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新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7

2024-12-08 11:27:24 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6」のつづきは、致道博物館で観た「手のひらに、江戸 檜細工師 三浦宏の粋」の途中から。

私、「棟割長屋」「割長屋」との区別がつかなかったのですが、この展覧会でようやくその違いを知ることができました

手前が「棟割長屋」で、奥が「割長屋」です。

一棟の長屋に、背中合わせに2列に部屋が並んでいるのが「棟割長屋」で、1列に部屋が並んで入口と反対側に裏庭があったりするのが「割長屋」です。

こちらのサイトによれば、「棟割長屋」1戸の平均的な広さは、9尺(約2.7m)×2間(約3.6m)で、土間と4畳半の部屋があって家賃は300~500文。一方の「割長屋」2間四方で、土間と6畳間と屋根裏部屋(4畳)があって家賃は800~1000文だったそうな。
「棟割長屋」なんて、今どきは苦学生か独身者でも住まなそうな狭さですが、ここに家族で暮らしていたというのですから、江戸の住宅事情はなんともpoorだったんですねぇ
考えてみれば、私の本宅「現代版割長屋」 もちろん、江戸時代の割長屋よりずっと広いけれど…

   

江戸時代には、寿司や天ぷらは屋台でひょいっとつまむものだったと聞きますが、その屋台がまたよくできてる

江戸東京博物館には実物大の寿司の屋台が展示されていましたけれど、当時の寿司は酢飯が茶色(赤酢を使っていた)で、握りの一つ一つが大きかったなぁ。

「三浦宏の粋」展では、「現代の寿司屋」(回らない寿司屋)のミニチュアも展示されていました。

食べ物つながりでは、

湯豆腐桶(左)と冷や奴桶(右)だそうで、こんな道具を使って食べたら、豆腐をいっそう美味しく食べられそうな気がします
さらに、街道を徒歩きしていて、こんなのを見たらすぐに食事したくなりそうな「めし屋(煮売り屋)」

右側の看板には「品川宿 煮うりや 㐂助」と書かれていました。

   

そして、最後に紹介するのは「木戸番小屋」です。

「木戸番」「町の門番」みたいなもののはずですが、なにやら「商店」のような雰囲気が漂っています。

これというのも、Wikipediaから引用しますと、

木戸番の賃金は少なかったため、彼らは駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていた。特に焼き芋屋は番太郎(=木戸番)の専売のようになっていた。そのため、番太郎は本職より内職の方で知られており、木戸番屋は「商番屋」とも呼ばれていた。

だそうです。
確かに、真ん中の樽状の(?)の中に入っているのはサツマイモっぽいし、傍らには笊に入れられたサツマイモがあります
三浦さん、芸が細かい

ほんとはもっと紹介したいところですが、なにせ、約70点を展示する、過去最大級の展覧会」ですから、キリがありませんので、「三浦宏の粋」展のことはここまでにして、美術展覧会場を出ましょう

そして、美術展覧会場のとなりにあったのは、、、私が「おひょう~欣喜雀躍した建物だったのですが、その話は「#8」で…

つづき:2024/12/10 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6

2024-12-07 17:22:01 | 旅行記/美術館・博物館・アート

だいぶ体調が戻ってきましたので、「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5」のつづきです。

「旧西田川郡役所」の次に見学したのは、

「旧庄内藩主御隠殿(ごいんでん)です。
リーフレットには、

幕末に江戸中屋敷を移築したと伝わる酒井家11代忠発の隠居所。明治の廃城後は旧藩主の邸宅「酒井伯爵邸」となり、一部が現存します。

とありましたが、酒井忠発公は9代藩主で、11代藩主は酒井忠篤じゃなかったかな? 「旧庄内藩御隠殿」前の説明板にも「11代藩主忠発」と書かれているし、これはどういうこと? そのうち調べてみましょ。
なお、庄内藩の江戸中屋敷は、現在の神田和泉町北東角三井記念病院がある辺りだったらしいです。

「旧庄内藩主御隠殿」に入ると、まずは鶴ヶ城の年表があり、さらに、城下の地図などと共に、ジオラマがありました。

ガラスへの映り込みが邪魔ですが、写真の左上の内堀で囲まれた区画が本丸で、右下には馬出しを備えた大手門が見てとれます。
天守がなく、また、石垣ではなく土塁で本丸や二の丸を囲っているところがいかにも東日本の城ですなぁ。

そして、私にとって重大関心事である「艮(丑寅=北東)の鬼門消し」が写真の中央部、内堀を内側に屈曲させて成立させているのがよく判ります
古地図(上が西、右が北)だと、もっとはっきりと判りますな

あとで、「鬼門消し」が残っているのか、確認するぞ

また、「江戸時代後期の鶴ヶ岡城下」という町割り図(上が北)を見ると、

二の丸から「西御門」を出てすぐ、「旧庄内藩主御隠殿」を含む致道博物館のエリアが「御用屋敷」と表記されていました。
江戸城でいえば「西の丸」のような扱いだったのかもしれませんな

次のコーナーには、なぜか釣り竿とか魚拓が展示されていて、釣りに興味の無い私はさらっと通過してしまったのですが、あとで知ったところによると、魚拓発祥の地庄内だったらしい
Wikipediaによれば、

魚拓は庄内藩が発祥とされ、日本で現存最古のものは天保10年(1839年) 2月に現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣られた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」とされている。9代藩主酒井忠発が釣り上げた鮒であるとされ、現在は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている。

だそうな
現存最古の魚拓が、殿様が釣り上げたフナだとは、いろいろ驚かされます

それはともかく、「旧庄内藩主御隠殿」は、元藩主の隠居所にして、明治以降は酒井侯爵邸だっただったというだけに、各部屋が広い

現存するのは「一部」だそうですから、往時はさぞかし豪邸だったのでしょう

奥座敷からガラス越しに「酒井氏庭園」を眺めて、

そして、旧庄内藩主御隠殿退出しました。

   

旧庄内藩主御隠殿の隣にある新しめの建物は「美術展覧会場」で、私が訪れたときには、「手のひらに、江戸 檜細工師 三浦宏の粋」が開催中でした。

ジオラマ好き・ミニチュア好き・建物好きの私にとってはたまらない展覧会でした

三浦宏さんは、

浅草の風呂桶職人の家に生まれ、優れた技術で檜風呂や手桶などを製作していた三浦宏(1926-2019)。時代の流れに伴って木製風呂桶の需要が減るなか、子どもの頃から親しんだ和船の模型づくりに取り組みます。
確かな職人技で再現されるミニチュアは次第に評判となり、江戸最古の人形の老舗「吉徳」をはじめ、各方面からの依頼が舞い込み、亡くなるまでの38年間に100点以上の作品を手がけました。

という方で、私は、三浦さんの作品を、一葉記念館の常設展示や、今年春の「大吉原展」@東京藝術大学大学美術館で拝見したことがありまして、「大吉原展」に出品されていた三浦さんと辻村寿三郎さん(人形)、服部一郎さん(小物細工)とのコラボによる「江戸風俗人形」は(なぜかこの作品のみ撮影)圧巻でした

「三浦宏の粋」展では、この「江戸風俗人形」は展示されていませんでしたが、

本展は、長屋・湯屋・呉服屋などの代表作品(縮尺1/10)を中心に約70点を展示する、過去最大級の展覧会です。

というだけに、何とも見応えのある、顔の表情筋が緩んだままの展覧会でした

まずは、三浦さんの「原点」とも言える船の模型から「千石船」

美しいし、大きさも手頃(長さ30cm×幅18cm)だし、「お持ち帰り」したかった

浴槽のことを「湯船」と呼んだりしますが、その由来は、江戸時代に銭湯の無い場所や少ない地域を風呂を設置した船で巡回する商売があったそうで、その「湯船」がこちら。

晩年の父は訪問入浴介護のサービスを受けていましたが、移動入浴車は、現代版「湯船」かもしれませんな

お次は、古典落語時代小説でおなじみ(?)の猪牙舟(ちょきぶね)。

説明板には、

猪の牙状に舳先が細長く尖った、屋根のない小さな川舟のことです。江戸市中の河川で、タクシーのように使われました。
浅草山谷にあった吉原遊郭に通う客がよく使ったため、山谷舟とも呼ばれました。

とありましたが、江戸は川や運河が網の目のように通っていた町でしたから、活躍の場は多かったんでしょうねぇ

   

船はこの辺りにとどめて、次は建物で、まずは「湯船」商売仇であるところの 銭湯(湯屋)

浴槽エリアと洗い場エリアとの間には、下がちょっとだけ開いたがあり、ものものしく唐破風で飾られています。
柘榴口(ざくろぐち)と呼ばれるもので、浴槽エリアの温度や湿度を維持するための工夫だそうな。ちょっと似た感じのある茶室「にじり口」とは関係無さそうです

湯屋の楽しみは風呂だけではなく、入浴後に湯屋の2階で過ごすひとときがあったのだそうで、そのミニチュアもありました。

江戸川区浴場組合のサイトによれば、

時期にもよりますが、銭湯の二階が別料金を払って入る娯楽スペースだったこともあるそうです。脱衣場からハシゴで二階に上がると、お茶を飲んだりお菓子を食べたり、囲碁や将棋をさしながら会話を楽しむスペースが広がっていました。
二階スペースを利用するのは男性だけに限られていたようですが、これにはある時期に「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性スタッフが三味線などで男性をもてなしたこと、武士が刀を置くスペースが必要だったことなどが関係しているようです。

だそうです。
道後温泉本館の2階・3階みたいですな(道後温泉は男女とも2階・3階でくつろげる)

と、キリが良くないのですが、久しぶりに気合いを入れて記事を書いたら、妙に疲れてしまいました

したがいまして(?)、ここから先は「#7」につづきます。

つづき:2024/12/08 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5

2024-11-08 21:06:50 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4」のつづきです。

「庄内藩校 致道館」の次に向かったのは、今回の鶴岡街歩きのメイン、致道博物館です。

羽黒通りを西にちょっと歩くと、鶴岡公園内に「いかにも」な建物がありました。

現在は郷土人物資料展示施設として使われている「大寶館(たいほうかん)です。
案内板によれば、

大正天皇の即位を記念して創建されたもので、大正4年(1915)10月に完成、11月10日即位の日に開館、物産陳列場、図書館等として使用された。
「大寶館」の名称は、易経「天子の位を大寶という」によって名付けられた。
建物はオランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドームを載せた洋式で、赤い尖塔屋根と白亜の殿堂として大正建築の優美さが内部を含めて完全に原形を留めていることから昭和56(1981)年1月、市の有形文化財に指定された。

とか。
壁や窓、玄関、そして正面のドームはいかにも洋風ですが、屋根入母屋の瓦葺というのが、まさに擬洋風です。

入館無料らしいのですけれど、「郷土人物」にはさほど興味はないので、入館はしませんでした。
代わりというか、「天子の位を大寶という」原典を探してみたところ、易経の「繋辞下伝」に、以下の一節がみつかりました。

天地之大德曰生。聖人之大寶曰位。何以守位。曰仁。何以聚人。曰財。理財正辭。禁民爲非。曰義。

こちらのサイトでは、

天地の大徳(だいとく)を生と曰(い)い、聖人の大宝(たいほう)を位と曰(い)う。何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚むる。曰く財。財を理(おさ)め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。

と訳されています。

日本の天皇家の男子のお名前に必ず「仁」が使われている(後冷泉天皇以降に主流となったらしい)のも、この易経が由来なのかもしれません。

   

さて、致道博物館です。

上の写真では出入口の看板に隠れてしまっていますが、赤い門があります。
入館(入場)する前に、ちょっと回り込んでパシャリ

この門は、酒井家に徳川家の姫が嫁ぐ際に酒井家江戸屋敷(上屋敷は現在の大手町フィナンシャルシティのあるブロック全域)に建てられた特別な門だとか。

この徳川家の姫を嫁に迎えたのは誰だったのでしょうか?
調べると、致道館を創設した第7代藩主の忠徳公(正室:田安徳川家の修姫)、第9代藩主の忠発公(正妻:田安徳川家の鐐姫)、第11代藩主の忠篤公(正室:田安徳川家の鎮姫)のいずれかだと思われます。
それにしても、酒井家田安徳川家との婚姻が一代おきに続いて、大丈夫か? とちょっと心配になります

外から赤門を眺めたのち、入場

最初に見学したのは「旧西田川郡役所」

旧西田川郡ってどこにあったんだろ?
上にリンクを張った「文化財オンライン」のサイトによれば、

1876年廃藩置県後の置賜・山形・鶴岡の3県が統合し現在の山形県が誕生しました。その後郡制の施行により県下に11の郡がおかれ、鶴岡は西田川郡となり郡役所が設置されました。

だそうで、建物内にあった年表によると、もともとあった場所は「鶴岡町馬場町」ですから、今の町割りと同じであるとすれば、鶴岡公園鶴岡市役所などを含む、江戸時代からの中心部でした。

そして、年表を要約すると、

明治11年(1878) 山形県令・三島通庸の命により郡役所建設を計画
明治13年(1880) 6月23日起工
     設計・施工:大工棟梁・高橋兼吉、石井竹次郎、時辰器:金田市兵衛
明治14年(1881) 5月落成、9月24日に明治天皇の行在所となる。
明治18年(1885) 大時計が風圧等で不調となり、塔屋の時計台を取り外し
明治20年(1887)頃 時計を常念寺に移設
大正13年(1924) 鶴岡町が市制施行により鶴岡市になる
大正15年(1926) 旧郡役所庁舎が鶴岡市に移管

といった感じ。

落成からわずか4年不調になってしまったちょっと情けない時計ですが、なんでも、「現状確認されている国産塔時計では最古と考えられる」らしいです。
これは「へぇ~です。
ちなみに、かの有名な服部時計店の時計塔(先代)は、セイコーのサイトによると、明治27(1894)年にできたもので、しかも、服部金太郎さんが作ったものかと思いきや、スイス製のムーブメントを使っていたらしいです。

なお、高橋棟梁は、この旧田川郡役所だけでなく、1893(明治26)に酒井伯爵家が酒田米穀取引所の付属倉庫として建てた山居倉庫(記事)も担当したらしい。

さて、旧田川郡役所の中は、2階は「考古資料室」として庄内からの出土品の展示でさほどおもしろくありませんでしたが、1階の「致道ミニチュアコレクション」は楽しかった
とりわけ、「磯貝吉紀ドールハウスコレクション」凄かった

まるで映画やドラマのセットのようですが、ドールハウスですから、大きいものでも1m立方くらいの大きさです。

なんという精緻さなんでしょ
造形は完璧だし、の使い方も上手

体を小さくして、このドールハウスの中に入っていきたい気分でした。

作者の磯貝さん(1933-2011)は、東京生まれで、民放テレビ局に勤務しながら、アンティークドールハウスの研究や作家と交流しながら自らもドールハウスを制作された方で、2015年に三枝子夫人から致道博物館に作品寄贈の申し出があり、2017年に34点が、2019年に遺作の「テレビ局のスタジオ(未完)」や制作道具などが寄贈され、今年4月27日から旧西田川郡役所で常設展示が始まったのだそうです。
三枝子夫人が、どうして寄贈先に致道博物館を選んだのでしょうねぇ。
そこんとこがよく判りません。

ここで2階から屋根を眺めた写真を。

和風建築であれば鬼瓦が置かれる場所に、カボチャから何が上に伸びてたような形の棟飾りです。
これは何の意匠なんだろ

なお、旧西田川郡役所の隣にある致道博物館門柱には、この棟飾りを摸したものと思われる飾りがついていました。

   

ここで、そもそもこの致道博物館って何? ということを整理しておきます。

「#4」で、酒井家の現当主が(公財)致道博物館の理事長を務められていることを書きましたが、出発点は、

致道博物館は1950(昭和25)年、旧荘内藩主第16代酒井忠良氏は地方文化の向上発展に資することを目的として土地建物および伝来の文化財などを寄附し、財団法人以文会が設立されました。
昭和27年博物館法による博物館施設財団法人以文会立致道博物館として運営し、昭和32年1月財団法人致道博物館と改称、そして公益法人改革により平成24年4月1日より公益財団法人致道博物館となり現在に至っております。

と、酒井家からの資産の寄付でした。

資産家が、相続税対策その他の理由で、財団法人を設立して、そこに個人資産(土地・建物・美術品など)を寄付するのは今でもある話ではありますが、1926年(昭和21)、最高税率90%にもなる財産税が課され、1927年(昭和22)日本国憲法施行にともなって華族制度が廃止されるという、酒井伯爵家にとっても終戦からあまりにも早く大きな変化だったはずですが、その荒波を乗り越えて、さらに資産を寄付したというのは、どういうこと?

さて、発足当時から存在する建物は、旧庄内藩主御陰殿酒井氏庭園民具の庫(旧御隠殿土蔵)旧酒井家江戸屋敷赤門くらいのもので、

 1957年 旧鶴岡警察署庁舎(明治17年創建)を移築復元
 1961年 鉄筋コンクリート造の新館「美術展覧会場」開館
 1965年 旧渋谷家住宅 (文政5年創建)を移築復元
 1972年 旧西田川郡役所(明治14年創建)を移築復元
 1982年 重要有形民俗文化財収蔵庫竣工

移築復元や新築を重ねると共に、各建物の修復も続けているんです。

このあたりで「#6」につづきます。

つづき:2024/12/07 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #3-1

2024-09-17 14:09:27 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-5」のつづき、最終日(8月31日)の旅行記です。

ここしばらく、インバウンド需要の高まりの影響か、どこに行こうとしてもホテル代が高くてうんざりだったのですが、8月も末となると、需給が緩むのか、ちょっとホテル代が安くなっていて、京都・奈良いずれでも、第一希望のホテルに手が届きました

奈良での宿泊先に選んだのは、ホテル日航奈良でした。
このホテルは、奈良への初の個人旅行(2007年4月)の際に泊まった思い出のホテルなんですが、(写真は17年前のJR奈良駅東口)

JR奈良駅から至近だし、大浴場があるし、客室がそこそこ広いし、そしてなによりも「奈良ならではの朝食」イイ

ということで、この旅行のお楽しみの一つだった朝食でスタート

写真は「茶粥」を中心にした第1ラウンド
第2ラウンドでは、茶飯とか、「興福寺の精進汁」などを味わった後、〆は三輪素麺にしました

もう大満足です

ただ、私は朝食付きのプランで宿泊したのですが、この朝食を「ビジター」として食べようとすると、3,500円だそうです
昨年12月に仙台に行ったとき(MISIAのことしか書いていないその時の記事)は、ホテル代そのものがどこもかしこも高かった上に、私が素泊まりしたホテルの朝食が3,000円だと知って仙台駅の駅ナカで朝食(おにぎり2個と芋煮のセット)を摂ったのですが、あの仙台のホテルの朝食もこんなハイレベルだったのかな?

ところで、ホテル日航奈良と双璧をなすお気に入りホテルが4年前に廃業して、その後、その建物コロナ患者の隔離先などに使われていたのですが、前日、その前を通ったら、ほぼ解体されていました

跡にはマンションが建つみたい…。
良いホテルだったのにな…

   

前日昼前時点では、この朝食を摂った後、しばし部屋で腹ごなししたら、チェックアウトして直ちにJR京都駅へ移動し、新幹線帰る予定でした。
ところが、運休新幹線に代えて、夕方に大阪伊丹空港を出発する飛行機にしたことから様相が変わり、JR奈良駅前 13:00発空港リムジンバスまで、つまり午前中がフリーになりました。

さて、この急遽出現したフリーな時間をどう使う?

私の選択は、「奈良博なら仏像館仏さまたちにお目にかかること」でした。
トーハク「友の会」会員証を使って無料で入場できますし…

ということで、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらい、JR奈良駅から路線バスに乗って奈良博に向かいました。

   

奈良博 なら仏像館は、ほとんどの作品が撮影不可で、その数少ない仏さまの一つ(一対)が、金峯山寺の仁王さまでした。

おぉ、大きい

説明書きを転記しましょう。

重要文化財 金剛力士立像 康成(こうじょう)
吉野郡吉野町に位置する金峯山寺(金峰山修験本宗の総本山)の仁王門(国宝)に安置される金剛力士像。仁王門は平成30年(2018)度より大規模な修理が開始され、これと並行して金剛力士像も翌年度から2か年をかけて、公益財団法人美術院により彩色や漆下地の剥落止め、矧目(はぎめ=寄せ木造りの接続箇所)など変色箇所の修正、足元や台座の材質強化などを主とする保存修理が実施された。
像内の銘文により、南北朝時代の延元3年(1338)から翌年にかけて、大仏師康成により造られたことがわかる。見上げるばかりの巨像で、劇的な忿怒相と全身にみなぎる力動感は圧巻であり、鎌倉時代の金剛力士像にみる颯爽とした姿を基本としつつ、丈六の巨像を破綻なくまとめあげた点に康成の優れた技量がうかがえる。建仁3年(1203)に運慶・快慶らが造立した奈良・東大寺南大門像に次ぐ大作として、また、当代を代表する金剛力士像としてもきわめて高い価値を有している。

先週のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長御一行様御嶽詣(金峯山寺への参詣)が描かれましたが、当時(寛弘4年=1007年)この仁王さままだ存在しておられなかったんですな。残念

この仁王さま、展示室で拝見すると、失礼ながら、頭でっかちかつ頭が縦長で、ちょいとバランスがおかしく見えます
でも、仁王門を通る人たち至近から見上げることを想定しての造形なのかもしれないと思い、近くから見上げると、たしかに違和感は薄らぎました

あともう一点、撮影できたのは、ふっくらしてcute「吉祥天倚像」でした。
この像は、鎌倉時代(14世紀)のもので、

類品に暦応3年(1340)寬慶作の興福寺像がある。

だそうですが、興福寺の吉祥天さまが公開されるのは毎年1月1~7日だけだそうで、前日、興福寺中金堂にお参りしたとき、扉を閉じた厨子の中でした

   

快慶作といわれる「不動明王立像」は、なんとも見事で、たまたまいあわせたおばちゃんと、どちからともなく、イイですねぇ」「眼力が凄い」「さすが快慶」などと感想を述べ合ったりしました

また、元興寺五重塔本尊だったという「薬師如来立像」のところでは、ボランティア説明員のおじさんと、神護寺の薬師如来さまと似ていかめしいお顔」「元興寺五重塔の礎石を観たことがる(記事)といった会話を楽しみました。

ひととおりなら仏像館を観た私は、隣の青銅器館スルーして、地下連絡通路を通って、西新館地下にあるミュージアムショップに行ってみました。

その途中、こんなポスターがありました。

「阿弥陀如来立像(裸形)」のレプリカに服を着せようというワークショップだと

その内容を知ると、「いかにも奈良博」「奈良博ならでは」のワークショップだと思います。

もともと仏さまの裸形像は、こちらのサイトによれば、

腹部に輪宝、股間に蓮華形を付けるほか、裸形に表された像。このまま安置するのではなく、布製の衣服を着せて祀っていた。このような裸形像は鎌倉時代から作例が増加し、地蔵菩薩像弘法大師像などもあるが、最も多いのは阿弥陀如来像である。

だそうで、これに衣や袈裟を着付けるのは正しい用法と言えるでしょう

奈良博では、毎月第2日曜日にこの「ほとけさまに服を着せよう!」毎月第4日曜日「絵巻物をみて!きいて!さわろう!」という二つの「とくべつワークショップ」のほか、さまざまなワークショップを開催している由。

そんなこんなで奈良博を楽しんだ私は、三条通りをとろとろ歩いてJR奈良駅に戻りました。

この日はあいにくの雨降りだったとはいえ、土曜日だというのに、三条通りを歩く人のなんと少なかったこと
東海道・山陽新幹線が止まっていることで、観光客激減していたんでしょうな

というところで、完結編(はずの)「#3-2につづきます。

つづき:2024/09/18 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #3-2 [完結編] 

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-4

2024-09-15 16:48:39 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-3」のつづきです。

奈良国立博物館(奈良博)には、他の国立博物館(東京・京都・九州)に比べて、子どもたちや初心者への教育・啓発に熱心なイメージがあります。
それは、なら仏像館西新館との地下連絡通路を歩けばよく感じられて、例えば、仏像(木製)のつくられ方とか、仏像の手のポーズ(印相)を模型で説明する展示があったりします(ここは無料エリア)。

「わくわくびじゅつギャラリー 『フシギ! 日本の神さまのびじゅつ』」は、

この展覧会では、日本の神さまの美術にまつわる、いろいろな“フシギ”をご紹介しながら、人びとが日本の神様をどのように見つめていたのか、その秘密に迫ります。展覧会場では、お子さまから大人の方まで楽しめるよう、体験型の要素を盛り込むなど、いろんな工夫をこらしています。
さまざまな“フシギ”にふれながら、日本の神さまの美術の魅力を感じてください。

と、まさしく奈良博らしい企画です。
「クイズではっけん! 神さまのびじゅつのハテナ ワークシート」という、かなりしっかりした紙質かつしっかりした内容リーフレット無料配布されていて、子どもたちは作品を観たり説明文を読んで、クイズに答えることで、楽しみながら学べる仕組みになっていました。

会場には大勢の家族連れがいらしていて、係員さんたちは「ケースには触らないでねとかなり大変そうでした
でも、展覧会の係員(監視員)さんは、たいてい暇そうなんだけど、この展覧会でのお仕事はやりがいがあっただろうな

さて、「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」展は、「お住まい」「おすがた」「ほとけさまとのカンケイ」「仲良しの動物がいる」「神さまへのプレゼント」「神さまにささげるエンタメ」それぞれの「フシギ」を見ていこう という趣向で、神社の建物や御神輿くらいしか目にすることのない中で、「神さま」を「カタチ」として体感できる展覧会になっていました。

これらの「フシギ」のうち、「ほとけさまとのカンケイ」はホント難しいんですよね
昔、歴史の授業で「本地垂迹説」を習ったけれど、神仏分離が徹底されて150年も経った今では、なかなか理解しづらい
そんな難問にもかかわらず、作品を通して子どもたちにも判ってもらおうとする展覧会の志の高さ拍手です

しかも、展示されていた作品は、「子ども騙し」とはほど遠い一級品がズラリ

写真を載せた薬師寺(休ヶ岡八幡宮)の「八幡三神像」とか、熊野速玉大社「桐蒔絵手箱(=化粧道具入れ)と化粧道具とか、「辟邪絵」などの国宝を始めとして、談山神社「沃懸地(いかけじ)太刀」奈良博所蔵の「生駒宮曼荼羅」ほかの重要文化財も展示されていました。

そうそう、私がいつも気にしている「獅子・狛犬」の違い・区分も、薬師寺の獅子・狛犬を展示して、しっかと説明されていました。

これまで何度もこのブログで書きましたが、角のある吽形狛犬で、角の無い阿形獅子です。

   

この展覧会で大活躍していたのが、奈良博の公式キャラ「ざんまいず」でした。

左から、くじゃっぴしろぞーあおじじはにわんこぎゅーたろ というお名前とな。

孔雀孔雀明王白象普賢菩薩獅子文殊菩薩大威徳明王のそれぞれ「相棒」ですな
と思ったら、やはり白象普賢菩薩像獅子文殊菩薩像の台座大威徳明王騎牛像と、奈良博収蔵品に由来しているそうなのですが、孔雀の元ネタは「孔雀文磬」でした
なお、はにわんこ埴輪の犬なんだろうけれど、奈良博で埴輪を見たことがあったかな? と、、、奈良博も埴輪の犬を収蔵していました
どうでもいいけれど、私、トーハクベロを出した犬の埴輪がお気に入りです。

それはともかく、こちらの記事 (まさかのデイリースポーツ)よれば、この「ざんまいず」の造形を生みだしたのはプロのイラストレーターではなく、奈良博の職員だというのにビックリ
まさかの「内製」とは
ただ、作者の翁みほり研究員が、「アソシエイトフェロー(有期雇用の非正規研究職)」だというのにモヤります
ちょうど今、真っ最中の自民党総裁選の中で、「雇用の流動性」の名の下に「解雇規制の緩和」を主張する候補者がいて呆れていたところなのですが、雇い止めのリスクを負う非正規雇用者や、解雇規制緩和後の正規雇用者には、現在の正規雇用者を上回る報酬や待遇を与えないと理屈に合わないと思う私です。

またまた話が逸れかかってる

奈良博の「ざんまいず」のような公式キャラクターは、他の国立博物館にもいます。
私にとってもっとも馴染み深いトーハクにはトーハクくんユリノキちゃんがいるし、

京博にはトラりんがいます。(写真は2017年1月に京都鉄道博物館で目撃したトラりんと同博物館のウメテツ)

じゃぁ、九博は? なんですが、Wikipediaによれば、

公式キャラクターとして、自館所蔵作品である元行「針聞書虫」をモチーフにした「はらのむし」が存在する。

だとか。

でも、オリジナル公式ソング『はらのむし体操』とか、はらのむしグッズとか、ショートアニメ (かなりキモい)とかあるけれど、九博の公式キャラクターと言えるのだろうか…

う~む、どうしても話が逸れる

ま、奈良博の二つの展覧会は、なかなか楽しめました ということで、#2-5につづきます。

【追記】7日連続で記事をアップするのは久しぶりだよな、と、調べたら、20/3/9~15以来、4年半ぶりでした (2024/09/15 16:32) 

つづき:2025/09/16 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-5 

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-3

2024-09-14 19:05:33 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-2」のつづきです。

 width=奈良国立博物館(奈良博)「泉屋博古館の名宝」展、前半は青銅器がメインで、「青銅器はちょっと…な私は、そうかそうか流し気味でした。

青銅器は、その造形自体がわたし的にイマイチなことに加えて、その名前が難しい、名前に使われている漢字が難しくてうんざりしてしまうのです。
写真は、この展覧会で唯一撮影可だったもので、お名前は「鴟鶚尊」
「しきょうそん」と読むらしく、「鴟鶚」とはフクロウのことで、フクロウをかたどった祭祀用の酒器らしい。
頭を取って、胴体にお酒を入れたんでしょうな。

「尊」という字は、とおといたっとぶといった意味を持っていますが、この場合は「酒器」という意味。
ちょいと調べたところ、こちらのサイトによると、「尊」は、

(手)と、(しゆう)(酒だる)とから成り、手で酒つぼを持ち、神にささげる、ひいて「たっとぶ」意を表す。

だそうな。

それはそうと、この「鴟鶚尊」を漢字変換するだけで結構な時間をかけてしまいました

出品目録をチラ見しただけで、

見たこともない漢字大襲来です

「鼎」なんてかわいい方で、(き)とか竊曲文(せっきょくもん)とか饕餮(とうてつ)とか(らい)とか、見るだけで虫酸が走る気分になってしまいます

青銅器の研究者たちは特別な変換ソフトを使って論文を書いているんだろうな…。
なお、本場の中共国では「竊曲文」「窃曲纹」と表記しているみたいです 現代の中共国民は日本人以上に漢字を読めなくなっているから仕方ないか…。

   

こうしてテンションが上がらないまま「第1章 中国青銅器-春翠の情熱-」を見終えた私でしたが、「第2章 仏教美術-春翠の審美眼-」に入ると様相が変わりました。

「泉屋博古館の名宝」展のメインビジュアルとして使われている「水月観音像」(徐九方筆、朝鮮半島・高麗 1323年)のなんと美しいことか

観音さま物憂げな表情といい、いかにも菩薩らしいきらびやかな装飾品といい、そしてなによりも、シアーというよりもシースルーのお召し物のなんとステキなこと

これまで私が拝見した仏画の中でもトップクラスの優品です

こりゃ床の間に飾って、毎日拝みたくなりますな

阿弥陀如来坐像も、平安時代(1130年)の仏像らしく、静謐感漂う穏やかな佇まいがよかったのですが、さすがにこちらは大きすぎて、わが家にお迎えするのが無理があります

   

ところで、私が知る少ない泉屋博古館の所蔵品で、「観られたらいいなぁと思っていた「佐竹本三十六歌仙絵巻」源信明(みなもとのさねあきら)」は、残念ながら出陳されていませんでした

まぁ、「中国青銅器」「仏教美術」という章立てだと、ハズレてしまうのもむべなるかな…

と思ったら、住友財団のHPによれば、

現状では、巻物を掛軸に改装したため、巻皺・折れが甚だしく本紙や絵具の剥落の可能性がある。また、住友家が誂えた表装も、近代における美術受容の様相を伝える貴重な資料であるが、損傷が見られる。本年度(2023年度)より2ヵ年計画で、表装切れの再利用を含めた修復を図る

だそうな。そりゃ仕方ない…
数百年間も「絵巻」として横に巻かれてきたものが、断簡になったら「掛軸」に装いを変え、今度は縦に巻かれるようになったわけで、にとってはたまらない仕打ちだろうな

それはそうと、美しく甦った状態「源信明」さま再会したい(私は2019年秋に 「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展@京都国立博物館で一度拝見)ものです。

ところで、京博での「佐竹本三十六歌仙絵」展を観た後のブログで、私は、

源信明:鈴木馬左也⇒住友吉左衛門=泉屋博古館

とその所有権移転を書いたのですが、Wikipediaほかでは、「絵巻切断(分割) & 頒布抽選会」「源信明」を引き当てたのは「住友吉左衛門」(=住友春翠)で、住友総理事鈴木馬左也さんは「藤原仲文」を引き当てたことになっています。
私は、展覧会の図録を元にして書いたのですが、この不一致はどうしたことなのでしょう
帰省Uターンしたら、もう一度図録を読んでみますが、もしかして、春翠さんと鈴木馬左也さんは、引き当てたくじを交換したのかも知れませんな
こういう「交換は他の断簡でもあったと聞くし…

なお、「佐竹本三十六歌仙絵」断簡全37幅のうち、1919年の頒布抽選会からずっと同じ系統の所蔵のままなのは、住友吉左衛門⇒泉屋博古館の「源信明」と、野村徳七野村美術館の「紀友則2幅だけです。
なんか凄い

と、またまた話が逸れたところで、「泉屋博古館の名宝」展の見聞録を終わりにして、西新館で同時開催されていた「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」に移動しましょう。
その話は「#2-4」で…

つづき:2024/09/15 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-4

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-2

2024-09-13 13:17:32 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-1」のつづきです。

正倉院正倉の外構(建物)を見物したあとは、せっかくですので、東大寺大仏殿にお参りしました。

まずは大仏殿の正面に立つ国宝・八角灯籠から。

この灯籠は、普通の灯籠に比べて、脚部(竿)が短くて、失礼ながら「胴長短足」に見えます。
思うに、巨大大仏さまと釣り合う灯籠にしようとすれば大きな火袋(火を灯す部分)が必要だけれど、さりとて馴染みのプロポーションにすれば火袋の位置が高くなりすぎて、火を灯すのが大変(加えて、せっかくの火袋のレリーフ見えない)という理由で、こんな形になったのかな? と推察します。
それはともかく、8面のうち4面にある「音声菩薩(おんじょうぼさつ)(笙、横笛、縦笛、チャッパからなるカルテット)イイんです

音声菩薩のお顔はふっくらされていて、「これぞ天平って感じです。よく判らんが…
(写真のチャッパ[鈸子]担当のレリーフはレプリカで、オリジナルは東大寺ミュージアムで展示されています)

現在の大仏さまの頭部は江戸時代初期に復興された4代目だそうで、もしかすると、創建時の大仏さまのお顔は、音声菩薩のように、ふっくらされていたのかもしれません。

大仏殿が炎上し、大仏さまが熔けてしまうような戦火に繰り返し見舞われながら、至近に立つ八角灯籠や、近くの正倉院1300年近くも残ってきたのが奇跡のように思われます。
なお、天平時代から残る東大寺の建築物としては、法華堂(三月堂)[訪問記]転害門[訪問記]があります。

大仏殿の中を一回りして、今回の東大寺探訪を終わりにし、次は、昼食前に奈良国立博物館(奈良博)を見物することにしました。

それにしても暑い

あまりにも暑いもので、来た道を返して奈良博に向かう途中、「東大寺門前 夢風ひろば」で、内部から体を冷やすべく、かき氷を食べました。

かき氷かき氷を注文したとき、お店のお兄さん曰く、「お客さんのうち、日本人は5%くらいかな?」だそうな

うんうん、確かにそんな感じがします
外国人にとって日本の仏像や古い建物どんな感じなのかは判りませんが、世界広しとはいえ、野生の鹿がうじゃうじゃいて、それがおとなしくて(たまには凶暴なのもいる)体に触らせてくれるなんて場所はそうそう無いでしょうから、得がたい体験ができますからねぇ

   

「#0」で書いたように、私は旅行の2日前、東京国立博物館(トーハク)に行き、「友の会」更新してきました(もちろん、総合文化展=平常展も観てきた)。
「友の会」(年間 税込7,000円)にはトーハクの特別展観覧券3枚ついてくるほか、

本会員証で、東京・京都・奈良・九州国立博物館の平常展を何度でもご覧いただけます。
京都・奈良・九州国立博物館各館が主催する特別展を、ご本人のみ何度でも、団体料金でご覧いただけます。

という特典があります(他にもある)
トーハクの特別展は、特別観覧券を使い切ってしまうと何の優待もないのはいかがなものか(かつての会員制度では団体料金で観られた)ですが、これまでも京都・奈良・九州国立博物館でこの特典を利用してきました。
さて、今回はどうでしょうか?

奈良博では「泉屋博古館の名宝」「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」の二つの展覧会が開催中で、これは特別展なのか、はたまた平常展なのか…

チケット売場「友の会」会員証をお見せしたところ、なら仏像館も含めて、無料でご覧いただけます」だそうな
やった トーハクに行って更新してきた甲斐があった でした

で、まずは「泉屋博古館の名宝 住友春翠の愛でた祈りの造形」から拝見しました。

「第15代住友吉左衛門友純(雅号:春翠、1864~1926)のコレクションをはじめとして住友家伝来の美術品の保管、研究、公開を行う美術館」泉屋博古館(せんおくはくこかん)存在や所在地(銀閣寺に行く途中の路線バスがその前を通った)は私も知っていましたが、京都・鹿ヶ谷本館にも、東京のリニューアルした泉屋博古館東京にも行ったことがありません。

住友コレクション中枢をなしているという青銅器への関心が薄いのが、その一番の理由なのですが、せっかくの機会なんで楽しませていただきました。

まず驚いたのは、住友春翠こと住友吉左衛門友純さんの出自でした。
「友純」と書いて「ともいと」と読ませるところからやんごとないものを感じるのですが、Wikipedia にあるとおり、

東山天皇の5世孫である従一位右大臣徳大寺公純の第6子として生まれた。

だそうで、内閣総理大臣経験者の西園寺公望実兄とは
まさしく世が世ならば「公達(きんだち)ですな

徳大寺友純さんは、住友家当主父子が相次いで亡くなったことから、29歳1892年に請われて婿養子として住友家に入ったのだとか。

もちろん、当主とはいえ、実業経験のない「公達」ですから、住友家の運営は「番頭」格の人たちが担ったのでしょうが、Wikipediaによれば、現在の三井住友銀行につながる住友銀行が、「(1895年)11月1日住友本店銀行部として、住友吉左衛門の個人経営による資本金100万円の住友銀行が開業」だというのは初耳でした。

さらに、銀行業進出を決めた住友家の重役会議が尾道で開かれ、そして住友銀行の最初の支店「尾道支店」だったというのもまた初耳です

「どうして尾道?」なんですが、尾道が物流の要衝で、住友家の祖業の別子銅山からも住友本店のある大阪からも重役が集まりやすいということらしい。

ここで、15年前尾道に行ったとき[旅行記]旧住友銀行尾道支店の写真を撮ってたりしないかな? と思ったら、ありました

この建物を見たときは、何の建物か判らなかったんですよねぇ
まさか由緒正しい建物だったとは

なんとも「泉屋博古館の名宝 住友春翠の愛でた祈りの造形」展から逸れっぱなしですみません
ここで、住友家・住友春翠のことおしまいにして、「#2-3」からは展覧会のことを書きます

なお、住友コレクションを所蔵する美術館の名が「泉屋博古館」なのはなぜか、住友グループのトレードマーク「菱井桁」なのはなぜか、については、過去の力作「井桁と菱を調べてみた話」をご一読くださいませ。

つづき:2024/09/14 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-3

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #1-4

2024-09-09 20:55:46 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-3」のつづきです。

「村上隆 もののけ 京都」展からのお次の作品は、これまた長大(3m×10m)「金色の空の夏のお花畑」です。

マンガみたいといえばそうかもしれないけれど、あまりにも思い切り良すぎる「スーパーフラット」意匠の繰り返しは、宗達の「燕子花図」とか其一の「朝顔図屏風」に通じるものがあったりして…。
そして、どんな不機嫌な人をも笑顔にしてくれそうなパワーを持つ作品だと思いました。

次は、「梟猿図の猿」「梟猿図の梟」です。
この2作品は、狩野山雪のそれぞれ「猿猴図」「松に小禽・梟図」元ネタのようです。

何ともユルいお猿さんとフクロウですが、もともと元ネタが京狩野のご本家という「格が信じられないユルさなんですよねぇ。

山雪の2作品のうち「猿猴図」は、トーハクで観たのは確実なのですが(写真もある)

もしかすると、私は2013年5月「狩野山楽・山雪」展@京都国立博物館 で両作品とも観たかもしれません。(本宅なら出展目録や図録で確認できるのですが、いかんせん、別邸に帰省中)

で、おもしろいのが、山雪2作品は水墨画(小鳥のお腹のみ着色)なのに対して、村上さんの2作品は色彩豊かで、「猿」金地「フクロウ」銀地(実際はプラチナ箔)で、華やかに仕上げられていることです。
きっと村上さんは、曽我蕭白水墨画「雲龍図」で描いたのと同様に、「こりゃイイと面白がってこの作品をつくったんだろうな

ここまで記事を書いてきて気づいたことがあります。

それは、村上さんが敬意を持って「拝借」した元ネタを、私は2013年に何点もまとめて観たかもしれないということです。

狩野山雪の2作品については、前述のとおり断定できませんが、曽我蕭白「雲龍図」岩佐又兵衛「洛中洛外図屏風《舟木本》」を生で拝見したのは確実です。

もっとも、「だからどうした」と言われればそれまでなのですが…

   

京都国立博物館 東山キューブ館内で最後に観た作品はこちら。

真っ金々の部屋に展示された外連味たっぷりの作品です。

中央部のこれは、

上から「暫」鎌倉権五郎「勧進帳」武蔵坊弁慶、そして「外郎売」で、どれも歌舞伎の演目、それも「歌舞伎十八番」です。
ということは、、、、と思ったら、これは「十三代目市川團十郎白猿 襲名十八番」という作品で、

市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名披露興行を彩る特別な祝幕は、2022年11月の東京・歌舞伎座での襲名披露興行で大きな話題となりました。この祝幕は映画監督の三池崇史氏が、“十三代目市川團十郎”のドキュメンタリー映画を撮影する中で、「現代の絵師が描く現代の役者絵をつくってほしい」と村上に原画制作を依頼し実現したもので、2023年12月1日~24日には京都・南座でお披露目されました。

だそうな。
ここで展示されていたのは祝幕の原画で、原画でも102.8×480×5.8cmと大きなサイズ(5.8cmの厚みは何?)ですが、実際に使われた祝幕は、歌舞伎座の舞台に合わせた「7.1m×31.8m」という巨大なものだそうで、こちらのサイトで見ても凄い

この祝幕は、今はどこでどうしているんだろ?
團十郎白猿さんがもらっても扱いに困るだろうし松竹がしっかりと保管しているものと思いたい

   

これにて「村上隆」展の観覧を終え、動線に従ってミュージアムショップを覗きました。

しかし、「#1-3」

大きなオリジナル作品で心を揺さぶられ過ぎると、ミュージアムショップでポストカードや図録を買う気が削がれるという副作用があったりもします。
結局私は、オリジナルとの印象が違いすぎる気がして、この展覧会のポストカードも図録も買いませんでした。図録は、税込6,600円という価格もネックになったのですが…

と書いたように、素通りしました

でも、「村上隆」展はこれで終わりではなく、もう一つのお楽しみがありました

金色に輝く「お花の親子」とルイ・ヴィトンのトランクのインスタレーションです。

説明板に村上隆さんのコメントがありました。

この彫刻作品は、ルイ・ヴィトンと共に制作しました。2003年にスタートしたルイ・ヴィトンとのコラボレーションは、私の現代美術家としてのキャリアに、大きな足跡を残しました。そのモノグラム・マルチカラーのトランクの上に、にっこり笑うお花の親子の像が立っています。
アートとファッションの垣根をはずした、もしくは、アートに幼稚なオモチャ感覚のロジックを組み込んだ始祖は、共に自分であると自負しています。
日本の伝統的な美学からインスパイアされたスーパーフラットコンセプトの作品を、日本庭園の風景の中でお楽しみください。
村上 隆

ルイ・ヴィトンらしからぬ明るくカラフル「モノグラム・マルチカラー」の存在は、ブランドものに疎い私でも知っていましたが、これが村上隆さんによるものとは知りませんでした

さらに、この作品は、館内に展示されていた立体作品同様にFRPとかレジンとかグラスファイバーで作ったものかな? と思ったら、ブロンズ金箔を貼ったものだとか
いったい、どれだけの重さがあるんだろ

NHK日曜美術館 で村上隆さんが辻惟雄さんに、設置が大変だったと話されていたけれど、このサイズのブロンズ像を、それも屋外に展示するのは、それは大変だったろうな…

以上を以て「村上隆」展の鑑賞を終えた私は、京都市京セラ美術館の正面入口に戻り、傘を回収して(忘れそうでした)東山駅へと向かったのでありました。

これにて今回の関西旅行のメインタスク完遂であります

次は、デジカメSDカードを入手せねば

つづき:2024/09/10 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-5

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #1-3

2024-09-07 16:00:20 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-2」のつづきです。

「村上隆 もののけ 京都」「第3室 DOB往還記」に行く前に、ちょっとしたトリビアを…。

「#1-2」でちょっと書いた四神(東:青龍、南:朱雀西:白虎北:玄武)にはそれぞれシンボルカラーがありまして、この東:青南:赤西:白、北:黒」は、意外なところでも見ることができます。
それは、例えば、大相撲の吊り屋根から下がる房の色とか、日本武道館のスタンドの椅子の色(の代わりにだけど)とか…。

それでは、仏堂のご本尊をお守りしている四天王はどうなんでしょ?
東の持国天南の増長天西の広目天北の多聞天だったりするのでしょうか?

「彩色の残る四天王像を拝見したことは無かったよな…と思いつつ、このブログの過去記事を探してみると、ありました
8年前奈良博 なら仏像館見聞録(記事)で、京都・海住山寺の四天王を拝見し、図録から、

持国・増長・広目・多聞天の順に、の身色に塗り分けられる点や、持物、体勢などから、鎌倉時代に復興された東大寺大仏殿に安置されていた四天王像の図像に合致する作例と知られる。

と引用していました (すっかり忘れてた)
ほう、四天王の色は違うのか…と、他の資料も当たってみたところ、持国天の緑多聞天の青のそれぞれ代替とされているようです。

   

脇道にそれるのはこの辺にしまして、「村上隆」展に戻ります。

「第3室 DOB往還記」は、

1990年代に登場した村上の代表的キャラクター「DOB」。マンガやゲームのキャラクターをモチーフとするDOBは、変幻自在に姿を変え、様々な文脈に接続してきました。村上のスーパーフラットの概念を体現するDOBの往還を辿ります。加えて、新たなキャラクターやフィギュアなどの作品の数々は、現代の「のののけ」?

だそうで、ひたすらPOPな空間でした。

私は、作品の大きさ/小ささそのものも作品構成要素の一つだと思っていまして、本やネットで知っている作品も、現物を目の当たりにすると、その大きさ/小ささで印象がガラリと変わることはよくあることです。
この「村上隆」展では、巨大な作品が多くて、上に載せた「And Then 2024」3m四方の大きさです。
大きなオリジナル作品で心を揺さぶられ過ぎると、ミュージアムショップでポストカードや図録を買う気が削がれるという副作用があったりもします。
結局私は、オリジナルとの印象が違いすぎる気がして、この展覧会のポストカードも図録も買いませんでした。図録は、税込6,600円という価格もネックになったのですが…

   

第3室と打って変わって、「第4室 風神雷神ワンダーランド」は、江戸絵画の傑作たちが、村上流にいじり倒されていました
コーナーのタイトルになっている宗達以降の琳派の伝統的素材「風神雷神」なんか、こうです。

完全に脱力しています
そういえば、琳派による「風神雷神図屏風」は、右隻に風神左隻に雷神が描かれていますが、この作品は左右逆になっているのはなぜなんだろ?

さらに、隣りに展示されていた同じモチーフの「むにょにょん雷神図」は左に、「ぽよよん風神図」は右と、

「風神図」「雷神図」とはになっているのはこれまたなぜなんだろ

などと考え込みながら先に進んで行くと、出ました 「雲竜赤変図《辻惟雄先生に「あなた、たまには自分で描いたらどうなの?」と嫌味を言われて腹が立って自分で描いたバージョン》」とタイトルが長ければ、カンバスもやたらと長い(10m)作品です。

元になった曽我蕭白「雲龍図」は、2012-13年に開催された「ボストン美術館 日本美術の至宝」展で、東京と大阪の両会場で観ました (写真は大阪市立美術館にあった記念撮影スポット)

もともとマンガチックな作品だと思っていましたが、村上さんはオリジナルには無い鼻毛まで描いている

オリジナルを観たことがあるといえば、この「ライオンと村上隆」もそうです。

ぐたぁ~とした獅子が頭にを載っけている意匠は、2011年7月に「不滅のシンボル 鳳凰と獅子」@サントリー美術館で観て、ブログで、

cuteといえば、彭城百川「天台岳中石橋図」に描かれた獅子出色でした。困ったような表情で石橋の上に寝そべった獅子が川面をぼんやりと見ている図で、獅子の頭には大きな牡丹の花の飾り
「獅子には牡丹がつきもの」とはいえ、何という斬新な表現なのでしょうか
「誰につけてもらったの? 自分でつけたの?と、獅子に聞いてみたくなる作品でした。

と書いたこの作品がモチーフなんじゃなかろうかと考えました。
そこで「天台岳中石橋図」でググってみたら、こちらのサイトで、御大・辻惟雄さんが、

一方、村上さんもちょうどその頃、なんか日本美術の中から自分の制作のもとになるもの、モチーフをつくり出そうとしていたと思います。それであのときは確か、村上さんは、彭城百川(さかきひゃくせん)という江戸時代の画家、この人は文人画の最初の段階に出てくる人なんですが、奈良にあって、重要文化財になってる《天台岳中石橋図(てんだいがくちゅうしゃっきょうず)》という襖絵をもとにして、それをいろいろいじってましたね。私が〈永徳、唐獅子〉というお題を出したら、村上さんは永徳ではなく、その百川の獅子を屛風にして、第1回目の回答がそれでした。

と書いていらっしゃいました
当りぃ~

一方、きわどいところで元ネタを見逃したのが、「見返り、来迎図」

この作品の元ネタ、知恩院「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)は、今年春に東京国立博物館で開催された「法然と極楽浄土」展に出展されましたが、私がこの展覧会に行ったとき(6月6日)には、既に「早来迎」の展示は終了しておりました

それはさておき、気になったのは、画面の右側、

菩薩様たちがお迎えに来る描写なんでしょうけれど、なんとなく「スター・ウォーズ」っぽい。
スターデストロイヤーから発艦したたくさんのタイファイターが来襲してくるように見えませんか?

というところで、諸般の事情により、「#1-4」に続きます。
あまりキリは良くないのですが、まぁ、ご勘弁を

つづき:2024/09/09 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-4

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #1-2

2024-09-04 19:19:06 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-1」のつづきです。

NHK 日曜美術館「モンスター村上隆、いざ京都!」(初回放送:24年4月21日)を観直しして予習して「村上隆 もののけ 京都」を観にきたつもりでしたが、京都京セラ美術館中央ホールの壁をフルに使ったこの展示予想外でした。(昨夜もう一度日曜美術館の録画を視たら、設営中のシーンがチラリ)

村上隆さんのシンボルとも言える「お花」の群れもさることながら、東山キューブへとつづく入口を守っているかのような仁王像度肝を抜く大きさと造形でした

説明書きによると、

ここ中央ホールに立つ一対の像は、村上隆(1962-)による立体作品です。
新館・東山キューブにおける京都市美術館開館90周年記念展「村上隆 もののけ 京都」(2月3日~9月1日)の一部として展示されました。

災いをもたらす邪鬼を踏みつけている高さ4.3メートルの赤の《阿像》青の《吽像》は、東日本大震災をきっかけに制作され、自然災害、疫病、戦争といった様ざまな災厄から人々を守ってほしいという祈りが込められています。
無数の「お花ちゃん」で彩られた正面の壁を背景に、左右から観る者を圧倒する像は、発表当時、平安京の入口である羅城門から着想した《獏羅門》とともに展示されました。京都と正面から向き合った村上隆が、ここから「村上隆 もののけ 京都」の世界へ私たちを誘います。

だとか。

この仁王様たち、どことなく映画「friends もののけ島のナキ」グンジョー(青鬼)とナキ(赤鬼)かぶる…。もっとも、「もののけ」丸かぶり

せっかくなんで、後ろ姿も。

そういえば、この作品は無料で観られる場所にありました。
もしかして、展覧会が終わった現在も観られるのかな? 説明板の時制のおかしな書き方からしてそんな気がします。
同じく「無料で観られる場所」にあったこちらの作品「お花の親子」はどうなんでしょ。
さすがに確かめに行ってみようとまでは思いませんが…

   

私は事前に「村上隆」展電子チケットを購入していました。

これというのも、日曜美術館で展覧会初日の大行列を見て恐れをなしたからでした。

平日とはいえ、会期もあと4日という状況で、かなりの混雑覚悟して会場に行ったのですが、そこそこ人はいるものの、券売所「村上隆」展の入口行列は皆無

ちょっと勝手が違う と、会場に入ったところ、ありゃま、凄い人

「第1室 もののけ洛中洛外図」狭い(細長い)こともあってゴシャゴシャです
係員さん「足元のテープで示した結界をお守りくださいと呼びかけていますが、人が多いし、みんな作品に夢中なもので、足元のテープなんてに入りませんって

この部屋のメインは、「岩佐又兵衛 洛中洛外図 rip」

その作品名のとおり、岩佐又兵衛「洛中洛外図屏風 [舟木本]」がモチーフになっています。
「舟木本」トーハクで何度か拝見し、かつ、ミュージアムシアターで関連作品を楽しんだことがありますから、一層楽しめました

「舟木本」は、とにかく登場人物が多い(2,700人以上とか) 作品ですから、「村上本」も見どころが多い
6曲1双「舟木本」1隻162.7×342.4cmなのに対して、「村上本」はその縦横約2倍(面積は4倍)の大きさですし、展示室の壁に直付けでかなり近くまで寄れますから、細かい所まで存分に楽しめました

「村上本」金雲には、よく見るとドクロがエンボス(?)されていて「もののけ」っぽい一方、向かい合わせに展示されている「村上隆版 祇園祭礼図」金雲には「お花ちゃん」ビッシリ

もう、老若男女を問わず、観ている人たちはみんなニコニコです。

それが、暗幕のようなカーテンをぬって入る「第2室 四神と六角螺旋堂」は一転して照明が落とされ、かなり暗い
展示室中央の「六角螺旋堂」の四方を極彩色で描かれた巨大な四神(東:青龍、南:朱雀、西:白虎、北:玄武)が取り囲んでいます。

「四神相応」ということばがあります。
平安京は、まさにその「四神相応の地」として都に選ばれたと言われています。東に川(鴨川)南に沼(巨椋池)西に道(山陰道)北に山(船岡山?)という具合。

「いかにも村上隆」という観点からの私のお気に入りは、青龍と、

白虎でした。

白虎図迫力満点メイン虎と右下にいるネコみたいな無表情の虎との対比が楽しいな

次の第3室は、これまたガラリ雰囲気が変わるのですが、それは「#1-3」で。

つづき:2024/09/07 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-3

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