駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

建設が非建設的になるわけ

2018年12月19日 | 小考

             

 

 よく行く寿司屋の若大将は東京で修業したせいか、懐かしいようで年に数回築地に出かける。もう築地はなくなり豊洲になったので、先日豊洲に行ってきた話を聞いた。意外なことに狭いという。何だか通路が狭くなり、移動車による事故も起きているという。それと換気が悪くちょっと臭うという。生魚を扱いつけている鮨屋がそういうのだから、かなりのもんだろう。アクセスが悪くてごちゃごちゃ居た見学者が少ないそうだ。

 狭いのは一階と二階に分ける予定の仲買を不公平だというので一か所に集めたせいもあるという。見学者のアクセスが悪いのはある程度仕方ないにしても、仕事で来る人が大変なのは拙いのではないかと聞いた。

 総じていくつか不備不満があるようだが、できてしまったものはしょうがないという雰囲気らしい。良くなったところは聞き損ねたがいくつかはあるだろう。

 政治主導による箱物建設移転は殆どいつも上手くゆかない。反対があるから強引になり、強引だから反対すると水掛け論になりがちだ。強引だと調和は勿論妥協も難しくなるし、とにかく反対では建設的な議論ができなくなる。出来上がったものは自画自賛、他人非難のレトリックの応酬で当事者はいい面の皮となる。これが零細企業の場合は尻の持っていきどころがなく痛みは直に感じられるから、無駄損失欠陥は最小限に留まる。政治主導だと無駄損失欠陥は当事者精神の薄い住民や国民に拡散してしまうので、痛みが感じられず、十年掛けても中々会心の作はできないということらしい。

 それにちょっと飛躍するかもしれないが中枢と末端というのもありそうだ。救急外来では胸が痛いと言えば上級医まで集まってくるが、足の小指が痛いと声を上げてもへのこっておけと卒後二年目の医者が回ってくる。

コメント
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