新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4

2020-03-15 11:28:09 | 旅行記

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-3」のつづきです。

金華山ロープウェーに乗って約4分山頂駅に到着しました。
ロープウエー車内もそうでしたが、山頂駅付近も、平日とは思えない観光客の数です子どもたちも多い
新型コロナウイルス対策で学校休校になり、外の空気を吸える場所や機会は限られていますからねぇ

で、山頂駅前にあるリス村には見向きもせず、私は天守を目指しました。

と、見事な地層 というか 露頭

説明板によると、

金華山の大部分はチャートという硬い岩石からできており、岐阜城の石垣や巨石、庭園などにも使われています。
チャートは放散虫という珪酸質の硬い殻を持ったプランクトンの殻が海底に堆積してできた岩石です。2億年以上前赤道付近の南半球でできたものがプレートの移動によって運ばれました。地層が大きく曲がりくねっている(褶曲している)のは、プレートによって運ばれてきたチャートが大陸にくっつく際に強い力を受けたためです。

ですって

「2億年以上前にできたものが赤道付近の南半球からプレート移動で運ばれた」とは、なんというスケールの大きな話なんだろ

説明板にあった「地層が大きく曲がりくねっている(褶曲している)」露頭は、山麓の滝で見ることができました。

まさしくヘアピンカーブです

「伝 一ノ門跡」の説明板近くから下を見下ろすと、

かなりの急斜面です。
よじ登れないことはないけれど、城攻めで甲冑姿でここまで登ってくるのは大変だろうな…

と、次に現れたのは、

「伝 馬場跡」の説明板
転記しますと、

「一ノ門」から続くこの通路は、江戸時代の絵図や記録に「馬場」と記されています。享保2年(1717)、ここを訪れた朝日文左衛門は、一ノ門を「大下馬ともいう」と記しており、降りた馬をここに繋いでいたとも考えられます。

だそうです。
ここまでで登れるってこと

ちなみに、岐阜城天守への主な登山路には、現在4ルートあります。

そして、それぞれの距離と所要時間、難易度はこんな具合らしい。

「家族向き」とされる「七曲り登山道」は、別の資料では(大手道)と書かれていることからすれば、この「七曲がり登山道」(一番南側のルート)が登城メインルートで、ここからだと乗馬して登れたのかもしれません

一方、難易度最高「馬の背登山道」の最上部にあった説明板には、

「馬の背登山道下山口」の説明板

赤く大きな文字で、

途中断崖や難所が多く、大変危険です。
体力に自信のない方は通行を控えてください。

と、説明というよりは警告です

さて、堀切(切通)を過ぎ、

二ノ門を過ぎると、いよいよ天守が見えてきました

岐阜城は、斎藤道三1540年頃に築いた稲葉山城を、織田信長1567年に奪取すると、その縄張りを壊し、新たに岐阜城として築いたもの。
「#1-2」で書いた1600年の「関ヶ原合戦の前哨戦=岐阜城の戦い」落城すると、翌年には廃城となり、天守・櫓・石垣等加納城に移されて、ただの山になってしまったのだそうな。

そして、廃城から300年以上経った1910年に復興天守完成したものの、1943年に焼失したものの()、1956年には寄付を元に現在の「鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守」完成 という歴史を持っています。

加納城に移された旧天守残っていない中、現在の復興天守が、オリジナルの様相どれだけ残しているのか不明ですが、金華山の山頂に天守があるのと無いのとでは、全然違うでしょう。とりわけ岐阜市民にとっては…

上の写真は、この後、天守の中で拝見した「現在の建物(模擬天守や展望レストラン、ロープウェイなど)をそのまま残して1600年岐阜城廃城時の石垣を全て出した様子を再現した」というちょっと変わった模型です。

それはともかく、入場料200円をお支払いして、いよいよ天守に入場

なんですが天守の内部天守最上層からの眺めなどは「#1-5」で書くことにいたします。

番外編:2020/03/17 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-4 [番外編] 
つづき:2020/03/21 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-5 

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