体を動かすと、デスクワークとは違ったところが刺激されて、いわゆる「言葉が天から降りてくる」ことがよくあります。
「歩かずして得た哲学は、哲学ではない」というものと同じですね。
さて、そんな言葉のとおり、先日の畑作業で、気づいたこと。
それは
「継いでいくものがある生き方」
です。
土地や家屋やその土地の伝統を継いでいくだけでなく、親の仕事も継いでいく生き方。
これこそ、今の時代にもっとも欠けている発想で、しかし、とても大切な教えが含まれている生き方なんではないか、と。
新規就農者や私のような「その土地に根ざしてきていない者」は、ある意味自由に動ける一方で、その土地に残る伝統、文化、親と親戚や地域の人との関係、しがらみ、祭り、田畑、家屋、信仰などを継いでいません。
自分たちの代から、1つ1つ根をおろしていかなくてはなりません。
一方で、先祖代々その土地に根ざして生きてきた方々は、良いところもやっかいなことも全てひっくるめて、受け継いできました。
また、仕事も同じです。
世界的に見ても、大体が子供というものは親の仕事を見ながら育ってきました。
世界的にはイギリス、ドイツなどは親の仕事を子供が継ぐもので、他の職業にはなかなかつけませんでした。
日本では多少ゆるかったものの、士農工商がありました。
良きにしろ悪きにしろ、いずれにしろ「親の仕事」「親の生き方」を見て育った子供たちが「一人前の大人」になるということは、当然ですが「親の仕事っぷり」や「親の生き方」が一番のお手本に自然になっていたと思うのです。
そういった地域で生き、先祖からの土地や家屋、地域の伝統、仕事などを継いで、自分の子孫にも継いで行くのが戦前まではずっとずっと続いてきたわけです。
ところが、戦後の高度経済成長で、一気にそういった「先祖から継いで来たものを子孫に継いで行く生き方」はどんどん時代遅れになりました。
みんな都会に出て、都会やベットタウンで造成された住宅地の一角に土地・家を買い、仕事は会社でするもので、子供たち(団塊ジュニア世代など)には、「継いで来たものを、継いで行く」という時代ではなくなってしまいました。
まるで、戦前までは農薬や化学肥料なんてなかったのが、戦後に広がり、それが今までずっと続いてきた当たり前のようなものになったのと同じように。
戦前までは、日本人の7割以上が何かしら畑で野菜を作っていたといいますし、会社員より自営業の方が多かった時代なのです。
それが戦後の70年で一気に変わりました。
というより、長い歴史の中で、たったこの数十年の出来事が「当たり前のことである」という固定概念がついてしまいました。
しかしこのシステムの結果、親に対する尊敬、地域に根付く生き方への軽視、これが「守るべき土地や自然」「ご先祖様から継いで来た命」といった日本人的発想、文化といってもいいものが廃れてしまったと思います。
そして「確かなもの」が無くなり、親は「農業なんてやるんじゃない」とか「都会の大企業か公務員になれ」といったことが第一義として教えるようになりました。
そんな教えを受けてきた世代が、また子供を生み、「こんな生き方でよいのか?」とみんなが色々考えている時代です。
その世代の1人である私が思うのは「継いで行くことを大切にする生き方」ということが、本来の日本人の生き方なんではないかな、ということでした。
学校教育で教わるのは、生活にほとんど役に立たない「学問上の知識」でしかありません。
読み・書き・そろばんが出来れば必要最低十分であって、あとはその子の持っている才能や、将来どういったことを仕事としてやっていくのか、そういったことを極めていく勉強であるべきだと思います。
例えば、野口英世でも本田宗一郎でも奇跡のりんごの木村さんでも、誰でも良いのですが、偉人といわれている人で「いわゆるエリート」の人が少ないのはどうしてでしょうか?
学校に毎日通えず、自分の人生を一生懸命考えて過ごしてきた時間が長い人の方が、大人になってから偉人になっているような気がしませんか?
その道のプロ、という人が若いころはヤンキー(死語?)だったりして、むしろ「今の学校って何なんだ?」と自問している人の方が、自分の考えを実はもっていたりしたのかもしれません。
私の場合は、大学時代が一番自由な時間があり、この時間にサークル活動などあらゆることを「自分で考え、自分で生きてきた」感覚が強いです。
そういった時間が、小中高では許されなかったんですね。
それが「正しい教育」という社会システムだったから。
また、会社で一生懸命仕事をしてきましたが、ずっと「生きることとは何なんだろう?」ということは、ずっと考えてきました。
若い頃は「自分探し」みたいなことが流行っていましたし。
結局、家では父親は会社に行っていたので「仕事」というものが何なのか目に見えず、「一人前の大人はこうである」といった模範が目の前にいませんでした。
本当は、「仕事というのは大変なことだけど、やりがいがあることなんだ」とか「世の中の役に立ち、人に感謝されることが仕事なんだ」とか、そういったことを「背中で教える」というのが一番大切な教育なんではないか、といまさらになって思います。
農家さんもそうだと思います。
「農業なんて儲からないからやるな」と言ってきた親は、自分たちが貧しい時代をすごしてきたからこそ、子供たちには同じ思いをさせたくないという思いが強かったといいます。
世の中から避けずまれ、収入も少ない農業を継がせたくは無い、という思いは相当強かったはずです。
一方で、そんな葛藤を持ちながらも「農業は大地を守り、ご先祖から続いてきたものを守るもの。そして人の命を支えるものだろう」という信念を葛藤しながらも持ち続けた農家さん、その上である程度経済基盤がある農家さんには後継者がいる確率が少し高い気がします。
家や家屋やしがらみや家屋を引き継ぐことは、お金で解決できる生き方より縁が深い分、若い世代にはとても古臭くて面倒で、稼ぎも少なく格好悪かった時代が続いていました。
でも、ちょっと前はそれが当たり前でした。
今になって、自分で働き家を買い子供を学校に入れよい企業に就職させ自分は定年退職まで働いて退職金もらって年金もらいはじめて、ようやくあがり、でそれから自分の好きな人生を送る。。。こういったわずか数十年だけ続いた「人生設計」が成り立つ時代は終焉を迎え始めました。
すると、結局ちょっと前の「継ぐものがある生き方」が改めて価値を見出す時代に入ったのだと思います。
今はまだ「お金」が無いから親と住む、親と住むと楽、家も提供してくれるから、子育ても一緒に出来るから、といった感覚から親との同居などが増えているのかもしれませんが、「仕事」「生き方」といった面からも、「継いで来たものをきちんと継ぐ」という意思ある生き方に時代はシフト(返り咲く)するタイミングかもしれません。
そう考えると、やはり子供に「良い学校に入ってもらいたい」という思いはまったくわかず、彼らが持っているギフト(生まれもって備わった才能)を生き生きと発揮できるような「場」を作ってあげたい、そして恥ずかしくい生き方をして「自分の人生を歩む後姿」を見せてあげたい。
そう思うわけです。
土地も家屋も継いで来ていないけど、お金とは次元が違ったところで「生きることは仕事であり、仕事は生きることである」ということ、そして自分の人生や社会に対してお役に立とうという考え方、そういった姿を見せられるように、お父ちゃん、生きて生きたいです