大晦日の早朝、久々に子供たちが起きる前に朝マックに行き、1年の振り返りをしました。
パソコンの数字ばかり見ていると今までの積み上げや、細かいことしか目がいきません。
やはり大切なことはノートとペン。これは変わりませんね。
ということで振り返ると、やはり1番は、平成29年も大きな体調の崩れはなく、無事に過ごせたことが一番有難かったな~ということです
人は肉体が健康でないと精神も病んでいきます。
これは体験してみないとわかりません。
普通の生活をするだけで苦しく、明日の活動に自分の体がついていけるか、遠出が出来るか、飲み会に出れるか、ということにビクビクしている月日を過ごすと、人間はどうしても精神的に弱くなっていってしまうのですね。
こういったことを厄年の2年間で経験をしたわけですが、60代にぽっくり行く人が多い今の世の中で、40代で健康の有難さに目覚めることが出来て本当に良かったと思います
そして、振り返るとやはり高柳さんや「あな健」の東城先生に出会えたことも人生にとって大変大きいことだと改めて思います。
もともとは東京の企業戦士だった私が、農村を訪ね歩いたことで「生きることはは生活することなんだ」と気づき、今のような生活に入ったわけです。
それから少しずつ、生活を紡いできたわけですが、「成田に根付く」と決めたことで、高柳さんと出会い、高柳さんを師として仰ぎ、生き様から学ばせていただいてきました。
そして、高柳さんと「食と命の教室」を開催する中で、「あな健」の方々にお会いでき、なんとなく知っていた「自然療法」の東城先生のところの月刊誌「あなたと健康」と購読するようになり、毎月、大変深い勉強をさせていただいています。
この数年は儒教や安岡正篤さんの本、「古事記のこころ」の小野先生の神道の話、また、高柳さんの影響による仏教など、かつては全く関心がなかったことですが、「人はどう生きるべきか」「立派に生きる大人というのはどういった生き方をしている人間なのか」ということを少しずつ学んできました。
そうしますと、よく、教室などで話すのですが、辰巳良子さん、無着成恭さん、東城百合子さんなどの90代の方々の生き方、生き様というのは、我々昭和生まれの団塊ジュニア世代とは明らかに違うことがわかります。
ということで、私にとっては存命で師と仰げる存在として、いつもお会いしている高柳さん、そして毎月魂の記事を読ませていただいている東城先生が師になります。
そして振り返ってみてわかることは、例えば高柳さんも東城先生も、話している内容は大体がいつも同じなのです。
最初の1~2年ぐらいは「その話は聞いたな~」という思いもあったのですが、深くつきあっていくと「話している内容」が大事ではないのですね。
というか、「同じことを何度も何度も、繰り返し繰り返し伝えていただく」ことこそが、本当の学びなんだということがわかってきたんですね。
なので、毎回学ばせてもらっているのですが、その学びとは「何を教えられたか」ではないということに今回の振り返りで気づきました。
やはり、生き様、その生き方自体が私の鏡になっているのです。
高柳さん、東城先生などの「生き方」に自分を投影して、自分の不甲斐なさ、懐の浅さ、人間としての器の小ささを感じ、逆に大きな存在の師への感謝や尊敬の念が生まれるわけです。
師とは何かを学びとる存在であったり教えてもらう存在ではないんですね。
自分の姿を映す鏡として、その鏡を見ながら自分がいかにまだまだか、ということに気づき、精進しようと心を奮い立たせる、そんな存在なんだな、と。
そんなことを久々に時間を取って1年を振り返ったものとして出てきました。
来年も、というか私の関心は結局は「どう生きるか」という事になるわけですが、これからも魂を磨き、自分の生き様が後世にとって少しでも役に立つように、自分の人生を開拓していきたいと思います
写真は年末ぎりぎりに掃除にいった我が家の墓がある公園に咲く小さな花。
可憐で美しい花でした。
この時期はもう春の芽吹きの準備が始まっているんですよね。
パソコンの数字ばかり見ていると今までの積み上げや、細かいことしか目がいきません。
やはり大切なことはノートとペン。これは変わりませんね。
ということで振り返ると、やはり1番は、平成29年も大きな体調の崩れはなく、無事に過ごせたことが一番有難かったな~ということです
人は肉体が健康でないと精神も病んでいきます。
これは体験してみないとわかりません。
普通の生活をするだけで苦しく、明日の活動に自分の体がついていけるか、遠出が出来るか、飲み会に出れるか、ということにビクビクしている月日を過ごすと、人間はどうしても精神的に弱くなっていってしまうのですね。
こういったことを厄年の2年間で経験をしたわけですが、60代にぽっくり行く人が多い今の世の中で、40代で健康の有難さに目覚めることが出来て本当に良かったと思います
そして、振り返るとやはり高柳さんや「あな健」の東城先生に出会えたことも人生にとって大変大きいことだと改めて思います。
もともとは東京の企業戦士だった私が、農村を訪ね歩いたことで「生きることはは生活することなんだ」と気づき、今のような生活に入ったわけです。
それから少しずつ、生活を紡いできたわけですが、「成田に根付く」と決めたことで、高柳さんと出会い、高柳さんを師として仰ぎ、生き様から学ばせていただいてきました。
そして、高柳さんと「食と命の教室」を開催する中で、「あな健」の方々にお会いでき、なんとなく知っていた「自然療法」の東城先生のところの月刊誌「あなたと健康」と購読するようになり、毎月、大変深い勉強をさせていただいています。
この数年は儒教や安岡正篤さんの本、「古事記のこころ」の小野先生の神道の話、また、高柳さんの影響による仏教など、かつては全く関心がなかったことですが、「人はどう生きるべきか」「立派に生きる大人というのはどういった生き方をしている人間なのか」ということを少しずつ学んできました。
そうしますと、よく、教室などで話すのですが、辰巳良子さん、無着成恭さん、東城百合子さんなどの90代の方々の生き方、生き様というのは、我々昭和生まれの団塊ジュニア世代とは明らかに違うことがわかります。
ということで、私にとっては存命で師と仰げる存在として、いつもお会いしている高柳さん、そして毎月魂の記事を読ませていただいている東城先生が師になります。
そして振り返ってみてわかることは、例えば高柳さんも東城先生も、話している内容は大体がいつも同じなのです。
最初の1~2年ぐらいは「その話は聞いたな~」という思いもあったのですが、深くつきあっていくと「話している内容」が大事ではないのですね。
というか、「同じことを何度も何度も、繰り返し繰り返し伝えていただく」ことこそが、本当の学びなんだということがわかってきたんですね。
なので、毎回学ばせてもらっているのですが、その学びとは「何を教えられたか」ではないということに今回の振り返りで気づきました。
やはり、生き様、その生き方自体が私の鏡になっているのです。
高柳さん、東城先生などの「生き方」に自分を投影して、自分の不甲斐なさ、懐の浅さ、人間としての器の小ささを感じ、逆に大きな存在の師への感謝や尊敬の念が生まれるわけです。
師とは何かを学びとる存在であったり教えてもらう存在ではないんですね。
自分の姿を映す鏡として、その鏡を見ながら自分がいかにまだまだか、ということに気づき、精進しようと心を奮い立たせる、そんな存在なんだな、と。
そんなことを久々に時間を取って1年を振り返ったものとして出てきました。
来年も、というか私の関心は結局は「どう生きるか」という事になるわけですが、これからも魂を磨き、自分の生き様が後世にとって少しでも役に立つように、自分の人生を開拓していきたいと思います
写真は年末ぎりぎりに掃除にいった我が家の墓がある公園に咲く小さな花。
可憐で美しい花でした。
この時期はもう春の芽吹きの準備が始まっているんですよね。