては、自分で悪さをしたのではないのです。

良く、農家さんが話す言葉として「俺らは何もしていないのに、空から毒を降らされたんだからな」というのがあります。
胸が苦しくなります。

もちろん、何百年と先祖代々住んできた方が、二度と帰れない、という方も沢山います。

テレビでは「復興」という言葉も聞きますが、絶望して自ら命を絶っている人が今もいます。

都会の人にはわからないでしょうが、故郷を捨てる、という事、高齢になってから新天地で暮らす、というのは、どれだけ精神を殺すか。

田舎の人は、歴史と地域で生きてきたんです。

自分より「家」が優先で、先祖代々続いて生きた土地、あるいはおじいちゃんが苦労して開墾してくれた土地に住んでいる、という思いがあります。

そういった「真面目に実直に生きてきた何も悪いことをしていない人」の土地家屋に「毒」を降り注ぎ、強制退去させて、最低限のお金を払って済ませようとした、というのが原発事故です。

お金を払う以外、やり様が無いのですが、そんなことでは済まされない事、つまり、どうしようもない事なのです。
原発は、「どうしようも無い事」を起こしてしまうのです。

そんなことを思うのが3.11です。

とはいえ、これは私の問題で、家族では、夜ご飯をろうそくで食べることだけは行っています。

子ども達は毎年、ろうそくの灯で食べる夜ご飯が「なんかきれいだね~」と言いますが、まあそれでいいのです。

「温かい食べ物が家の中で食べられる、有難いね」と親が口に出して食べていたな、という事が、大人になった時に思い出してくれたら、それでいいのです。

そんな3.11です。

合掌

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畑さん、今年も宜しく

2019年03月10日 | 農的体験・生活
今年も畑の季節がやってきました

冬は草が伸びず、秋に種を蒔いた野菜を収穫して食べるだけの時期です。

しかし段々季節が春に近づくと、少しずつ忙しくなります。

春の初めに一番始まる仕事は、菜花の収獲です。
アブラナ科、例えば小松菜、キャベツ、大根、白菜などで、一番美味しいのは小松菜の菜花と言われます。
私の場合は、小松菜の種を秋に沢山蒔いておくのですが、半分以上は菜花用にしています。
ということで、2月ぐらいから、菜花が我が家の主なる野菜となり、ひたすら菜花を食べています


冬は新陳代謝が落ちるので、体に毒素が溜まると言われています。
それをちょっとした苦みを刺激にして体の外に排出するために、フキノトウや菜花などを食べるというのが、日本の生活だったのでしょう。
熊さんも冬眠から覚めた時は、動物をすぐに食べず、まずは山の苦みある野草を食べて体から毒素をうんちとともに出してから動き始めるそうですよ。

そして、3月に入ると雑草が生い茂り始めます。
ホトケノザ、オオイヌノフグリ、ペンペン草など、まあ一気に絨毯のように広がるのです。

こんな感じで、緑一色


これを放っておくと後で大変
なので、いったん畑をきれいにします。

そして元肥をふって、区分けをしてマルチをはって、とこれから夏に向けての準備を始めるのです。

あとは、スナップエンドウが壊滅しています
特にこの冬は暖冬と寒さが入り混じったせいか、99%壊滅して、ほとんどが枯れてしまいました
収量はとれないのですが春蒔きとして、直播と育苗の両方を始めてます。


同じ冬越しのものでも、すこぶる元気なのはニンニクとらっきょうですね。
何年も大き目の物を選別して種としてとってきたので、毎年、元気にでっかっく育ってます

そんな畑に立つと「今年もいよいよ始まるな」という思いが沸いてくるのです。
そして、「畑さん、今年も宜しくお願い致します」とご挨拶。

さあ、今年の畑、始めよう
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4年間務めた放課後子ども教室

2019年03月07日 | 自分の時間
先ほど、今年度の「放課後子ども教室」の1年の振り返り会が終了しました。

4年間、「コーディネーター」として務めさせて頂きましたが、これをもってその役が終了となります。

「放課後子ども教室」というのは、「子ども達の居場所作り」を目的にした国&県&市の事業です。
世の中が近代化するほど、農村のような地域と歴史が繋がっている生活圏から都市部での住民が増えます。
また、団塊世代が一番の人口ボリューム世代となっている日本では、昔のように「子どもや子育て世代の方が大人より多い」というのは当たり前ではなくなり、公園や地域に子供の姿は見なくなりました。

防犯の面でもそうですし、また行政ではなく地域の住民の力を使って、子ども達の居場所を作っていこう、という事もあります。

そんなこんなであるのがこの「放課後子ども教室」です。

いわゆる「学童」は、親御さんが働いているお子さんを「預ける場所」ですが、「放課後子ども教室」はそうではないので、親御さんが働いていない子ども達が、放課後に家に帰らずそのまま体育館や上グラウンドで、楽しい時間を過ごす事業です。

成田市は比較的、コーディネーターの責任が多い分、自由が効き、外部講師を呼ぶ学校もあれば、私のようにスタッフになったお母さん方に色々レクリエーションを考えてもらって、先生役として動いてもらうパターンもあります。

成田市以外は、大体が行政が募集した方がコーディネーターをやったり、柏市のようにNPOなどに丸投げして、図書室で勉強、みたいな放課後子ども教室も実際はあります。

そんな中で、私の「田んぼと畑の耕育教室」のパートナーの農家の根本さんが「放課後子ども教室」のコーディネーターをしている事から、その存在を知り、私の子供が通う学校でも出来ないのかな?と思ったら、要するに「コーディネーターをやってくれる人がいない」というのが現状で、「だったら」ということで、立ち上げから参画してきました。

学校の中だけど放課後という特別な時間帯で、素の姿を見せながら思いっきり遊ぶ子ども達の笑顔、そして子ども達を喜ばせようと毎回企画を練り、愛情たっぷりで準備や運営をしてきた保護者のお母さん達にも元気をもらってきました。

そんなコーディネーターもこれで4年目が終わります。
そして、「そろそろ卒業」という気持ちが沸いてきていて、現在の生涯学習課のご担当者が真摯に私の気持ちを受け止めてくれて、無事、新しい方が決まり、私も3月で卒業となりました。

私が目指したのは「お母さんたちが子ども達が大好きだという気持ちが伝わる教室」で、他校では、色々な工作や食べ物作り、あるいは外部講師を呼んでのスポーツなどが多いのですが、うちの学校ではあえて「お母さん達が子ども達とやりたいことを考えて先生役になってもらう」という方針でやってきました。

もちろん、最初は「いやいや、先生役なんて」というお母さんも多いのですが、結局、いざやるとなると、みなさん一生懸命準備をして下さって、本当にこれは愛情無くしては出来ない、といったほどの企画を練り、当日はたった1時間~1時間半の時間ですが、本当にお金を払って体験できるイベント、とは全く違う「子ども達が生き生きする時間」を過ごす場になるのでした。

今の世の中は時間に追われ、お金に終われ、子ども達とゆっくりとつきあうお母さんたちは少なくなっています。
もちろん、お父さんでも良いのですが、やはり小さな内はお母さんが子ども達は大好きなのです。

そして、2学年分の保護者のお母さんたちの中には、大体5~6人は、「子ども達との時間を過ごす」ことをボランティアで受けてくれる方が毎年現れます。

そういった方は、本当に愛情深く、子ども達の成長のためになるのです。

「親以外の大人」と触れる機会が減っている最近の世の中で、それは貴重な体験だと思うのです。

一方で、「自分の子にはストレートに叱ったりするけど、他の子ども達の前で先生役となると、そんなことはしたこともなかったし、あえて先生役っぽく感情的にならず、良い大人を演じながら先生役をやれて、それはそれで凄い経験でした」という方もいました

他校のコーディネーターさんの中では「13年間、あまり働からず家に引きこもりじゃないですけど、そんな感じだったのが、この教室に出会えて、外に出て、色々な人たちと触れ合い、仕事ではないんですが社会と接点をもって活躍出来て、それまでの自分の生き方とは違った時間を過ごせて、今後に向けての良い機会になりました」という方もいました。

世の中、何でも「お金をもらう対価としての仕事」ばかりですが、お金とは違ったところで子ども達に関わりたいという大人は沢山いると思います。

ただ、それをすくいあげるのはなかなか難しい。

行政も、そういった人材を沢山求めていて、そのための事業も沢山あるのですが、その告知や後継者をどう作るかというあたりは、行政はシステムを整備するのは上手くないんですよね~

今の時代、PTAでもおやじの会でも青少協でも人材不足で、なりてがいません。
新興住宅街ではまだそういった人たちがいますが、時を経つとみんな卒業していきます。

ただ、放課後子ども教室しかり、色々な「子ども達のための役割」を担える活動をもっと行政が上手にマネージメントしていってもらえたら、今の高齢者から小さなお子さんを育てていて家にいがちだけど本当は社会に接点をもったり、子ども達と何かしたいと思っている方々が、生き生きと活躍できるはずなんですよね~。

まあ、それはともかく、4年間、放課後子ども教室にお世話になりました。

そして、今度は個人としての事業として、子ども達と関わっていく仕事をきちんと準備していきたいと思います。
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音無さんと雨の中、自然薯掘り

2019年03月03日 | 農的体験・生活
日曜日は、今年最後の「天然自然薯堀り」でした

今年度は大学生時代の友達同士が首都圏に就職した後、3年ぶりに会う機会となったり、50歳の女性が新しいダーリンにクリスマスプレゼントにしたり、女子大学生2人組が参加したりと、まあ色々なバリエーションの方々にお越し頂きました。

日程調整がつかなかった方も何組かいましたので、残念でしたが、今年は個人の方のお問い合わせが多かった年度でした。

そして、今年最後の自然薯堀は、また芸能人がきました

過去、嵐の大野くんや火西島秀俊さんと宮崎あおいちゃん、二階堂ふみちゃんも来てくれましたが、今回は、「音無美紀子さん」という女優さんでした。

私の世代は名前を聞いてもピンときませんでしたが、60歳代以上の方ならすぐわかるのではないでしょうか?

かつては昼間のドラマや「男はつらいよ」のマドンナ役としても出たことがある方で、私は名前だけではわかりませんでしたが、事前にネットで調べて顔を見たら「あぁ、見たことがある」という女優さんでした。

村井國夫夫の奥さんもである方ですね。

日曜日は真冬の寒さで雨も降り、制作スタッフが「予定より早く着たい」と言って、打ち合わせをしたのですが、音無さんの入り時間は変わらないため、とても寒い屋外で音無さんが来るまで長時間待ち。

これがなかなかつらく、体も冷え込むのですが、やることが無いので、農家さんも「全くな~」とぼやいていました。

まあ、これは製作側の問題でもあり、また雨天決行というのも、「こんな雨降りの中で自然薯掘るのは無いよな。音無さんも大変だ」という感じでした。

音無さんも登場した後、半分冗談で「こんな雨の中でやるのは大変よね」と、言っていましたが、寒空の中で、頑張って撮影や自然薯堀にのぞんでいました。

御年69歳ということですが、さすがばっちり決められて、お顔もお年にしてはやはりおきれいでしたよ

そして、やはり自然薯堀りは楽しい

予定では30分ぐらいでちゃちゃっと終わらす予定だったのですが、結局、1時間はかかってしまい、それでも音無さんは頑張っていて、終わった後も「とっても楽しかったです」と言ってくれました。

自然薯堀りも雨の中で行い、手足の指先が冷たくなって本当に寒かったのですが、みんな頑張りました

終わった後は、農家さんの自宅に移動して、キッチンでお料理。

撮影終了後、音無さんとみんなで記念撮影、サインも書いてくれました。
みんな1人1人に握手もしてくれて、気さくで良い人だな~と。

普通、嵐や西島さんなどはガードが固く「サインや写真はお断り」なのですが、ベテラン女優ともなると、その辺は気さくなんですね。

で、農家さんのスマフォで写真撮影した後、「私のも撮って」と、音無さんが自分のスマフォで記念撮影をスタッフにお願いしていたのはなかなかびっくりでした。

更に、農家の息子さんが「歌声喫茶とかやっていますよね」と興味を示したら、「あら、興味があるの?」と自らなんとラインやフェースブックの交換を提案してきてくれました

ただ、その息子さん、ラインを止めてしまっていて、なんともったいないことをした、という感じでした

まあ、とにもかくにも無事に音無さんも仕事を終えて、撮影後、鴇田さんと今年度最後ということだったのでお食事。

冷え切った体を温かい食べ物で温めて、ようやくホッとしました。

今年は暖冬と言いますが、たまたま雨の寒い日に当たってしまって、大変でしたが、まあこれでシーズンも終わり。
最後に良い思い出となりました。

また、新年度は11月下旬からです。

宜しければ10月下旬になったらホームページをのぞいてみてくださいね
「天然自然薯掘り」
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