「令和初の福岡遠征記 #2-1」のつづきです。
入口で入館料200円也をお支払いしたのですが、はて、以前来た時は無料じゃなかったかな…
と思ったら、いつの間にやら有料になったみたいです。
でも、展示を観ると、200円を払う価値はあると思いましたよ。
「令和改元」にあたって、かなり脚光を浴びた「梅花の宴」のジオラマはもちろんですが、
「大宰府とは何ぞや?」が、とても判りやすく展示されているのですよ。
超簡単にいえば、朝廷の九州支社みたいなもので、飛鳥時代(7世紀)から平安時代末(12世紀前半)までの間、
外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国 (筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅) と三島 (壱岐、対馬、多禰 (現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾 (じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷 (とおのみかど)」とも呼ばれる。
軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。
外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館 (こうろかん)が那津 (現在の博多湾)の沿岸に置かれた。
という「政府機関」だったんですな。
難波宮(探訪記)とか平城宮(探訪記)を小ぶりにした感じです。
平城宮といえば、こちらの記事で、
平城宮跡一帯が、ほんの50年ほど前は一面の田んぼだったという事実はホントに驚きでした。
と書きました。
今や、朱雀門や大極殿につづいて南門も復原されて、長岡遷都(784年)からずっと史跡公園として礎石なんぞが残されていたように感じる平城宮跡ですが、そうじゃなく、田んぼが広がっていたということを知り、ほんと驚いたものでした。
近鉄奈良線はどうして平気で平城宮跡を横切ってんだよ
と思ってしまいますが、近鉄奈良線が開通した1914年には、朱雀門や大極殿があるはずもなく、ただただ田んぼが広がっていたわけですから、近鉄に悪気
があったわけではなく、逆に、線路の周りが次々に史跡として整備されて、居心地の悪さを感じているのではなかろうかと、ちょいと同情してしまいます。
かたや、大宰府政庁跡はどうだったのか…。
大宰府展示館には、60年前(1956年)の航空写真
が展示されていました。
おっと、こちらも現在の様子からは想像もつかないお姿で…。
60年前の航空写真の説明文を転記しますと、
昭和20~30年代の大宰府政庁跡周辺は、水田の広がるのどかな風景でした。やがて高度経済成長期を迎え、日本中が好景気と開発に沸くなか、太宰府においても昭和38(1963)年、四王寺南麓に大規模な住宅開発計画が持ち上がりました。
古代から受け継がれてきた景観が失われるという危機的事態のなか、当時の太宰府町・福岡県は国と協議を重ね、史跡指定地を従来の10倍である約120ヘクタールへと拡大する方針を打ち出しました。
しかし、指定拡張に際して、所有地への規制や史跡地の放置状態などが問題となり、地元では大規模な反対運動が起きました。
これを受け、地元の方々に理解と協力を求めるため、発掘調査と計画の体制が整えられ、地元住民に調査結果を広く周知し、発掘調査作業に従事して頂くなどの取り組みの結果、昭和43(1968)年に大宰府政庁跡での発掘調査が開始されたのです。
だそうです。
今の風景は、昔からあったわけではなく、いろんないきさつと、いろんな人たちの努力と犠牲があって存在しているのだとしみじみしたのでありました。
さて、大宰府展示館のなかも、太宰府市内あちこちに「令和」の文字があふれていました。
ここでおさらいしておきますと、政府の説明によれば、この新元号「令和」の典拠は、「万葉集」の巻五、梅花の歌32首の序文ということになっています。
序文の冒頭部分を転記しますと、
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴会也。于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫風珮後之香。
万葉仮名ならぬ漢文でございます。
いただいてきたチラシから訳文をちょうだいすると、
天平2年(730)正月13日、帥老(そちのおきな)の宅に集まって宴会を開く、あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前のおしろいのような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとに従う香に薫っている。
だそうです。
ここに出てくる「帥老(そちのおきな)」というのが、当時の大宰帥、大宰府の長官である大伴旅人のこと。
また、「天平二年正月十三日」は、新暦に変換すると「730年2月4日(土)」となりまして、梅が咲いていても不思議ではない時季ですな。
で、大宰府展示館にジオラマが展示されている「梅花の宴」は、この大伴旅人邸で開催された宴会の様子を立体化したもので、もう一丁、いただいたチラシから転記すると、
「梅花の宴」は、中国の書家・王羲之が353年に開催した「曲水の宴」にならって、日本の和歌を詠み交わした宴です。和歌のはじめに序文がありますが、これも「曲水の宴」の序文「蘭亭序」にならい、日本人の感性や趣向を基に白い梅花を詠む宴の序文として、大伴旅人が作ったとみられています。
この万葉集の梅花の歌の序文が、蘭亭序にならったものとは知りませんでした
それはともかく、大宰府の長官たる大伴旅人の邸で開催された「飲めや歌えや」の宴会の「記録」が新元号の典拠になったわけですから、太宰府が盛り上がるのも当然のことでしょ。
今年のゴールデンウィークに、大宰府政庁跡の北西隣にある坂本八幡宮に参拝客が殺到
したのは、「『梅花の宴』が開かれた大伴旅人邸があったのが現在の坂本八幡宮辺り説」に呼び込まれたというわけです。
この「『梅花の宴』が開かれた大伴旅人邸があったのが現在の坂本八幡宮辺り説」については、「#2-3」で書きます。
つづき:2019/09/24 令和初の福岡遠征記 #2-3