新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

約1年ぶりの関西旅行記 #3-6

2022-04-09 21:33:17 | 旅行記

「今年2度目の関西旅行記」シリーズが完結し、一息入れたところで「約1年ぶりの関西旅行記 #3-5」のつづきです。
この「関西旅行」は、昨年11月に決行したもので、その後、今年1月にも関西旅行しておりまして、そちらは「今年最初の(生MISIAと)京都遠征ダイジェスト」で書いておりますのでご参考まで。

   

さて、旅行記は石舞台古墳の見物が終わったところから再開します。

明日香村界隈の路線バスは、上に載せた時刻表からわかるように、平日⇔土日祝日だけでなく、オフシーズン⇔オンシーズンで本数がかなり違っていて、この日は、オンシーズン最終日(11月第3日曜日)ということで、橿原神宮駅東口行き(飛鳥大仏⇒石舞台で乗った路線)飛鳥駅行きそれぞれが、およそ30分毎に出ています。
私は飛鳥駅行きに乗るつもりで、石舞台古墳を見学する前に時刻表を確認していましたので、無駄に時間をつぶすことも、焦ることもなく、バスに乗ることができました。
バスには、元気なジジババのグループと一緒に乗り込んだのですが、このジジババたちやかましい 離れた席に座った仲間とも会話しようとするものだから、ほとんど叫んでいる感じ
傍若無人にはしゃぎまくり、中高生かよ です

私は高松塚でバスを降り、

高松塚壁画館高松塚古墳を目指しました。
前回(2007年4月)は、国営飛鳥歴史公園館をひと休みがてらちょいと見物しただけで、飛鳥駅に向かったのですが、当時のことを調べてみると、それまでの「現地保存」の方針が、壁画の劣化(カビの発生や破損)から、「壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後に元に戻すという方式」に変更され、ちょうど石室の解体・搬出真っ最中の時期でした。
ですから、当時は、高松塚古墳に行ってみたところで、現場の養生幕を見ることしかできなかったはずです。でも、高松塚壁画館1979年3月に開館しているんだよな…

で、やって来ました高松塚壁画館

パッと見、公衆トイレっぽい
私はJAF割引を使って団体料金の250円で入館しました。

高松塚古墳の壁画といえば、このリーフレットのトップを飾っている西壁の「女子群像」が思い浮かびますが、東壁にも「女子群像」が描かれているし、「男子群像」東西両壁に描かれていることはあまり知られていないかもしれません。
リーフレットを転記すれば、

男子4人、女子4人各1組の群像が東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれています。男子群像のいずれもが(きぬがさ)柳筥(やなぎばこ)床凡(しょうぎ)のようなものを持っているのに対し、女子群像は2人ずつが東壁では団扇(だんせん)払子(ほっす)を、西壁では(さしば)如意(にょい)を持っているのが特徴です。

だそうです。
これは、西壁の女子群像がもともと際だって保存状態が良く他の群像汚れていたり劣化していたせいなのなのでしょう。
ここで久しぶりに「翳(さしば)」という言葉に出会いました。

写真は以前、大阪歴史博物館で見た「奉翳女嬬(はとりのにょじゅ)で、説明によると、

女嬬(「めのわらわ」とも読む)は宮廷で実務にあたった女官。高御座にあらわれた天皇の姿を隠すため、大極殿内の左右に分かれてを掲げた。(以下略)

です。
平成・令和即位の大礼には登場しませんでしたな。

さて、高松塚壁画館の見学はあっさりと終わり(内部は写真撮影禁止です)、ほど近い高松塚古墳に歩を進めました。

と、ここで、つい先月末、NHK「高松塚古墳 『飛鳥美人』発見から50年 壁画描かれた石材が劣化」と報道していたことを知りました。
盗掘には遭ったものの、1200年以上地中で原型を保っていた石材が、発見から僅か50年で劣化してしまうとは…
難しいものなのですねぇ

そして、高松塚古墳

Wikipediaによると、石室(正しくは「石槨(せっかく)」らしい)解体・搬出後「保存施設の撤去と共に発掘調査に基づく形状の復元工事が行われ、2009年10月24日から一般公開された」ということで、二段式円墳曲線が優しい

高松塚壁画館リーフレットによれば、

地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ凝灰岩の切石を発見、これがきっかけとなって昭和47(1972)年3月から調査が行われ壁画発見となったのです。

ちなみにこの凝灰岩「二上山系の凝灰岩」だとか。

振り返ると、のどかな眺めが広がっていました

さすがは明日香です

で、高松塚古墳の近くにあったのが文武天皇陵です。

明日香村が設置した説明板によると、

陵名を檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)と称する。
文武天皇は、追尊 岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707年)6月に崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが『続日本紀』にみられる。

だそうですけど、草壁皇子とか文武天皇とか、どういう血筋の方でしたっけ??
と、手持ちのビジュアルワイド図説日本史を見ると、

草壁皇子の両親は天武天皇と持統天皇で、文武天皇元明天皇でした。

この頃の皇統の特徴は、女性の天皇が多かったこと(皇極[重祚して斉明]天皇持統天皇元明天皇元正天皇)と、近親での婚姻(というのか?)が、舒明天応(叔父)と皇極[斉明]天皇(姪)とか、天武天皇(叔父)と持統天皇(姪)とか、元明天皇(伯母)と草壁皇子(甥)とかと多かったこと。

そうそう、説明板に「飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られた」とありますが、最初に火葬された天皇持統天皇でしたっけ
写真は14年半前に見学した天武・持統天皇陵で、この陵には天武天皇の木棺持統天皇の骨蔵器合葬されていたそうです。

Wikipediaによれば、

本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。

だとか…
いつの世にも「人でなし」はいるものです…

で、文武天皇陵に話を戻すと、

例によって鳥居手前の柵越しでしか拝見することができませんでした。

これを以て14年半ぶり明日香村巡りはおしまい。

飛鳥駅まで歩き、電車に乗ったのでありました。

今回の明日香村巡りも、私の他のほとんどの旅行と同様、電車と路線バスと徒歩でしたが、次回はレンタカーを使うのがいいのかな? と思いました

つづき:2022/04/10 約1年ぶりの関西旅行記 #3-7 

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