読者が決める「日本一」という他愛ないトラベル記事がある。今回の「美肌の湯」については1位が湯布院温泉(大分)だという。以下の順位は登別(北海道)白骨(長野)草津(群馬)と続く。記事内容は湯布院温泉のみだ。朝鮮戦争の特需などで戦後復興が始まったころ、湯布院町は深刻な財政危機に直面していた。そんな時代に湯布院温泉は「奇策」に打って出る。歓楽街反対を打ち出し、ゴルフ場の開発計画も頓挫させ、「自然との融合」を掲げた。文化・芸術にも挑戦し、ゆふいん音楽祭や湯布院映画祭を成功させた。辻馬車を運行しマイカー路線と一線を画した。
日田英彦山線を経由して久大本線への鈍行列車の旅で私が初めて湯布院を訪れたのは08年の暮れである。昼間の入浴だけが目的で飛び込んだホテルの露天風呂からくっきりと由布岳が見えていた。冬とは思えぬ暖かい日で、由布岳の向かいの小高い山あたりではハンググライダーがいくつかのんびりと旋回し、風呂の近くの林からは小鳥のさえずりが聞こえていた。あのような瞬間に出会えたことは幸運としか言いようがない。思い起こせば湯布院駅の待合所は壁の写真に囲まれてまるで常設ギャラリーだった。街はベンチや甘味どころや小物の店が目立ち、何かほっとする雰囲気がある。
小林秀雄(83年没)の晩年の友人の一人に政治漫画家の那須良輔(89年没)がいた。最近私はその那須の「好食随伴記」なるものを読んだ。それによると小林は晩年の約十年は、湯布院を訪れることが年中行事になっていた。宿は「玉の湯」でここの料理が特に気に入っていた。刺身なら刺身には自然の甘みが具わっているだろう。砂糖や味醂で煮物に味をつけるなら、その日に出す刺身の甘みと、甘味の系統を揃えられなければ職人じゃない。「玉の湯」はこれが出来てるよ。と毎年ご満悦で通いづめた。昭和50年5月5日の由布院行きは、わらび狩りで車が混むと運転手が言い、空港から別府への中間にある日出(ひじ)町の「的山荘」で一息入れた。名物の城下(しろした)カレイを肴に酒。
牛を言うなら、豊後の黒牛も落とせない。湯布院旅行の目的の一つがこれだったと那須は書いている。小林が湯布院旅行を好んだのは食のためだけだったとは考えにくい。食に淡白な私でさえが魅了された湯布院なのだ。そうだ不思議な魅力をもつこの風土をいつの日かもう一度訪ねよう。ただし一泊3万円の「玉の湯」は敬遠することになるだろう。食に関して私にできることは旬な食材を手に入れるよう心がけることぐらいだ。しかし人は永年の年月で身についた生活の習性は簡単に変えられない。旬な食材を追い求める貪欲さを持ち続けることだけでも私には難しい。
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