公民館での囲碁の対局はいつ再開されるのか見通しが立たない。さすがに飢餓感がふつふつとわき起こる。困ったことにネットでの対局に走る気はない。たまには温泉にでも出かけて気分一新したいのだが、それにも踏み切れないでいる。そんな中でブログ「海鳴りの島から」を欠かさず見ている。基地建設に反対し、辺野古の海に連日カヌーを漕ぎだしている目取真さんたちのことを思い頭をたれる。米軍基地からの感染拡大も懸念される。
日本社会のコロナへの対応を批判するウイルス学者のインタビュー記事を興味深く読んだ。実態に合わない対応がつづいている。亡くなった方を遺族にも会わせずに火葬したり、学校で毎日机やボールを消毒したり、おかしなことだらけだ。ウイルスが街に蔓延しているわけじゃない。社会での感染対策としてリスクの高いところからつぶして行くことは可能だ。ゼロリスクを求めれば「念のため」と対策もどんどん大きくなる。しかし、そのもとで多くの弊害、人と人の関わりがなくなったり、差別してしまったり、職を失い、ウイルスではなくその対策で命を落とす社会的弱者もいる。(里芋の成長)
哲学者・国分功一郎がテレビで、イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンの二つの主張を紹介していた。一つ、葬儀も行われずに埋葬される、親族でさえも会えない。そこで「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのか」という問いを立てた。二つ、他の自由にもまして守るべきは「移動の自由」であるとして母国イタリアの都市封鎖を痛烈に批判した。またベルリンの壁の崩壊を経験したドイツのメルケル首相が「移動の自由の制限は絶対的に必要な場合のみ正当化される」と述べながら国民に呼びかけたことに、国分は「さすがだなと思った」と脱帽する。
村八分とは掟を破ったものを村の相互扶助の仕組みから排除する制裁のことである。村にはかつて、婚礼、看病、家の普請、水害時の世話など、協力して行う仕事が十分あった。うち消火と埋葬の二分を制裁から外したのは、延焼と伝染病が村人に及びかねないからだと考えられている。そこで「埋葬」をさらに考えてみた。伝染病のためだけではなくやはり死は何ものをもを圧倒する一大事だからではなかろうか。アガンベンが先の問いを立てたとき、彼が視ていたものは人類の大量虐殺の歴史であったような気がする。
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