今日は柳田国男さんのお話。
私は「どう生きていくべきか?」というシンプルな人生の問いから、農村に出会い、今の生き方になっていることもあり、その流れで「農村で日本人はどう生きてきたのか?」に関心があるわけです。当然、民族学が好きになるわけです。
となると、柳田国男、宮本常一などはやはり有名どころとして通るわけです。
で、この前、柳田国男の番組を見て、「へ~」と思ったことがあったので、備忘録も兼ねてつらつら書きます
1;「文明開化に対するアンチテーゼ」
民俗学の大家、というイメージでしたが、その背景には明治の文明開化があったそう。
明治になって、「昔からの古くさいものは切り捨てる」ということで、法律で妖怪や怪談の話は法律で禁止、盆踊りは禁止、といった時代で、日本人の生き方が不安定になったわけです。そういった時代に、民衆の中で長々と語り継がれてきた民話、近代化で切り捨てられた古いものにこそ価値がある、ということで民俗学が出てきたのです。へ~、知らなかった
2;「農民はなぜこんなに貧しいのか?」
貧しい家に生まれたため、既に開業医となっていた茨城の兄のところに預けられ、帝国大学に入り、農商務省に入った柳田さん。まず、新しく制定された「産業組合」という、地域の農家を集めて団体を作る仕事を任されたそうです。
ところが、上司はいわゆる富裕農を使ってどんどん作れという指示。一方で、柳田さんは貧しい農民のためにこそ産業組合を作るべきだ、と猛反発したそうです。
そこで生まれたのが「遠野物語」という流れがあったようです。今、妖怪を信じる人々の中に自助と共同の精神があったはずだ、ということ。そういった精神こそ大事だ、ということで農商務省から部署異動しても、農村を歩き続けたそうです。
その原点は、小さい頃に目にした茨城のお寺にあった徳満寺にあった飢饉の悲劇を描いた絵馬。それは、生まれたばかりの子供を抑えてつけて殺そうとしている絵。障子には角が生えた影が映っている。「子供心に農村の貧困さの恐ろしさを知った」という事だそうです。
そこから「農民はなぜに貧なりや?」という生涯の問いに繋がったそうです。その問いを考えるに当たって、過去を掘り下げてどのような経緯で今の暮らしになったのかを知る事が必要、それが経世済民に繋がる、という思いに至ったそうです。それが民俗学の原点だそうです。
柳田さんが農民のことを考えて、農民の貧しさをどう解決すべきか、を考えていたそう。知らなかった
何となく、宮沢賢治に通じますよね~
ちなみに、その後、大正デモクラシーにのっかって、普通選挙運動なども行っていた原点も、やはりここにあるそうです。
3;「今の社会科の授業のフィールドワーク」
社会という科目は戦後に出来たそうです。柳田さんは国語と社会の教科書に関わったそうで、足に社会科の授業に「郷土を調べよう」という事を入れたそうです。
郷土の産業や人口、待ちの歴史や伝承を子供達自身に学ばさせようとしたそうで、自分の町を調べるところ、つまり、地図を作ったり町の人にお話を聞くというフィールドワーク、ありますよね?あれって柳田さんが元々入れたそうなんです知らなかった
柳田さんとしては「自分のベースを深くしる事、それが力になる」という思いが、今も続いているそうです。
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