半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

食と命の教室 伝統文化、稲ワラ納豆、ニンジン間引きなど

2015年10月31日 | 農的体験・生活
10月最終日は「食と命の教室」です。


10月は神嘗祭の月で、高柳さんのところは、毎年10月17日に神嘗祭を行い、かみさまに甘酒をお供えします。
これは、五穀豊穣のお礼で、11月23日は新嘗祭があります。

昔はどこもこのようなことをやっていましたが、今は神社や農村でないと行われていませんね

ちなみに妻のお母さんは新嘗祭まで古米を食べるという昔の習慣を未だに続けています。
神様に新嘗祭で新米をあげてから、その後に人間が食べる、という昔ながらの習慣を未だに守り続けているのですから、凄いですよね~。

ちなみに、農村では「古米がなくなってから新米」という当たり前の順番で、また「何かあったときのために」という危機管理のために、新米を食べるのは早くても年越し、遅いと春ぐらいというのが普通だったそうです。

高柳家も、未だに古米を食べていて、古米がなくなってから新米になります。

だから「俺らはまだ古米を食っているけど、みなさんには新米をあげているんですよ」とのコメント。


さて、午前中は高柳さんの地域に残る神事のお話や氏神さまや産土神さまのお話を甘酒を飲みながらして頂きました。


氏神さまは「氏」のかみさまですから、この辺りでは、各家々にいます。

産土神さまは、この辺では「大須賀神社」があって、そこがこの地域の産土神です。

その他、いろいろなところにかみさまがいて、高柳家では10を超えるかみさまがいます。

「うちも多いと思ったけど、観光地で有名なバリに行った時は、30を超す神様がいて、毎日午前中はその神様にお供えをすることで終わると聞いてびっくりしたよ」と高柳さんがいっていました

アジアの人々の生活にはそういったことが生活の中心にあった暮らしをしてきたんですよね~。

さて、そんなお話の後、高柳家の横にある氏神さまをお参り。
かみさまは石柱がほとんどだそうです。


しかし、2月から通い慣れたみなさんは横にあるゆずの木に気づき、そちらをおねだり

高柳さんが何個も収穫してくれて、その場で輪切りの砂糖かけをお母さんが作ってくれました


それをもぐもぐ食べながら庭を散策すると、庭にはたくさんのハーブや薬草が生えていました。

朝からお腹の調子が悪い人もいたので、ゲンノショウコの葉を生でかじらせてくれました。
これがゲンノショウコ。私も生葉を見るのは初めてでした。


干してあるゲンノショウコもありました。
「1年分とっておかなければいけないからな」ということで、乾燥させているそうです。


その他にもハーブが沢山生えていたのを見つけたのがアロマの先生をやっている参加者。
、タイム、ローズマリー、スギナ、カモミールの生葉を摘み取ってくれて、それにお湯を注いでハーブティーを作ってくれました。
ローズマリーって、香りが強いから、レモンバームよりも香りがあって、無茶苦茶美味しかったです

さて、その後は、収穫後のお米はどのように精米されているかを普通の人は知りませんので、乾燥機→石採り機→籾摺り機→(精米機)→色彩選別機についても見学。

これが乾燥機です。昔は天日干しでしたが、今はこれで半日かけて乾燥させます。


石採り機で細かい石をとったあとは、籾摺り機で玄米にします。


その後、精米機で白米にします。


こちらは色彩選別機。虫食いで色がついたりしたものや、籾の残りなどを1粒1粒空気鉄砲で無茶苦茶なスピードで弾き飛ばしてしまう、もの凄い機械です。日本の技術って凄いですね~。



トラクター、コンバインとあわせて優に1000万を超える設備にみんな「そんなにお金がかかるんですか」とびっくりしていました。

機械が壊れたら、60才を超しているともう借金してまで米を作りたくなくなる、、、こうやって耕作放棄地が増えていくんですよね。

さて、待望のお昼タイム

実は、ちょうど週頭に高柳家では稲ワラ納豆を仕込んでいましたので、この教室では数年ぶりに、稲ワラ納豆がお昼ご飯に登場


中をあけるとこんな感じです。
普段は「小糸在来」という超美味しい大豆を使うのですが、今回は親戚から小粒の大豆をもらったそうなので、市販の大きさと同じぐらい小粒の納豆です。


まぜてまぜて、いただきま~す



その他、かぼちゃコロッケ、イカと里芋の煮っころがし、秋キャベツのサラダなどなど盛りだくさんで相変らず美味しかった


お昼ごはんの後は、日本全国のお米にまつわる伝統文化、神事をまとめた「米展」で使われたdvdを視聴。
高柳さんや寺田本家さんも出ていて、久々に見ましたが、相変らず感動的でした。


一息ついたあと、午後はみんなでニンジンの間引きの収穫です。


背負いカゴを持参した幼稚園のお子様は、絵になるしかわいい~



こんな感じでかわいい大きさ、スティックとしてそのまま食べたら、みんな「おいしい~」とびっくり


収穫後、みんなで収穫の山分け。1人5~10㎏ぐらいは持ち帰ったのではないでしょうか?


さらに、高柳家の2年ものの味噌もお土産に。これが美味しいんです~


今回も盛り沢山でしたが、見慣れた顔といつものペースで、のんびりゆっくりみなさんくつろいでいました

そして、次回はいよいよ最終回

来月は最終回なのでお泊りできる人はお泊まりで飲むことに
最終回も楽しく迎えたいと思います。
稲ワラ納豆作りもできたらいいな~

久々に顔を出せる方、ご関心がある方、今年最後の「食と命の教室」に是非お越し下さい。


その後、お泊りで飲む方もいましたが、私は奥様の誕生日やらハロウィーンもあったので、帰宅。

家に帰宅するとかわいいかぼちゃが

今年は私の畑ではかぼちゃが豊作だったのですが、そのかぼちゃを使ったおやきやシチューなど盛りだくさんでした


蓋を取ると中にシチューが。
でも、入れ物のかぼちゃは生ですからちょっと微妙
ちなみに顔は包丁一本で奥様が細工したそうで、器用ですな~。


おやきのようなものも可愛いですね。


先週の「田んぼと畑の耕育教室」に続き、今週も「食と命の教室」、そして3日は「寺田本家酒蔵見学会」とイベント続きですが、全部盛りだくさんで楽しいイベントにすべく、引き続き準備をしていきま~す
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2年もの、1年ものの味噌

2015年10月28日 | 農的体験・生活
農的生活に入ってかれこれ6年。

東京にいたときに神崎に通って仕込んだ味噌作りは、かれこれ7年目になります。

最近は根本さんのところで、根本さんが作った無農薬栽培大豆+根本さん自家製糀+天然塩で味噌を仕込んでいますが、2年物が消費される前に1年ものが出来上がってきました。

奥様が「倉庫が狭くなるから、売るなりなんなりしようよ」という提案があり、2年物を野菜ボックスのお客さんにお安めでちょこっと販売。

そのために今朝から倉庫の味噌樽を整理しました

奥からひっぱりだしてきた2年物は普通の味噌と比べてこげ茶色。
香りは落ちますが風味というかコクが増します。

一方で、1年物はちょうど醤油の原型のようなものが染み出ていました。
微生物が1年かけて大豆を食べて出した天然の膨大なアミノ酸が出ているので、旨味がぎゅっとつまっていて、これで食べると何でも美味しいんですよね~


そのため、ついついペロリとなめたら、やっぱり美味い


しかも今年の1年ものはオレンジ色の美味しいそうな色でした

これもペロリとつまみ食いすると、無茶苦茶おいしい

我が家の倉庫は、夏場は高くなるせいか、1年でこげ茶色になってしまうのですが、今年のはオレンジ色でとっても美味そうで、味も美味しく、「やっぱり2年ものとは違うな~」と思ったものの、まずは2年ものから食べていかねばならないので、しばらくお預けです

手作り味噌を作った2~3年目は「売っているものと全く違うこんなに味噌って美味かったのか~」と大変感動していましたが、7年目となるとこれが当たり前で、舌も肥えてきて、普通になってしまいました

野菜も多分、世の中で最高の美味しいレベルのものを最高の鮮度で食べているのが当たり前になってしまったし、お肉もほぼ平田牧場の豚肉だし、我が家は食卓に限っていえば、大都会のお金持ちでも実現できない最高の物を食べているんだろうな~と思います

でも、ちょっと前の日本人は、これが普通だったんですものね。
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ど根性朝顔

2015年10月27日 | 素敵な空間・イベント
秋晴れのせいか、それとも変わり種なのかわかりませんが、夏に育てていた朝顔が最近復活しています。

何ででしょう?

まあ、元気とはいえませんが頑張って毎朝花を咲かせているんです。

ニンジンとかも、たまに1~2本、春と勘違いしてとう立ちするのもいますし、種によっては気温の変化に敏感というか、先走るのもいるんでしょうね

毎朝、寒さの中、咲いていますが、今日も頑張って咲いています。
頑張れ
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田んぼと畑の耕育教室 盛りだくさん収穫祭!

2015年10月25日 | 農的体験・生活
(土)(日)は「田んぼと畑の耕育教室」でした。

今月は、収穫祭

収穫しまくり、食べまくりの盛りだくさんの最高に楽しくお得な月です


まずは、サツマイモ掘り。

去年はベニアズマとベニハルカの2種でしたが、今年はベニハルカの一本勝負
ベニハルカはベニアズマよりねっとり系で、寝かすとトロトロになるスイーツのような品種です。
これをたっぷりと収穫しました


色々な形のサツマイモがゴロゴロ。みんなで分けてもビニール袋いっぱいいっぱい、20本は持ち帰り出来ましたよ


さて、お次は今回目玉の「丹波黒大豆の枝豆」の収穫です
夏に食べる枝豆は品種改良された早稲種。
本来は11月末~12月にかけて大豆は実るもので、枝豆の旬は丁度今の時期なのです。
本来の季節だからじっくり育って美味しいのは当たり前ですが、更に、大豆の王様である「丹波黒大豆」ですから、大きさはもちろん、その味、コクく、風味は段違いです


持ち帰って、早速ゆでました。
この豆の大きさ、照りぐあい、そして味わいは格別。
しかも収穫日にゆでたてを食べるのですから、美味しいに決まっています


さて、話を戻して、今年は根本さんのお母さんが里芋をた~っぷりと育てたそうなので、みんなで初の里芋の収穫体験
多分、里芋を収穫した経験を持っている人って少ないんじゃないかな?
子どもは葉っぱを「トトロの傘だよ」と言って渡すと大喜び
大人には茎を「ずいき」として食べれることを伝えると、結構な数の人が持ち帰っていました。


ちなみに、サツマイモのツルもキンピラで食べれるそうで、その話をしたら、ツルを持ち帰っている人もいました。
何事も興味に従ってやってみるのは良いですよね~


さて、たっぷりと収穫した後は、毎月恒例の盛りだくさんのお昼ご飯


今回のご飯は、昨月みんなで収穫して天日干しにした無農薬ご飯で、更に朝収穫したての丹波黒大豆入り
そりゃ、美味しいにきまっています


豚汁はおかげさま農場の野菜をたっぷり入れて、根本さんの味噌で作りました。
出汁を一切使っていないのに、この美味さ、このコクは何
とというぐらいびっくり美味しかったです


さて、お昼ご飯でお腹いっぱいになったら、しばらく自由遊びの時間。

今回もカエルを捕まえている子がたっくさんいましたが、今までで多分500匹以上は子ども達に捕まえられていると思います
小動物は子ども達にとっては、時にはおもちゃのように扱われることもありますが、とても良いパートナーでもあると思います。
生き物に触れること、自分で捕まえること、時には死んじゃうこともあるだろうし、飼うとなれば餌のことも考えるし、手触りもそうだし、色々な経験をさせてくれます。

東京から来ているカエル好き(?)のご家族は、カエルを何匹も飼っているのですが、エサは観賞魚ショップで売られているコオロギを買ってきてあげているそうです。
そのお家には、周りのカエルを見たことが無い人がわんさかと見学に来るんだとか
「まるで、昭和の初期に、村で始めてテレビが来た家みたいですね~」という突っ込みをしてしまいましたが、本当に、カエルが珍しい都会っこも多いんでしょうね。

さてさて、午後は待ちまった餅つき大会です

通常の杵の1まわりも2まわりも大きい杵も、根本さんの太い腕では軽々です


大人も子ども達もペッタンペッタン
餅つきって楽しいですよね~


そしてこちらは玄米餅。これが醤油にとっても合って劇的に美味しかった
ちなに、もち米も普通のお米と同じように玄米があるわけで、それが「玄米餅」ということです。
風味も抜群、食感も抜群なんですよ~



根本さんの畑で採れたもの、そしておかげさま農場や大栄みみずの会など、無農薬で栽培された同じ成田市内の食材をたっぷり使ったお昼ご飯、そしてお土産。

そして青空や畑や空き地でたっぷり遊べる時間。

いや~、これこそ子どもも大人も楽しめる空間だな~と心から思います

運営側も大変だけど、みんな喜んでくれてますし、この時期はやっぱり「収穫の秋」を満喫してもらいたかったので、2日間晴れて楽しく開催できてよかったな~と思います。

とはいえ、そろそろ朝晩寒くなり、11月からは田んぼ地域では加工の時期に入ります。

11月は手打ちそば教室、12月は餅つきと丹波黒大豆の収穫、1~2月は味噌作りといった流れになっていきます。

今年度もそろそろ佳境に入りますが、最後まで楽しんでよい体験がご家族に提供できるよう、頑張って準備をしていきま~す
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洗濯日和♪

2015年10月19日 | 素敵な空間・イベント
今日は洗濯日和ですね~

気持ちの良い天気で、洗濯機を朝から洗濯機を5回、まわしました

気持ちが良いのは、天気のせいもありますが、この(土)(日)が良い意味であわただしかったのもあります。

土曜日は小学校のお祭りがあったのですが、特に奥様は、カレー作りの陣頭にたって750人前を作る準備で、ここ2週間ぐらいどたばたしていました。
それも乗り切って、ふと一段落、、、とならず、その足で坂田が池公園へ。

緑溢れる素敵な公園で、童歌サークルのもりこびさんがキャンプを朝からやっていたのですが、我が家は遅れて夕方から合流。

時間としてはもう夕食の準備の時間で、テント内に色々持ち込んで寝床の準備。

初めてのテントでしたが、結構快適なんですね~。

シュラフがどこかにいってしまったので、家から羽毛布団やらなにやらいつものものを大量に持ち込んだせいもあり、子ども達も結構くつろいで「ここなら毎日泊まってもいいね」と喜んでいました。

「雨が降ったら大変だぞ」と突っ込んでおきましたが

夜の部が終わり、子ども達を寝かした大人たちは、ぞろぞろと集まり「大人の部」へ。
つまり、お酒の時間ですね

私も久々に0時過ぎまで飲んでしまいましたが、色々な人と話せるのも楽しかったです。

そして、当然、朝はもうぐだぐだ
眠気を我慢しながら、朝の運動をして、あとは後片付けを中心に。

帰宅してから私はうとうとしながらも、色々、後片付けをしていましたが、奥様は、実家に帰る用事があったため、16時前に帰宅して、17時前に家を出るというドタバタぶり。さすがに大変だったと思います

私は色々やっていましたが、眠くてたまらず、結局20時過ぎにはお眠りに。

実は、子どもが奥様と出かけるときに「パパの部屋にお手紙を置いておいたから、あとで読んでね」と可愛いことを言ってくれていたのですが、どんなものかと思ったら、水曜日に作って来た手作り時計と一緒にお手紙を置いていてくれました。

まあなんてやさしい愛息子

ということで、今日は5時過ぎには目が覚め、洗濯機をまわしながら、お日様と過ごしております
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Eテレ:むのたけじ

2015年10月17日 | 自分の時間
ETV特集「むのたけじ 100歳の不屈 伝説のジャーナリスト 次世代への遺言」というのを観ました。

どこかでお名前は聞いたことがあるのですが、初めてどういった方なのか知りました。

むのさんは一般的に「戦時中、本当のことを書いてこなかった新聞記者としての責任をとって、新聞記者を辞めて、その後、独自の新聞を立ち上げたジャーナリスト」として有名な方です。

秋田の小作人の息子で、小作料だけでは食っていけないから親は荷物の運搬などで小銭を稼ぎながら日々暮らしていたそうです。

小さい頃は荷車に載せられながら両親の姿を見て育ったそうですが、3才の時点で「うちの両親はこんなに苦労している一方で、まわりの役人や商人が楽して稼いでいるこの社会は何かおかしいんじゃないか?」と思ったのがジャーナリストになった原点だそうです。

成績は優秀でしたが、小作人の子が高等学校などには行ける時代ではなかったそうです。
でも、先生の推薦もあり、外語学校に進学。
その後、自由に動いていきたいという思いから報知新聞の記者に。

そして朝日新聞に移り、日中戦争勃発後、従軍記者として戦地に赴いたところ、国民党も共産党もシナ全土で日本を受け入れるという意思はなく、最後の1人まで日本と戦うという意思を感じたそうですが、そういったことを記事にするわけにはいかず、中国の風土・紀行文を書かざるをえなかったそうです。

その後、今のインドネシアに赴くと、オランダの植民地で圧政に苦しんでいた人々は日本人による解放をとても喜んでいることを知ると同時に、新しいジャワの市長について、知り合いの軍人から日本人であることを聞いたので、それをすっぱ抜き掲載。

本国で朝日新聞は2面の小さい欄での紹介だけだったが、アジア各国では「日本の侵略意識が表に出てきた」と大々的に1面に載り、軍部から呼び出しを暗い「機密事項を公にしたのはお前か!」と脅しを受けたそうです。

また、時の権力者の東条英機に何とかして会ってみたいと思い、当時、東条さんがどうもかつぜつが悪いのは入れ歯が上手くないという噂を聞き、そんなことを記事にしてみたら、東条さんに呼び出されて激怒されたが、インタビューは出来なかったそうです。

そういったことを続けながら、書きたいことを書けない記者時代が続いていたわけですが、8月15日を向かえ、「今までやってきたこととは、これからは全部変わる。このまま続けられない」と純粋に思い、退社。

「自分の土台から作り直そう」と故郷に帰り、「たいまつ」という名の新聞を立ち上げたそうです。

「たいまつ」を数十年続けた後、全国各地に講演会で飛び回り、今年で100歳になったわけですが、戦後70年ということで、更に色々なところに呼ばれ、「若い子たちへ伝える責任」と「若い子たちの行動から感じる希望」をうもちながら、今でもお元気です。

ジャーナリストとしての立ち位置はぶれることなく、論理もおしゃべりも明瞭でキレキレ。

100歳になってもなおここまできちっとした発信が出来ていることに驚きを感じるとともに、やっぱり100の教訓、薀蓄より、「生き様」が一番、学びになるな~と思った番組でした。
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本:菊池省三、最後の教室

2015年10月16日 | 素敵な本
先日、久々に夜の12時まで読んでしまった本です。


丁度、この本の取材が終わった今年の3月に菊池先生は退職届けを出したので、この本に載っている1年間が教諭としての最後の1年になり、「最後の教室」というタイトルになっています。

以前、NHKの「プロフェッショナル」に出た小学校の先生で、テレビを見た時は「凄い先生がいるもんだな~」と思っていました。

「プロフェッショナル」には色々な先生が出てくるのですが、どの先生も「信条」があり、その「信条」に従い、「子どもの可能性を信じきる」態度で接しています。

菊池先生も独自の信条に基づき、学級崩壊したクラスを「立て直し請負人」ということで、次々と見違えるようなクラスにしてきた方です。


その「どのように立て直してきたのか」、ということを、具体的な1年間の取材を通じて実例をあげて記したのがこの本です。
しかもその著者は、昔、菊池先生の教え子だった方、というのもなかなか面白いですね。

で、菊池先生のメソッドとして、「ほめ言葉のシャワー&質問タイム」、「成長ノート」などがあります。

どういうことかというと、日直の子に対して、1日クラスメイトが「その子の良いところ」を観察して、1日の最後に1人1人が「○○くんは、掃除の時もきちんとやっていて、とても良いと思いました」「○○くんは、私が消しゴムを落としたとき、すぐに拾ってくれて、優しい心を持っているな~と思いました」といったように、「シャワー」のようにほめていく、ということを行います。

そういった「シャワー」を浴びた子は、きちんと「感想」も言わなくてはいけません。

また、そのために「質問タイム」として、色々な質問をなげかけて、答えていくというのもやります。

こういったことを繰り返し繰り返していくだけでなく、「成長ノート」というのを書いたり、黒板に教室に広げたい流行語=「価値後」、例えば、「1人が美しい(=群れることなく1人で判断して行動できるようになろう)」といったことを書いたり、言葉を大切にしていきます。

ただ、そういった発表の機会を作ったり、ノートを書いたりすればいい、というものではなく、そのもっと奥にあるのが「学級全員で成長しあう集団へと育つ」という信念を菊池先生が持っていることが最も重要なところ。

その信念に基づき、学級全員で成長していくことを子どもに暗に強制し、1人も落伍者も出さない、集団の成長をもって個人の成長を促し、個人の成長を集団の成長に繋げる、ということを、言葉で徹底的に伝えた上で、成長を信じて待つことをしています。
「集団にいるプレッシャー」みたいなものをあえて使うわけです。
「集団は個を成長させる」という信条ですね。

今までずっとどうしようもないというレッテルを貼られてきた子がいて、髪の毛は染めて長髪で、授業中に平気で居眠りをしたり友達の机の横にいって話し出したり教室を脱走したりする子がいたのですが、学級が始まった頃はずっと見守っていました。クラスの成長を待ったのです。

そして、ある段階までクラスが成長したと思ったとき、その子ではなく、みんなに対して「○○くんがこうなるまでどうして放っておいたんだ!お前らの責任だぞ!」とあえて叱ったり。

こういったことを繰り返しながら、自分の考えをまとめ、自分の考えを相手に伝え、同時に相手の考えを聞き、自分も成長し、同時に集団の成長を考えられるようになる、といったことを少しずつクラスに浸透させていくわけです。

普通の子が自分の意見を発表できたり、人のよいところを見つけて言葉にすることが出来たり、段々と周りの子の手助けをするようになってくる。
そういった子は最初は2割しかいなくても、だんだん増えて8割ぐらいになると、ぼけ~っとしていた子も「自分だけ成長していない」と実感するようになってくる。

そういったクラス運営をしながら、長年の経験で、1年の中で子ども達がどう成長していくかを大体つかんでいて、その成長の度合いにあわせて、子ども達に介入したり任せたり。

きちんとルールを守れるようになると、授業中に自由に席を立って仲間と討論したり、黒板を自由に使っても良くなったり、教室の外に出てもよくなってくるクラス。

最後には「1人も見捨てないことは全員が学級の一員としての責任を果たすこと」という言葉がクラスの流行語になったり。

また、自分の内面をネガティブだと自己開示した子に、みんなで「どうしてネガティブなのか?」といった質問をし、それに泣きながら答える子に、また周りの子がコメントを発しながら成長を共にしていくなんていうことを、6年生がやっている。

菊池先生が「子どもの人格形成」「社会に出れるコミュニケーション能力をつけること」といった目標をしっかりと教師として持っているからこそぶれない。

菊池先生が本にも書いてあることですが、私も最近の子ども達は、家庭環境がバラバラで、ご近所つきあいも少なく、ウマがあったお母さん同士の子どもが遊ぶとかも多く、しつけのレベルも子どものあらゆることの経験の差もバラバラで、集団としての経験値が確かにバラバラだという気がします。

「学校に子どもがお世話になっている」と思う親もいれば、「学校はサービスを受けるところ」と思っている親もいますし、何でも買い与えられる子どももいれば、お小遣いで自分を管理している子もいれば、親の範疇でしか買い物が出来ない子もいます。

色々な家庭事情、性格、価値観や習慣の違いがある子どもが集団となっていると、それは、例えば野球チームとか何かのサークルとかの1つの価値観で統制された子ども達だけの集団とは違ったものがあります。

小さいうちは「安全な平和な世界に君は生まれてきたんだよ。生まれてきてくれて嬉しいよ」ということをたっくさんシャワーのように浴びさせるのが一番の教育だと思いますが、小学生に入ってからは、玉石混合の社会に足を踏み入れるわけです。

そうなると、家庭が心の落ち着く居場所にさえなっていれば、あとは、色々な社会に触れていくのも大切だと思います。
その中で、価値観の違いに出会い、時には苦労をするでしょうが、その中で自分の信条や価値観を整えていく時期が小学校だと思います。

とはいえ、それを全部小学校に任せるのは無理なお話。

一定のルールの下で成長を促していくというのはかなり大変なことです。

親がどのような考え方を持っているか、その子がどのような経験を積んできたか、そういったベースがどれだけあるかで、小学校の色々な環境や刺激にも順応できるか、その中で成長できるかは決まってくると思います。

そういった前提の上で、小学校の子ども達の勉強の不出来はもちろん、成長の度合いは、結局は先生の手腕にかかっているわけなのですが、そこにチャレンジし続けてきた菊池先生が、今は教育界だけでなく民間企業などあらゆるところから注目されているのは、当然だと思います。

今年の3月に、菊池先生が「教育委員会の壁」を考え、学校教諭を辞めて、これからチャレンジしようとしている社会全体に発信している教育改革にはとても関心があります。

色々な「名物先生」がいますが、1つ1つ、そういった「民間の力」が色々な「教育信条」を発信していってもらうことで、私達は思想や思考の幅が広がりますよね。

ほんと、凄い先生というのはいるものですね。
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いろいろ畑

2015年10月15日 | 農的体験・生活
最近、晴天が続いているので畑仕事がはかどっていいですね

ということで、まずは収穫時期となった落花生を掘り起こしました
本当はこのまま葉っぱが枯れるぐらいまで干しておくのですが、ここはタヌキかハクビシンか何かが食ってしまうので、2時間ぐらい干した後、脱穀


こんな感じです。
この後、家のベランダで10日間ぐらい干してから、煎って食べます。煎りたては無茶苦茶美味しいんですよ


また、今年はさつまいもが豊作です

こちらはベニアズマ。ゴロゴロとれますよ


そして、今年はおかげさま農場の諸岡さんから苗をたくさん頂いたのですが、その1つが初めてつくった紫いも。
これが劇的にきれいにできている
一度、5月の乾燥で畝がカラッカラに乾いてしまい、植えた苗がほとんど全滅してしまったので、再度植えたのです。
その時に、センチュウなどの虫が全部やられてしまったからなのか?
いずれにしろ、土壌消毒している畑のさつまいもより、下手したらきれいなのでは


そして、普通なら8月で終わってしまう空芯菜を放置していたら、虫だらけの9月が過ぎたためか、10月になると虫の害がほとんどなくなり、また復活してきました

とはいっても、夏の野菜なので、今の寒さでだいぶ弱ってきていて、茎が木のように硬くなってきたり、葉っぱもところどころ黄変になり始めそうな感じで、芽も出てきたので、これをもって収穫は終わりとしたいと思います。
長い期間、ありがとうございました


そしてそして、播き時が遅かったホウレン草はようやく本葉が出てきました
今年は「日本ホウレン草」を播いたのですが、土が出来ていなかった去年まではこの時点で黄色くなっているのもあったぐらいなのですが、今年は絶好調なので、多分、12月ぐらいには豊作になるはずです


一方、「もう大きくはならないな。小さいのが出来るよ」と農家さんに言われてしまった大根もようやく本葉が。
不織布をはって、保温しながら何とか大きく育って欲しいと願っているところです


そして、まだ穂から実がとれているのが赤シソ。
塩漬けにしましたが、今回はだしをとったガラの炒り子を佃煮風に煮たものにあわせて食べてみました。
すると香りがさわやかで、なかなかいけるふりかけになりましたよ


最後に、家にある野菜できんぴらを作りました。
これはおかげさま農場のニンジン、ごぼう、黒ゴマを使っているスペシャルです
当然、美味しい


と言う感じで、今頃の季節は夏草がなくなり、種播きや生育を見守ったり収穫などをいろいろ楽しめる時期なのです。

だから、秋っていいですね
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アリがオクラを

2015年10月14日 | 農的体験・生活
冬間近な畑で、未だオクラの木を3本ほど残しています。
実が小さいうちにちょこちょことって食べているのもありますが、一番の目的は「種取用」です。

まだ青々しく、花も咲くのですが、そもそもが暑いところで育つ作物。
今の時期の日本の気候はオクラちゃんにとっても厳しく、徐々に木が弱っていっています。

そのせいか、アリが凄い

9月中旬ぐらいから、実にアリがたくさんたかっているのです

最初はアブラムシか何かを食っているのかな?と思ったのですが、どうやらオクラをかじって食っているようなのです。

あのチクチクした産毛みたいなものは、しっかりしているのに、それをものともせず、皮を食いちぎっているんでしょうが、凄いですね~。

オクラって生で食べても甘みもあるし、アリからみれば、この時期は貴重な食い物の1つなのかな~?
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人間がゆったりしていた時代

2015年10月12日 | 農的体験・生活
仕事の関係で、先月で69歳、16歳から農業を始めたというので、農業暦53年にもまる農家さんのところにお話を聞きにいきました。

計算すると、、、お~、私が生まれる前に既に農業をやっていた方なわけです凄いな~

良く、高柳さんからは、都会に「金の卵」といわれた地方出身者が集まり、国道が出来て地方の野菜が都会に運ばれていった最初の頃は、野菜はビニールなんてなかったからワラで束ねていた、というのを聞いたことがありますが、そういった時代も当然知っている方です。

今はハウスで葉物を中心に作っていますが、1960年代~70年代にかけては、そもそも「野菜を売る」という時代ではなかったといいます。
つまり、流通させるものではなく、作物といえば春から秋に落花生、秋から春にかけて小麦を作っているぐらいだったそうです。

農協も当然、野菜なんて扱っていなかったそうで、畑作地帯では、ほとんどの農家が落花生と小麦を作っていて、田園地帯からはお米が、畑作地帯からは小麦が農協に集まっていた時代だったそうです。

「この辺では、さつまいもは今では全国トップクラスですが、さつまいももそんなに有名ではなかったのですか?」と聞くと
「そりゃそうだよ。さつまいもなんて、せいぜいデンプンをとるために作っていたぐらいだよ」とのことでした。

でんぷんというと私の頭には北海道の馬鈴薯のでんぷん、というイメージぐらいしか思いつかなかったので、まさか成田ででんぷん用のサツマイモが作られていたというのも驚きでした

当時は、トラックなんて持っている人が少なく、リヤカーで納品に行くのが普通だったとも言います。トラクターなんて当然誰も持っていない。

「今だったらトラクターが無くちゃ農家は出来ないでしょ。だから高くても何とか買おうとするけど、当時は高嶺の花過ぎて、そもそも買おうなんて思わないほどだったんだよ」

「でも、今は機械に使われちゃう感じでしょ。やってもやってもキリが無い感じ。あの頃の方が人間がゆったりしていたな~」という言葉はとても印象的でした。

山下惣一さんの本でも「農家は貧しくて大変で、その労働苦から農薬や機械が解放された、という固定概念が広がっているけど、それは嘘だ。機械や農薬のせいで、働いても働いても儲からないようにさせられてしまったんだ。昔の農家は苦しみながら農業をやっていたなんてことはない。東北地方や冷害など一部のところは違うけど、ほとんどの農家が、草を取るのも田んぼをやるのも、隣の手伝いをするのも、みんなで助け合って、心のゆとりが今よりよっぽどあってやっていたんだ」と書いてありますが、そういった心境だったのでしょう。

また、昔は家を継ぐまでは就農といっても親から駄賃が出るわけではないので、常にお金が無く、冬は土木工事、夏は佐原の方に田んぼなどの手伝いに行って手間賃を稼いでいた時代だったそうです。

そういった時代を経て来た方から見れば、今の時代はどう見えるのでしょうか?

作れば売れる。売るために作る。。。そういったものだけが農業ではない、という思いは、昔の農業を、その頃の生活や人間関係を肌身で経験してきたからなんでしょうね。
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