半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

わんぱくプレパークデー 菜の花畑でかくれんぼ♪

2014年04月27日 | 農的体験・生活
27日(日)は、わんぱくプレパークデイ

今回は、現在の持ち主さんが色々準備されていて、コンクリートの道にチョークで色々お絵かきをしたり、大型パイプトンネルすべり台を降りたところに穴を作り、水を入れてぐちゃぐちゃんして泥んこ広場を作ったりと、さすがかつてたくさんやってこられたというだけあって、楽しいしかけが一杯


また、今回の焚き火は、なんと「虫眼鏡」で太陽光を集めて火をつける、というものでした
しかし、色々子ども達がやったのを側で見ていたのですが、火がつきそうでつかない・・・。
太陽光で新聞は焦げるのですが穴が開いてしまって、火がつかないんですね

そこで、秘密の一工夫したら、ついた

その火種をもとに、焼き芋焼いたり、マシュマロを焼くのも楽しいんですよね~


ただ、今回は私はひっそりとしていました
というのも、なわとびが上手な中学生の女の子と縄跳びで二重跳びをやったら、腰が、、、。

あ~、縄跳びって腰に来るんだ、と初めて経験を通して知りました

たまたま東京から医学療法士のお友達が来てくれていたので、青空治療院で少し復活。
でもしばらく無理はできません


そこで、みなが遊んでいる午後、私は裏の畑の様子見に行きました。

小麦と菜花がとってもきれい



小麦は緑一色です


小麦を育てたのは今回が初めてなのですが、穂が「お~、小麦だ」と思えますね~。


ほら、小麦でしょ


ちょうど穂が出掛かっているものも。こんな感じで出てくるんですね~。


そして、お隣の菜花は黄色一色


子ども達はあんまり来なかったので、菜の花畑でかくれんぼをしてみました。
すると、本当に全くみつからない

子どもより背丈が高い中で、こどもが地面にはいつくばると、本当にみつからないんですよ。

でも、菜の花畑で子どもとかくれんぼをするなんて、なんと贅沢な時間だろう、と心から思いました

あ~、自然っていいな。畑っていいな。田舎っていいな~と、しみじみ思える時間でした



あとは、腰を大切にしようっと
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ああ、橋賀台幼稚園♪

2014年04月26日 | 素敵な空間・イベント
昨日のお話。

橋賀台幼稚園で年中さんから年長さんになったばかりのお子さんが、お父さんの転勤で昨日が最終登園日だったそうです。

世の中に色々な会社の制度があるけど、転勤というのは子どもやお母さんを地域からひっぺりはがす、むごい制度だな~、とつくづく思います。
そして家を買ったら単身赴任のお父さんが、日本全国どれだけいるのか。あ~、ひどいな~


まあ、それはさておき、そのお子さんが最終登園日なので、役員のみんなで話し合って、サプライズをしたそうなのです


保育の時間が終わると、大体、園庭で子ども達は自由遊びをします。

そして、その自由遊びが終わり、そろそろみんなお帰りの時間になりました。

そのお引越しされるお母さん、お子さんも名残惜しそうに最後に園庭を出るとき・・・。

なんと、園庭で遊んでいた親子がみ~んな集まって、手で園庭から門までアーチのトンネルを作ったそうなんです

突然のサプライズで、お母さんは「橋賀台でよかった」と涙し、そのお子さんはキャッキャと何度もそのアーチトンネルを走っていたそうです。

それをみていた周りのお母さんももらい泣きだったとのこと


みんな暖かな心を持った素敵なお母さん達だな~。聞いているだけでジ~ンとしました

あ~、だから橋賀台幼稚園が好きなのさ~
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さよならテーブルさん

2014年04月25日 | 素敵な家族・子供との時間
長年使っていたテーブルをついに捨てることになりました。

これは大学の同級生のK君が4年間使っていたのを、卒業時にもらって1人暮らしの時から使い始めたもの。

そして時が流れ、結婚し、結婚し、子供が出来た後も我が家のメインとなるダイングテーブル(ちゃぶ台替わり?)として使ってきました。

サビも出てきて、足のネジも取れ始めても、使っていたのですが、最近、テーブルのガラス板を支えるところが壊れてしまい、さすがに危なくなったのでついに交換することになりました。

さよなら、テーブルさん。長い間、ありがとう~
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東城百合子さんの講演会

2014年04月23日 | 素敵な空間・イベント
今日は東城百合子さんのお話を聞きに千葉に行ってきました

行きの電車でお隣に座ったおばあちゃんが、なんと京都から1人で息子のところに会いに来た88歳のおばあちゃん

先日、お話を聞きに行った無着成恭さんも88歳、そして今回の東城さんの講演会と、立て続けに88歳で、なぜか最近88歳の方に出会うのは、なんとも奇遇だな~と思いました


ところが
講演会がスタートした際、司会の方からなんと前日怪我をされて急遽、東城さんは来れなくなってしまった、というアナウンスがありました

う~ん、残念。

その代わりに、東城さんの息子さんと東城さんを師と仰ぐ方々の体験談のような会になりました。

息子さんのお話は正直・・・でしたが、他の方のお話などを聞くにつけ、東城さんという方の凄さがわかりました。


みなさん、死ぬか生きるかと言う病気をされている方々ばかりなのに、そんな方々に東城さんは何かあるたびに口癖のように「あんた、根性曲がっているんじゃいの」と言ってきたそうなのです

その「根性」とは「自然に沿っていきているかどうか」という意味でした。

つまり、病気になって病気のことばかり気にしているけど、そもそも病気になったのはそれまでの生活習慣が悪かったり、きちんと自然に沿って生きるということをやってこなかったことであって、それが表面に出てきただけのこと。それなのに病気を治すことばかり考えて、少し良くなったらまた普通の生活に戻ってしまって、、、を繰り返すのではなく、病気のことばかり考えるのではなくて、自然に沿ってきちんと生きるようにしなくてはいけないよ、そういった性根を正さないといけないよ、ということを伝えたいらしいのです。

みなさんのお話を聞くにつけ、また配られた「あなたと健康」という雑誌を読むと、東城さんには自然療法のイメージばかりがあったのですが、それだけではなく、本来の日本人の生活、生き方を全うするように命をかけていらっしゃる方のようです。


先日の「命のスープ」の映画で感銘を受けた辰巳芳子さんともつながります。

88歳以上の方々に最近なぜかご縁がありますが、やはりこの世代の方々の生活は、まさに戦前戦後の「本来培ってきた日本人の生き方、生活」であり、「まっとうな生き方、まっとうな生活」なんですよね。

そういった方々のお話を聞けるのは、我々世代で最後。

是非、一度、東城先生のお話を聞いてみたい、と思いました。

次にお預け、ですね
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項羽と劉邦 法治国家、民主主義

2014年04月22日 | 素敵な本
先日、司馬遼太郎の「太閤記」を読んだ続きで、そのまま司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読み終えました。

「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」は1度読んだのですが、その時はあんまり頭に入ってきませんでした。

しかし、今回は齢を重ねたせいもあるのか?よ~く頭に入ってきておもしろかったです


ちなみに、男性なら知っているお話ですが、女性なら歴史好きでないとよくわからないかと思うのでわかりやすく簡単に解説しますね。

日本にも戦国時代がありました。
そして信長→秀吉→家康という流れで日本が初めてきちんと統一され、以後、江戸時代に続くわけです。


中国も同様で、長~い戦国時代の後、秦(しん)という国が始めて中国を統一しました。

まあ、もっとも中国というのは馬鹿でかい国なので、日本のような島国の統一とはスケールが違いますし、どこからどこまで中国なのか?というあたりも定かではありません。

ヨーロッパにそれぞれの王様がいたように、日本にもそれぞれ越前の国とか色々な国があったように、現在、中国と言われている馬鹿でかい国もたくさんの国が乱立していました。

そこを統一したのが秦(しん)という国でした。

この「統一」というのは武力で各国を負かしたからできるのですが、初めて中国を統一した秦(しん)という国の王様の始(し)という人は、統一した自分を「皇帝」とし、始皇帝(しこうてい)と名乗るようになりました。


・・・何だか歴史の授業みたいですね。まあ普通の授業よりはわかりやすく書きますね


で、この秦(しん)という国の始皇帝(しこうてい)は、日本でいえば北のアイヌ民族から南の琉球まで文化も言語も身体的特徴や顔も全て違う人達を、1つの言語、1つの法律によって統治しようとしました。

しかし、突然、どこか遠くの国であった秦(しん)という国の王様が皇帝を名乗り、どこか遠くの国の秦(しん)の言葉や法律というものを強制させられ、かつ、各国の宮殿と同じものを秦(しん)の都に立てたり、皇帝専用の道路を中国全土に築くために、多くの人々が強制労働させられました。

イメージとしてはタイの北部の村に、突然、遠い国の秦(しん)という国の役人が来て、居座り、重い年貢を取り立てられたり、わけがわからない法律というもので村に規則が作られ、破ったら死罪になり、かつ、強制労働の命令があれば、村の若者を集めて中国の中心部まで歩いて送りこまねばならず、一度連れて行かれたらほとんど帰ってこない、というイメージです。

そして、例えば強制労働をさせられる地域に1日でも到着が遅れると「法律違反で死罪」という、とんでもない法治国家だったわけです。


色々な腐敗もあり、始皇帝が死んだ後、また中国は戦国時代に戻ります。

そこで改めて中国を統一しようとして現れた2人の大勢力が「項羽(こうう)」と「劉邦(りゅうほう)」という人物だったわけです。


項羽(こうう)は武力がすさまじく、誰もが尊敬するとてつもない力強い男で、劉邦(りゅうほう)はうだつの上がらないおじさんみたいなイメージなのですが、100戦して100敗した劉邦(りゅうほう)が、最後に項羽に勝って中国を統一する、という史実に基づいたお話です。

で、この中国を統一した歴史上の大人物である劉邦(りゅうほう)が一度、漢(かん)という国にいたこともあり、現在も中国の中心は「漢民族」が牛耳っているわけです。


はい、ここまでついてこれましたか?


まあ、そういった小説のお話はここまでにして、私がこの小説で一番「へ~」と思ったのが「民主主義」と「法治国家」という概念です。

法律というものが国と言うものを作り、住民に網をかけていくまでは、一般庶民のルールは「村のルール」というものでした。

村長がいて、何かあったら談義し、何か問題があってもその村の慣習に従って、あるいは情けの部分もあり、そこで自活している人達が色々な判断をしていたわけです。

そしてそういった時代の人間は、一番大切なことは「食っていくこと」であり、あるいは生活の基盤である「村を守ること」であったわけです。
あくまで「食っていくこと」が「生きていくこと」でした。

だから、領主がどうなろうと、国王がどうなろうと、自分達が「食っていくこと」と「今までの村の自治を続けていくこと」が出来さえすれば、領主がどんな人であろうと関係なかったわけです。

逆に言えば、年貢が厳しくなく、ある程度の自由裁量をさせてくれる領主が「良い領主」「良い支配者」だったわけですね。

この頃の一般庶民からすれば、自分が支配される側であることに疑問を持たず、支配する側になりたい、という願望もよほどの人物ではない限り無かったようです。

支配する側と支配される側、これがヨーロッパも中国も日本も、どの国でも当たり前に続いてきたわけです。

そんな時代に秦(しん)という国は初めて「法治国家」を作りました。
紀元前200年ぐらいの話です。
でも、「食っていくこと」が大切な一般庶民にとって「法」というのはどうでもよく、「法」というものを作った始皇帝が死んでしまったら、その「法」自体を使う人もいなくなってしまったのです。

それがきっちりと根付くまでには、司馬遼太郎の考えでは、一般庶民が「食っていくこと」をある程度心配しなくても良くなる長い時間が必要だった、と書いています。

確かに、昭和初期の東北の大飢饉や戦後の「食べ物が無い時代」をイメージしても「食っていくこと」が大切で、別に国がどうなろうと法がどうであろうと、闇市があり、農家と都市住民が物々交換をしたりと、あくまで中心は法とか国ではありませんでした。

しかし、食っていくことが出来初めてようやく、一般庶民も文字や勉強や国や法という概念を身近なものにしていけたわけですよね。


ギリシャ、ローマで哲人がたくさん出ていますが、あれは「支配層」の話ですものね。
奴隷がいて、労働するものがいて、支配する側は裕福で、日々の食に困らない、そういった層が時間の余裕があるからこそ色々な思考が出来たわけで、国の政(まつりごと)を考える側、文字や法を勉強するのはあくまで「支配層」だったわけです。
日本でさえ、戦後までは、本を読んでいる暇があれば田畑仕事しろ、というのが一般的だったのですから。


そして、日本国民が食っていけるようになって、初めて法と言うものや国家と言うものを国民が語り始めたときに、既に「形としての民主主義」というのは明治時代に日本は輸入をしていました。

しかし、それは形上であって、支配され続けてきた一般庶民は、あくまで支配側が作った民主主義、そういったことを徹底的に考えてきた側が作った法律を「理解するように努める」のが精一杯で、そもそも民主主義って何なの?ということを深く考えるのは出来なかったんじゃないかな~と思います。

それは、私がそんなことを考えたことが無かったから


でも、この「項羽と劉邦」で書いている司馬遼太郎の考えに触れて「なるほど」と思いました。

「支配層」というものはいなくなり、国を統一する人物もいなくなった、という事実。
そして、国の政(まつりごと)を我々1人1人が考えてやっていこう、という思想。

これは、よほどの思考転換がないと出来ないことです。

俺がやるか、お前がやるか。
お前がやるなら俺は応援するよ。

こういったのが民主主義なわけです。

俺らの村が地域が、国を良くして、住みよいところにしていくために、俺がやるのか?俺がやらないなら、あいつにやってもらおう。


これが民主主義なわけですよね。


でも、この前提に「食っていくためには」というところがあれば、本気で考えるのでしょうが、逆接的ですが「食っていける状態」だから、こんなことを考えられる余裕があるわけですよね。

食っていけているから、死活問題ではないから、本気でそこまで考えない。

だから、民主主義といっても、与えられた民主主義で自発的な民主主義では無いわけです。

このあたりが、国の成り立ちから民主主義がわきおこったアメリカとは、日本は違うわけです。


昔から戦後まで、「食っていける」かどうから一番大切だった一般庶民。
そこに「支配層はもういないのですよ。これからは1人1人が国を作るんですよ」という概念が覆いかぶさってきても、今は会社に勤めていれば飯が食える時代。

あえていえば、会社がつぶれずに勤め続けること、あるいは年金がもらえること、そういった意味での「食っていけるかどうか」が一番大切だから、内閣支持の一番最大の理由が「雇用対策」であるのは、昔も今も変わらないのかもしれないけど。

でも、支配層から一方的な強制労働をさせられたり、年貢をとられたり、若者をひっぱられていったときの時代のことを思えば、真剣に自分達の国のこと、生きるルールである法律を考えられること、そういったことが出来るようになった「民主主義」というものは、本当は凄い変革だったんだな~、と小説を読んで思いました。

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大切なこと

2014年04月18日 | 自分の時間
畑作業、特に草取りなどの単純作業をしていると、色々瞑想が出来ます。

今日、畑の草取りを1日にしながら思ったことです。


「食べ物が体を作る」というのがありますが、子育てで一番大切なのは「食べ物」なのかな?と思ったのです。

いや、もちろん、命を続けていくために不可欠ですし、食べ物が人を作るのは間違いないと思います。
ジュースを毎日飲んでいる子が、それを止めただけで落ち着くようになった、といったような話は枚挙にいとまがないですから。


ただ、親の愛情が無い「えさ」としての食べ物を与えられ続けられても、その子供は健全には成長しないはず。

たとえ共働きで、外食や加工品を使っているお母さんであっても、愛情があれば、いくら材料が良くてもキーキー怒鳴っている神経質なお母さんよりもよっぽど子供にとっては「幸せな食卓」になると思います。

あと、猿もそうですし、動物なら人間もそうですが、「愛情を持って育てられた」という実感が無いと、自分の子供にもどうやって愛情をそそげばよいかわからなくなる、と言います。

次の世代にも繋がるわけですね。

なので、子育ては、1に「愛情」なんだろうな、と。


そして、炭酸ジュースや添加物たっぷりのお菓子を喜ぶからと言って平気で買い与え、好きなおもちゃも好きなだけ買い与えられ、幼少の頃からゲームやdvd漬けにされ、仮面ライダーやウルトラマンなどのテレビを毎週見て、教育といえば「塾」という環境で育てられた子供。

一方で、お母さんの手作りのお菓子やお料理を食べ、時には一緒にお手伝いをし、一緒に折り紙や工作をし、針仕事をし、お掃除などを一緒にし、一緒に遊び、本を読み聞かせたり子供の「どうして?」をしっかりと聞いて答えてあげる、そんな「生活」から多くのことを学べる環境の子供。

どちらが子供にとって健全かといえば、それは後者でしょう。

もちろん100%そんなふうにするのは難しいし、そんなことを言えば「じゃあ、あんたやってみてよ」という突込みが入るでしょうけど

でも、食べ物のこと、テレビやゲームなどは気にする対象ではなく疑問は待ったことは無く、「教育」は学校の勉強のことをさし、学校の勉強が出来るようになるために、遅れないために、幼少から公文や塾に通わせることを教育と思う親と、生活の中から食べ物の大切さ、ゲームやテレビ中毒の問題、暮らしの中やお友達や本との関係が大切だということを語り自分も実践する姿を見せるのが教育と思う親では、子供に全く違った価値観、人生観、力が出来上がるでしょう。

そうなると、1に「愛情」、2に「教育」が大切なんだろうな、と。


その上で、大切なのが「食べ物」なんだと思います。


もちろん、幼少の頃に外食や市販品のものばかり食べていると、普通の自然の味が普通と思えなくなり、マックの味やアミノ酸の味が普通とすり込まれてしまうと言います。

いわゆる味覚障害であったり、味覚の教育がされてしまうわけです。

すると、大人になってもそれが普通になって、世の中の1/3~1/2が糖尿病であったり、ガンであったり死んでいくという流れに、なんら疑問を持たず、要因の1つである不自然な食べ物を食べ続けることには疑問を感じなくなって育ってしまう危険があります。

あと、自分の代では症状が出なくても、子供や孫がアトピーなど可愛そうなことになったりするかもしれません。
何でも3世代後に出てくる、といいますから。

そして、自分の子供や孫にも同じよう食卓となってしまうわけですね。


ただ、教育を受けていれば、後で「理性」で修整が出来る可能性はありますよね。

そういう意味で、本当は「教育」が最上位なのかもしれませんが、江戸時代から昭和初期にかけてのストイックな教育ではなく、心豊かに自分の中に育まれた思いや愛情を糧にせちがらい世の中を切り開いていくのが今の時代だと思うので、小さい頃に大切なのは、やっぱり「愛情」なんだろうな、と思います。


まっ、その時々、考えは変わりますが、そんなことを思った草取りタイムでした
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幼稚園の帰り道

2014年04月17日 | 素敵な家族・子供との時間
年長さんになったわが子と初めて幼稚園の送迎をしました

やっぱり徒歩で一緒に歩いていくのは最高に楽しいですね~。

バスの送迎が無いからこそ、途中途中の道端に落ちている石っころや、たんぽぽ、チョウチョ、松ぼっくりなどが全て関心の対象となり、「何かをしにいく場所」に行くのではなく、「家を出たときから始まり」となるわけです


そしてお迎えのとき、初めて年長の担任の先生とお話ができました。

最後の1年間お世話になる先生です。どうぞ宜しくお願い致します

そして、幼稚園内で1時間子ども達と遊びまくり、幼稚園を出た後も通り道の公園で他の子ども達も含め遊び、家に着いたのは18時頃

さすがにヘロヘロでしたが、しかし可愛いわが子と一緒にたっぷり遊べるのはたまりません

そんなわが子が道端の花を見て

「あのね、母の日にね、お花をこっそり摘んで、葉っぱでまいて、ママにプレゼントしようと思うの」

とこそこそ話しをしてくれました。かわいいな~


ちなみに、母の日を幼稚園では教えてくれているようです。父の日も教えて

そして、帰り際の最後に作ったのがドングリをコンクリートブロックで潰して、そこに玉ねぎの変わりの枯れ草や、桜の花びら、くぬぎの木の花、草が混ざっています。

名前は「太陽の炒め物」だって

松ぼっくりも添えてあって、芸術的なこと


自分の子供は100回見ても100回可愛いし、一緒にお散歩するだけで至福の時です。


最後の1年、残りの貴重な時間を、じっくりゆっくりと味わいたいと思います
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イチゴ三昧

2014年04月16日 | 農的体験・生活
いつも美味しいイチゴを作っている石井さんのところで、トラブルがあったお詫びのような形で、大量のイチゴをもらいました

傷み物やうどん粉病などが混ざってはいるものに、ダンボールに半分以上入っていたので、もうとんでもない量です
(写真はボケボケですが)


選別した上でも大量にあり、ボール2杯分をまずは2日かけて生食で食べました


また、奥さんが残りの一部を冷凍して、さらに残りを大鍋でジャムにしました

大鍋一杯のジャムなので、とても食べきれないのでママ友に配ってようやくイチゴの処理(?)が終了

いつもイチゴ刈りに行くとこうなるのですが、今年はまだ石井さんのところではイチゴ刈りの予定が組まれていません。

しかし、ようやく「イチゴ三昧」が出来てよかったです

そして子ども達にとっては「パラダイス」な日でした
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花咲き乱れる畑

2014年04月15日 | 農的体験・生活
畑のアブラナ科は花満開です

スティックブロッコリーは、小さな菜花の塊。


キャベツも爆発して菜花を咲かすんですよ。


そして、越冬して花を咲かせ、実をつけはじめる準備をし始めたソラマメ。
今年はアブラムシの被害が少なければいいけどね


スナップエンドウも順調です。



花を咲かせている野菜たち、とてもきれいですね。

そして、そろそろ夏野菜の準備も始めなくちゃ

畑を耕すことがウキウキしてしまう、そんな季節です
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第3回食と命の教室

2014年04月13日 | 農的体験・生活
日曜日、第三回目の「食と命の教室」が開催されました

今回も新しい方が加わり、第人数での教室でしたが、さらに「クロワッサン」という雑誌の取材と「成田ケーブルテレビ」の2本立ての取材もあり、いつも以上に盛況でした。

さて、前回が「土」の話だったのですが、今回は「種」のお話。

高柳さん的には、「種」というと「種(しゅ)」をイメージするようで、人類、ひいては日本人は何を食べて来たのか?ということを話されていました。

個人的には里芋が縄文時代にあったという話を聞いてびっくり


私からは、「種(たね)」の話として、在来種・固定種、F1のお話や遺伝子組み換えのお話を少ししました。


色々本を借りてきて調べたら、肉・油・砂糖・調味料のほとんどは遺伝子組み換えが既に混入していますね。

私も気をつけている方だと思っていましたが、きちんと調べてみると、例えばキューピーのドレッシングの油は遺伝子組み換えのようですし、一般的な家畜の肉はほぼ遺伝子組み換え飼料ですからね。

狂牛病を怖がる人は、ぜひ遺伝子組み換え飼料を食べさせられたマウスがどうなったか、「世界が食べられなくなる日」という映画を観てみてくださいね。そのブログは→こちら

遺伝子組み換えの話になると、1日が過ぎてしまうので、話を教室に戻します


さて、相変らず超美味しいお昼ご飯をみなで食べて満喫した後、午後は農作業です。



今回は「瓜類の種播き」をする予定だったのですが、急遽、枝豆を播くことに。

高柳さんが木の板のようなもので、碁盤の目のように印をつけていき、その線が交わっているところにみんなで種を播いていきました。


たくさんの人数で播くと、あっという間に終わってしまいます。やはり農業は人数だな~。


ちなみに、これは「苗作り」のための種播きです。
「豆はいじめた方がよく実る」ということで、結構密植で播いて苗ができたら、引っこ抜いて植え替えるそうです。

また、高柳さん流の豪快なやり方で、種は指で軽く押し込んだら、土はスコップで上から放り投げるようにかぶせる、というやり方でした。
凄い



さて、そのあとはたけのこ掘り

今が旬のたけのこ。
私も東京から田舎に行ったとき、たけのこ掘りをやってとっても嬉しかった記憶があります

既にたけのこ堀りをやったことがある2人には申し訳なかったけど、それ以外の全員がやったことがない、ということで、高柳さんの山へ出かけました。

しかし・・・、高柳さんの山ではまだたけのこが出ていませんでした

すると、「親戚の山へ行こう」と高柳さんが別の山へ連れていってくれました。

そこでは、い~っぱいたけのこが取れましたよ


また、そこのおばちゃんが「山椒をとっていっていいよ」ということで、みな、山椒の良い香に包まれながら、のどかな時間を過ごしました


帰った後は、お話会。

しかし、高柳さんがお酒を持ち込み、飲める人は軽く一杯。

そして、いったん終了後、バス帰り組の中で「飲みたい」という方がいて、それをきっかけに大宴会が始まってしまいました

参加者の1人の人生相談会のようになり、酔いつぶれる人も出て、夜までワイワイガヤガヤ。

こんなの大学のサークル依頼だ、というノリになりました

大人になっても飲みながら仕事ではなく普段考えていることを語り合えるっていうのは、至福のひと時だな~と思いました

そしてそういった場をきさくに設けられる高柳さんの懐の深さは凄いな~と改めて思いました

いや~、この数年で一番美味しい楽しいお酒を飲みました


初めて参加の人もアットホームですぐに仲良くなり、その楽しく深いお話に引き込まれ、仲間が出来てしまう「食と命の教室」
次回は5月24日(土)で、ひまわりやゴマの種を播きますよ~。

土に触れてみたい方、食べ物は自分が住んでいる土地に出来るものを体に採りいれる、という意味を体感したい方、まじめなことを語り合いたい方、楽しく農作業をしたい方、色々な方が参加しています。

ご関心がある方は、是非お越しくださ~い

「食と命の教室」は→こちらから
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