成田市周辺は有機農業のメッカで、多くの人が有機農業を営んでいます。
その中で、精神的支柱になっている「おかげさま農場」の代表、高柳さんとは、個人的に何度かお邪魔させていただいていましたが、昨日は、ついに、パーソナルヒストリーをお聞きすることが出来ました。
詳しくは、まとめてHPにアップしようと思いますが、高柳さんの言うことに対し、また一段と理解が深まりました。
高柳さんは「食は命」を標榜しています。
「人は生きていくには食っていかなくてはいけない。食べ物は誰でも必要。だから食べ物は命そのもの。健康に頑丈に育った食べ物を食べるから、人もそういった体になる。食べ物はそのまま命につながる」
というところまでは、知っているつもりでした。
ただ、さらに一歩踏み込むと、「有機農業とか、無農薬どうのといっていること自体がおかしくて、無農薬は目的じゃない」と考えていらっしゃることが、わかってきました。
そもそもの「有機農業に対する思想、考え方」が、私達の世代とはスタート地点が違うんです。
どういうことかをちょっと解説してみますね。
考え方の相違を理解するには、「時代背景」をよく知った上で考える必要があります。
私のような世代は、バブル崩壊、上場ブームの終焉、終身雇用制の崩壊などから、将来に対する経済成長が見えない中での「経済至上主義」に対するアンチテーゼ、というか、対極をなすものとして、「オーガニックライフ」といった「生き方」が関心の対象ですよね?
そして、「無農薬」とか「有機農業」というのは、「それ自体が素晴らしいもの」という認識がありますよね?
一方、高柳さん達の世代は、1960年~1970年代の急速な高度経済成長による「世の中のひずみ、ねじれ」の結果、「四大公害病、食品公害」が広がった時代から始まっています。
農業の分野でも1967年の「農業基本法による近代化農業」、つまり「化学肥料、化学農薬、機械」がいっせいに広がり食糧増産が推し進められた時代でもあります。
普及所ができ、全国各地でいっせいに「農薬や化学肥料を使った大量生産、規格化された商品としての野菜つくり」が推奨されたわけです。
やったことがある人でないとわからないと思いますが、特に田んぼは草をとるのは無茶苦茶大変です。そんな重労働から一気に開放されるやり方が「国をあげて」導入されたのです。
そこに、世の中の公害問題と同じく、農業に関してもレイチェル・カーソンや有吉佐和子が出てきたわけです。
そんな中で
「食べ物は命をなすもので、それは土からきている。そこに毒である農薬や化学肥料を使うのはいいのか?おかしくないか?結局、土、水、空気が汚れて、それは最後には人間に返って来るものでしょ?ちょっと前までみたいに、堆肥を入れて土作りをして、というのが正しいのじゃないか?」
と思う人が全国各地で同時多発的に現れたのです。
おもしろいのは、成田では、空港反対運動から始まったグループ、高柳さんたちのようなグループ、と色々な小さなグループが、こういった時代の流れに疑問を抱き、有機農業を始めた、ということです。
誰かが話し合って、ではなく、それぞれ各地の農家さんの中で、「おかしい」と思う方々が、独自で「近代化」に反した「それ以前は当たり前だったやり方=有機農業」に入っていったのです。
だから高柳さんの考えはこうなのです。
「別に有機農業が目的で無い。無農薬だとか有機農業とか言う必要があることが本来おかしい。使ってはいけないものを使っていません、といわなければいけない、というのは本来おかしいでしょ?」
私達の世代は「無農薬」「有機農業」は「良いものだ」と捉えがちですが、高柳さんからは、そこに視点は置いていないんです。
「人は食わなければ生きていけない。だから食は命を支えるもの。食べ物を作る田畑はみんなのもの。なのに、そこに農薬を使って環境汚染をしたら、、水、空気、土が汚れて、まわりまわって自分所に返って来る。これは農家だけの問題じゃなく、みんなの問題。昔は、自然の摂理に反しないことをする、という考えがあった。しかし、経済優先、という名のもとに、本来、命を作る食べ物まで経済主義がもちこまれた。だから、無農薬とかそういう次元ではなく、自然が種を育てるんであって、人が作っているんじゃないといった自然に対する謙虚心、自然に学ぶ思想なども含めて、考えなければいけない」
ということをおっしゃっていました。
文章にするとなかなか難しいですね。
高柳さん達は、「食べ物や自然に対する高度経済成長前にあった日本人の思想、在り様」がベースにあるのだと思います。
世の中、国をあげて農薬を使っている時代に、「農薬を使わない自分達がおかしいんじゃないか?」そう思うことも多々ありながら、葛藤しながら有機農業を実践してきた高柳さん達世代の考え方は、「オーガニックライフ」的なことが認められている現代を生きる私達の考え方とは違うのは当然といえば当然です。
私達世代でいえば、有機農業は「環境に優しい」「生物多様性」「生き物があふれる田畑」「安心で健康」といったイメージがあって、高柳さん達が考えるところと行き着くところは同じのような気がしますが、高柳さんは「日本人の思想、在り様」が根本にあるので、なかなか相互理解はすぐにはしにくいところがあります。
でも、そもそも「思想」は、同じようで人によって微妙に違いますし、有機農業をやられてきた高柳さん世代のみなさんも、その思想が完全に一致することはありません。
だからこそ、互いの思想をあわせる、ということが重要なのではなく、それぞれの思想を良く聞いて、出来るだけ理解をすることが大切なのだと思います。
その「違い」が「和」になって、新しい時代や地域の在り方を切り拓いて行く「力」になるよう、私も微力ながら関わっていきたいと思います。
その中で、精神的支柱になっている「おかげさま農場」の代表、高柳さんとは、個人的に何度かお邪魔させていただいていましたが、昨日は、ついに、パーソナルヒストリーをお聞きすることが出来ました。
詳しくは、まとめてHPにアップしようと思いますが、高柳さんの言うことに対し、また一段と理解が深まりました。
高柳さんは「食は命」を標榜しています。
「人は生きていくには食っていかなくてはいけない。食べ物は誰でも必要。だから食べ物は命そのもの。健康に頑丈に育った食べ物を食べるから、人もそういった体になる。食べ物はそのまま命につながる」
というところまでは、知っているつもりでした。
ただ、さらに一歩踏み込むと、「有機農業とか、無農薬どうのといっていること自体がおかしくて、無農薬は目的じゃない」と考えていらっしゃることが、わかってきました。
そもそもの「有機農業に対する思想、考え方」が、私達の世代とはスタート地点が違うんです。
どういうことかをちょっと解説してみますね。
考え方の相違を理解するには、「時代背景」をよく知った上で考える必要があります。
私のような世代は、バブル崩壊、上場ブームの終焉、終身雇用制の崩壊などから、将来に対する経済成長が見えない中での「経済至上主義」に対するアンチテーゼ、というか、対極をなすものとして、「オーガニックライフ」といった「生き方」が関心の対象ですよね?
そして、「無農薬」とか「有機農業」というのは、「それ自体が素晴らしいもの」という認識がありますよね?
一方、高柳さん達の世代は、1960年~1970年代の急速な高度経済成長による「世の中のひずみ、ねじれ」の結果、「四大公害病、食品公害」が広がった時代から始まっています。
農業の分野でも1967年の「農業基本法による近代化農業」、つまり「化学肥料、化学農薬、機械」がいっせいに広がり食糧増産が推し進められた時代でもあります。
普及所ができ、全国各地でいっせいに「農薬や化学肥料を使った大量生産、規格化された商品としての野菜つくり」が推奨されたわけです。
やったことがある人でないとわからないと思いますが、特に田んぼは草をとるのは無茶苦茶大変です。そんな重労働から一気に開放されるやり方が「国をあげて」導入されたのです。
そこに、世の中の公害問題と同じく、農業に関してもレイチェル・カーソンや有吉佐和子が出てきたわけです。
そんな中で
「食べ物は命をなすもので、それは土からきている。そこに毒である農薬や化学肥料を使うのはいいのか?おかしくないか?結局、土、水、空気が汚れて、それは最後には人間に返って来るものでしょ?ちょっと前までみたいに、堆肥を入れて土作りをして、というのが正しいのじゃないか?」
と思う人が全国各地で同時多発的に現れたのです。
おもしろいのは、成田では、空港反対運動から始まったグループ、高柳さんたちのようなグループ、と色々な小さなグループが、こういった時代の流れに疑問を抱き、有機農業を始めた、ということです。
誰かが話し合って、ではなく、それぞれ各地の農家さんの中で、「おかしい」と思う方々が、独自で「近代化」に反した「それ以前は当たり前だったやり方=有機農業」に入っていったのです。
だから高柳さんの考えはこうなのです。
「別に有機農業が目的で無い。無農薬だとか有機農業とか言う必要があることが本来おかしい。使ってはいけないものを使っていません、といわなければいけない、というのは本来おかしいでしょ?」
私達の世代は「無農薬」「有機農業」は「良いものだ」と捉えがちですが、高柳さんからは、そこに視点は置いていないんです。
「人は食わなければ生きていけない。だから食は命を支えるもの。食べ物を作る田畑はみんなのもの。なのに、そこに農薬を使って環境汚染をしたら、、水、空気、土が汚れて、まわりまわって自分所に返って来る。これは農家だけの問題じゃなく、みんなの問題。昔は、自然の摂理に反しないことをする、という考えがあった。しかし、経済優先、という名のもとに、本来、命を作る食べ物まで経済主義がもちこまれた。だから、無農薬とかそういう次元ではなく、自然が種を育てるんであって、人が作っているんじゃないといった自然に対する謙虚心、自然に学ぶ思想なども含めて、考えなければいけない」
ということをおっしゃっていました。
文章にするとなかなか難しいですね。
高柳さん達は、「食べ物や自然に対する高度経済成長前にあった日本人の思想、在り様」がベースにあるのだと思います。
世の中、国をあげて農薬を使っている時代に、「農薬を使わない自分達がおかしいんじゃないか?」そう思うことも多々ありながら、葛藤しながら有機農業を実践してきた高柳さん達世代の考え方は、「オーガニックライフ」的なことが認められている現代を生きる私達の考え方とは違うのは当然といえば当然です。
私達世代でいえば、有機農業は「環境に優しい」「生物多様性」「生き物があふれる田畑」「安心で健康」といったイメージがあって、高柳さん達が考えるところと行き着くところは同じのような気がしますが、高柳さんは「日本人の思想、在り様」が根本にあるので、なかなか相互理解はすぐにはしにくいところがあります。
でも、そもそも「思想」は、同じようで人によって微妙に違いますし、有機農業をやられてきた高柳さん世代のみなさんも、その思想が完全に一致することはありません。
だからこそ、互いの思想をあわせる、ということが重要なのではなく、それぞれの思想を良く聞いて、出来るだけ理解をすることが大切なのだと思います。
その「違い」が「和」になって、新しい時代や地域の在り方を切り拓いて行く「力」になるよう、私も微力ながら関わっていきたいと思います。