玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*ことば遊び(二)

2016年03月28日 | 捨て猫の独り言

 池田晶子氏の著書から引用する。「現象でなく論理としての死、すなわち(ことばで)考えた死を考える。まず一人称の死というのがある。「死が存在するときには私は存在していない」そして「私が存在するときには死は存在していない」つまり一人称の死は存在しない、無いということになる。二人称の死は親しい人の死でいつまでも生きているという言い方が可能、三人称の死は一般的な死で誰それさんが死んだと我々は納得している。

 我々は現象と論理のはざまで生きていると池田氏は言う。関連する素適な詩と歌があった。「私たちはくり返すことができる 他人の死なら 私たちはくり返すことはできない 自分の死を(谷川俊太郎)」「わが死後の空の青さを思いつつ 誰かの死後の空しか知らず(内山晶太)」そしてまた解剖学者の養老先生は、一人称の死体は概念としてしか存在せず「ない死体」  二人称の死体は悲しみでみる死で「死体でない死体」 三人称の死体は無関心でみる死で「死体である死体」と解説している。(五日市街道のコブシ)

 

 近藤勝重氏の3月17日の夕刊コラムに興味深いものがあった。数学者岡潔氏は「自然の中に心がある」という仮定と「心の中に自然がある」という仮定の二つがあると断ったうえで、こう続けている。「十五年前にははじめの仮定を採用していた。しかしいまは後の仮定を採用している。心の中に自然があるのだとしか思えないのである」 そうだとすれば「自分」はある時は月に、またある時は花に変わるわけだ。いや、面白い。(ハクモクレンとシモクレン)

 「○○上手な○○下手」というフレーズがある。最初に目にしたのは、ある週刊誌の競馬記事のタイトル「予想上手の 馬券下手」だった。これとよく似た傾向のものに「商い上手の 仕入れ下手」がある。教訓的になると「話上手の 聞き下手」や「口自慢の 仕事下手」などがある。「病上手の 死に下手」は良く病気にかかる人は簡単には死なないということ。これは冷ややかにみているのかそうでないのか判断に悩む。

コメント (1)
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