新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南青山でアートして…(前編)

2017-12-09 22:22:44 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

つい先日のニュース、毎日新聞に代表してもらいますと、

1970年大阪万博のシンボルで、大阪府吹田市の万博記念公園にある「太陽の塔」(約70m)の内部が来年3月19日から一般公開される。府が6日、概要を発表した。万博当時はエスカレーターで上りながら生命の進化の過程をたどれたが、閉幕後に非公開になり、昨年10月から塔の耐震工事と展示物の復元作業を進めていた。常時公開48年ぶり

だから、というわけではなく、ホント、きょう、たまたま近くを通りかかったもので、こちらに行ってきました。

岡本太郎記念館です。
南青山岡本太郎記念館があることは知っていましたが、入館したのが初めてなら、建物自体を観たのも初めてでした。
そもそも、南青山って、高級セレクトショップやらブランドショップやらが立ち並び、ちょいと道を逸れると、ひっそりと表札や看板のない立派かつ怪しげな建物高級マンション(語義どおりの「邸宅」)が立っているというイメージで、私には敷居の高い街で、足が向きません。
根津美術館に行ったとき(記事はこちら)以来、2度目かも…。

そんなHigh Societyな街にもかかわらず、こんな看板があったりして…

でも、ビルの裏側の非常階段おしゃれなのは、さすがは南青山 でしょうか。

さて、岡本太郎記念館では、「太陽の塔 1967-2018 -岡本太郎が問いかけたもの-」が開催中でした。

この企画展は、フライヤーに書かれた平野館長の文を転記しますと、

2018年3月、太陽の塔がついに再生します。
耐震補強工事の機に長らく放置されていた塔内が修復され、恒久的な展示施設に生まれ変わるのです。
「《太陽の樹》は太陽の塔の血流であり、内壁の襞は“脳の襞”だ」
岡本太郎はそう言いました。
太陽の塔は内臓を持つ“いきもの”なのです。
太陽の塔が内臓を取り戻し、半世紀ぶりに目を覚ます。
この機会をとらえ、「太陽の塔とはなにか」をもう一度考えようと思います。
(中略)
あのとき岡本太郎が日本社会に問いかけたものはなんだったのか。
それをいま生きるぼくたちになにをもたらし、なにを変えるのか。
生まれ変わる太陽の塔とともに、考えてみませんか?

だそうです。

私が「20世紀の日本美術を代表する作品のひとつ」だと思っている太陽の塔、なんとも好きでございます

2009年(記事はこちら)と2015年(記事はこちら)の2回万博記念公園に行き、太陽の塔の外観を愛でてきました。

大阪万博実際に観ていないことがかえすがえすも悔しいのですが、それはおいといて、太陽の塔の内部には生命の樹があって、観客はエスカレーターで昇りながら、生物の進化を観られるようになっていたことは知っていました。
そして、最上部まで昇った観客は、太陽の塔腕の内部を通って、大屋根にある出口から退場したということも…。

右に載せた「生命の樹」(復元模型)の説明には、

高さ45mの《生命の樹》には、単細胞から人類まで、生命進化のプロセスを表す292体の“いきもの”がびっしりと張りついている。何億年にもわたって受け継がれてきた生命の時間。始原のときから営々とつづく生命の生長と変貌。根源から立ちのぼり、未来へとつづく生命力のダイナミズム。岡本太郎の生命感がそのまま形になっている。

とありました。

2009年2月に国立科学博物館で観た「1970年 大阪万博の軌跡」(記事はこちら)では、生命の樹の一部が再現されていましたっけ…

でも、

《生命の樹》の生物群は、万博終了後にあるものは撤去され、あるものは朽ちていた。万博当時のダイナミックな姿を記録するものは、わずかな写真しか残されていない。そこで《生命の樹》の全貌を3次元で再現するため、2001年の岡本太郎生誕百年事業の一環として本模型を制作した。資料が十分に残っていない状況にあって、ある部分は想像力で補いながら《生命の樹》の全体像をみごとに描いている。
              

だというのは知りませんでしたし、さらに、太陽の塔の下に、こんな展示があったことも知りませんでしたし、

説明板によれば、

地下展示は万博閉幕時にすべて撤去され、埋め戻されてしまったために、いまではわずかな写真資料でしか当時のようすをうかがい知ることはできない。
日本ディスプレイの金字塔というべき地下展示の全貌を3次元で俯瞰しようと、過去にも例のない縮小モデル化を試みた。

だそうな

そして、上の写真の中央部の「地下展示《いのり》」

祭壇中央で儀式を司るのは、太郎が自ら手がけた巨大な仮面《地底の太陽》。二つの眼を大きく見開いているが、鼻も口もない。

とある「地底の太陽」に至っては行方不明なのだとか。

この「地底の太陽」は、原寸大に再現されて、来年3月に公開される太陽の塔内部展示されるのだそうで、その原型(1/10サイズ)も展示されていました。

説明板によれば、

万博閉幕後に行方不明となった《地底の太陽》を復元するために制作された1/10サイズの原型。
これを3次元計測して原寸(顔の直径 約3m、全長 約11m)に拡大し、その段階でふたたび検証と調整を行って制作に歩を進めた。《地底の太陽》は3次元資料がいっさい残されておらず、わずかな写真から立体化をせざるを得なかった。最初の原型は、原型師の木下隆志氏が制作した。
     

だそうで、その「わずかな写真」の一枚がこちらかな?

ところで、「地底の太陽」の左手前にある巨大な「みみずく土偶」は、「EXPO'70パビリオン」にも展示されていましたけど、

これは、実際に大阪万博で展示されていた現物なんだろうか?

それはともかく、太陽の塔内部に入ってみたい 見物してみたい という気持ちがどんどん高まってきます

ありゃぁ~、この1本で完結させるつもりだったのに、終わらない

きょう、何が目的南青山にでかけたのか、とか、MISIA「君のそばにいるよ」のMVで着用した衣装を拝見した話とか、

建設中の新国立競技場を眺めた話とか、

その辺りは、「後編」以降で書きます。

つづき:2017/12/10 南青山でアートして…(後編)

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お化け灯籠と北斎と…(前編)

2017-11-12 09:17:10 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きのうの昼下がり、上野に出かけてきました。

目的は2つありまして、一つはきのうブログに書いた「上野のお化け灯籠」を観ることと、もう一つは国立西洋美術館で開催中の「北斎とジャポニスム」展を観ることでした。
結論からいいますと、どちらも楽しめました

で、まずは「上野のお化け灯籠」
きのうのブログに載せた地図を頼りに歩いて行くと、ありました (当たり前)

確かにデカい

「OBAKE-DORO; Monster Stone Lantern」とのサインポストの横に立てられている説明板(by 台東区教育委員会)を転記しますと、

佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
 奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
 東照大権現御宝前石燈籠
   寛永8年辛未孟冬17日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで18,000石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。

とありまして、これで、私は「日本三大燈籠」コンプリートです。

で、人物と一緒に写真を撮ればその大きさが感じられるでしょうが、あいにく、この辺りはひとけがなくて…

この場所は、「その他大勢」石灯籠が立ち並ぶ東照宮の参道から離れておりまして、「お化け灯籠」孤高を保っておりました。

なんとなく、ほぼ同じサイズで立ち並ぶ他の灯籠から、「けっ 目立ちやがって…弾かれている気がしないでもない…

東照宮の周囲には、いかにも徳川家への忠誠を誓うように諸大名が寄進した石灯籠が並んでいるのですが、大鳥居のすぐ隣に、こんな文字が刻まれた石灯籠を発見

 従五位下井伊兵部…藤原…
 慶安4辛卯暦4月17日

と読めます。井伊直政に始まる彦根藩の宗家は「掃部頭(かもんのかみ)」の官職名が浮かぶのですが、「兵部なんたら」の官職を有するこの石灯籠の寄進者は誰なんだろか、と調べてみると、井伊直政不出来だったという長男・直勝(宗家は異母弟の直孝が継いだ)の嫡男(つまり直政の孫)、三河西尾藩主・井伊兵部小輔(ひょうぶしょうゆう)直好でした。
加えて、井伊氏本姓「藤原」だと初めて知った次第…

   

今回は東照宮に参拝することなく、私は国立西洋美術館(NMWA)へ行き、「北斎とジャポニスム」展を鑑賞しました。

この展覧会の開幕当日NMWAの前を通りかかったとき、チケット売場の行列おそれをなしたのですが、きのうは15:00ちょい前という時間帯もあってか、5分ほどでチケットを購入して入館できました。

この展覧会でも記念撮影コーナーが用意されていました(「西美に来てますといった吹き出しも数種類あり)。

と、ここで区切りまして、私は朝食を…

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「藝祭」をチラ見

2017-09-10 17:47:29 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

東京藝術大学大学美術館で開催中の「藝『大』コレクション」展第1期を観てきた話はこちらで書いたとおりで、私は「第1期と第2期のいずれかを2回ご覧いただくこともできます」という2回券を購入しておりました。

そして、先週半ば、第2期はいつまでだろうか? と思いついて、調べると、なんとなんと、9月10日(日)で終わりではありませんか

危ない、危ないこの週末しかチャンスがない

というわけで、きのう、「藝『大』コレクション」展第2期を観に行ってきました。

考えてみれば、8月11日から始まった第2期、その8月11日から1週間にわたって(つまり週末から翌週末まで)帰省していましたし、その翌週Misia Candle Night河口湖に出かけたわけで、結構多忙な週末が続いていました。
もっとも、上野に出かけるだけの余裕はありましたけれど…

先週はずっとぱっとしない空模様酷い湿気ウンザリでしたが、きのうは(きょうも)いかにも秋 って感じのきれいな青空乾いた空気で、お出かけ日和

で、上野公園に着くと、かなぁ~りの人出でした。
そして、竹の台広場の噴水池を過ぎ、東京国立博物館(トーハク)東京都美術館の間の林のようなところを通って東京藝大を目指したのですが、いつもなら、怪しげな集会(炊き出し?)の参加者でちょいと近寄りがたいこの「林のようなところ」では、東京藝大の学生によるフリーマーケットが開催されていまして、人でごった返していました。

そして、ここに来て、東京藝大の学園祭「藝祭」の当日であることに気づきました。

いつもなら静か東京藝術大学大学美術館の前もスッゴい賑やか

藝祭といえば、神輿が名物なわけで、美術館前にも2基が展示されていました。

   

藝祭見物したいところではありますが、まずは「藝『大』コレクション」展 第2期を観ました。

1期と第2期とでは、展示作品の半分くらいが入れ替わっている感じで、冒頭は両期とも、

月光菩薩坐像「五体不満足」月光菩薩坐像でした。

両腕とお腹、そして右足首から下が失われていますが、それでもなお素晴らしい仏さんです…

東京藝大のあと、トーハクの本館を一回りしたところ、この月光菩薩相方日光菩薩坐像が展示されていました。

トーハクでは、

もと京都府亀岡市の金輪寺に安置されていた薬師三尊像だったが、のち交流があったとみられる京都市の高山寺に移された。薬師如来像はいまも当寺に残るが、明治22年に両脇侍像が東京美術学校(現東京藝術大学)に収蔵され、うち日光菩薩像は当館に入り、広く親しまれてきた。

という説明と共に、「薬師三尊像-制作当初の構成-」という写真が添えられていました。

もとは一緒に鎮座していた3体の仏像が、3ヵ所に分かれているのは、なんかもの悲しいですな。

話を「藝『大』コレクション」展に戻しまして、第2期の展示作品の中で、妙に惹かれたのは、 

伊東深水「銀河祭り」でした。

七夕の笹飾りの下、水を張ったたらいの前で、若い女性が赤い糸を持って何かしています。
何をしているのか判らないけれど、なんときれいな絵なんでしょ

私、「美人画」というジャンルにはあまり興味は無いし、伊東深水の作品もあちこちで何度も拝見しましたが、この作品のステキさ衝撃といっても良いかも…。

ちなみに、図録の解説によれば、

七夕の宵、盥の水に星を映し、針に糸を通すことで娘たちが裁縫の上達を願うという風習があった。江戸時代からの美人画の好画題である。

だそうです。

「お持ち帰り」できる作品を選ぶとしたら、この「銀河祭り」最有力候補かも…。
山口晃自画像と、原田直次郎「靴屋の親爺」(こちらの記事をご参照方)も魅力的なんだけど…。

こうして、「藝『大』コレクション」展 第2期もたっぷりと楽しませていただきました

   

東京藝大美術学部のキャンパスには、東京藝術大学大学美術館に来ると必然的に足を踏み入れることになりますが、音楽学部のキャンパスには一度も入ったことがありません。
以前から気になっている建物もあることですし、藝祭のタイミングを活用して中に入ってみよう ということで、音楽学部キャンパスへ。

校門の外からチラ見しては気になっていた建物がこちら。

音楽学部キャンパスへの出入りに睨みを利かしている第2守衛所です。

美術学部に入口にある第1守衛所何のへんてつもない建物ですが、こちらはかなぁり魅力的です

大学の守衛所としては、こちらの記事で取り上げた北大植物園門衛所とか、

龍谷大学旧守衛所(重要文化財)とか、

ブログには書いていませんけれど、北大「受付」の建物(この建物にH型の煙突反則的なcute)

といった私お気に入りの守衛所に比類する素晴らしさです。
「有名なお寺の拝観券売場です」と言われても違和感を覚えないかも…

と、守衛所の後ろにレンガ造りの建物が見えます。
せっかくですので、じっくり観させてもらいました。

の当たり方が良かったので、もう1

この建物は、「赤レンガ1号館」という芸の無い名前ながら、「明治13年(1880)に竣工された都内に現存する最古のレンガ建築だとか。
そんな貴重な建物なのですが、レンガの表面がかなり荒れて見えます
こちらのサイトによれば、

この建物は、表面をモルタルで固められていたことから、煉瓦造りと知らず1978年(昭和53年)取り壊される運命にあった。
取り壊しのため、表面のモルタルを一部はがしたところ煉瓦が現れたことから、モルタルを全部はがしたところで解体は中止された。
その後、2005年(平成17年)に耐震補強を行い、将来に伝えていくことのできるように改修された。

だそうです
危ないなぁ~

それにしても、ホント、成り行き良いものを見せていただきました。

   

ここでまた藝祭神輿の登場です。

上に載せたハンバーガーPOPで良いけれど、私のイチオシはこちら

の背に乗った神社古びた感じの表現が見事
なのでもう1枚

それにしても凄いです、藝祭神輿

藝祭神輿は、音楽学部美術学部1年生専攻ごとにペアのチームをつくって制作するもので、上に載せた「亀神社」(というのか?) は、音楽学部の「邦楽」美術学部の「日本画」のチームの作品です。

今はどうなっているか判りませんが、私の高校では、文化祭に全クラスがクラスごとに「デコレーション」と呼ぶオブジェを制作する風習があったのですが、大学1年生高校生とは1~3年しか年次は違わないのに、この藝祭神輿レベルの高さときたら…
さすが「アーティストのヒナ」たち一般人とは全然違う…

藝祭開催中の東京藝大模擬店完全無視 してしまいましたが、それでもいろいろと楽しめました

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神社と博物館に初もうで #1

2017-01-15 19:04:18 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょうは、浦和の調神社と上野の東京国立博物館(トーハク)へ初もうでに行ってきました。

大寒波襲来中ゆえ、青空が広がっているにもかかわらず寒かった

まずは、自宅から30分ほど歩いて調神社に行ってお参り。

調神社の子持ちウサギ

真っ平らなイメージの強い浦和の街ですが、ちょっとした起伏はあるんですな。

おかげで、良い運動になって、この段階ではさほど寒さは感じませんでした。

ところが、浦和駅のホームで上野東京ラインを待つ時間(ほんの5分ほどだったのですが)は、寒風がビュービュー吹き抜けて、ホント、寒かった

そして、上野も寒くて、トーハク・平成館前の池には薄氷が張っていました。

さて、「博物館に初もうで」を開催中のトーハクに到着し、本館に入場したのは11:50頃。
ミュージアムシアターでは何をやっているんだろ、と思ったら、

「江戸城の天守」 ですって
「天守」は英語で"keep"ですって
フライヤーによれば、

徳川三代将軍家光によってつくられた江戸城最後の天守は、莫大な費用と最高の技術が注がれた史上最大の天守だったと言われています。それはいったいどんな姿をし、どのように作られた建造物だったのでしょう?
図面や絵図に加え、現存する文化財や伝統技術を手掛りに、来場者の皆さま一緒に江戸城天守の再現過程をお楽しみいただくプログラムです。

だそうで、江戸城天守には興味津々だし、12時からの回に間に合いそうだし、東京国立博物館パスポートを買った際にいただいた無料観覧券を持っているし、先に「江戸城の天守」を観ることにしました。

で、結論から書きますと、ほんっっっとに面白かった

大棟梁大統領ではない)として寛政の天守の造営を仕切った甲良豊後守(宗広)が手許に残していた図面(平面図&側面図)を元に全体構造をCGで再現し、同時期の建造物である二条城日光東照宮旧寛永寺五重塔絵図を参考に、装飾想像・再現したもので、とりわけ、がポコポコと立ち、床板がズラズラっと並び、更に上層の柱がポコポコと立ち、床板がズラズラっと並び…、破風が取り付けられ、銅瓦がペロペロッと葺かれるシーンはゾクゾクするほどでした。

加えて、初耳の話もいくつかあってドキドキ

まず、現存する天守台は、1657年明暦の大火で焼失した寛政の天守のものではなく、その再建用に準備されたものだということ。

そして、現存する天守台は御影石製だが、寛政の天守のそれは伊豆石製だったこと。
さらに、寛政の天守の天守台に使われていたは、 江戸城本丸の正門である中雀門に再活用され、現存していること(下の写真は2012年12月に撮ったもの)。

そしてそして、江戸図屏風で見るように、「黒い城」こちらの記事をご参照方)だった寛政の天守

その黒い壁面は、漆塗ではなく、銅板を張って黒く塗ったものだったこと。屋根だけでなくまでも銅板貼りの天守だなんて、なんと贅沢な…
銅板貼りの壁を採用したのは防火対策だったそうですが、竣工から20年も経たずに焼失してしまうとは、なんとも無常 

そしてそしてそして、寛政の天守には、普通の天守に付きものの「石落とし」「狭間」の類が皆無だったということ。
つまり、寛政の天守戦に備えた施設ではなかったというわけですな。 

なんだか、私は江戸城天守のことを何も知らなかったって感じ…

そんな私でも、寛政の天守5層の大天守だったことは知っておりまして、天守台に出かけるたびに、その偉容想像していたのですが、「江戸城の天守」で他の天守との比較を聞いて改めて驚愕

なんでも、天守台の置かれた地盤からの高さは、姫路城大天守1.5倍松本城大天守2倍なんだそうな

上に載せた松本城天守(見聞録こちら)の2倍の高さって、、、、、

こんな具合に、「目からウロコ」連発「江戸城の天守」の上演は3月31日まで
これはお薦めです

というわけで、きょうの見聞録はまだつづきます
これで書きかけのシリーズ三つ目う~む、、、であります。

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新車の試運転を兼ねて久しぶりに行田へ

2016-06-19 19:15:29 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

休日にはクルマで出かけない私ですが、昨日納車された愛車の試運転に出かけてきました。

出かけた先は久しぶりの行田

埼玉県さいたま市の名前の由来となった「埼玉(さきたま)」は、もともと武蔵国最北の行田辺りの地名だったという説があるそうです。

で、まずはさきたま古墳公園を目指したのですが、せっかく行田まで来たのだから、前回(記事はこちら)パスした忍城址にも行ってみようと思い立ちました。土日祝日市役所の駐車場も使えるそうでしたから。

そんなわけで、さきたま古墳公園を通り過ぎてブランチを摂ったのち、行田市役所の駐車場にクルマを停め、忍城址へ。

忍城の幟には成田家の「横三つ引き」紋が描かれていました。
豊臣秀吉の小田原攻めの後、成田家が忍城を明け渡した後は、東条松平家大河内松平家阿部家奥平松平家と城主(藩主)が変わったのですが、やはり「忍城主は成田家」のイメージですよねぇ。

ちなみに復元された御三階櫓(いかにも徳川系)の瓦には松平家三つ葉葵の紋が印されていました。

忍城址にある行田市郷土博物館を見物いたしました。

むくりのついた屋根が印象的です。城跡に数寄屋風? と一瞬思いましたが、そういえば二条城の本丸にも数寄屋造りの建物がありましたっけねぇ。

もっとも二条城のお屋敷は、

京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を,明治26年から27年にかけて本丸内に移築したもの

だそうで、どうりで違和感が漂っています…

それはともかく、行田市郷土博物館のエントランス脇に「のぼうの城」のポスターを発見

予想していたとはいえ、目の当たりにすると、やはりうれしい

そりゃそうだよねぇ~、のぼうの城=忍城ですから

行田市郷土博物館の展示は、さすがに忍城の水攻めに関する展示が充実していましたが、それだけでなく、行田市の歴史全般について、なかなか惹き付けるものでした。
行田が足袋の町だったなんて、まったく知りませんでした
様々なメーカーの個性豊かな足袋のラベルの展示が、レトロ素敵でした。

   

行田市郷土博物館の次は、途中で通り過ぎたさきたま古墳公園

前回、さきたま古墳公園に出かけたときは「のぼうの城」のことはまったく知らず、忍城にも興味を持てず、

実際に丸墓山古墳から忍(行田)の街を眺めると、ほとんど真っ平らな地形です。これを水攻めするなんて、普通は考えないでしょう。

なんて書いたのですが、文政6年(1823年)といいますから「水攻め」250年近く後、城下町が整備された時点の地図を見ても、

忍城は、沼地の中のあるいくつかの小島を繋いだ縄張りだったことが判ります。
行田市郷土博物館のリーフレットによれば、

永正6年(1509)に、忍城を訪れた連歌師宗長の書いた日記によれば、城の周囲は四方沼水で、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水島が多く見えたとあります。

だそうで、そうした情景を想像すれば普通に攻めるのはかなり難しく水攻めを考えたのは変な話ではない気がしてきます。

それでは、治部少輔・石田三成率いる豊臣軍本陣から忍城はどのように見えたのか、この目で確かめなければ気が収まりません。

というわけで、「石田堤」を通って、

丸墓山古墳に登り、

忍城址を眺めてみました。

良い眺めだぁ~

葦が茂る沼地の中に「浮かぶ」忍城、、、、 忍城攻めの司令部として、丸墓山古墳最高の場所ですなぁ。
一方で、見えすぎるがゆえに、城攻めが遅々として進まない状況を目の当たりにした佐吉こと石田治部殿は、さぞかし歯がゆかったんでしょうねぇ…

う~~ん、楽しかった

そういえば、今夜の真田丸、遂に北条秀吉降参するんですな。

   

こうして試運転を実施したマイカー、今日のような走り方(エアコンを使って、チマチマ信号待ちのある一般道の走行)だとあまり燃費は良くない
クルマが表示する「走行可能距離」600kmちょっとだそうで(きょう一日で約100km走った)、このペースだと、今週一週間保たない計算になります。

そしてそして、やはり自宅の車庫入れ大変
ホント、ぎりっぎりだもの

さぁ、どうなりますことやら…

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「藝祭」に行ってみたくなったきょうの上野

2016-03-26 21:43:01 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

きょう、上野公園に行ってきました。

お目当ては、お花見お花見でも東京国立博物館(トーハク)恒例の「博物館でお花見を」と、同じくトーハク特別公開中(3/23~4/17)の、

「国宝土偶 縄文の女神」です。

だったんですが、上野公園の中心部にある竹の台広場に着いて、目を剝きました
なんだアレ

巨大なオブジェというか、御神輿っぽいのが展示されています。
向きを変えてもう一枚

きのうから明日までの3日間、竹の台広場では「上野『文化の杜』アーツフェスタ・2016春」というイベントが開催中でして、この「巨大なオブジェというか、御神輿っぽいの」は、

東京藝術大学の学園祭「藝祭」で一番の見せ場と言われる「藝祭神輿」。藝大生たちがひと夏をかけて造った精巧かつ迫力に満ちた巨大神輿の中から、選りすぐりの5基を展示します。

という「藝大神輿」でした。
私、「藝大神輿」は一度だけ、新丸ビルで出張展示されているのを拝見したことがありましたが、こんなに凄かったかな…

観た順番で紹介しますと、まずは、「日本画・邦楽」チームによる「猛者、走る」

このは、牛車を牽いているんですが、

牛車がバラバラになるのも構わず突進しています。
五木寛之「親鸞」「競べ牛」を連想しましたです。

 

それにしても、凄い迫力です。

ところで、この「藝祭神輿」藝祭伝統的なイベントだそうで、こちらのサイトによれば、

美術学部と音楽学部の1年生で60人程度のチームを8つ作って巨大な御輿を制作し、藝祭初日の開幕イベントでお披露目します。

だとか。
美術学部音楽学部の壁を超えてチームをつくって制作するってのが面白いですねぇ。

次は、これまた動物が迫力満点に疾走するデザイン・作曲チーム「猪勇睦神輿」
横綱 って感じ。

こちらは、怪しい目つきだなぁ。

先端芸術表現・音楽環境創造チーム(なんだか理屈っぽい人だらけっぽい)の作品は、タイトル不明ながら、の表現が超リアル

って、当然ながら恐竜の実物を観たことはございませぬ

次は、ヌメヌメ系2作品。
まずは、声楽・建築チーム「たこと神殿」

ひやぁ~まとわりつかれ感が凄いなぁ。

そして最後は、昨年の大賞を受賞したらしい工芸・楽理チーム「日本遺産」

オオサンショウウオ神輿にしちゃう発想自体から感心してしまいます。

それにしても、これらが、大学1年生たちによる作品だとは、信じがたい
まったくもって、さすがは藝大生ってことなんでしょ。
なんとも陳腐なまとめ…

一度は藝祭に出かけて、藝祭神輿のパレードを観ないと と心に決めたのでした。

ちなみに、今朝のニュースでは「一分咲き」と言っていたきょうの上野公園の桜はこんな状態でした。

来週末には見頃を迎えそうですな。

トーハクのことは稿を改めます。

つづき:2016/03/27 「約4500年前」ってずいぶん昔なんだけど

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埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(前編)

2016-02-29 20:46:34 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

原田直次郎展昨日、「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」を観に埼玉県立近代美術館(MOMAS)に行ってきました。

北浦和駅を出て、MOMASのある北浦和公園前の交差点まで行きますと、なんだか風景がさっぱりしています。

埼大通り「日本一長いけやき並木」が剪定されたようです。

私、埼大通りの沿道で暮らしていた時期がありまして、このけやき並木にも馴染みがあります。
初夏の若葉の頃はホントにキレイ気持ちよいのですが、になると、早くも落葉が始まって、沿道の人は掃除が大変になります。
また、けやきの根の勢いのせいで、歩道凸凹していて、歩くのが大変です。自転車にはもっと辛いぞ、きっと

それはともかく、MOMASを見物する前に、「半年前の信州旅行記(その22)松本編④」

「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」(2/11-3/27)を観に行くときに拝見してくることにします。

と書いた「旧制浦和高等学校門柱」を拝見しました。

たまたま作業用のトラックが入門した直後だったため、門が開いていますが、普段は閉じています

公園内から見た旧制浦和高等学校正門

って、この内側からの眺めは何度も見たことがありました

門柱には銘板が取り付けられていまして、曰く、

旧制浦和高等学校正門

旧制浦和高等学校ハ大正10年11月8日第20番目ノ官立高等学校トシテ創設サレ、昭和22年4月ノ学制改革ニヨリ昭和25年3月最後ノ卒業生(第26回生)ヲ送リ出シテ閉校ソノ光輝アル28年間ノ歴史ノ幕ヲ降ロシタ
ソノ間5,418名ノ卒業生ヲ世ニ送ッタガソレラ有為ノ青年ハ学術 文化 政治経済等ノ各分野ノリーダートシテ活躍シ戦後日本ノ復興ト繁栄ニ貢献シテキタ
埼玉県ナラビニ浦和市ハ同校ノ跡地ヲ公園トシテ整備シ県民ノ憩ノ場トシテ提供シタ コノ門ハ旧制浦和高等学校ノ正門デ同校ノ姿ヲ今ニ伝エル唯一ノ構造物デアル

昭和62年11月15日

旧制浦和高等学校同窓会

だそうです。
カナ遣いの文章は打ちづらい…

さて、「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」を観ましょうか、、と思ったら、音楽噴水の時刻になったので、噴水池前のベンチで一服

音楽噴水と虹

ちょうど良いの向きで、きれいにが出現しておりました

さてさて、MOMASに入館

いつもながら、MOMASエントランスのこの眺め、ごにょごにょした感じが好きだなぁ~

   

展示室入り口のタイトル看板を見ると、モダンデザインの展覧会かと思ってしまいますが、 この「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」「100年ぶりの回顧展」という触れ込みです。

図録から神奈川県立近代美術館の水沢館長による文章を引用させていただけば、

原田直次郎(1863-1899)の最初のまとまった展覧会は、没後10年の際に、画家の甥・熊雄の発案により、畏友・森鴎外(1862-1922)を中心に企画され東京美術学校(現在の東京藝術大学大学)を会場に開催されている。1909年11月28日、「原田直次郎氏記念会」による一種の「偲ぶ会」ともいうべきものであった。この初個展は、わずか一日だけの公開であった。(中略)
本展は、その日以来、じつに106年ぶりの個展である。21世紀に生きるわたしたちが19世紀の画家・原田直次郎の画集に「個展」として対峙する貴重な機会となる。

とのこと。

明治維新直前に生まれ、わずか36歳明治32年に亡くなった、まさしく日本の西洋画の先駆者の一人です。
私が初めて原田直次郎という名前を意識したのは、3年前に東京国立近代美術館(MOMAT)で開催された「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」(展覧会の記事はこちら)で巨大(272×181cm)「騎龍観音」(桐生観音ではない)を観たときでした。

「騎龍観音」「お持ち帰りしたい作品」ではありませんでしたので、記事には書きませんでしたが(お持ち帰りしたい作品目白押し凄い展覧会でしたし)、インパクトは大きかった…

宗教画(と言っていいでしょ)がこれほどリアルで良いのか

と思ったわけなんですが、この作品の寄託を受けているMOMATの解説によれば、

ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました

だそうで、そりゃそうだなと思います。

この作品に加えて、この展覧会のポスターにも使われている「靴屋の親爺」(タイトルも最高)、

これまた凄まじいインパクトです

では、このオヤヂが何といっているのか吹き出しをつけてみよう というなかなか気の利いた企画が行われていたのですが、ホント、何を言おうとしているのか気になります

それはそうと、「騎龍観音」「靴屋の親爺」の印象から、原田直次郎って、ゴツいイメージを持ってしまいます。

実際どうだったのか、、、、。

その話は「後編」で書くことにしましょう。
まだ原田直次郎の代表作2点しか紹介していないのに、済みませぬ

ところで、「このオヤヂが何といっているのか」、私も考えてみました。

どんな歩き方をしたら俺の作った靴がこんな風になるんだ?
スマホ見ながら歩いてんじゃねぇぞ、コラ

って感じでしょうか

つづき:2016/03/05 埼玉県立近代美術館の企画展は今回も当たり(中編)

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久しぶりに皇居東御苑と国立近代美術館を楽しんだ

2016-02-14 21:23:59 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

昨夜からの激しい風雨が、思いのほか早く収まったもので、外出を決行しました。
せっかくの3連休だというのに、一昨日から昨日の午前中まで自宅にはりつかざるを得ない事情があったもので、鬱屈したものがありましたから。

まず訪れたのは、「半年前の信州旅行記(その24)松本編⑥」

皇居(江戸城)もそうですが、お城のお濠に白鳥が似合うのはなぜなんでしょ?

と書いたからではありませんけれど、

白鳥のいる皇居東御苑です。(上の写真、なんだかに写っている…
白鳥お休み中

皇居東御苑にやって来た目的は白鳥ではありませんで、こちら

を観に行ったのでありますよ。

二の丸から本丸に至る、その名も「梅林坂」には心地良い梅の香りが満ちていて、鼻がスースー通っていきます

今朝の暴風にも負けず、けなげに咲いていました。

それにしても、中国語がビシバシと聞こえます。
もしかすると、日本人よりも外国人、それも中国人が多かったかもしれません。
もう春節休暇は終わったはずなのにね…

それはともかく、もう1

今回は天守台に上ることなく、

旧江戸城天守台

北桔橋門(きたはねばしもん)から退出して向かった先は、国立近代美術館(MOMAT)です。
きょうのお目当ては企画展「恩地孝四展」ではなくて、

企画展「ようこそ日本へ:1920‐30年代のツーリズムとデザイン」でした

私、1920-30年代のアート/デザイン大好きでして…

「ようこそ日本へ」展は、期待に違わない楽しい展覧会でしたが(埼玉県立近代美術館好評開催された「旅と芸術ー発見・驚異・夢想」と連携して同時開催したらよかったのに…)、それに勝るとも劣らなかったのが、所蔵作品展「MOMAT コレクション 特集:ちょっと建築目線でみた美術、編年体」

「ようこそ日本へ」展のことは後日書くことにしまして、きょうは「MOMAT コレクション 特集:ちょっと建築目線でみた美術、編年体」から数点ご紹介します。

「建築目線でみた」というところはちょいと上滑りしていた感があったことと、私の嫌いChim↑Pomの「作品」が2点音響つきで展示されていたことを除けば、こりゃ楽しかった

きょう初めて拝見して、一番「お持ち帰り」したかったのは、こちらの作品

中村正義「源平海戦絵巻 第1図(紅白吐霓)」です。
繰り返し描かれるの上に、これまた繰り返し描かれる源氏の小舟と、

これまた繰り返し描かれる平氏の小舟…、

このパターンって、「琳派」が使う手法のような…

   

この記事は、「半年前の信州旅行記」中断して書いているわけですが、そんな我が身にあれまぁ~ と思わせたものが3点ありまして、まず2点の作品がこちらで、

草間彌生さんの「残骸のアキュミレイション(離人カーテンの囚人)」「集積の大地」で、否応もなく松本を思い出してしまいます。(この2点は、1950年作といいますから、草間さんが20~21歳の頃の作品

そして、まったく予想していなかっただけに衝撃的だったのは、こちらの説明板でした

まさかここで藤森照信さんの「神長官守矢史料館」が登場するとは

「神長官守矢史料館」は、「半年前の信州旅行記」を書き綴るうち、100%間違いなく見聞録が登場するはずなんですけど…

ということで、次の記事では「半年前の信州旅行記」に戻る予定です。

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上野の人出は相当なものだった (最終編)

2015-05-18 23:00:56 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「上野の人出は相当なものだった (後編)で完結できず、「最終編」に突入であります

東京国立博物館(トーハク)の本館1階15室では「歴史の記録 江戸城と寛永寺」と題して、

この展示では、江戸城と、その鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立された寛永寺をとりあげます。頻発する火災によって江戸城は変貌し、慶応4年(1868)彰義隊の戦で伽藍の多くを焼失した寛永寺では、その跡地に上野公園がつくられました。それぞれの歴史を示す地図、図面、錦絵などの関連資料を展示します。

という展示が行われていました。

およそ河鍋暁斎の筆によるとは思えない、フツーの錦絵「東京名所之内明治十年上野公園地内国勧業博覧会開場之図」もさることながら(「暁斎筆」ということ自体が「見どころ」かも…)、

私の目惹き付けたのは、

揚州周延「上野不忍大競馬之図」

揚州周延「上野不忍大競馬之図」でした

この作品、こちらの記事で取り上げた同じ揚州周延「上野不忍共同競馬会社開業式之図」と似ているのですが、明らかに違います

開業式右回り(時計回り)なのに対して、「大競馬」東京競馬場新潟競馬場と同じ左回り(反時計回り)です。
競馬場は、最後の直線を長くとるべく、右回り左回りかは固定しているのが常なのですが、この上野不忍池競馬場は、どちら回りが本来のコース設定だったのでしょうか?

調べても答えが見つかりませんので、先に進みます

次の着目点は、例の「浮かびもの」です。
開業式では、

、ハチマキをしたタコ金魚、そして「メリー・ポピンズ」こと傘を差した洋装の女性だったのですが、「大競馬」は、

「 

落下傘立ち雛、竿付きの日の丸お公家さんと、、、、何だろ、、、これ?

判らんなぁ…

   

トーハク「鳥獣戯画-京都・高山寺の至宝-」展「太刀 銘三条(名物三日月宗近)」の相乗効果か、たいへん人出が多かったのですが、トーハクの正面、竹の台広場では、5月16-17日の両日にわたって「えちご 長岡・佐渡 広域観光フェア」が開催されていまして、こちらも大変賑わっていました。

私は、両日ともこのフェアを「冷やかし」したのですが、鮎の塩焼きを食べようか、牛串を食べようか迷った挙げ句後回しにしたらタイムアウトになってしまうという痛恨の事態に陥ったのでありました(開催時間を確かめておくんだった…)。

でも、数体集まっていた「ご当地キャラ」の中に、目立って面白いキャラを発見

/p>

「ブリカツくん」だそうで、見た目強烈さもさることながら(スカートのように見えるのはカツのコロモらしい)、その言動がかなり来てました

今後注目したいゾ

ということで、「上野の人出は相当なものだった」シリーズ完結であります。

「鳥獣戯画」関係は別立てとさせていただきますので、あしからず

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春ですなぁ~の六本木に行ってきた

2015-03-28 21:25:46 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

「この春は楽しみな美術展が密集」で挙げた、この春に観たい5つの展覧会の先頭を切って、会期末が一番近い「若冲と蕪村」が開催中のサントリー美術館に行ってきました。

私がサントリー美術館に着いたのはちょうど昼食どきで、展覧会を観る前に昼食を摂ろうと、サントリー美術館のある東京ミッドタウンガレリアをウロウロしてみました。

窓越しのミッドタウン・ガーデンきれい

サクラがボチボチと咲いていて、芝生のと共に、いかにも咲き初めらしいピンクが目に飛び込んできます。

気分よく昼食場所を探し始めたのですが、、、ガレリアのレストランはどこもかしこも混んでいるか、ド高いか、ド高いのに混んでいるのいずれかで、適当な場所が見つかりません

ガレリアをウロウロするうち、あれは何だ

もしかして、「サモトラケのニケ」?

近づいて見ても、やはり「サモトラケのニケ」です

やはり

「サモトラケのニケ」といえば、私が一度だけ訪れたルーヴル美術館で、一番「お持ち帰りしたいと思った作品です

ちなみにルーヴル美術館から「お持ち帰りしたい」と思った作品の第2位フェルメールの「レースを編む女」極めて小さな作品で、物理的にはお持ち帰り可能でした)、第3位は名前のないトルソでした。

それはともかく、「サモトラケのニケ」が、どうして東京ミッドタウンにあるのでしょうか?

説明板によりますと、

ルーヴル美術館が所蔵するギリシャ彫刻の至宝、サモトラケのニケは、2013年から修復が施され、2014年7月、大理石本来の輝きを取り戻し、ルーヴル美術館の元の展示スペースに戻りました。日本テレビではこの修復作業を支援してまいりました。
このニケ像は、日本テレビとルーヴル美術館のパートナーシップの象徴です。
日本テレビとルーヴル美術館は、長期的な展望にたった協力関係を築き、2034年までの20年間にわたり、6回のルーヴル美術館展を日本で開催いたします。

だとさ。

なるほど、東京ミッドタウンからほど近い国立新美術館で開催中の「ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄」の広報活動の一環なんですな。

確かに、8年半前の段階でも「サモトラケのニケ」ちょっと汚れておりますな(今、改めて写真を見てそう思うだけで、当時は気になりませんでした)。

どうでも良いことですが、下の写真は、きょう、私が着ていったブルゾン「ツレヅレタバコのNIKEです

そうだ、そうだ、「サモトラケのニケ」翼の「外側」は、本物もこんなに「質素な造り」なのでしょうか?

  

結局、東京ミッドタウンで昼食を摂ることを断念した私、一旦、東京ミッドタウンから外に出て、近くのラーメン店昼食をいただきました。
まぁ、味はそこそこって感じでしょうか・・・

そして、サントリー美術館に向かうにあたりましては、せっかくですので、ちょっと前にガレリアの内側から見てとてもきれいだった、ミッドタウン・ガーデンを散策してみました。

見頃までもう一息って感じですな(プリウスのタクシーが余計だった)。
もう一枚

ガレリアのガラスに映ったサクラウルウルで面白かった

そして、ようやく「若冲と蕪村」展に向かったのですが、こちらのお話は稿を改めます

つづき:2015/03/29 「若冲と蕪村」展のこと

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