五木寛之と釈徹宗の対談本「70歳!人と社会の老いの作法」を読んだ。タイトルで気づいたことがある。2016年の出版当時、五木84歳釈56歳を足して2で割ると70歳である。その後、この10月には、89歳となった五木の「私の親鸞・孤独に寄り添うひと」(新潮選書)が出版された。これも機会があれば読んでみたい。
対談本のあとがきで釈が「この人(五木)はもしかするとものすごい狂気を潜ませているかもしれないぞ」と筆をすべらせている個所がある。狂気というよりは「老い」は釈よりも五木の方がより切実な問題だということだろう。釈が指摘している(と思われる)五木の発言を採録してみたい。(モクズガニ・上海蟹と同族異種)
「周りに迷惑をかけず、滑稽な印象も悲劇的な印象も与えずに淡々と自分で世を去っていくにはどうしたらいいか。これはわれわれ世代にとっては切実な問題です。トルストイ。芭蕉。旅路へ赴き、訪れる死を受け入れるというのは一つの理想形かもしれません。シベリアへ行って、ツンドラの中で凍死するのはどうだろうかなんてね」釈は「すごいことを考えておられますね」と応じていた。
「知り合いの医者の父親は、もうこれで充分だと決めたその日から非食を始めた。最後は水もろくにとらずに枯れるようにして亡くなっていったそうです」釈は「生老病死は思うようにデザインできないと教えられた」と仏教者の立場だ。作家・村田喜代子の「蕨野行」(文春文庫)を話題にしたのは五木だ。遠野物語の「デンデラ野」のごとく、ある程度の年齢になると山に入って高齢者だけで暮らして、死んでゆくという物語だという。