「2018年最後の遠征:関西旅行ダイジェスト(2日目 #1)」のつづきも、興福寺中金堂のお話から始まります。
ダイジェストだってのにね…
中金堂の内部は、当然ながら撮影禁止でして(お寺のお堂内部が撮影OKというのは、東大寺大仏殿くらいのものではなかろうか)、私が撮影した写真はございません。
で、リーフレットから配置図を拝借しますと、
かなり広い堂内に、ご本尊の釈迦如来坐像を中心として、その両脇に脇侍の薬王・薬上菩薩立像、四隅に四天王像が配されて、さらに大黒天立像と、厨子に入った吉祥天倚像と、余裕のある配置です。
このうち、私が拝観したことのあったのは、これまで南円堂に安置されていた四天王立像(こちらの記事に登場)だけで(これまで東金堂に安置されていた大黒天像も拝観したことがあるかもしれない…)、
金ピカの釈迦如来坐像と、なんとなく頭でっかちでバランスの良くない薬王・薬像菩薩立像は、初めて拝観させていただいたような気がします。
おっと、、、吉祥天倚像は、厨子の扉が閉じられていてお目にかかれませんでした
中金堂の柱は、内外とも朱色なのですが、一等地に立つこの柱だけは異様で、極彩色で坊さんたちの姿が描かれています。
これは、こちらの記事から引用しますと、
法相柱は高さ10メートル、直径77センチ程度。玄奘三蔵や解脱上人など法相宗ゆかりの14人の祖師(高僧)像が貼り付けられている。
祖師像は、奈良県出身の日本画家、祖師像は、奈良県出身の日本画家、畠中光享さんが3年がかりで制作した。背景はいずれも群青色で、立像(縦1.8メートル、横66センチ程度)と座像(縦1.35メートル、横86センチ程度)の2種類がある。
というもので、「14人の祖師」のうち、私がそのお名前を耳にしたことのあるのは、記事中にある玄奘三蔵のほか、北円堂内の立像(記事はこちら)で知られる無著&世親菩薩、そして玄昉僧正くらいのもの…。
しかも、玄昉さんの場合、たしか、日本史の授業で名前を聞いたことがあるような… 悪者(わるもん)じゃなかったっけ… という情けない状況
そこで、Wikipediaで調べると、、、
聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12年(740年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌天平13年(741年)7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)任地で没した。
とありました。
そっかぁ~ あの玄昉さんかぁ~
玄昉さん、興福寺で顕彰されるくらいですから、宗教家としては相当なお方だったのでしょうけれど、一度ならず二度、いや、三度も政争に巻き込まれたということは、これまた相当な生臭さがあったのではないかと思われますな
あれまぁ~、旅行記ダイジェストだというのにこの進みの遅さはなんたることだ
「2日目 #3」は、完結させるくらいの気持ちで書きます
つづき:2018/12/21 2018年最後の遠征:関西旅行ダイジェスト(2日目 #3:最終回)
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