玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*短歌雑誌

2014年09月02日 | 捨て猫の独り言

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 そうか君はもういないのか。親しかった人を送って、その事実をなんども確認している。いま思えば宣告を受けたあとの電話だったのだろう。「年を取るということはこういうことかと思う」「70まで生きてこれで十分」などと強がりを言っていた。徒然草に「人は皆死ぬことを知っているが、その覚悟もしていないとき、突然やってくる。沖の干潟が遥かに見えても、まもなく磯辺に潮がみちるように」とある。だから若いうちに突き進めと。そう君はまだまだ若かった。

 視力の関係もあるが私の読書の時間は無いに等しい。たまに図書館で手にするのは月刊誌「NHK短歌」である。昨年から永田和宏が「時の断面・あの日、あの時、あの一首」というコラムを連載している。「歌を一首作るということは、自分の持った時間に錘(おもり)がつくということです。その時間が他のどの時間とも違って、特別な意味を持つようになる。歌を作るということは無意識のうちに自分の外側を過ぎてゆく時間に楔(くさび)をうちこむということにほかなりません」

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 恋の時間というテーマで取り上げた歌の一つに「夕闇の桜花の記憶と重なりて初めて聴きし日の君が血の音」という亡き妻河野裕子の歌がある。「はじめてあなたに抱かれたのは、夕暮れ、満開の桜の下だったということなのでしょうね、たぶん。ほんの短い時間であったはずなのに、記憶の中でその時間は、抱かれていた女性には、はるか未生以前の時間の長さの時間にもつながっていくような時間として刻まれていったのでしょう。たぶん」と解説している。

 日本には俳句や短歌に親しむ人は多い。これほど多くの詩人が住む国は他にあるだろうかと頼もしく感じることがある。ブログを発信することや、非公開の日記を書くことなども「自分の持った時間に錘をつける」という作業と同じではなかろうか。日記を書くような気持ちで自分も歌を作ってみようと何度も思ったが、なかなか永続きしなかった。このことについては自分の壁を乗り越えられないでいるのだが、ふたたび挑戦してみようという気持ちになっている。(写真は8月12日鹿児島市にて)

コメント (4)
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