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1975年に発覚した「心臓発作を起こす銃」・アウレリオ・ペッチェイとオリベッティ

2022年11月14日 | オリベッティと反ファシスト

最強コンピュータ「オリベッティエレア」の発明とアドリアーノ・オリベッティ氏とマリオ・チュー氏の相次ぐ死亡 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

のブログ記事に、

「欧州の社会運動家、起業家・実業家を調べていると「心臓発作、脳卒中、飛行機事故」で突然亡くなる人が多い気がしますが、」と書きましたが、1975年に米国CIAの心臓発作を起こさせる銃があったことが明るみになりました。CIAだけではなく、KGBも使用。

CIAが秘密兵器「心臓発作銃」で暗殺した犠牲者リストが大物すぎる! 蚊に刺された感覚 → 速攻で死んで証拠も残らず!ートカナ (tocana.jp)

 

冷戦時代、泣く子も黙る米中央情報局(CIA)が、なんと狙いを定めた暗殺ターゲットに心臓発作を引き起こして殺害する“心臓発作銃”が存在していたという。

■痕跡を一切残さず暗殺する“心臓発作銃”

 暗殺の基本は、可能な限り証拠を残さないことである。かつてCIAは暗殺ターゲットをほぼ瞬時に殺すことができて、証拠を残さずに死因を心臓発作で片づける“心臓発作銃”として知られる極秘の武器を開発し、実際に活用していたというから不気味な話だ。

 CIAの最初のアイデアは、検出も追跡も不可能な毒を作り出すことにあった。その毒を暗殺ターゲットに何からの方法で注入し、殺人とは認定されない方法で消すことを目論んだのである。

銃や爆発物を使った犯行は証拠が多すぎるうえ追跡も可能であるため暗殺の道具としては忌避されはじめていた。そこでCIAは、技術サービス部門のメアリー・エンブリーにそのような武器を作成するよう働きかけ、「ダーツ仕様のデリバリーシステム」を介して血流に入り、心臓発作と同様の症状を引き起こす毒が開発されたといわれている。

(中略)

1975年にアメリカ上院議員のフランク・チャーチによって、CIA、NSA、FBIなどの機関が予算をどのように使用しているかを調査する「チャーチ委員会」が設立され、政府の諜報活動に関する調査が行われた。チャーチは政府の諜報活動においてあらゆる種類の違反や権力の濫用が行われていることを発見し、民間の市民を監視している実態を把握し、CIA暗殺者リストを入手する過程でこの“心臓発作銃”を発見したのである。

 チャーチ委員会の調査結果に関する公聴会で、心臓発作銃が実際にチャーチによって公開された。

(中略)

一方でソ連のKGBは、破砕されたシアン化物カプセルから毒ガスのジェットを発射する独自の心臓発作銃を長年にわたり使用してきたことも極秘資料から明らかになった。これも同様に犠牲者を心臓発作で死んだかのように見せる“暗殺道具”である。このKGBの心臓発作銃は、KGBエージェントのボグダン・スタシンスキーによって何度も使われ、彼は1957年と1959年にこの銃を使ってそれぞれウクライナの民族主義者の指導的人物レブ・レベットとステパーン・バンデーラを殺害した。

 チャーチ委員会の調査結果は、CIAや他の諜報機関による暗殺などの不快な慣行を禁止する法律につながり、心臓発作銃は没収された。当時は米軍に引き渡されて保管されていたとのことであったが、その後は紛失してしまったのだという。

“陰謀論”では心臓発作銃はCIAの元へと戻ったという。そして2019年の民主党予備選挙に出馬したバーニー・サンダースを落選させるために心臓発作銃が使われたというのだ。その証拠に選挙期間中のサンダースは心臓発作に苦しんでいたという。

(後略)

ニュース映像:

SYND 7 9 75 CIA DIRECTOR WILLIAM COLBY BEFORE SENATE COMMITTEE - YouTube

 

1975年以降の出来事ですが、1984年に亡くなったローマ・クラブのアウレリオ・ペッチェイの死因が「自家用飛行機の事故」と「自宅で心臓発作」の二つがある(あった)のは、UPIの記事が「心臓発作」とスクープのフェイントをしてしまったことがあったとか、そういうことだったのではないか、と考えたりします。

ローマクラブとアウレリオ・ペッチェイ氏-1 (彼の死因が「飛行機事故」ではなくなっている?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

前回記事の続きになりますが、アウレリオ・ペッチェイは、アドリアーノ・オリベッティが亡くなった後の1964年からオリベッティの社長に就任しました(いつまでかはわかりません。)。

オリベッティはパソコンの開発は続けていたようです。IBMのクローンということは、特許料をIBMに支払ったうえでの開発だったのか。

Olivetti S.p.A. - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1955 年から 1964 年の間に、オリベッティは Elea 9003 などの最初のトランジスタ化されたメインフレーム コンピューター システムのいくつかを開発しました。40 台の大型の商用 9003 と 100 台を超える小型の 6001 科学計算機が完成し、1964 年まで顧客にリースされましたが、売上は低く、2 人の主要なマネージャーを失いました。金融不安により、オリベッティは 1964 年にこの分野から撤退しました。

1965 年、Olivetti は Programma 101 をリリースしました。これは、最初の商用デスクトップ プログラム式電卓の 1 つと考えられていました [36]。従業員のガストーネ・ガルジエラのおかげで、コンピューター部門が GE に売却されることはありませんでした。ガストーネ・ガルジエラは、製品の内部分類を「コンピューター」から「電卓」に変更するために連夜を費やしました。

そのスペースは現在GEが所有していたので、オフィスの厄介な状況。 [37] 1974 年に、同社は TC800 をリリースしました。これは、メインフレームに取り付けられ、金融部門で使用されるように設計されたインテリジェント ターミナルです。 1977年にはTC1800が続きました。 1970 年代、オリベッティは 2 種類のミニコンピューターも製造、販売しました。 「A」シリーズは、タイプライターサイズのA4から大型のA8まで、そしてデスクサイズのDE500およびDE700シリーズに始まりました。

Zilog Z8000 CPU を搭載した Olivetti の最初の最新のパーソナル コンピューターである M20 は、1982 年にリリースされました。 M20 に続いて 1983 年に M24 [39] が登場しました。これは、IBM が使用する Intel 8088 (4.77 MHz) の代わりに、DOS と Intel 8086 プロセッサ (8 MHz) を使用する IBM PC のクローンです。 M24 は北米で AT&T 6300 として販売された。

オリベッティは、DOS と Unix の両方を実行できる AT&T 6300 Plus も製造した[40]。米国では、M24 は Xerox 6060 としても販売されました。Olivetti M28 は、Intel 80286 プロセッサを搭載した同社初の PC でした。同年、オリベッティは M10 ラップトップ コンピューターを製造しました[41]。

これは、8085 ベースの、成功を収めた Radio Shack TRS-80 モデル 100 に似たもので、ヨーロッパで販売されました[42]。これらは 100 万台を販売した最初のラップトップでしたが、Olivetti M10 [それ] 自体は数万台の販売台数しか達成せず、2 年以内に生産を終了しました。

1980 年代から 1990 年代にかけて、オリベッティは引き続き PC 互換機をリリースし、他のブランドとの競争が激化しました。それはラップトップに変わり、1991 年にキャリー ケースに入ったラップトップである D33 を導入し、M111、M211、S20、D33、Philos、および Echos シリーズを続けました。

非常に興味深いサブノートブックは、A5 用紙とほぼ同じサイズの Quaderno でした。これは、20 年後に導入されたネットブックの祖父でした。 Olivetti は、1995 年に居間で使用される完全なマルチメディア PC である Envision [43] を導入することによって、その地位を回復しようとしました。このプロジェクトは失敗でした。 Packard Bell は、米国で同様の製品を成功裏に導入することに成功しましたが、わずか数年後のことでした.[要出典] 同社は、1997 年に PC 事業を売却するまで、パーソナル コンピュータの開発を続けました。

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