きょう、上野に出かけてきました。
お目当ては東京国立博物館(トーハク)で展示中のこちら
本阿弥光悦の作になる国宝「舟橋蒔絵硯箱」。
金箔押しされた川面と舟の上にアーチ状にどっしりと架かる鉛の橋、そして、流麗な筆致で書かれた
『後撰和歌集』に収められた源等の歌「東路のさのの(船橋)かけてのみ思わたるを知る人そなき」
って、私には到底読めませんが…。
でも、イイ
でもでも、きょうのイチオシは、「舟橋蒔絵硯箱」でもTwitterで書いたアイスココアでもなく、
上野東照宮でした
ここ数年、ほぼ毎月欠かさずに上野に「通っている」私ですが、 上野東照宮にやって来たのはきょうが初めて
でした。
そして、これが予想外に衝撃的なものでした。
関東大震災と太平洋戦争をくぐり抜けてきた東京には、江戸時代以前に建てられた建物はさほど残っていません。
上野の場合は、戊辰戦争(上野戦争)もありましたし…
そんな「常識」の隙間をかいくぐって生き残っていた
のが、この上野東照宮だったのですよ
参道に並ぶ大ぶりの石灯籠には、一様に「慶安」の年号が刻まれていました。
「慶安」で思い出すのは、そう、「慶安の御触書」
江戸幕府の3代将軍・家光の治政下で発せられた御触書です。
上野東照宮の案内板を転記します。
元和2年2月、見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ、三人一処に末永く魂鎮なるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の屋敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627年)に本宮を造営した。
その後、将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安4年、現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。
だそうです。
天海が創建した東叡山寛永寺(こちらの記事で書きましたっけ)は、現在の上野公園のほとんどを寺域としていたわけですが、でそのほとんど上野戦争を焼失して、残ったのは清水観音堂や旧本坊表門(黒門)など、ごく一部だったと思っていたのですが、上野東照宮も残っていたとは私は知りませんでした
その上野東照宮ときたら…。
おぉ~、キンキラキン
1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
柱内外の四額面には左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
という唐門だけでも350年前に建てられたものとは思えないきらびやかさ
で十分に圧倒されますが、拝観料500円
をお納めして入ったこの門&透塀の内側は、さらに衝撃的
でした
おぉ~、まぶしい と叫びそうなキンキラキン
の壁
こんな神社、観たことがありません
あのハデハデの日光東照宮だって、こんなにキンキラキンではありませんでしたゾ
それにしても、くりかえしますが、とても350年前に建てられたものとは思えないきれいさではありませんか
拝殿を正面から拝見しますと、
う~む、、、、背中=唐門の向こう(無料拝観区域)から柏手の音を聴くのは、ちょっと落ち着かない…
キンキラキンの色彩もさることながら、目を惹かれたのは社殿の足もとでした。
だいたい、社寺の土台は、礎石の上に柱が乗っかっているものだと思っていたのですが、上野東照宮の社殿の足もとは、、、、
基壇(というのか?)の上に、寺社の屋根組を支える斗栱(ときょう)のようなものが乗っかって、その上に社殿が建てられています。
なんだか、巨大な御神輿が地面に置かれているようで、こんな構造を観たのは初めてのような気がします。
いやはや、驚かせられっぱなしの上野東照宮でした。
ちなみに上野東照宮では、ぼたん苑で「冬のぼたん」が公開中だったのですが、今回はご遠慮いたしました。入苑料700円だそうでしたし…
あ、そうそう、すぐそばに五重塔がそびえていまして、近くから拝見
しようと思ったのですが、どうしても柵の向こう側に行けません
どうしたら近くに行けるのだろうか?と思っていたら、こんな看板が、、、
五重塔は動物園内にあります。
The five-story pagota is located in the zoo.
とな
帰宅してから調べると、この五重塔は、明治初年の神仏分離の流れの中で、寛永寺のものとなり、寛永寺から東京都に寄付されたのだとか。
確かに、「神社に五重塔」というのは変ですもんね。
でも、神社とお寺がゴシャゴシャだったのは、長い風習と歴史を持っていたんですよねぇ。
杓子定規な神仏分離がもたらした損失の大きさを思えば、旧寛永寺五重塔は幸せだったのかもしれません。