小林秀雄は無常と言ふ事の「実朝論」の書き出しで芭蕉が中世の歌人では西行と実朝を挙げていることを紹介している。また万葉調と言われる有名な歌「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄るみゆ」を小林は大変悲しい歌であると主張する。陰惨な暗殺集団のうえに乗っかった無垢(むく)な詩人の孤独をみている。
吉本隆明の実朝のもろもろの歌に対する見解は小林とほぼ同じだ。吉本によると、初代・頼朝が義経を討ったのは猜疑心や小心さではなく、在家武家層の慣習に従うことで関東武者たちを納得させカリスマ性を獲得したとみる。頼朝は律令王朝を改廃せず、位階をもとめる意志もなく、ただ征夷将軍の任さえあればよいと慎重だった。(小平市中央公園のメタセコイア並木)
三代・実朝が務めたことは鎌倉の里のうちや、伊豆箱根の神社仏寺もう出ることだった。一度も上洛して律令朝廷へ伺候することもしなかった。実朝は和田義盛のようなような頑固で武骨な宿将が好きであったが、和田合戦で信頼すべきすべての家人を失う。その後、実朝が北条一族の執政に対しておしとおしたことがある。ひとつは渡宗の計画(建造された船は遠浅の鎌倉の浜で浮かぶことなく朽ち果てた)であり、ひとつは晩年官位の昇進をしきりにもとめたことである。
義時にしてみれば実朝に太政大臣に就任されたとしたら武門勢力が律令王権の体制下に組み込まれてしまうことになる。義時と広元の諫言(かんげん)をしりぞけたうえは、あと実朝に残されのは〈死〉だけ、ということは自明であった。ところがNHKの「英雄たちの選択」の最近の番組では、異なる実朝像が描かれていた。和歌で都の後鳥羽上皇との信頼関係を築き、朝廷の権威で御家人たちを統制、幕府の武力が朝廷を支えることで平和な世を築こうとしたというのである。この見解には私として賛同しがたいものがある。
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