玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

国事犯宮城開発に貢献

2009年05月23日 | ねったぼのつぶやき

 西南戦争(1887年)に従軍して投降した薩摩軍兵士約2700人が、国事犯として北海道外の全国の監獄署に配置された。仙台には305人が送られうち13人が病死。6人は遺族に引き取られ残り7人の墓が同市の瑞凰寺に残った。1970年代に七士の墓保存会として「みちのく宮城鹿児島県人会」が発足し、整備と墓参をしている。

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 各墓には以下のように刻まれていた。土岐丑之助1878年死去25歳。長井弥藤太78年47歳。寺田泰介79年33歳。有馬儀定78年23歳。橋口仲二郎79年36歳。米良佐平太79年40歳。有馬純俊78年25歳。国事犯となって2年以内の死去である。 

 彼らは厳寒の地で開墾、石盤採掘、築港、道路工事など明治初期の疲弊していた宮城県開発に大きな役割を果たした。消火作業での勇躍や民家を借りて学校を開き住民と勉学をしたとある。長井は農業改良などを指導して妻帯を許され、一軒家に住んで出入り自由と厚遇され、有馬純俊は「脚気症により去る26日死去」と報道されるなど、仙台市民と彼らは友好的であった。それ故に七士を藩祖伊達正宗公をまつった瑞凰殿の入り口にある寺へ埋葬したのでは?と郷土史家は語っている。

コメント (1)
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