ためになる、面白い本です。
河合隼雄さんは、日本の臨床心理学のパイオニアで、ユングの分析心理学を日本に初めて持ってきた方です。
しかし、どうも西洋の心理学をそのまま日本に持ってきても通用しないことがある、という事に気づき、日本人にあった心理学を提唱し、そこから日本の文化にもついても深く考察し、「昔話と日本人の心」とか「ユング心理学と仏教」など、日本文化と海外の文化の違いから心理学を日本にどう根付かせるか、あるいは日本文化をどうとらえてこれからの時代を生きていくか、ということを提唱していた方です。
文化庁長官にもなったことがあります。
で、この本は、学校の先生だけでは子供たちに対応できない、ということで、「スクールカウンセラー」を現場に出していこう、という政策が決まった後、日本にある臨床心理学の協会や学会が1つになって、「スクールカウンセラー」をどう根付かせて推進していくかを目的にした「学校臨床心理全国研修会」で、基調講演を毎回頼まれていた河合さんの講演録をまとめた本です。
ためになり面白いと思うのが、1つがスクールカウンセラー側からみて、時代の変化とともに、学校の現場や子供たちがどうなっていっているか、という変遷がわかるということ。
もう1つが、学校の先生とは全く別の存在であるスクールカウンセラーがどうあるべきか、といったところが時代に即した講演テーマに沿って提示されていること。
そして、日本文化における教育論、集団と個人、そういったところまで深く踏み込んだ話が満載ということです。
学校の現場がどうなっていっているか、というと、以前、書いた諸富さんの「教師の資質」という本に書いてあった通り、今までは「先生が教えたことをみながきちんと聞く」という考え方、言葉を変えれば文化が日本にはまだあったので、先生は「〇学年までにここまで学習させるというゴール」をいかに学級全体で達成させるか、という事を考えていればよかったわけです。
ところが、高度経済成長から学校側に求められた受験競争、偏差値競争で、「不良」といった子供たちが出てきて、その子たちは「全体を乱す悪い存在」となった。
そうした「不良対策」という考え方が出始め、そのうちその子をセーブできない学級は「学級崩壊」に至り、さらに「いじめ、自殺」といったところまでいってしまった。
そうした中で「画一的な教育はいけない」という批判が起き、「自由」という実態のない価値観というか言葉が入ってきて、「個人主義」という言葉と相持って、文科省側も「個人が大事」という言葉を言い始め、親もそういった立場を持つ人が増えてきて、そして今でいう学習障害という子ども達も増え、「全体をいかに」というところから、「1人、学級を荒らす子がいたら他の学習をしたい子の迷惑がかかる。それは先生が問題だ」という指摘がされるようになり、先生も追い込まれていく。
そんな中で、「カウンセラー」が導入されていく流れになった、と。
ここで河合さんが面白いのは「先生は全体をみなくてはいけない。しかし、カウンセラーは個をみなくてはいけない。だから立場が全く違う」という事をあえて明確に認識しなければいけない、と提示した上で、「学校の先生達からみれば、カウンセラーは黒船である、というほどの衝撃があることを認識しなくてはいけない」と当初は言っていたのが面白かったです。
学校はそれまでは「学級全体をいかに先生がとりまとめ、一定の学習レベルまで全体を上げていくか」というのが仕事だった。
それは、いわば日本の文化だった。全体のためには個性は多少は犠牲にしてでも、全体のために尽くす、全体を良くすることを感がる。これは暗黙の了解、文化だった。
ところが、カウンセラーは、まさに西洋の考えで、「個人主義」そのものだ、ということ。
西洋では、「教えることは先生の役目だが、それについていけるかどうかは個人次第」というドライな考えが当たり前で、何かメンタルな問題があったりすれば、「それはカウンセラーの仕事」と先生も割り切っている文化がもともとある。
しかし、日本は「全体のことを考えながら、そのために個人の事も同時に先生は出来るだけケアする」というのが当たり前で、そこに、「個人のことは外部の人に任せる。しかもそのカウンセラーという人は、自分の生徒と話したことは基本的には秘密で、担任の先生、校長には明かさない」という、全く今までにないことで、これは「日本文化と西洋文化のぶつかりあいで起きる衝突と同じことが、学校でも起きる、ぐらいのことを考えていかなくてはいけない」と書いているんですね。
その上で「これから日本人は個人主義の良い所も取り入れていかなければいけない時代であり、その大きな試金石にもなるのが、あなたがたカウンセラーなのです」と、学校に派遣されるカウンセラーに諭しているんです。
文化論ですよね。
そして、この話は20年前ぐらいのことですが、それから10年ぐらい経つと、「カウンセラーがだいぶ浸透してきた」一方で、「俺、鉄砲持っているんだよ」とか「俺、これから〇〇を殺しに行く」とか「もう死にます」というのが当たり前に話題に出てくるようになった。
それが、ちょっと前なら「ばかやろー!」でぶんなぐって終わりだったのが、下手すると本当に人を殺してしまう、あるいは本当に自殺してしまう時代になった。
そこで、カウンセラーの資質が問われていて、それはマニュアルで出来るものではなく、全人格でぶつからないと、自分もギリギリのところに追い詰められた上で判断が出来なければいけない、と、いうことになった。
「だから、カウンセラーは専門家なのです。ちょっと訓練がした人が出来るものではないんです。そして、自分がギリギリに追い詰められながら、またちょっとしたミスで人が死んでしまう、そういった仕事をしている、という覚悟をもった人でないと出来ない。逃げたい、という人は辞めないといけない、そういう仕事なんです」
とまで言い切っているのが凄い。
エピソードであったのが、「俺、銃を持っているんだよ」という相談を受けたカウンセラーが、この「秘密」を明かしてくれた学生とのだけの会話にとどめるか、あるいは警察や先生に言うか、時と場合、学生の深層心理、学生とカウンセラーの人間関係など、色々な条件によって、その言葉の重みが違うので、答えがあるわけではないという前提で語られたのですが、このカウンセラーは「私はカウンセラーだから君との秘密を守らないといけない。しかし、銃を持っていると聞いた以上、私は君との秘密を先生や警察に伝えないわけにはいかない。だからカウンセラー失格だから、カウンセラーは辞める」と言って、ひと騒動あったそうです。
しかし、その生徒が警察沙汰になった上で、落ち着いた頃、「先生、俺、ああいってくれたから良かったよ」となり、それでもその先生は「いや、私はカウンセラーを辞める」となったのですが、その生徒の「いや、辞めないでくれ」という嘆願で、カウンセラーを続けることになったそうです。
そういった全人格でぶつかってくる大人がいれば、色々な思いを募らせている生徒も、「こういった大人がいるんだ」と希望が持てるんでしょうね。
繰り返しですが、これは1つの事例であって、こういった場合はこうすればいいという問題ではない、と繰り返し河合さんは言っています。
だから、全人格で勝負しなくてはいけないし、専門家ではなくてはならない、と。
そして、そういったことは、生徒との間で問題が解決する時代ではなくなり、今はその親、担任、校長とも良い連携を考えないといけない時代になった、難しい仕事かもしれないけど、それがカウンセラーの仕事であり、それをやりきれない、という人は、カウンセラーを辞めなさい、と。
凄いですね。
なお、今はどうなっているかわかりませんが、この本の10年ぐらい前の話で、カウンセラーへの国の予算はどんどん削られているそうです。
どんどん混迷していく教育現場、人材の数そのものが欠乏していて、先生の資質を上げるどころか、どうやって先生を辞めさせないか、という所まで来ている時代。
どんなことも、一番インパクトになるのはお金。
工夫を出来る余地をとっくに超えている学校現場、カウンセラーに限らず、国家予算を「教育こそ国家100年の大計である」と英断できないものですかね。