半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

忙しく過ぎる暑い日々

2018年06月29日 | 農的体験・生活
あっという間に6月も終わりです。

そして暑い

先週までは梅雨でしたから、畑では草がボーボー。

自分の畑の草、そして教室の畑の草刈り、水曜日は野菜の配達、先週土曜日は「食と命の教室」でした。

そして今週は晴れが続いて、まあ暑いこと暑いこと

畑の草をいっぱい刈り取って、太陽熱マルチを貼って、汗だくだくでプチ熱中症な日々です。

ちなみにこの暑い時期、虫もどんどこ増えていますが、例えば草を30㎝四方刈ると、その寝際からこのぐらいの幼虫が出てきます。
コガネムシの幼虫で、雑草の下にいますが、野菜の寝際にも来るので「草は刈れ」と農家さんが言うのは、そういった意味もあるのですね。



そして水曜日の農作業はハウスの中でしたから、まあ溜まりませんでした、ほんととろけるかと思いました

そして畑では外葉は虫食いでレース状になったものの、中は十分食べれるキャベツちゃんが入れ食い状態
多分、春から500~1000匹ぐらいは青虫をとったと思います
その成果ですね


あと、大根ももう食べきれず、頑張って食べています。
これはミツマタ大根、今にも走り出しそう


ポップコーンも超順調


かぼちゃも実がついてきました


こちらはらっきょう。今年は肥料が効いているのか、とっても大玉です



そんな畑を頑張って管理していますが、雨が降ると一気に伸びるので、まあ追い付かないのですが、今年は頑張ってもう少しで草が無くなりそう。
あともうひと踏ん張りです

そんな日々を送っていると、こう暑いと家に帰るともう気力がありません

それでも気力を振り絞り、とってきた赤しそを梅干し用に付け込んだり、らっきょうを漬けたり、まあ本当に自分ながらよく頑張っていると思います

そして、何とかお客さんからのメールの対応をするぐらいで、デスクワークが山積みです


そんな中で、小学校の放課後子ども教室があったり、そういえば子供の誕生日でポケモンストアーにいって、ぬいぐるみやらなにやら買い込んだりもしたな~。


あと、子供が授業参観の振替で暇な日があったので、銚子に月曜日に行ったのですが、遠い過去のようです

今回は利根川沿いではなく海側から行ったら、風車がたくさん回っていて、子ども達は大興奮でした
そういえば、3.11の翌年、「自然エネルギー千葉」という会に所属して、この辺りの風車を見学したな~。
旭市~銚子辺りには何十機も巨大な風車が回っていて、風力発電をしているんですよ~。


そして、目当ては昔誰かに連れて行ってもらった「島武」というお寿司屋さん
何年ぶりか忘れましたが、場所が移転していてお店もきれいになっていました。
そのお寿司の美味しいこと、美味しいこと
うちの子も「こんなに美味しいイワシは生まれて初めて食べたとろける~」と、銚子の「入梅いわし」を始め、たらふくお寿司を食って、回転すしとはいえ中心価格帯が324円なので、3人で7000円食べたのですが、お店のお姉さんも「凄く食べたね~」とびっくりしていました


今日は久々のオフデー。
昨日はワールドカップで午前様ですが、目覚めは良い方です。
後半で時間をつぶして0-1のまま持ち込んだ戦略は、勝負事なのだから当たり前だと思うのですが、やっぱり宇佐美ちゃんはワールドカップではなかなか結果が出せないですよね~。

今年は香川、大迫、原口、乾が当たっているのだから、次回からは是非今までのメンバーで行って欲しいと思います。

まあ、とにかく色々あったけど、決勝リーグ、進出おめでとう
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本;教師の資質

2018年06月20日 | 素敵な本
「教師の資質」という本を読みました。

この前、たまたま以前のコーチングの師匠のメルマガにお勧め本として書いてあったので読んだ『「本当の大人」になるための心理学』の著者の諸富祥彦氏の本です。

諸富さんは心理学者でありカウンセラーであり大学教授でもあり、私が関心を寄せている「夜と霧」の解説本も出していたので、それも読み、その流れで諸富さんの3冊目の本として、これまた私が関心がある教育本だったので読んでみました。


とても勉強になりました。

3冊読んで、1冊目はちょっと小難しかく、また本の構成もあまりスッと入るものではなかったのですが、2冊目の「夜と霧」の本で、「あぁ、この人の根本にあるのはフランクルさんの哲学、どんな人間もどんな人生にも価値がある、ということなんだ」という信念がわかり、がぜん、個人的に関心を持つようになりました。

そして、この3冊目はとても素直な文章で、より「あぁ、諸富さんって、ファンがすごく多いんだろうな」という気付きを得ました。
根底に流れるのがやはり「人間信頼」であり、パッションがある。

そして、もう20年近く「悩める教師を支える会」の代表として、教師を支える活動をしてきたそうです。
教師のカウンセリング、学校カウンセリング、など、色々やってきています。

そして、長年の研究、経験から書いてあることは「なるほどな~」というものです。

「教室の資質」というタイトルの横に「できる教師とダメ教師は何が違うのか?」という副題がありますが、これはおそらく編集者の意図で売るために刺激的な言葉を使わされているだけで、諸富さんの言葉ではないでしょう。

前文もしかり。

そんなことを伝えたいのではなく、「心から教師の事を応援したい、教育環境を何とかしたい」、という気持ちがビンビン伝わってくる本です。


まず、私の世代=団塊ジュニア世代は、教師になりたくても「枠が無い」時代でした。

1993年に就職した世代ですが、私の友達の奥さんは、29歳まで「講師」のままでした。

つまり、教師になりたくても「教員枠」が無いので、上の「団塊世代」がつっかえていたわけですね。

ところが、今は「教師不足の時代」だそうです。


そういえば、私の知っている話では、ある学校の先生が不祥事を起こしたけど他圏にとばされただけで済んだ、とうい話を聞きました。
本当は謹慎とか、半年の研修、といったものが必要なのでしょうが、「教員不足なので」というのが理由で、とばされただけだったそうです。

そして、今は中堅が少なく、昔の価値観のままでいるベテランと若手教師が中心で、一番多いのは経験が浅い若手教師ばかりだそうです。

確かに我が子の昨年の担任は、「講師」という肩書で、「えっ、講師って担任が持てるんだ?」とびっくりしました。
ただ、若い先生だろうと、担任になったのだから先生のことを信じていよう、という親のあるべき態度でおりましたら、見事な先生で、若いからこそ情熱にあふれていて、最後は涙涙のお手紙を子ども1人1人にくれるほどで、「本当に良い先生だったな~」と転出されたのが惜しいほどでした。

こういった若手の教師の情熱を削らず、応援していく親でありたいものです。


諸富さんの話では、学科指導も学級経営もすべて出来るスーパー先生は10%だそうです。
そして基本的な問題がない先生は20%。

あとは子供には好かれるが学科指導が出来なかったり、学科指導は出来るが押さえつけている先生など、いろいろあるそうで、それが普通だそうです。

そりゃそうですよね、どこの企業も同じような感じですから、学校が特別なわけではないのは当然です。

ただ、「時代が変わってきて、教師の資質が大きく変わってきた」ということを強く訴えています。


まず、今は親に「先生になるのは止めなさい。なら役所に入りなさい」と言われる学生が多いそうです。
それほど「先生にはなるものじゃない」という風潮がすごいそうです。

実際、教師のうつ病は一般企業の2,5倍

それは親が追い込み、児童が追い込み、最後は上司が追い込むという流れがあるそうです。


90年代半ば頃までは特別支援学級というものがそうは無く、例えば多動の子などがいて、突然、授業中に教室を飛び出てしまう子供をおいかけ、残りの子供達に「自習していなさい」といっておき、自分は出て行った子を連れ戻し、ということをやっていて、そういうことがあっても、全生徒を落ち着かせ、学科を教えたりイベントを運営していく手腕をもった学級経営を出来ていないと「先生の力不足」とみなされてしまったそうです。

それが親の耳に入り、親からクレームが来る。
それを相談すると、中間管理職から「それは君の教師としての力不足だろう」と詰められ、精神がバーンアウトしてしまう。

諸富さんいわく、「そんなことが出来るスーパー先生は本当に1握りだけ」というのもわかります。


大きな時代の流れでは、70年代半ばまでは「頑張ることが大事」という風潮があった時代で、先生も学科を教えていればよかった時代。
ところが、70年代半ば以降は、「自己実現、快楽主義」という時代に入り、「個人の大学入学や大企業に入るために、勉強が必要で、そのための頑張りは大事」という時代で、児童も親も変わり、学級の事件や不祥事をマスコミが公にするようになり、だんだん「学級経営や先生の指導にクレームをつけて良い時代」に入っていったそうです。

さらに、90年代からは「真面目に頑張ることへの価値が落ち、すべてが相対的な時代」に入ったそうです。
だから、「良い点をとるため」とか「頑張ることに価値がある」ではなく、あの先生は前の先生と違う、先生の教え方が悪いからうちの子は伸びない、といったような感じで、親のクレームの種類や質も変わっていったそうです。

教師の仕事は学科を教えるだけでなく、学級経営、親への対応、書類も昔の3倍といったような仕事になり、東京のある教頭先生は、平均退校時間が22時。学校の書類などの残務を家でやるのは「情報漏洩になる」ということで、データを持ち帰ることが出来ず、そんなことが当たり前になって、教頭先生のなり手がいないそうです。

逆に教頭先生、副校長からの「降格志望」が後を絶たないそうです。


親の資質、子供の資質の変化、そして、最後のとどめが「職員同士の連携、上司の理解」の不足だそうです。

実際に、一般企業では「何かあったら相談出来る同僚や上司がいる」というのが6割以上なのですが、学校では2~3割。6割以上の先生が「同じ職場に相談をしてもらえる同僚や上司がいない」そうです。

これってすごいことですよね

会社であれば例えば同期がいるわけだし、愚痴も言えるわけです。
あるいは部長の文句を一緒に言える主任などもいるのが多いわけです。

しかし、先生は話を聞いてもらえるのは家族が一番。
それが原因で家族も大変になる事も多いそうです。

たまたまウマが合う同僚、学年主任などと巡り合えば良い職場ですが、そうじゃなければ、例えば発言力のある若手主任のグループからは外れてしまったら、もう孤独になるしかありません。

諸富さんが書いているのは、「君がうつになったのは、まじめに教師として本気でやってきた証拠じゃないか」と前向きにとらえてくれるのであれば、まだ救いはあると言います。
ところが「それは君の問題だろ」と、上司として部下をかばわない人が実際に多いそうです。

そうすれば「追いつめられる」のもわかります。

精神疾患で求職した後、復職する率も、一般企業より圧倒的に少ない。
半分以上は復職しないそうです。

親の問題、先生の問題、そして最後は先生間同士の問題。

ただ、「職員室が一丸になり、先生方の連携がとれれば、これほど凄いことはない」とも書いてあります。



私のことで言うと、幼稚園から小学校に子供が上がる時に「こんなに違うんだ」とびっくりし、幼稚園と小学1年生のギャップがあまりにも大きすぎる今の小学校の仕組みに疑問をもったこともありました。

ただ、親が教師を信頼しないと子供が親を信頼しない、それは結局子どものためにならない、という事を思い、基本的には親は先生を信頼しなくてはいけない、という方針できました。

うちの学校は素晴らしい。
うちの担任は素晴らしい。

という「前提」で接することで、「先生も人間だ」という事が見えてきますし、「学校の良い所」が沢山わかってきます。

すると、例えば「大変な時期にあの先生は毎朝5時に学校に来ている」という情報が伝わってきます。
あるいは「若手は朝6時には毎日学校に来ている」という事が耳に入ってきます。

そういった事を知ることで、「そこまでして頑張ってくれているなんて」とびっくりすると同時に、先生をサポートしたい、あるいはこういった制度になっている仕組みや、そういった仕組みにしてしまった一般の我々の親の問題が大きい、ひいてはやっぱり社会の有り様がおかしい、というところに行きつくわけです。

そして「子育ては親、先生、地域でするもの」という昔ながらの当たり前の話で、地域と親が資質が落ちてきている中で、奮闘している先生が「むしろ凄い」という思いが沸いてきます。

確かにダメな先生もいると思います。
私の知り合いは、大変な先生に当たってしまい、本当に可哀そうなことになってしまいました。

でも、「ほとんどの先生は情熱にあふれている」、と諸富さんは書いています。

ちょっと不可思議な先生であっても、学科指導が出来て学級経営も普通にできていれば、あとは人間として子供が好いているだけでも、「あぁ、この先生で良かった」と私は思うようになりました。

「あそこの学校の●学年は崩壊した」とかモンスターペアレントの話とかを聞くと、いかにうちの学校が素晴らしいか、そして大きな問題が聞こえてこないこと自体、「うちの子はよいクラスに当たった~」と思うのです。


そして、ふと気づくと、団塊ジュニアの私達世代の子供の担任の先生は、実は「年下」が多いのです。

確かに人員不足、なり手がいない、というのが教師の現状であり、自分より若い先生が担任になっているのが現状だということを考えると、これからの時代、先生をいかに応援し成長していく過程で手助けになれるかが、年上の親の役割でもあると思います。

例えば「先生、いつも有難うございます」という事を、当たり前に言える親でありたいものです。

そういえば、以前、私が小学校の担任だった先生が、うちの子が入学したときに教頭先生として赴任してきました。
「いや~、学校のおかげで子ども達が育っています。有難いです」と言ったら「君は良い親だな。そういった事を言ってくれる人は今は少ないんだよ」という言葉が返ってきました。

学校のおかげで子供が育っている。

当たり前のことです。

学校があるからこそ「公の心」とか「集団で頑張ること」とか「協調性、人間関係」などが学べるわけで、親だけでは無理な話です。

海外に比べて規律重視で組織で動くことを叩き込まれる、という負の部分もあるかもしれませんが、学校が無ければ、今の子供達は裸の王様のようなまま大人になってしまう子が多いでしょう。

それほど私達親の資質が落ちていますからね~(と、自分の子供への甘さを反省


話は大きくそれましたが、学校の現状、先生達の仕事のことを知るにはとても参考になる本です。

アマゾンのレビューでも、多くの現役教師が☆をつけていたことからも、現実を良く捉えた内容なんだと思います。
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100人近くで田んぼと畑の耕育教室

2018年06月17日 | 農的体験・生活
5月から始まった「田んぼと畑の耕育教室」、今月は盛沢山の内容で、たっくさんの方が参加して頂きました

梅雨の時期で、天気予報では土曜日は雨という感じだったのですが、日程が近づいていくにつれ改善していき、土曜日は風は冷たかったものの雨は降らず、日曜日は暑いぐらいでした

6月は何が大変かって、やっぱり草です

ということで、まずは田植えをした田んぼへ移動。

みんな1カ月で「あの小さかった苗がこんなになっているんですね、びっくりです」と、初めて知る田んぼの稲の成長に驚いていました。


さて、まずは根本さんから草の説明。
無農薬の田んぼは何といっても、草が大変なのです。
これは経験したことが無い人にはわからないものです。

そして、オモダカというキツネのような草やホテイアオイのようなコナギはわかりやすいのですが、ヒエは稲にそっくりなので、素人にはわかりません
ということで、苗を踏まないようにという注意の上で、草取り、という名のものと田んぼ体験です


土曜日は寒かったので、最初から入らないと決めている親御さんも多く、その中で、家族ではしゃぎながら入っていく親子は賞賛の声を浴びていました
そして、日曜日は90人以上の参加者だったので、表現は悪いですが、まるで蜘蛛の子が散るように大人数が田んぼへ散らばっていき「キャッキャ」と田んぼを楽しんでいました。


草をとってくれるベテラン家族。
黙々と草を取り「田んぼってなにかいいですね~」と子供以上に楽しむ親御さんも多いですし、ドロドロを子供と一緒に楽しむセレブのようなお母さんもいたり。
みんな、それぞれの楽しみ方が出来るのが田んぼの良い所ですね~


そして田んぼが一段落した後は、サツマイモの苗植です。
最近人気の「シルクスイート」という品種で、昨年は大豊作でしたが、今年はどうなるか


そして、次は丹波黒大豆の種まきをし、この辺りで大分みなさんお疲れの様子

しかし、ジャガイモ堀の時はみんなテンションが上げ上げ
やっぱり、収穫物は嬉しいものですよね~


今年は収量が昨年より少なかったのですが、それでもスーパーのビニール袋一杯ぐらいはあったので、みなさん喜んで頂けました。
分け合う時には、ジャガイモの周りには人の山
90人以上が集まると、物凄い人数になりますよね~。



さて、1人2皿として、200人前のカレーを作って頂いた奥様方、12升(120合)ものご飯を炊いて頂いた根本さんのおかげで、90人以上がお腹いっぱいご飯を食べた後、午後はお待ちかねのザリガニ釣りです

今年は参加人数が多く、特に日曜日は90人以上になるので、昨年とは違う新スポットでザリガニ釣り。
100本ほどの篠竹の釣竿を作っておいたので、それをみんなに渡してするめで釣りスタート


昨年は中干のタイミングと重なり、用水路の水が少なかったのですが、今年は例年通り、1家族5~10匹ぐらい、ザリガニたっくさん釣れましたよ


この教室に参加すると、「大人も楽しめるのがいいですよね~」「なんか、癒されます」という感じで、子供のためにと思っていた親御さんが心が現れるというか、ムスっとしていた方も笑顔になるのが何ともいいところだと思います

また、「普段、お茶碗1杯も食べれないうちの子が、おかわりして、あんなにご飯を食べるなんてびっくりです」とか、「虫も触れない子が、まさかカエルをわしづかみにできるなんて」といった、ある意味、親の期待を裏切る子ども達の姿も続出です。

もう7年もやっていて、延べ人数で1000人の親子を見てきていますから、子供はいつも同じで、その可能性というか、周りの環境が変わればその本性が現れ、どの子も同じものを持っている、というのがわかります。

子どもにとって自然環境と言うのはとてもフィットするもので、ドロドロになり、はしゃいで騒いで、小動物を捕まえ、遊びまくれる場所というのは、本当に大切だと思います。

それを温かく見守る大人がいて、むしろそれを推奨する親御さんがいて。

いつもは「もう、こんなに服を汚して」とか「静かにしなさい」と言っているお母さんが「もっと泥んこになりなさい」なんて逆の事を言って、親御さんも泥んこになって。

この場所が、まさに天国のように、心も身体も解放できる場所であること、プログラムうんぬんではなく、そういった場を持手ていることが何より有難いですね

今回は年中の頃から5年間来てくれている子供の親御さんが初めてスタッフをして頂いたのですが、「年中の頃は、虫も触れなかったんですよ」と言うのですが、その子はいつもカエルや虫を捕まえてはしゃいでいたので「本当ですか!?」と私もびっくり。

「ええ、ここにきて、あんなになっちゃったんです(笑)」というお母さんが嬉しそうでした。

そして「子どもが飽きるまでは連れてきたいと思います」という言葉がじ~んと来ました。

毎年毎年来てくれるご家族も多いのも本当に有難いです。

今回は私1人で90人以上を相手するのにさすがにつかれましたが、まあ7年もやっていれば場を見守る力はプロにもなっているのでしょう、大きなケガもなく、みんな満足頂き、続々とお礼のメールも来ていて、ほっとしています。

引き続き、7月以降も農村の魅力を伝え、参加された親御さん、子供たちに将来につながる種まき活動を続けていきたいと思います
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「目的が明確にある悩みは良い」

2018年06月10日 | 自分の時間
先日書いた

「本当の大人」になるための心理学

という本を図書館で探している時、著者の諸富さんが、NHKの「100分de名著」の「夜と霧」の担当で本も出していることを知り、一緒に予約しておきました。

「夜と霧」は世界的な名著で、ナチスにより収容所に入れられた体験を持つのヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科の医師が、収容所での体験を、精神科医の視点で描いた本です。

どんな過酷な、人が虫けらのように扱われ、明日殺されるかもわからない、そんな状況でも、人によっては死にそうな人からパンを奪ったり靴を盗んだりする人もいる一方で、自分のパンを分け与えたり、生きる勇気を語る人もいた、という、そういった体験から、どんな人生でも、例え明日、殺されてしまうかもしれない人生でも、そういった人生でも「意味がある」という事を訴えた人です。

人は過去や環境から影響を受けて自分の意味付けする、など色々な哲学や思想がそれまでありましたが、彼はその中で、「人は悩む生き物だ」という言葉や、「人生には意味がある」という大前提の哲学を編み出しました。

ただ、それは、ナチスの収容所での体験から生み出された思想・哲学かと思ったら、そうじゃなかったんですね。

諸富さんの本によると、彼はもともとフロイトやアドラーなどの哲学者に学びつつ、20代で精神科の医師になり、そして独立し、悩める人のカウンセリングをずっとやってきた過程で、「人生には意味がある」という、哲学、思想を持つようになったそうなのです。

そして、1年間ぐらい、ゲシュタポ、いわばナチスの秘密警察・暴力組織のメンバーのカウンセリングもし、また、最後は自国を脱出できるビザまで入手できたのに、「家族を置いて1人だけ逃げるわけにはいかない」と、残った人です。

そして、連れていかれたのか、かの有名なアウシュビッツ収容所だったのです。

しかし、ナチスの将校の気まぐれで、3日で他の収容所に輸送されました。
それが運命の分かれ目で、毒ガスで殺されずに済んだのです。

連れて行かれた別の収容所で1年、虫けらのような生活を送りながら、「自分の考えを書いた本を世に出したい」という思いや、生きているか死んでいるかわからない家族や妻の愛を感じながら、絶望して死んでいく仲間も多い中、彼は生き延びました。

そんな彼の言葉で、「悩むことは人間だけが出来る特権だ」というのがありました。

「悩みの中でも、人生の意味を悩むのは、特に人間らしいこと」という言葉もありました。

彼は「自分はどう人生を生きたいのだろう?」という、いわば「自分探し」の考え方では、それは見つからない、あるいは「自分の夢や幸福は?」という人は、なかなか見つからない、見つけてもまたそれはすぐ過ぎ去ってしまうと言います。

逆に「人生は自分に何を求めているのだろうか?」という問いこそが、「人生には意味がある」という全体からくる大切な問いだと言います。

だから、「悩み抜いたその先に人生の意味をより深く知れる」、と。


そんな話の中で、私の中には無かった言葉で、「う~ん」と思った言葉を1つ紹介します。


それは、『「何のために悩むのか?誰のために悩むのか?」という目的がわからない悩みほどつらい悩みは無い』と言うこと。


例えば、自分のための悩み、自分で悩んでいる状態に浸かっている人はマゾだけど、そうではなく、自分のためではなく誰かのため、何かのためとわかっている悩みは、自分の人生から何かしらの意味を投げかけられているのだから、あえてごまかす必要はない、と。

誰かのために自分はこの問題を悩んでいる、あるいは、●●のためにこの悩みが生じている、というのは、なかなか悩んでいる状態で到達しない心境な気がします。

悩みと言うのは、自分の中で、もんもんしてしまうものですからね。

それを

「この悩みは子供達のために生じているんだ。だからそれはそれで逃げずに立ち向かおう」とか「今の社会でこういった事業を行うことは価値がある。だけど現実は思う通り行かず、だから悩みが生まれている。でもそれは目的が明確のだから、悩むこと自体は問題ではない」

と、悩んでいる当事者が悩みながらも思えるなんてことが出来たら、それはよほどの人物な気がします。

悩みに対する態度・姿勢・視点を目的に移して、そのために今の自分の悩みがある、なんて、まさに「達観」というか、自分の心の波を客観的に観れるようじゃないとならない気がします。

著者はそういった事を言いたいのではないかもしれませんが、多少なりとも、悩みの渦の中に入って抜け出せないような時でも、少し遠くというか大きく自分の状況を捉えるための考え方としては、なるほどな~と思いました。
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農村昔話

2018年06月05日 | 素敵な空間・イベント
昨日の夜、おかげさま農場の研修生が旅立つということで、そのプチ送別会を開催しました。

そこで、お世話になった農家さん達とみんなでワイワイガヤガヤ色々な話をしていたのですが、研修生のことより昔話に花が咲いていました
でも、それが面白かった

いろいろ話があったのですが、例えば、忙しくても毎日夕方に集まったら、毎晩飲んでいたという事。
当時はまだ飲酒運転が禁止ではなく、近場と言うこともあり、出荷場に野菜を夕方に持ってきたら、毎晩、2時頃まで熱く語り合っていたそうです。

30年ほど前の話ですから、世の中は農業はおろか有機農業という言葉もほぼ広がっていなかった時代です。
周りからは「農薬を使わないで野菜が出来るわけない」とか「変わり者だな」と冷ややかな目で見られていましたが、「俺たちは間違っていないよな?」とか「こういうやり方が良いらしいぞ」と、毎晩語り合っていたそうです。

昔話を聞くと
「ここに入ってよかったのは、みんなが優しいことだな。JAや市場出荷は相場制だから、自分が豊作で誰かが不作だと喜ぶわけだ。だから陰でみんな他人の出来具合を気にしながら、まあアドバイスするなんて全く無かった。ところがここに来てからは、何か失敗するとみんなでアドバイスをしてくれる。全く違った世界だという事に感動したな~」

また、結婚話もあって、「長女をもらうときにその親御さんは反対した」というのが当たり前だったそうです。
男子がいない家の場合、長女が家を継がないとその家は絶えてしまう。
だからその長女をもらおうとすると、どこも大反対をしていたそうです。
中には「わかった。それほどうちの娘の事を思うなら嫁に出しても良い。但し、嫁になるよう育てていない。後継ぎとして育てた。だから田畑仕事は出来ないぞ」という人もいたそうです。

つまり、男子がいる家の女子は、「嫁に出す」=「嫁ぎ先でもしっかり田畑作業が出来るように育てる」というのが当たり前だったということ。
農村はそうやって子育てをしてきたんだと初めて知りました。

翻って、私を含めた今の親は「長男は家の大黒柱として育てる」とか「女の子は嫁に出しても恥ずかしくないように育てる」といった意識はほとんどないですよね

昔と今はそもそもの子育ての常識が全く違っていたと、今更ながら気づいた時間でした。
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本:「本当の大人」になるための心理学

2018年06月03日 | 素敵な本
私の20~30代前半の頃の師匠のメルマガに載っていたので読んでみた本が、「「本当の大人」になるための心理学」というこの本でした。

臨床心理士であり、カウンセラーであり、大学で心理学を教えたり、中高年向けのワークショップを開いている著者で、書いてあることはそれこそ昔の哲学もあれば自分の臨床心理学の体系に基づいたものだったり、実際のカウンセリングをしている方の例など、なかなか盛沢山で、全体的にはあちこち話が飛ぶのですが、要所要所は「なるほどな~」と思うところが多々ある本でした。

この本を通して書いてあるのが「今は未成熟な人が多い」ということで、その「未熟」ということが、今の大人の多くに「自分はこの先、どう生きたらいいのか?」とか「心の底に空いている穴は何なのか?」といった思いや不安を持たせているところでした。

「未熟」というのは、中高年になっても若いころと同じように自分はもっと出来ると思い込んで、出来ない理由を周囲のせいにしたり、何か気にくわないことがあったらいったん感情を納めて我慢をする寛容性がなくすぐに切れたり、他人の評価や意見に気持ちが左右されてしまったり、何かあると心の回復が遅くうつになったり、他人やお酒に依存してしまったり、1人でいることが怖いということだったり、色々な定義を書いてありました。


こう見ると、40歳ごろまで「大人になりたくない」と言っていたうちの嫁さんのことをどうしても考えてしまいますが
まあ、自分にも当てはまることもあるし、また、世相的にも書いてあることがなるほどな、と思うところが結構ありました。

例えば、私が30歳~40歳の頃は、「大人」という意識はあっても、自覚は生まれていませんでした。
「昔の30代ってもっと大人だったような気がしたけど、自分がいざなってみたら、そうでもないな」という思いは、私はだけではないのではないでしょうか?

でも、著者によるとやはり「昔に比べて、未熟な人が多くなった」と言います。
例えば、昔の学生は今の30代のおっさんのような感じであった人もいたし、せいぜい22~23ぐらいまでが青春時代で、それ以降は自他ともに「大人」と言う感じだったのが、今は35ぐらいまでは「青春」「自己実現」みたいな世相で、厚生労働省でも35まではフリーター、ニートだけどそれ以降で無職となる、世の中的に35ぐらいが今は境の年齢になった、と言います。

1970年代ぐらいをひきあいにたて、20代後半は大人で、30代はおじさん、おばさんだった、という書き方もあったので、言われてみれば、そうだったかもしれないと思います。

確かに今の私たちの世代は、30代は、まだ「お兄さん、お姉さん」と呼ばれても気持ち悪いとは感じず普通に受け入れてきて、40代になってから「おじさん、おばさん」と言われることがちょこちょこ増えてきた、という感じでしょうか。

でも、昔の30代にお兄さん、お姉さん、という感じじゃなかった、と言われればそうかもしれませんね

そして、その原因として、今は成熟しにくい社会構造になっているとも言います。
40代ぐらいの「人生後半」「人生の午後」に入っても、若くはつらつしていることが良いという世相で、肉体的にも精神的も下降に入っているのにも関わらず、若いころと同じ生活、若いころと同じ嗜好で生きようとする人が多い、と。

そして「新型うつ」、例えば自分が悪いのではなくて周りが悪い、という思いが強く、でも現実はそうではなくその人の問題もあって、もっと出来るはずなのに、と今を見ず、まだ見えぬ未来のために今を犠牲に頑張りすぎてしまったり、仕事や外の刺激があるところでははつらつしているが、家にいたり一人になっていると気力が沸かない、といった人が多くなっているそうです。

またこういう言い事も書いてありました。
若いうちは「自己実現=自分は何になりたいのか?何をやりたいのか?」という感じでいろいろな体験をし、刺激を求めて動き回っていたのが、40代になっても同じ嗜好のままで、仕事で「もっと自分は出来る」と将来を見通さず「少年のような夢」を見たり、海外旅行に行って遊び倒したりすることで一時の楽しみで自分をごまかしたりしていて、現実を見ず、なんとなく空虚な気持ちがわいてきてしまっている、という人が多いそうです。

そして、定年まで自分の人生の意味、使命などを考えずに、定年した時も未熟なままなので、飲食店などで難癖つけるクレーマーになったり、すぐ切れる、寛容度が低い人が多くなっている、とのことです。

実際、クレーマーは若い人より中高年が最も多いそうです。

ただ、そうこうしながら自分の老いは現実にあって、残りの人生が見えてきて、そこで初めて「自分の人生って何だったんだろう?これからあと20~30年どう生きていけばいいのだろう?」という思いが沸いてきて、著者のカウンセリングやワークショップに来る人が多いそうです。


この本を読んで思うことは、若いころからずっと何となく疑問を持って生きてきたか、そうじゃなく社会に順応して楽しくやってきたか、志向性の違いなのかわかりませんが、その違いはあると思いました。

例えば若いころから文字を読むことが苦ではなく、本を読んで、あるいは自分の時間を持っていて、自分なりに人生の悩みや葛藤を向き合ってきたかどうか。あるいはいじめられたり、社会問題に衝撃を受けたり、何か疑問を持って生きてきた人はいると思うのです。

一方で、何かあってもその体験が積み重なるというよりは、その時々を楽しむ人、世渡りが上手というか、現代社会の順応出来て、例えばテレビやドラマや飲み会などを楽しんで生きてきた人も多いと思うのです。

「今の自分がおかしいのか?いや何か今の社会がおかしいところもあるのではないか?」みたいな事をずっと考えている人は、「食と命の教室」に良く来ます。

一方で、そんなことを考えるのでしょうが、ある程度、会社生活や家庭生活を楽しみ、色々な人と交流し、テレビがドラマやdvdを見て、それなりに楽しみながら老後に突入する人も多いと思うのです。

特に今の団塊の世代がそうなのではないでしょうか?

特に、子供がいる家庭では、子供の勉強、部活、お受験など子供のことを中心に自分の事を考えずに済む方もいますし。

小さいころに「人は何で生まれてきたんだろう?」とか「死ぬってどういうことなんだろう?」ということを、例えば昔話を聞いて思ったり、自分のおじいちゃんやおばあちゃんが死んだり、仏壇や墓参りの中でふと思ったり、そういった、ちょっとした哲学が好きな人は、本が好きな人が多いと思うのですが、考えること、そして自分の感情に左右されながらも、その葛藤や不安とつきあってきた経験がある程度積み重なってきていると思うのです。

一方で、現代に適応できる人、流行を追うことが本当に楽しいと思う人も実際にいると思います。
例えばテレビなどメディア業界を目指し、そこで働くことを楽しいと思う人もいます。


ただ、著者が書いていますが「人生は喪失の連続である」という言葉があります。

著者は、成熟していない、つまり心の耐性が無い人、人生後半はあきらめることが多いということがわか「喪失感」というのがあって、定年退職したり、子供が巣立ったり、パートナーに先立たれたり、そこで「心の耐力」が無い人は、悩み苦しむ。

ある意味、日本の現実を考えれば、定年まで大きな葛藤が無く働き通せたお父さん、定年後は海外旅行や孫の世話で過ごせているおばあちゃんは、幸せなんでしょうね。

今はその前に、仕事に就けない、大病を患う、など色々な問題が起きますからね。

ただ、いずれにしろ、カウンセリング、自立、心の耐力などをつけるワークショップなど、そういった受け皿は現実の問題を持っている人には届きにくいのが実際です。

「未熟だから熟しない」と言って成熟出来るわけじゃないですから。


最後に、1つ、参考になった文章を。

「神様 私にお与え下さい
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものは変えていく勇気を
 そして2つのものを見分ける賢さを」

アルコール依存症のサポートグループで唱えられている神学者の「平安の祈り」という言葉だそうです。

老い、他人の気持ち、など自分に変えられないものを受け入れ、落ち着けること
自分の考え方、自分の言動、自分で変えられるものは臆せず時にはあきらめ時には変えていく勇気を

持てることが成熟した大人になる事なんだ、と書いてありました。

なるほどな~と。
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