「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4」のつづきです。
「庄内藩校 致道館」の次に向かったのは、今回の鶴岡街歩きのメイン、致道博物館です。
羽黒通りを西にちょっと歩くと、鶴岡公園内に「いかにも」な建物がありました。

現在は郷土人物資料展示施設として使われている「大寶館(たいほうかん)」です。
案内板
によれば、
大正天皇の即位を記念して創建されたもので、大正4年(1915)10月に完成、11月10日即位の日に開館、物産陳列場、図書館等として使用された。
「大寶館」の名称は、易経の「天子の位を大寶という」によって名付けられた。
建物はオランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドームを載せた洋式で、赤い尖塔屋根と白亜の殿堂として大正建築の優美さが内部を含めて完全に原形を留めていることから昭和56(1981)年1月、市の有形文化財に指定された。
とか。
壁や窓、玄関、そして正面のドームはいかにも洋風ですが、屋根は入母屋の瓦葺というのが、まさに擬洋風です。
入館無料らしいのですけれど、「郷土人物」にはさほど興味はないので、入館はしませんでした。
代わりというか、「天子の位を大寶という」の原典を探してみたところ、易経の「繋辞下伝」に、以下の一節がみつかりました。
天地之大德曰生。聖人之大寶曰位。何以守位。曰仁。何以聚人。曰財。理財正辭。禁民爲非。曰義。
こちらのサイトでは、
天地の大徳(だいとく)を生と曰(い)い、聖人の大宝(たいほう)を位と曰(い)う。何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚むる。曰く財。財を理(おさ)め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。
と訳されています。
日本の天皇家の男子のお名前に必ず「仁」が使われている(後冷泉天皇以降に主流となったらしい)のも、この易経が由来なのかもしれません。

さて、致道博物館です。

上の写真では出入口の看板に隠れてしまっていますが、赤い門があります。
入館(入場)する前に、ちょっと回り込んでパシャリ

この門は、酒井家に徳川家の姫が嫁ぐ際に酒井家江戸屋敷(上屋敷は現在の大手町フィナンシャルシティのあるブロック全域)に建てられた特別な門だとか。
この徳川家の姫を嫁に迎えたのは誰だったのでしょうか?
調べると、致道館を創設した第7代藩主の忠徳公(正室:田安徳川家の修姫)、第9代藩主の忠発公(正妻:田安徳川家の鐐姫)、第11代藩主の忠篤公(正室:田安徳川家の鎮姫)のいずれかだと思われます。
それにしても、酒井家と田安徳川家との婚姻が一代おきに続いて、大丈夫か? とちょっと心配になります
外から赤門を眺めたのち、入場

最初に見学したのは「旧西田川郡役所」。

旧西田川郡ってどこにあったんだろ?
上にリンクを張った「文化財オンライン」のサイトによれば、
1876年廃藩置県後の置賜・山形・鶴岡の3県が統合し現在の山形県が誕生しました。その後郡制の施行により県下に11の郡がおかれ、鶴岡は西田川郡となり郡役所が設置されました。
だそうで、建物内にあった年表によると、もともとあった場所は「鶴岡町馬場町」ですから、今の町割りと同じであるとすれば、鶴岡公園や鶴岡市役所などを含む、江戸時代からの中心部でした。

そして、年表を要約すると、
明治11年(1878) 山形県令・三島通庸の命により郡役所建設を計画
明治13年(1880) 6月23日起工。
設計・施工:大工棟梁・高橋兼吉、石井竹次郎、時辰器:金田市兵衛
明治14年(1881) 5月落成、9月24日に明治天皇の行在所となる。
明治18年(1885) 大時計が風圧等で不調となり、塔屋の時計台を取り外し
明治20年(1887)頃 時計を常念寺に移設
大正13年(1924) 鶴岡町が市制施行により鶴岡市になる
大正15年(1926) 旧郡役所庁舎が鶴岡市に移管
といった感じ。
落成からわずか4年で不調になってしまったちょっと情けない時計ですが、なんでも、「現状確認されている国産塔時計では最古と考えられる」らしいです。
これは「へぇ~
」です。
ちなみに、かの有名な服部時計店の時計塔(先代)は、セイコーのサイトによると、明治27(1894)年にできたもので、しかも、服部金太郎さんが作ったものかと思いきや、スイス製のムーブメントを使っていたらしいです。
なお、高橋棟梁は、この旧田川郡役所だけでなく、1893(明治26)に酒井伯爵家が酒田米穀取引所の付属倉庫として建てた山居倉庫(記事)も担当したらしい。

さて、旧田川郡役所の中は、2階は「考古資料室」として庄内からの出土品の展示でさほどおもしろくありませんでしたが
、1階の「致道ミニチュアコレクション」は楽しかった
とりわけ、「磯貝吉紀ドールハウスコレクション」は凄かった

まるで映画やドラマのセットのようですが、ドールハウスですから、大きいものでも1m立方くらいの大きさです。

なんという精緻さなんでしょ
造形は完璧
だし、光
の使い方も上手

体を小さくして、このドールハウスの中に入っていきたい気分でした。
作者の磯貝さん(1933-2011)は、東京生まれで、民放テレビ局に勤務しながら、アンティークドールハウスの研究や作家と交流しながら自らもドールハウスを制作された方で、2015年に三枝子夫人から致道博物館に作品寄贈の申し出があり、2017年に34点が、2019年に遺作の「テレビ局のスタジオ(未完)」や制作道具などが寄贈され、今年4月27日から旧西田川郡役所で常設展示が始まったのだそうです。
三枝子夫人が、どうして寄贈先に致道博物館を選んだのでしょうねぇ。
そこんとこがよく判りません。
ここで2階から屋根を眺めた写真を。

和風建築であれば鬼瓦が置かれる場所に、カボチャから何が上に伸びてたような形の棟飾りです。
これは何の意匠なんだろ
なお、旧西田川郡役所の隣にある致道博物館の門柱には、この棟飾りを摸したものと思われる飾りがついていました。

ここで、そもそもこの致道博物館って何? ということを整理しておきます。
「#4」で、酒井家の現当主が(公財)致道博物館の理事長を務められていることを書きましたが、出発点は、
致道博物館は1950(昭和25)年、旧荘内藩主第16代酒井忠良氏は地方文化の向上発展に資することを目的として土地建物および伝来の文化財などを寄附し、財団法人以文会が設立されました。
昭和27年博物館法による博物館施設、財団法人以文会立致道博物館として運営し、昭和32年1月財団法人致道博物館と改称、そして公益法人改革により平成24年4月1日より公益財団法人致道博物館となり現在に至っております。
と、酒井家からの資産の寄付でした。
資産家が、相続税対策その他の理由で、財団法人を設立して、そこに個人資産(土地・建物・美術品など)を寄付するのは今でもある話ではありますが、1926年(昭和21)、最高税率90%にもなる財産税が課され、1927年(昭和22)の日本国憲法施行にともなって華族制度が廃止されるという、酒井伯爵家にとっても終戦からあまりにも早く大きな変化だったはずですが、その荒波
を乗り越えて、さらに資産を寄付したというのは、どういうこと?
さて、発足当時から存在する建物は、旧庄内藩主御陰殿、酒井氏庭園、民具の庫(旧御隠殿土蔵)、旧酒井家江戸屋敷赤門くらいのもので、
1957年 旧鶴岡警察署庁舎(明治17年創建)を移築復元
1961年 鉄筋コンクリート造の新館「美術展覧会場」開館
1965年 旧渋谷家住宅 (文政5年創建)を移築復元
1972年 旧西田川郡役所(明治14年創建)を移築復元
1982年 重要有形民俗文化財収蔵庫竣工
と移築復元や新築を重ねると共に、各建物の修復も続けているんです。
このあたりで「#6」につづきます。
つづき:2024/12/07 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6