半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

「食を制すれば、人生を制することが出来る」

2018年09月28日 | 素敵な本
「家庭でできる自然療法」という本があります。

子育てをちょっと勉強している人であれば、大概知っている本で、西洋の薬で症状を抑える、のではなく、昔から日本に土着していた薬草やお手当法などを、まとめたロング&ベストセラーです。

例えば、この前、樹木希林さんがNHKスペシャルに出ていましたが、つまづいて足のすねを打ってしまい、翌日に枇杷の葉をガムテープで貼って現れました。

自然療法や昔ながらの「お手当法」を知っている人なら、「ああ」と納得したでしょうが、普通の方は何のことかわからず素通りしたシーンでしょう。

枇杷の葉はとても有効で、熱を取り、毒素を出すため、お手当で良く使われる万能葉っぱ。

枇杷の葉エキスや枇杷の実エキスはガンも消してしまうほどの効果があります。

と、いうことを自然療法を学んでいる人は誰でも知っています。

その本の著者が東城百合子さんという人で、今は90歳を過ぎているおばあちゃんです。

そして、その会社が「あなたと健康」という会社で、そこ毎月発刊している冊子の名前も「あなたと健康」です。


この本の読者の内では、略して「あな健」と呼ばれています。

私も愛読者です。

人間、身体を壊さないと、なかなかこういったものに目は行きません。

ちょっと勉強しているママさんでも、なかなか「自然療法」や「あな健」を読んでも実践しません。

例えば、アトピーなどの皮膚炎にはセイタカアワダチソウのお風呂が抜群に効果がある、とか。

そして、そういった「お手当」などが大事ではなく、「病気や家庭内の問題など、根本に自分の今までの生き方が表れている」という勉強をしていくことが、一番大事で、病気を治すことが目的ではなく、枝葉として出てきた病気の根っこにある「自分の生き方、性根」がいかに自然から離れていたかに気づき、自然に沿った生き方に戻ろうよ、という事を言い続けてきたのが東城百合子さんです。

もともとは自分が肺炎で死にそうになった時に、当時の栄養学で肉や卵など栄養を沢山摂取して治そうとしたら、余計苦しくなり死にそうになった際に、当時まだいた東洋医学の医者から「何をやっているんだ!」と叱られ、玄米や粗食など、もともとあった日本の伝統的な療法で完治し、それから、病気やけがで悩む人がいたら、飛んで行って手当てをし、という事から始まった方です。

その東城百合子さんの「あな健」の今月号に載っていた言葉

 「食を制するようになったら人生を制することができます」

には痺れました

私の敬愛する「サティシュ・クマール」というガンジーの孫弟子みたいな人が、環境問題など世の中の問題に気づき、何から始めようかと最初は戸惑うようになったら、「まずは自分の食卓を見ることです。自分の食べ物がどこから来たのか、それはどうやって運ばれてきたのか、どういった人たちがどう作っているのか、それを見れば世界の問題と繋がります」と言っていました。

また、高柳さんは「食は命」を標榜し、有機農業を続けてきました。

私で言えば、玄米を美味しい、と感じるようになるには数年かかりました。いわゆる食性が変わるまでには、ちょっと時間がかかるのです。

そういう意味で、甘いものや肉やら「美味しい」を第一にしている食べ物が溢れているけど、それをガツガツ食べるのではなく、自分の欲をコントロール出来て自制出来ようになり、我慢強く頑張れば、食性も変わり、ひいては自分をコントロールする力もつく、という意味なんだろうな、凄いな~、と思ったのです。

そうしたら、そういった軽い話ではなく、やはりいつも東城百合子さんが訴えている昔ながらの日本人の価値観、「命の根源」の話に繋がっていました。


「他の命を犠牲にして、その命を頂く。感謝を忘れてはいけない。その命を育てたおてんと様に感謝する心。その命を大切に思う気持ちが沸いてきたら、食べ物を粗末には出来なくなり、沢山食べ過ぎる事は、動植物の命を粗末にすることになる」こういった考え方までいきつけば、人生を制することになる、と。

つまり、箸の持ち方一つとっても、それは「命を食べるものとしての礼儀」であり、人間が生きていくためには他の動植物を殺してその命を頂かなくてはいけない。

その命がどうやって育ったかと言うと、誰もを平等に命を分け与えてくれるお天道様のおかげであり、そのことへの感謝の念が沸いてきたら、「有難い」という気持ちになり、「頂きます」「ご馳走様」という言葉の意味も理解でき、命=食を粗末には出来なくなる、ということなんですね。


今でいえば「何を言っているの?」という若い方も多いでしょうが、うちの親父は昭和1桁だったから、似たようなもので、「箸の持ち方がなっていない!」とゲンコツでぶん殴られていました

うちの奥様の場合は、おばあちゃんが「ご飯粒を残すと目がつぶれるよ」と小さい頃、教えてくれたそうです。

東城百合子さんのように上手に解説はしなかったにしろ、今の団塊世代の上の世代ぐらいまでは、普通に「食べ物を大切にしなさい」という子供たちに食卓で教えてきたわけです。

「いのちのスープ」の辰巳良子さんも、求道者ぐらい凄い人ですが、同じですよね。

そういった事を学べば、人間としても命に対する価値観をもった人間に育ち、箸の持ち方、ご飯の食べ方、命にたいして「頂きます」「ご馳走様」等いことを心から言える人間になる、そういう人間は人生をも制することが出来る、といった話につながるのでしょうね。


それが今や「食べ物=栄養素」という事になって、テレビがそれをやたら煽る。

「こんなの見て踊らされる人が多いのだから、アホな話やな~」と思いますが、それを見る人が大勢いるから、そういったテレビが流行るわけです。

そんでもって、「大豆のイソフラボンを摂取できる酵素を日本人の8割ぐらいはもっていない」という事がようやくわかったり。

「じゃあ、今までのイソフラボン信仰は何だったのよ」という事で、豆乳を飲まなくなる方もいるでしょうが、そういう話ではなく、栄養素として考えても大豆たんぱくは肉や牛乳よりよっぽど日本人にあっていて、東城百合子さん的にいえば「種には命が丸ごと詰まっている」ということになるわけだから、昔ながらの日本食を食べる事には意味はもちろんあるのです。

結局、昔の人の一般的な価値観として「ご飯1粒残してはいけない、命を大切にしなくてはいけない」、という躾があって、それを芯にもった人が、箸の持ち方から人に対する礼儀、命に対する礼儀といった品格を持った人物になったんでしょうね。

テレビでは、トマトやヨーグルトを食えば健康になれる、といった話ばっかりですが、「食を制する人間になりなさい」と言う人物を出演させる番組はないものですかね?
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秋の収獲♪

2018年09月26日 | 農的体験・生活
秋分の日を迎え、いよいよ秋が深まってきた感じがします

夏が終わると嬉しいのが、暑さが収まる、というだけでなく、草が伸びなくなる、ということです

そりゃ、あなた、畑をやってみればわかるのです。

夏は暑さの中で、なりものは毎日収獲をするわけですし、それだけで汗だくなのに、何より草が伸び放題

生命力あふれる夏は、草をいかに退治するかで必死なわけです


そして、夏の暑さが残る9月上旬までには秋冬野菜の種まきをしなくてはいけません。

夏野菜を急いで片付けたり、元肥えをやったりして畑を作り、小松菜、ホウレン草、春菊、大根の種を蒔き、ニンニク、ラッキョウを植える、というのが私の定番です。

カブ、白菜、キャベツなどは昔はやっていましたが、今は手間を考えて止めています。


これらが終わると、あとは10月末ぐらいまでにスナップエンドウと空豆を蒔いたら終わりなわけです。


そして、ほっとして、今は夏野菜の残りのオクラ、空心菜、ゴーヤを採って暮らしています。
ゴーヤは今の時期はチャンプルーではなく、佃煮風にして食べています。

そして8月下旬には虫食いでどうにもならなかった空心菜は、秋の雨で虫がやられ、新芽も出てきて、水が好きなこともあるのでしょう、復活しています

空心菜はニンニクを入れて油炒めにするのが定番ですが、今の時期はツナ入りのお浸しが定番です。
貴重な葉野菜なんですよ。


そして、種蒔きした中で生育が早い小松菜は、間引きといって、混んでいるところを抜いたり切ったりして、1本が成長できるスペースを与えてあげる作業があります。

その間引き菜を1時間ぐらいかき集めると、ボール5杯以上のベビーリーフになり、「買ったら、これ2000円ぐらいするわな」という量をひたすら食っています。

ベビーリーフは子供もたっくさん食べますからね

無料でこういったものを沢山食えたりするのも、家庭菜園の良い所です


こちらはさつま芋。8月下旬からやたら獣が出て食われています
夏は暑くて食い物が無かったのかな~?
こんなに食われたのは初めてです。


で、9月下旬になってきたので、試し堀したら、なんと良い出来
去年は虫食いでガリガリだったのですが、こんなにきれいなのも久々です


そして、これまた上出来なのが生落花生
ここ7~8年ぐらいで、急速に広まってきたのが、ジャンボ落花生の「おおまさり」という品種で、普通の落花生の5倍ぐらいはあるんじゃないでしょうか?
それを実が入って固くなる前に早採りし、塩ゆでして食べるのです。


1カ所でこんなに採れるとは
2週間前ぐらいにマルチが張っていないところを試し堀してみたら、まったくの不作でした。
ところがマルチを張ったところを今回掘ったら、これほどの事は無かったぐらいの大豊作


ボール山盛り採れました


生落花生も買ったらそこそこの値段ですが、作れば種代と手間の問題だけです。

秋の味覚、美味しく頂きました
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ゲテモノ食い!?

2018年09月25日 | 素敵な家族・子供との時間
先週末のお話。

子ども達が地元のプレパークのイベントで、大学生とサイクリングに行ったそうな。

私は仕事で不在でしたが、土産話にびっくり

イナゴを炒って食っただけでなく、捕まえたミドリガメ(特定外来生物)の甲羅を外して焼いて食って、ヘビのアオダイショウやカナヘビもさばいて焼いて食ったとか

マジと聞いたけど、本当だった

大学生の1人が、「昔、ヘビをさばいて食ったな~」という発言から、男の子たちが「俺も食いたい」となったらしい。

男子同士集まると悪ノリするし、競争心やDNAに潜んでいる狩人の血が燃えるのでしょう。

私のゲテモノ食いと言えば、アフリカに行った時に「もてなし料理」として出された芋虫を食ったぐらいだな~

砂漠の中で暮らしている民族で、芋虫は貴重なタンパク質とのことでした。

あの時は、日本人みんながひいたわけで、誰かが食べないと埒が明かないのと、後から食うよりは下手に考える前に食っちゃった方が良い、という判断で、私が先陣を切って食べたのです。

あれも、「周りに人がいた」というのが要因で、1人じゃとても食べれんかったわけです。

だって、私はイナゴの佃煮なんて「よー、食えん」と言って、日本じゃ食わなかったもの

だって、足があるんですよ、虫ですよ。


まあ、そんな感じだけど、男子が集まって悪ノリになったら、そりゃ食っちゃうでしょうね~。


小さな内に虫やカエルを「おもちゃ」として遊ぶ、それは幼児性の残虐性というか、怖いもの知らずというか、良くあることです。

それを叱るというのも必要かもしれませんが、ある程度そういった事をしないと、後で「命あるものを始末した」という感覚が生まれてこないと思います。

カマキリを捕まえてきてバッタをエサとしてあげるなど、良く考えれば凄いことです。

私も小さい頃、良くやってましたが、ある時、ふと何だか怖くなって、それから数年は虫を触りたくなくなってしまいました。

それも経験したからだと思ってます。


子ども達がカナヘビや亀をさばいて食った事も、大学生がいたからでしょうが、そんなこと良くやったな~と思う一方で、お父さんとしては良い経験を積んだな~と思うのです。

まあ、それにしても良く食ったな
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9月の「食と命の教室」

2018年09月22日 | 農的体験・生活
土曜日は「食と命の教室」

7,8月は毎年暑いので参加者が少人数となりますが、今月はまたほぼ満席と、賑やかに開催しました

実は9月というのは端境期といって、夏野菜が終わり秋冬野菜がまだ出揃わない間の時期で、収穫物があまり無い時期なのです。

また、秋冬野菜というのは大体9月頭までに種を蒔き終えるので、そういった作業も無く、稲刈り後のお米の袋詰めまでの工程や機械の見学、栗拾い、柿もぎ、残った夏野菜の収獲、プチ稲刈りと、色々なことを沢山やりました。


まずは今月も新しく参加された方が2人いたので、自己紹介。

病気になって海外のおばあちゃんのところで療養していた方、自営業で農ある生活に関心を持つ方で、また昨年参加のメンバーも含め、まあ、誰1人とって理由なくここに来る人はいないな~と思います。

まずは高柳さんのお話。

今回、高柳さんのお話はキレキレで、「昔のお米作り」がテーマだったのですが、もっと大きな地球の歴史の中で穀物が手に入るまで、穀物が入ってから人間はどう生きてきたか、そして農家が戦後は作れ作れと言われ続けたのが70年代以降、今度は作るな、と言われ、最近では耕作放棄地に税金をかけるなど、政策に振り回されてきた農家の立場で、食べ物は命を守る業であること、その理解がドイツやフランスと日本ではまったく違うことなど、沢山のお話をして頂きました。

さて、その後、まずはお米がどう袋詰めされるかの工程を機械見学を交えながらの見学です。

お米は今は「コンバイン」という、刈り取り&脱穀を一気にやってしまうスーパーマシーンでやるのですが、新しいのは1000万を超える代物です。

それで脱穀、つまり籾の状態にしてきたものを持ってきて、まずは乾燥させます。
背丈よりもずっと高い機械が乾燥機で、ここに一杯に詰めて乾燥させます。
田んぼでは20%ぐらいの水分のお米を15%以下に下げることで、貯蔵にあったものにします。
乾燥機が空かないと、次の稲刈りをしてもダメになってしまうので、乾燥させたらまた次の稲刈り、と順番に作業をします。


乾燥した籾は、今度は籾すり機で籾をとり玄米の状態にします。
また、ちょっとした小石なども入っていることがあるので、石抜きを通し、また網の目を通して小さいゴミや実が入っていない米粒はふるいにかけます。



「親父が子供の頃は、機械なんてなかったから、臼と杵を使って籾すりをするのが学校から帰ってきたらやらねばいけない仕事だったそうだよ。嫌で嫌で仕方なかったって言っていたけど、そうしないとご飯が食べれないから仕方なかったんだな」

稲刈りや乾燥も昔は手作業。機械があることで手間は省けましたが、その分、投資も高くなり、どっちが良いとは言えないんですけどね。

そして、袋詰めする際に、白米なら精米し、玄米ならそのままで、色彩選別機を通します。
お米の色が変なもの、つまり籾が残っていたり、虫食いで黒くなっていたり、実が入っていない緑っぽいのだったりを、1粒1粒空気鉄砲で弾いてしまうというのだから、日本の技術は凄いですよね。

これも高柳さんは「昔は食べる人が米を研ぐときに自分で1粒1粒とっていたんだよ。だけど、それじゃ困る、というからこういった機械を使っているんだ。まあ100%じゃないけど、弾いてくれるから、凄いよね」



そんなお米の機械が入っている屋根下には、稲ワラが吊るしてありました。
丈が普通のものより長いな~、と思っていたら、「これは、締め縄用の米だよ。娘が作っているんだ。食ったらまずいぞ、食えたもんじゃない」とのこと。

締め縄用にあった品種を使っているんですね~


さて、一通り見学が終わったら、ちょうどお昼ご飯
いつも通り、美味しいご飯をお母さんと娘さんが作ってくれました
料理は相変らず全部美味しいのですが、今回、なんとお孫さんがおにぎりを全部(40個ぐらい)を握ってくれたそうです
親子3代が一緒に台所に立つなんて素敵ですね
かつ、中3のお孫さん、上手に握っていましたよ~
今時、きちんとお握り出来る女の子なんていないですから、お嫁さんにもらいたいぐらいです


さて、午後は特にコレという作業が無いので、みんなで「余りもの」を頂きに畑に出ました。

まずは、空心菜やシソ、オクラ、モロヘイヤといった夏野菜の残り物を好きなだけ収獲
モロヘイヤはハウスの中だったのですが、ちょうど日が照ってきてちょっと暑かったです


また、高柳さんは柿が大好きで、あちこちで柿が美味しそうに熟れていました
柿もぎさせて頂きました



また、栗の木もあり、栗が落ちていたので、栗拾い。秋ですね~



一通り収獲で汗を流し、心もお土産も満たされた後、教室に戻って、今日の振り返りはお話の時間。

季節遅れですが、冷蔵庫でとっていったスイカを食べながら、みんなで感想を言い合ったり、と時間を過ごしました。


初めての方は「初めてなのにこんなに仲良くなれて、自分が素直に何でもしゃべれるなんてびっくりしました」と驚いていました。

この教室の雰囲気や良い所が、そうなんですね。

普通の生活で、食べ物のこと、世の中の事、生き方の事、病気の事、人生の葛藤、地球環境のために何をしたらよいか、といったことを素直に普通にしゃべれる場なんて無いですものね。

それを、普通にしゃべってしまえる場。

私が「寺子屋」を目指している所以というか、そういった場に出来ているのが、この教室の良い所なんです


また、生殖医療をされている方は「高柳さんの『俺らは今の人達のように何がやりたいかという考えで生きてこなかった。それより何をすべきなのかという役割を考えて生きてきた』という話に覚悟が決まりました」と決意を新たにしていました。

参加者の中には「何からすればいいかまだ見えないですが、見つけていきたいと思います」という事や、「自分が何をしたいかまだわからないのですが」という発言があります。

私も若い頃はそうでしたが、いわゆる自分探しみたいなものですね。

それに対して、高柳さんが「やりたいことをやる、というのは昔の人達にはなかった。その前に、何をすべきか、ということがあって、すべきことの中で、出来る範囲で好きなことをやっていく、という順序だった」というもの。

これは良くわかります。

私が農村に足を踏み入れ、大きな気づきを得たのが「生きることは生活すること」ということ。

それが今の私に続いています。

自分で出来ることをきちんとすること。

食べ物を出来るだけ作り、収穫し、料理をし、子どもと語り、掃除をし、洗濯をし、といった1つ1つをきちんとやっていけば、それは生き方そのものです。

東城百合子さんの言葉で「性根がきちんと定まっていない人は、あっちへフラフラ、こっちへフラフラする」と言います。

また、「何か突発的にやることはそれでおしまい。でも、生活は積み上がる」と言います。

全くその通りだと思います。

そして、全ての中心は家であり、家事をきちんとできる母がいる家は強い。

1つ1つの生活をきちんとしていると、それが神事につながる、というのは、日本の神道の伝統・思想ですが、それが皇室の神事だけでなく、一般家庭でもつきつめていけば、神事になる、それが子供にも伝わっていく、というのは、事実だと思います。

昔は良くも悪くも縛りがあって、その縛りの中で生きていくからこそ、性根は定まっている人が多かった。

私も「成田で生き、成田で死ぬ」と決めてから、性根が定まって生きていけています。

話は元に戻しますが、、教室の後に高柳さんと10時前まで、3時間以上の久々の1対1の時間を過ごしました。

最近の高柳さんは、とても疲れていて、「俺は何をしてきたんだろう」と落ち込むことが多いと言います。
「余命」も今まで以上に気にするようになって、今までの生き方の反省と「最後に遺すべきこと」を意識するようになっている感じです。

話している内容が数年前とも変わってきています。「食と命の教室」と言うけど、「人はどう生きるべきか」というメッセージの教室に変わってきているな~、と。

私の目標で「本を出す」と言うのがあります。本書きとしてゆくゆくは生きていこうと決めています。

高柳さんも、昔は「本なんていらない」と言っていましたが、今回「高柳さんの本を出すことは、意味がある」と伝えました。

寺田本家の先代も、「発酵動」という本を出したことで、死後も多くの人を導いています。

本にはそういう「伝播していく」という力があります、と。

どうなるかわかりませんが、冬に「有機の里」という団体を立ち上げなおしたい、ともおっしゃっています。

私も力添え出来るようにありたいですね。


あ、あと、次回の「食と命の教室」は、糀作りですよ
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本:絵本の力、昔話と日本人の心

2018年09月17日 | 素敵な本
河合隼雄さんシリーズで、2つの本を読みました。

1つは、「絵本の力」。

臨床心理学者だった河合隼雄さん、児童文学家で福音館書店で「こどものとも」など数多くの絵本を作った編集者の松居直氏、民俗学の柳田邦男さんの3人のお話をまとめた本です。

河合隼雄さんのシリーズとして読んだものの、河合隼雄さんの話は「音と絵本」という題で、私にはあまりピンときませんでしたが、松居さんと柳田さんのお話が面白かった


「絵本」や「昔はなし」など、何が子供に良いか、というのは人によって様々かと思いますが、最近では大人に絵本を読んであげること自体が意味がある、なんて話もありますよね。

そんな中で、まず、「こどものとも」を立ち上げた松居さんの話は「絵本は読むものではなく、読んで聞かせてあげるものとして作った」という話が面白かったです。

要するに、子供が1人で黙読するのは絵本ではない、という思想なんですね。

大人が子供のために、音読して、声に出して読んであげる、というのを編集の一番の方針にして絵本を作ってきたそうなんです。

なるほど~。

絵本の文字や絵は、そのまま子供にストレートに入ると言います。

大人は「解釈」をしますが、子供は書いてある文字のまま、描いてある絵のまま、ストレートに受ける。

だから、その世界が少しでも説明的になったり、違うものが入ると、すぐその世界から離れてしまうそうです。

だから、どういった世界にするか、訳本にしろ、日本の本にしろ、文字と絵、全体にどういった世界を作るかを考え、一度、すべてバラバラにして、組み立て直し、訳者と絵描きを選び、違うと思ったら指摘し修正してもらい、と、まあ凄い編集者だったというのがわかります。

そして、昔は本は縦文字が当たり前だったが、外国の絵本をやろうと思うと、どうしても横長になり、そこに縦文字は入らず、日本で初めて横文字を絵本に導入した人だそうです。

最初は相当批判があったそうです

しかし、だんだん認知され認められ、今は、日本の絵本は日本のアニメと同じように海外で広く高評価を受けているそうです。

そんな松居さんが、「本は読んで聞かせるもの」という事を徹底していたんですね。


絵や文字などから伝わってくるものがあるにしろ、あくまで親などの読み手の読み方、音、理解が入って、子供は「あ~、そうなんだ」その読み手の世界にのめり込んでいく。

本の世界と一緒に読み手の世界を一緒に共有する。

大人が聞かせてくれた世界にどっぷり浸かることで、その大人、まあ親御さんは保育士さんなどと世界を共有した体験が残り、繋がり感や安心感などを持つ。

そういった深い経験、体験に意味があるからこそ、「絵本は読むもの」という考えがあって作っているそうです。

海外に行くと、「日本は戦後、よくこの短期間で見事な絵本を作れるようになりましたね」と聞かれる事があるので、「いや、1200年代から日本は絵巻があって、歴史が長いんです」と言うと、驚かれるそうです。

松居さんのベースは昔の絵巻物だそうです。

そして日本人は、昔から絵巻物文化、絵と文字が一緒になっているものをずっと読んできた、作ってきた。

松居さんも小さい頃から絵巻物を沢山見て育ったそうです。

凄い方が黎明期に絵本作りをしてくれて、日本の絵本が開花していったんですね~。


そしてもう1人、民族学者の柳田邦男さん。

自分が幼少の頃に読んでっきりだった絵本。
しかし。息子さんが25歳で自殺してしまった年、何も手につかず抜け殻のようになって生きていた時に、たまたま出会った絵本に救われたそうです。

「絵本には人生のすべてが詰まっている」と。

中には、「お話」を通して、命あるものは死んでいく、といったことを扱う絵本もあり、大人でもどう伝えていいかわからないことを、お話の中で、絵本の中で伝えられることもある、という話もありました。


例えば、病院のお医者さんで、小さな弟が死んでいくことがわからないこれまた小さなお兄ちゃん、お姉ちゃんに、絵本を読み聞かせてあげた、というエピソードも書いてありました。

同じ絵本でも読み手によって、あるいは聞き手によって、どう伝わるかは千差万別。ただ、そこに絵本の力がある、と。

そして、幼少期、人生の重大時期に続き、人生で絵本を読んだらいいとおもう3番目の時期が晩年期とも柳田さんは言っています。

年をとり、自分の人生を振り返り、残された人生をどう生きていくかを考えていこうとする時、絵本にはそれを指し示す力がある、と。


老人ホームなどでも読み聞かせをもっとやって、大人向けにも絵本を読んであげたらいい、というのは、私も同感です


さて、もう1つの本は河合隼雄さん著の「昔話と日本人の心」。

ちょいと難しい本ですが、西欧の物語と日本の物語が根本が違っていて、そこから文化論に繋がっています。



例えば、西欧の物語は、大体が悪者がいてそれをやっつけて、王家と結婚してハッピーエンド、というのが多い。

それはキリスト教文化からある、白黒つける絶対主義、物事を明確にしていく、というものがあるのではないか、と。

ロシアの文学者が子供に「浦島太郎」を読んだら、その子が「で、この後はどうなるの?」と聞いたそうです。
つまり、その子からしてみれば、この後、ドラゴンが出てきてそれをやっつけて、それでハッピーエンドにならないで物語が終わる、というのが理解できなかったそうなんですね。

なるほど、という感じです。

河合さんの分析では、例えば、「うぐいすの里」でも「鶴の恩返し」でも、「開かずの扉」があって、その禁を破って開けてしまうと、女性がうぐいすや鶴になって飛んでしまっていって、すべてが無に還る、という話で、「そして何も起こらなかった=Nothing has happened」状態に戻る、というところが、日本人の「もののあわれ」という感覚に通じる、となっています。

これが西欧人からすると、「何も起こらない?えっ、続きは?」となるそうです。

西欧は「絶対主義」で、何かしらの「結末」が必要で、大体が「ハッピーエンド」になる。


あと、日本の昔話は大体が女性の中心の話で、女性の色々な姿、本性が現れるという書き方も。
それは天照大御神のように、男性社会といっても実はそのベースには母神というか、女性の力が語られている、みたいなことも。

例えば、「飯を食わぬ女房」では、飯を食わない女房が嫁いできたけど、覗いてはいけない姿を覗いたら、頭の後ろに口があって、そこにご飯をこっそり詰め込んでいた山姥だった、と。

あるいは、「炭焼き長者」であれば、最初、金持ちの炭焼き長者に嫁いだが、大した人間でなく、そこの神様も「ここは良くない。炭焼きの〇〇どんのところに行こう」という立ち話を聞いて、女性は離婚し、貧乏の炭焼きの所に行く。

その炭焼きの家に落ちている小石が小判であることを炭焼きは知らず、それを教えてあげて、炭焼き長者になった、という話。

これは、積極的で行動的な女性であり、男性の気づいていない能力や力を引き出してあげる力がある、など。

鶴なりウグイスなり、浦島太郎の乙姫さまなり、山姥なり、どれも「女性の本性」を書いていて、ある時はいじわるで、ある時は山姥で、ある時は男性を成功させる力となり、ある時は立ち去ってしまう。

そういった見方で昔話を見ると、なるほどな~、と思います。

と同時に、そういった事を昔はテレビや絵本もなかったので、寝床で沢山聞かされて育ったのが日本人なんだろうな~、と。


西欧の文化がそうであるからこそ、西欧の昔話は、悪者がやってきて、それを努力してやっつけて、最後は王家と結婚してハッピーエンド、という昔話が多い西欧と、また違う文化、そして違う価値観をもって幼少の頃育つわけですから、そりゃ、考え方、生き方も違いますよね~。

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今年の稲刈りも無事終了!

2018年09月13日 | 農的体験・生活
久々のブログ投稿です。

この前の(土)(日)と今年の稲刈り&天日干しが無事終了しました

その後、月曜日はヘロヘロな体を休息に当てましたが、今はちょうど秋冬野菜の種まき時期。
1日種を蒔くのが遅れると、収穫が1週間遅れる、という時期なんですね。

なので、疲れた体にムチを打って、火曜日からは畑の整理をし、大根やホウレン草、小松菜、春菊の種を蒔き、また放課後子ども教室関係や、普段の仕事もしながら頑張っていたので、ブログを書く余裕が無かったのです

今日は先ほど、放課後子ども教室が終わったので、時間ができたので、この(土)(日)のことを今更ですが書きます


稲刈りは実は他の月に比べて、ひたすら稲刈りをし続けるので、プログラムは1つで、進行はシンプルなのです。

しかし、前日の(金)の準備から(土)(日)の3日間、朝から晩までまで働き通しで、体がひじょーにつらいのです

今年は南風が強く、イベント中に倒れたオダを直したり、(日)は100人超を1人で相手にしながら運営して、しかも気温は33℃ぐらいまでいって、ほんとにまあ、体力の限界突破でぶっ倒れそうになりました

しかし、み~んな、青空の下、一生懸命楽しく稲刈りを満喫頂きましたよ


稲刈りは、刈ること自体は楽しいのです。

しかし、それを結び、オダという場所にかけて干す、という流れがありまして、特に結ぶのに時間がかかるのです。

中には「ちょっと愚痴を聞いてもらっていいですか?」と、ひたすらパパさんと子供は刈るだけ刈って、朝から午後もずっと結び役をしているお母さんもいました

家族の役割分担も大事ですよね~。


ちなみに、今回は人数も初の100人超ということもあり、普通のオダだけではなく、棒を1本立ててそこに稲を挟んでいく方式も取り入れたら、各家族で「高く積むぞ」と燃え上がったようで、普通のオダがけの方はあまり人気が無いほどでした。



以下は、お客さんが撮ってくれた写真です。

田んぼに向かう道の風景。こういった風景を撮ってくれること自体、この風景が非日常なんでしょうね~。
こう見ると、素敵な風景です


みんなの稲刈り風景です。


もともと乳幼児のお子様連れの教室なので、小さい子がいるお家は、親御さんがはまらない限りは、午前で帰る家族も半分近くいました。

しかし、小さなお子様でも稲刈りにはまる子はいて、「最初はぎこちなかったのが、うちの子、もう鎌を使えるようになったんです」と、家族みんなで稲刈りそのものを楽しめている親子は、昼ご飯を食べてもひたすら稲刈りをしていました。

そして、感想として、晴天の下で稲刈りを出来る喜びや、ご飯が作る工程に関われている喜び、あるいは5月に植えた苗が大きく育って実りを収穫すること自体に感動した、といったようなメールをいくつもいただきました

一昨年は台風9号で稲が倒され、参加者も少なく、参加した方も倒れた稲を起こしながらの稲刈りで、ぐちょぐちょの稲を天日干ししても、イマイチな感じでした。

そして、収量が少なかったので、イベント明けの月曜日に、私1人でひたすら朝から晩まで稲刈りをしたのを思い出します。

そう思うと、多少暑かったですが、青空の下、みんなで稲刈りを楽しめることは、本当に有難いことだな~と思うのです

今年は高温で、どこの農家さんも「米粒が小さくて揃いも悪い」と言いますが、それでも「お天道様、今年も実りを有難うございます」という気持ちにはなりますよね~。

今年も無事に収獲が出来て本当に良かったです。

お天道様ありがとう。

そして、お米さん、今年も実ってくれてありがとう
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聲(こえ)の形

2018年09月04日 | 自分の時間
「聲(こえ)の形」という映画があります。

http://koenokatachi-movie.com/

というか、最初は漫画で、それが映画になったものです。

たまたまEテレでやっていたのを録画して観たのですが、衝撃を受けました。

内容は、聴覚障害の女の子が転入してきて、その子のいじめの中心となった少年が、逆にみんなからいじめられ、心に傷を負い、自分の存在意義を否定され、中学でもその状態が続き、高校でも1人ぼっちで自殺も考えているところに、小学校時代のいじめていた女の子と再会し…となっていく物語です。

小学校時代、そして高校時代の心の中のことを、微妙で繊細な表現とう美しい映像で表されている映画でした。


実は少年マガジンで連載がチラホラされていたのを見かけたことがあったのですが、その時の印象と同じで、映画も「日常をつぶさに丁寧に描写している」ので、今の人達からみれば、どうなんだろう?と思っていました。

というのは、今の世の中、刺激が多い方が「受ける」わけでして、例えば「君の名は」は、プロデューサーが「観客を3カ所で別々に泣かせるのではなく、3つ連続で重ねることで、たくさん泣かせた方が良いですよ。その方が売れる=お金につながります」という話を監督に話していた、、というインタビューをみたことがあります。

漫画やアニメなども今の時代は、「それは絶対面白いでしょ」という状況やキャラクター設定をして、それで面白いのを作るのが普通ですよね。

そんな中、漫画で1話では大きな盛り上がりはない、映画でも半分ぐらいまでは本当に美しい映像と登場人物の仕草や心の微妙な変遷を追っていくだけの状態が続きます。

「今の人なら、途中で飽きちゃうのではないかな?」と思うほど。

しかし、後半の事件で一気にその感情や思いや行動が噴き出てきて、小学校時代から高校時代までのほつれた関係や主人公の心がほどけていく、流れで、私の中でも「名作」の部類に入る素晴らしい映像でした。


で、観終わって「凄かったな~」と思って、ちょっと調べてみたら、漫画でもかなり反響があり、映画でも賞をとっていたりして、結構すごかったんですね。

今の時代、どうなんだろう、と勝手に思っていましたが、物凄く受け入れられているようで、私の勘違いでした。

どんな作品も物語も人によって受け入れ方や反応は違うものですが、この作品が素晴らしく、それが世の中的にも素晴らしいという評価を受けていて、何だかほっとした次第です


また、小学生が見て受けるもの、高校生が見て受けるもの、大人が見て受けるものはそれぞれ違うのではないか、とも思いました。

いずれにしても、私は大変感銘を覚えました。
個人的には「君の名は」より、こっちの方が爆発的に売れてほしかった
まあ、ジャンルが全く違いますけどね。
コメント
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