玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*秋深き隣は何を

2021年08月12日 | 捨て猫の独り言

 図書館の新刊本コーナーで多川俊英著「俳句で学ぶ唯識超入門」に出会い、興味深く読み終えた。やはり西洋哲学よりも仏教の方が私には馴染みやすい。小林秀雄の言葉「無私」は仏教の要諦だし、池田晶子も晩年は禅仏教に共感していた。養老先生も「唯脳論はお経だった」なんてことを言っている。(ヤブランとカサブランカ)

 

 この本の中で長谷川櫂氏の「隣にいるのは誰か」という一文が紹介されていて、それを読んだ私に衝撃が走った。どうしてもその一文をここに採録したくなった。それは芭蕉が亡くなる十日ほど前の句「秋深き隣は何をする人ぞ」についての重厚な解釈である。《病に倒れて横たわっていると、あたりはひっそり静まっている。その静寂の向こうに耳を澄ますと船場の町の賑わいがかすかに響いてくる。

 それは5年前の夏、立石寺の岩山の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句ができたときと似ていた。芭蕉は現実の世界をふっと忘れて天地に満ちる宇宙の静寂に包まれるような気がした。あるいは8年前の春、江戸深川の芭蕉庵で「古池や蛙飛び込む水のおと」と詠んだときも同じだった。あのとき芭蕉の心に浮んだぼっとしたかたまり、それが古池だった。

 町中の座敷に横たわる芭蕉の身にそれと同じことが起きていた。また永遠の静寂を見つけてしまったのだ。その静寂こそが「秋深き隣」だった。何光年も離れたはるかな宇宙空間に浮かぶ白い部屋。芭蕉は死の姿を見たわけではない。死の気配を感じただけである。だからこそ「隣」なのだ。そこに存在しているのに壁や襖や塀に隔てられて見えない場所、それが「隣」》

コメント
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