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新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年最初の関西旅行記 #2-5

2025-02-05 07:50:23 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-4」のつづきです。

大阪市立東洋陶磁美術館では、特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

2024年、大阪市と上海市の友好都市提携50周年を記念し、上海博物館から日本初公開作品32件(うち海外初公開19件)を含む計50件の中国陶磁の名品が出品されます。中国陶磁の世界的な殿堂である上海博物館大阪市立東洋陶磁美術館の至極のコレクションが一堂に会し、「競艶(きょうえん)」することで、悠久の歴史を誇る中国陶磁の真髄に触れるとともに、現在においても斬新さや新たな美の発見をもたらすその魅力に迫る機会となれば幸いです。

私は、20年ほど前に出張で上海に行ったとき、上海博物館を見物したような気がするのですが、建物が青銅器でよく見る「鼎」のような形をしていたということ以外、記憶がさっぱりと飛んでいます

それはともかく、会期が 5か月以上長い長い
陶磁器展ならではですな 日本画や浮世絵版画だと到底無理な話です。

さて、「#2-3」で、中国では「時代遅れの遺物」と見なされた天目茶碗日本にやって来た話を書きましたが、上海博物館所蔵の天目茶碗が出陳されていました。

茶碗の内側が何やら変色している、、、と思ったら、

黒釉木葉文茶碗(木葉天目) 南宋時代(1127-1279/吉州窯
南宋時代の吉州窯では鼈甲を彷彿とさせる玳皮(たいひ)天目をはじめとした建窯産天目とは異なる茶碗が生産された。吉州には禅宗寺院が数多くあり、禅に通じるとされた桑の葉を用いたこうした木葉天目は、禅僧の需要と美意識を反映したものである。

葉っぱを載せて焼き上げたのか
安宅コレクションにも木葉天目があって、こちらはもっと桑の葉葉脈まできれいに残って、鮮やかでした。

こちらも南宋時代の吉州窯産で、加賀・前田家伝来の品とか。

   

自然採光展示室(第10室)には、大阪市立東洋陶磁美術館が所蔵する2点の国宝のもう一つ「飛青磁 花生(はないけ)が展示されていました。

飛青磁 花生 元時代・14世紀/龍泉窯
鉄斑を散らした青磁は、日本では「飛青磁」と呼ばれている。優美な形のこうした瓶は中国では「珠壺春(ぎょっこしゅん)」の名で知られ、主として酒器として用いられたが、日本では花器としてとして珍重された。本作は鴻池家伝来品であり、伝世する飛青磁の最高傑作といえる。

私はあまり好みではありませんが(あやうく見落とすところだった)、園芸で斑入りの葉っぱを珍重するようなものなのでしょうねぇ

ところで、大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の一つ「自然採光展示」は、

陶磁器はさまざまに光を反射し、また光の質によって見え方も大きく影響されるので、照明にはたいへん気を使います。当館には、展示ケースのなかに天窓から自然光をとりこんだ世界初、そして世界唯一の自然採光展示室があり、陶磁器本来の色合いと質感を鑑賞することができます。

だそうです。
私が行った日は陽光燦燦良い天気でしたが、曇天雨天だとどのように見えるんだろ?

   

中国の陶磁器の窯でまず思い浮かぶ、というか、ほぼこれしか知らない窯は景徳鎮です。
この特別展では、普段は上海と大阪に分かれて所蔵されている景徳鎮産の陶磁器が一堂に会していました。

私が「いいなぁ~と思った作品をいくつか紹介します。

まず、景徳鎮といえば白磁の染付のイメージですが、、、
意表をついて青磁です

青磁暗花蓮唐草文碗 明時代・正統~天順(1436-1464)/景徳鎮窯
上海博物館
全体に淡い青磁釉が施され、釉下の浅い陰刻(「暗花」)による文様は釉がたまり濃く発色している。永楽・宣徳期の景徳鎮官窯ではすでに龍泉窯風の青磁も生産しており、正統から天順期にも引き続き造られていたことが2014年の景徳鎮珠山明代御窯遺址の発掘で明らかになった。

の美しさもさることながら、イイ 口縁無限に感じる、なんて言ったら盛り過ぎかも知れませんが…

次は「景徳鎮らしい」と私は思うこちら。

この「青花蓮唐草文壺」(上海博物館蔵)は「青磁暗花蓮唐草文碗」と同じ明の正統~天順年間だそうな。
堂々としていて、ちょっと肩を張った形イイし、余白を残しつつ壺の側面全体に蔓を張る唐草イイ

一方、こちらの皿はシンプルな幾何学模様で(はない)、現代でも普段使いできそうです。

青花花卉文盤 
明時代・天順~成化(1457-1487)/景徳鎮窯
上海博物館
端正な造形の盤で、見込みには宝相華を中心に、二種の十字状の花卉文が配されている。明の歴代皇帝は仏教も信仰しており、この文様も仏教的なものと思われる。

対称的に、こちらは皇帝専用の文様「五爪の龍」が描かれていて、ちょっと畏れ多い

青花龍蓮唐草文盤
明時代・成化(1465-1487)/景徳鎮窯
上海美術館 一級文物
本作は内面中央に蓮唐草に囲まれた五爪の団龍文、その周囲に団花状の花卉文、さらに外側面には蓮唐草の中をかける二頭の龍が、国産のコバルト顔料により精緻かつ上品に描かれている。

説明にある「蓮唐草の中をかける二頭の龍」は、写真で観るしかなかったのは残念でした。
この作品は「回転台に載せて見せていただきたかったな

白磁染付が続きましたので、カラフルな作品も載せます。

五彩百朝鳳図盤 清時代・康煕(1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
梧桐(アオギリ)、牡丹、太湖石、蓮池のある風景の中央に一対の向かい合った鳳凰が描かれている。空には祥雲がたなびき、孔雀、鶴、燕、鷺等の鳥が鳳凰を祝福している。
名君の遺徳を称える「百鳥朝鳳図」康熙年間に流行し、なかでも本作は景徳鎮民窯の代表作と言える。

いやぁ、なんとも華やかというかにぎやかというか…
なんとなく、伊藤若冲の絵(例えば動植彩絵)と雰囲気が似ているような気がするのは私だけでしょうか?

「五彩百朝鳳図盤」の説明文の中に「太湖石」ということばが出てきますが、私が故宮(紫禁城)の御花園で観たこの穴ボコボコ変な岩がそれかな?

話を戻しまして、更に時代もさかのぼりまして、

 

釉裏紅四季花卉文瓜形壺
明時代・洪武(1368-1398)/景徳鎮窯
上海博物館
明を建国した太祖・朱元璋、すなわち洪武帝は、赤色好んだ
酸化銅による朱紅色の発色を見せる釉裏紅磁器は、景徳鎮では元代にすでに見られるが、明の洪武年間御用磁器として優品が多く見られる。

朱元璋(洪武帝)赤色好きだったと…。
まさか自分の姓・に絡めたゲン担ぎだったりして…
仮にそうだとすれば、この壺のような赤い陶磁器洪武帝の目の前で割ったり欠けさせたりしたら、そうとうにマズいことになったんだろうな

時代が行ったり来たりで申しわけありませんが、清時代一級文物です。

琺瑯彩竹菊鶉図瓶
清時代・乾隆(1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
雪のように白い白磁胎は、つややかな釉色を見せる。胴部には琺瑯彩で太湖石、竹、菊、鶉、花卉などが緻密で瀟洒な絵付けで表されている。
鶉と菊「安居楽業」、すなわち人々が平穏に暮らし、楽しく仕事に励む善政の象徴とされる。

この徳利 じゃない瓶(へい)に入れたら、安酒美味しくなるかもしれませんな

ところで、今さらながらですが、ここまで何点か出てきた「一級文物」、これは、日本でいえば「国宝」に相当する国家による最高のレーティングです。

ふ~ 大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録も残りもうわずか
ですが、諸般の事情(文字数が増えるとトラブルが起きがち)により、「#2-6」につづきます。

つづき:2025/02/07 今年最初の関西旅行記 #2-6

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今年最初の関西旅行記 #2-4

2025-02-04 15:17:58 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記」を再開します。
「今年最初の関西旅行記 #2-3」のつづきも、大阪市立東洋陶磁美術館の見聞録です。

もともと陶磁器に疎い私、今回、初めて「粉青(ふんせい)なる言葉を知りました。

朝鮮前期の陶磁器を代表するのは粉青である。粉青は「粉粧灰青沙器」の略称で、日本では「三島(みしま)とも呼ばれ、鉄分を含む胎土に白泥で装飾を施したものである。
高麗青磁の伝統を受け継ぎつつ、白泥を用いて、粉青はまったく新しい生気に満ちた意匠に変貌を遂げた。そのシンプルで力強い造形大胆にデフォルメされた文様は、現代の抽象画にも通じる。個性的な文様や形の上に表現された白化粧の多様な技法は、白色を尊ぶ儒教の美意識への変容を象徴している。

だそうで、「粉青掻落 牡丹文 瓶」(朝鮮時代・15世紀)とか、

「粉青鉄絵 蔓草文 瓶」(朝鮮時代・15後半~16世紀前半)とか、デフォルメされた文様が楽しい

そんな中で、「ん??」と思ったのが、「粉青粉引 瓶」(朝鮮時代・16世紀) でした。

使い古されて、ところどころ釉薬部分が剥がれた、ちょいと不細工な壺としか見えなかったのですが、説明板によると、

全面に白化粧を浸しがけした粉引(こひき)技法だが、長年の使用で所々に生じた「染み」は日本では「雨漏(あまもり)とも呼ばれ、茶人の間では「景色」として珍重された。口のくびれは注ぎやすくするための工夫である。加賀・前田家伝来と伝えられ、粉青粉引瓶の最高傑作である。

ですと
やはり私は陶磁器にも茶道にも疎い「野暮天」です

   

朝鮮・中国の陶磁器コレクションが凄まじい大阪市立東洋陶磁美術館ですが、日本産のものにもド素人の私が見ても素晴らしい作品がありました。

私にも織部と判る「織部 舟形向付」(桃山時代・17世紀初/美濃窯)とか、

志野と判る「鼠志野 草鳥文 額皿」(桃山時代・16世紀末-17世紀初/美濃窯)とか、

乾山(が入ってる)となった「色絵 椿文 輪花向付」(江戸時代・18世紀/尾形乾山) とか、

「これは信楽かな?」と思ったら、ピンポ~ンだった「甕」(室町時代・15-16世紀/信楽窯)とか…。

随所に長石の粒が吹き出した信楽特有の土は、独特の触感を生みだしている。淡緑色の自然秞が窯の中で降りかかった跡が数ヶ所白い斑文のようになり、見事な「景色」となっている。室町時代の信楽甕屈指の優品である。

だそうです。

こんな私でも、東京国立博物館で日本の陶磁器を何度も何度も拝見していますので、この程度は判ります

そんな中に、再び「染み」「景色」になっている作品がありました。

これは古くて、奈良時代の作品。

重要文化財「三彩 壺」(奈良時代・8世紀)
本作は薬壺(やっこ)と呼ばれる形の「奈良三彩」で、蔵骨器として出土した類例も知られる。緑釉に白秞と黄秞(褐秞)が点じられ、随所に秞の剥落や銀化が見られる。江戸時代の安政年間(1854-60)に奈良県生駒郡で出土したと伝えられ、大阪・平瀬家伝来品である。

とのこと。
なお、「薬壺」というのは文字どおり「薬を入れる壺」のことで、薬師如来像のシンボル(左手に載せている)とも言える持ち物です。

野々村仁清尾形乾山師弟が造った香合が、二人の個性が際だっていて面白かったなぁ。
まず、華やかでかつなんともかわいらしい 仁清「色絵 結文形 香合」

つづいて、「いかにも乾山な、乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」

小さな作品だし、2個まとめてお持ち帰りしたかった

   

大阪市立東洋陶磁美術館マスコットキャラクターのこれ、何に見えますか?

[

私はてっきりだと思ったのですが、

吾輩は虎である。名前はなかったが、このたび「mocoちゃん」となった。
生まれは18世紀の朝鮮半島。王室専用の白磁の官営工房・広州官窯において、優れた「画青匠」(画工)の手によって誕生した。
遠くに見える山並みの上に満月がかかる夜、断崖の上を闊歩する堂々たる姿には我ながらほれぼれとして、思わず笑みがこぼれる。
ツートンカラーの毛並みにスマートな胴と尻尾が自慢だ。は朝鮮半島では霊獣として信仰され、崇められてきた。幸せをつげる鵲(カササギ)と一緒に描かれることも多い。
壺の裏側では猫のように丸まっている。猫に似ているとよく言われる。吾輩はもしかして虎ではなく、猫なのか?

ですと
この「mocoちゃん」が描かれている「青花虎鵲文壺」(朝鮮時代・18世紀後半/広州官窯) が展示されていました。

裏側も見てみました。

収蔵品をもとにしたマスコットキャラクターを持つ美術館・博物館は少なくありませんけれど、普通はマスコットにふさわしくデフォルメするものですが、「mocoちゃん」はポーズこそ違うものの、ほとんど現作品そのままです
大阪市立東洋陶磁美術館良い作品をお持ちだぁ 
なお、「青花虎鵲文壺」安宅コレクションです。
そういえば、京都国立博物館トラりんも、収蔵品である尾形光琳「竹虎図」のデフォルメされている虎を微修正した感じだった

   

大阪市立東洋陶磁美術館ご自慢の設備として、免震装置を組み込んだ回転台があります。館内には全部で3か所に設置されているそうですが、その一つに乗ってクルクル回っていたのは、「加彩 婦女俑」(唐時代・8世紀)でした。

8世紀の盛唐ふっくらと豊満なスタイルの女性像が主流となった。左手には本来小鳥が止まっていたようで、そのさえずりに耳を傾けるように首をややかしげている。
彩色はほとんど落ちてしまったが、かえって造形の美しさが際立つ。

とする説明板には、作品のひと言解説のように、

  盛唐女性はぽっちゃりがお好み

と書かれていました。

ほんとにぽっちゃりです
そして、そのポーズかわいい

この作品を観て思い出した、正倉院宝物「鳥毛立女屏風」に描かれた女性もぽっちゃり系でしたなぁ「鳥毛立女屏風」は国産品(中国にはいないヤマドリの羽毛が使われている)ですが、時は8世紀唐の流行を取り入れて制作されたのでしょう。天平時代の日本人ぽっちゃり系がお好みだったのかどうかは判りません

こんなところで「#2-5」につづきます。

つづき:2025/02/05 今年最初の関西旅行記 #2-5

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今年最初の関西旅行記 #2-3

2025-01-31 19:41:59 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年最初の関西旅行記 #2-2」のつづきです。

大阪市中央公会堂の見学につづいては、今回の大阪観光のメイン(MISIAのライヴ別格)にしていた大阪市立東洋陶磁美術館です。

この大阪市立東洋陶磁美術館とは? については、館内に掲示された「開館に当たって」に頼りましょう。

当館は、東洋陶磁の宝庫として世界に知られた「安宅コレクション」を、住友グループから寄贈を受けたことを記念し、それを収蔵・展示するため、1982年11月、大阪市が設立したものである。
コレクションは、中国陶磁144件、韓国陶磁793件、その他28件、合計965件、総数約1,000点よりなる。中国陶磁は、後漢時代から時代に至る各時代の代表的作品を選りすぐり、世界で最も質の高いコレクションの一つに数えられる。韓国陶磁は、高麗時代と朝鮮時代の作品を編年別・技法別に系統的に集め、世界第一級の質と量を誇っている。

この「安宅コレクション」は、かつて10大商社の一つと言われた安宅産業の二代目・安宅栄一氏が収集したもの、というか、Wikipediaによれば「英一が安宅産業で美術品部を作って購入したもの」とな

安宅産業経営破綻し、1977年伊藤忠商事に吸収合併されて現在に至るのですが、なぜに安宅コレクション住友グループから大阪市に寄贈された? となりますな
簡単に書けば、危機に瀕した安宅産業の救済策として、メインバンクの住友銀行と協和銀行伊藤忠商事との合併案を持ち出し、「この事業はいらない」「いいとこ取りするな」とすったもんだの末、伊藤忠商事は安宅産業(の使える部分)を吸収合併する一方、銀行は住友・協和以外の取引行も含めて不良債権を償却。その残り物として資産管理会社の一時的な所有とされたものの一つが「安宅コレクション」だったわけですが、この体系だったコレクション散逸(=ばら売り)を防ぐよう、文化庁ほか多方面から要望が寄せられたのだそうな。そこで、住友銀行の音頭の下、住友グループ21社が、大阪市の文化振興基金に152億円を寄付し、大阪市はその資金で「安宅コレクション」を資産管理会社から買い取ったという次第。

なお、安宅産業の破綻をドキュメント・ノベルにしたのが、松本清張「空の城」で、私も読みました(別邸にある)。
また、これを原作としたNHKドラマ「ザ・商社」も視ました もう45年も前のことですが、いまだに頭の片隅に焼き付いている作品です。

【追記】別邸の本棚から「空の城」を探し出してきました。帰省中に読み終えるぞ (2025/03/06 21:19) 

   

さて、大阪市立東洋陶磁美術館の展示の冒頭ロビーに鎮座していたのは、なんとなんと、「安宅コレクション」の目玉ともいうべき国宝「油滴天目茶碗」でした

国宝 油滴天目茶碗 
南宋時代・12-13世紀/建窯 高 7.5cm、口径 12.2cm
宋代に流行した点茶法による喫茶文化では、最高級の茶白色とされたことから、色映りのよい黒い茶碗が歓迎され、なかでも建窯黒釉茶碗は皇帝をはじめ宮廷内でも評判となった。そうした中国の喫茶文化とともに日本でも鎌倉時代以降に多くの黒釉茶碗がもたらされ、後に「天目(天目茶碗)」と呼ばれるようになった。南宋時代の建窯曜変天目油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にあり、国宝や重要文化財に指定されている。
本作は国宝に指定されている伝世の油滴天目最高傑作である。その名の由来とされる茶碗の内外の黒窯にびっしりと生じた油の滴(しずく)のような銀の斑文に、青色や金色など虹色に輝く光彩(虹彩)が加わり幻想的な美しさを見せている。口縁には日本製と考えられる純度の高い金の覆輪がはめられ、一層豪華さを増している。重さ349g、手に持つと心地良い重みが伝わる。かつて関白・豊臣秀次(1568-1595)が所持し、のちに西本願寺京都三井家若狭酒井家に伝来した。なお、南宋時代の天目台3点が付属している。

角度を変えてもう一枚

この説明に「南宋時代の建窯の曜変天目や油滴天目はすでに室町時代に高く評価され、伝世の名品はいずれも日本にありとありますが、館内に日本人よりも多くいた中国系とおぼしき観客はどう感じたんでしょ。
天目茶碗の名品が日本に集まっているのは、日本人が中国から名品ぶんどってきたわけではなく中国でのお茶の飲み方が変わり「天目茶碗は時代遅れの遺物という扱いだったからなのだそうです。
以前、中共国に出張したとき、蓋が付属したマグカップのような容器にお茶っ葉を入れ、それにお湯を注いで、その上澄みを飲むのが一般的だったのには驚きました(たまに茶葉が口に入る)。そして、お替わりは、お湯を追加するだけという…。瀋陽の茶藝館とかいうところで、急須で淹れたお茶を飲んだこともありましたが、これは「台湾式」だと聞きました。
お茶そのものや飲み方が変われば茶器も変わるのは道理ですな

ところで、美術館や博物館で展示されている陶磁器は、転倒・破損防止のため、テグスで固定されているのが普通ですが、大阪市立東洋陶磁美術館ではそうした措置を講じず、単純に展示台に置いているだけ(のように見えます)です。
地震が起こったらどうする?????
と思ったら、説明がありました。

展示ケース内に設置している斜面台は、地震のゆれに反応して内部の免震装置が繊細に作動する免震台です。作品をのせている敷板部分が前後左右に動き、地震のゆれと衝撃を吸収して作品を守ります。作品の安全を保つだけでなく、テグス等で固定する必要がないため鑑賞のさまたげにもならない当館のオリジナル仕様です。

ほぉ~~、さすがは陶磁器の専門美術館です

油滴天目茶碗をしげしげと鑑賞したあと、振り返ると、なにかいます

なんだろ? と説明板を見ると、

  鳩型土器 朝鮮・三国時代 (4-6世紀)

とな。
4-6世紀といえば、日本は古墳時代で、盛んに埴輪が造られていた頃ですな。
アップしてみます。

確かに
体に印刻された模様(○に・)の意味が判らないけれど…

それにしてもこの展示の仕方

「鳩型土器」を細部まで観ることはできないけれど、遊び心があってよろしいと思います

   

いま、大阪市立東洋陶磁美術館では、上海博物館(行ったことがあります)とのコラボレーションで特別展「中国陶磁・至宝の饗艶」が開催中です。

なんですが、前半は大阪市立東洋陶磁美術館のコレクション展です。
その最初は、「翠色幽玄」と題する韓国の青磁の展示。

高麗の人々はみずからの青磁「翠色」と称し、ヒスイのごとき輝きをたたえ、時に金銀器皿よりも尊んだ。白と黒の土によって文様を表す象嵌青磁は高麗で独自に発展した表現技法である。なかでも天空に舞う雲鶴文は繊細な深い神秘性とともに、高麗の人々が求めた自然との調和や心の安らぎを感じさせる。青磁の技術は中国から伝わったが、高麗が育んだ高麗青磁は本場中国でも「天下第一」と高く評価されるまでに至った。
静けさと瑞々しさを見せる「翠色」には幽玄の美が宿る。

だそうです。
私、「書」「茶道」系ほどではありませんが、陶磁苦手(疎い)のですが、青磁にはそこはかとない魅力を感じていましたし、この説明もなんとなく理解できる気がします。
説明に出てくる「象嵌青磁の雲鶴文」の作品は、別室の「李秉昌(イ・ビョンチャン)コレクション」の中にありました。

青磁象嵌 雲鶴文 椀  高麗時代・12世紀
器壁が直線的に広がり、北宋の定窯などにしばしば見られる形状である。内側に三羽の鶴と霊芝雲が施され、灰青緑の釉色が鶴と白雲を包み込む。静寂な本作は雲鶴文腕の中で最も美しく、象嵌技法の頂点と言える。

好きな人にとっては、この「灰青緑」色たまらないんだろうな…
でも、私は「青磁らしい青磁」の方が好みです
例えば安宅コレクションの「青磁 瓶」とか、

「青磁陽刻 菊花文 腕」とか…。

そして、そして、この「青磁陽刻 蓮唐草文 壺」も…

この作品とか「青磁陽刻 菊花文 腕」とかは、貫入(細かいヒビ)がまた美しい

なんともキリがありませんので、ここで一息入れて、「#2-4」につづきます。
諸般の事情、有り体に言えば、明日から「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」横浜 2 daysですので、数日空くことになると思います。

つづき:2025/02/04 今年最初の関西旅行記 #2-4

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-6

2025-01-21 08:24:30 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-5」のつづきです。

徳川美術館の展示で私がもっとも興味深く観たのは、第3展示室「大名の室礼-書院飾り-」でした。

大名の公式行事は表御殿の「書院」あるいは「広間」で行われた。御殿の各部屋に設けられた飾り付け専用の空間-床の間・違棚・書院床-には、武家の故実にそって各種の道具が飾られた殿中の飾り付けや典礼を「室礼(しつれい)といい、江戸幕府はその手本を室町幕府の故実にもとめたので、足利将軍家が秘蔵していた東山御物(ひがしやまごもつ)を第一に、唐物と呼ばれる中国製の品々を中心とした飾り付け方が規式(きしき)とされた。
多くの書画や工藝品の産地が中国であっても、それを飾り道具に採りあげ、とりどりに組み合わせ、調和の美を創り出したのは室町の武家社会であり、その美意識や価値観は、そのまま江戸時代の大名家に伝えられた。

書院造りの建物はあちこちで拝見したことはありますが、そこに「飾り付け」した様子は見たことがないような気がします。
名古屋城の復原本丸御殿でも、

熊本城の復原本丸御殿でも、

建物は復原しても、障壁画を除く「飾り付け」は復原されていませんでした。
徳川美術館では、名古屋城二の丸御殿「広間」の一部が「飾り付け」と共に復元されていました。

その「飾り付け」を拝見する前に、床間(とこのま)に向かって右の壁面にある「帳台構え」から。

う~む、、、きらびやか ←月並み
安土桃山~江戸時代にかけての室内装飾は中でも「釘隠し」凄いんですよ。ほら。

今なら、金型を作って、それでバンバンとプレスすれば大量生産ができますが(需要は無い)、当時も今も、金工職人がタガネとトンカチで打ち出して作っているわけで、その工数たるや大変なものです。

ということで、まずは「違い棚」の飾り付けを拝見

違い棚は床や書院床の脇に設けられた段違いの棚である。違い棚の上段と下段に置く品はそれぞれ決められており、違い棚の上段には、茶入・茶碗などの茶の湯道具や、香炉・香合などの香道具、また下段には、盆石や本来食物を収納する容器であった食籠(じきろう)などが飾られる。

だそうです。
展示の仕方から、見上げるしかなく、違い棚に飾られているものをしっかりと拝見できなかったのは残念

ま、次、メイン押板(床の間)飾りに行きます

書院の中央に位置する押板(おしいた) (近世以降は床間(とこのま))の最も基本的な装飾形式を「三具足(さんぐそく)飾り」(三具足:花瓶・燭台・香炉の3点一揃のこと)という。武家の重要な儀式に欠かせない、最も格式の高い室内装飾の形式である。

 

飾り方は、壁面に三幅対の掛物をかけ、中尊と呼ばれる中央の掛物の前に(じょく)を置き、その上に香炉を中心として、向かって右に燭台左に花瓶を配す。さらに卓の左右一対の脇花瓶を置く。

とまぁ、理由は判りません(とくに燭台)が、いろいろとしきたりが大変です。
有職故実美術品に通じた人は重宝されたんでしょうな。

私、「卓(じょく)」という物・呼び方を初めて知ったのですが、ネットで調べていたら、別邸の仏壇前にある燭台や香炉、などを載せた「机」は、正式には「前卓(まえじょく)」と呼ぶのだと知りました

それはともかく、最後は床間の左側の壁にしつらえられた「書院床(しょいんどこ)飾り」です。

私、本宅のリビングの出窓には、PCやプリンター、筆記具をはじめとする文房具などを置いておりまして、その形状や用途からこの出窓スペースを「書院床」と呼んでいるのですが、

書院床は、中世の寺院の窓下で僧侶たちが用いた机が起源とされている。中国の文人が心を清らかにしたり楽しんだりするために室内に文房具を飾った先例にちなみ、や硯に入る塵を防ぐ硯屏(けんびょう)、筆や刀子を立てかけておく筆架・墨・文鎮、墨をする水を入れる水注印章朱肉・糊などを収める印籠などが飾られた。

だそうで、あながち間違いではなかったようです うちの「書院床」装飾性は皆無ですけれど…

徳川美術館のこの他にも、茶室や、

能舞台も復元していました。

かなり手の込んだ、そしてお金をかけた展示だと感心

このあと、第5展示室「大名の雅び-奥道具-」を観て、私の徳川美術館見学は終了し、ミュージアムショップでちょとした買い物をしてから外に出ました。

あとになって気づいたことがあります。

それは、開催中のはずの企画展「めでたきかなお正月」を観ていないこと

Why???

改めて当日の自分の行動館内マップを照らし合わせてみると、第5展示室を観た後、本来ならば、第6展示室を通って本館にある企画展示室に行くべきところを、私はそのまま玄関ホールへと向かっていました

どうしてこんなミスを犯してしまったのか…
しかも、館外に出るまでそれに気づかなかったという…

今になって反省しきりです。

   

徳川美術館を出た私は、JR大曽根駅へと向かいました。
ほとんど土地鑑のない私ですので、たよりはスマホの地図アプリのみ。

徳川園・徳川美術館の案内図にしたがって、

東門を出ると左折し、赤荻町線というらしい通り沿いに、「徒歩10分」だというJR大曽根駅に向かって歩きました。

「徒歩10分」というには遠いじゃないかと思いつつ、名鉄とJRの大曽根駅にたどり着き、改札を抜けると、JR線ホームの北端で、土地鑑の無い私でもなんとなく「迂回」をしてしまったような気がしてきました

帰宅してから調べると、やはり「迂回」していました

JR大曽根駅には、Googleマップではかなり拡大しないと表示されない「南口」が存在して(下の)、私はその近くを通り過ぎて、北口(上の)まで歩いていたのでした
後の祭りながら、徳川園・徳川美術館の案内図にはしっかりと、

JR大曽根駅南口(徒歩10分)
地下鉄・名鉄 大曽根駅(徒歩15分)

と書かれていました

そんなこととはつゆ知らず、私は、10分と待たずにやって来たJR中央線に乗って、次なる目的地、鶴舞公園へと向かったのでした。

つづき:2025/01/21 2025年最初の遠征は愛知へ #2-7 [完結編]

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-5

2025-01-20 08:19:33 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-4」のつづきです。

蓬左文庫の展示をちろっと観た後で、徳川美術館

最初の展示は、「いかにも尾張徳川家といった風情の具足です。

どうしてこれが「いかにも尾張徳川家と思ったかというと、単にこの具足が「白糸威」だから。でも、尾張徳川家の具足すべてが白糸威だったわけではなく、私がそんなイメージを持っているだけですので悪しからず…

この「銀箔置白糸威具足」は、尾張家3代綱誠公の19男松平通温公所用のもの。
人ごとながら、「19男ってのは凄い 綱誠公は22男18女子だくさん(正室の他、側室が13人)だったそうな。
当時のことですから夭折する子どもも少なからずいたことでしょうが、成長した男子それぞれにこんな立派な具足を誂えてやるのは、さぞかしお金がかかったことでしょうねぇ
また、女子を嫁に出すのも、嫁入り道具やら何やら出費が嵩んだことでしょう。なにせ名古屋ですし…

具足の右側には、一見、さすまたに見えないこともない(←見えるか)「上り藤馬標が展示されていました。
「馬標(うまじるし)というのは、戦場大将「わしはここにおるぞと誇示するための道具です。
この馬標は、尾張徳川家初代徳川義直公(徳川家康の9男)所用のもの。
義直公の初陣は、満13歳の時、大坂冬の陣だそうですから、もしかしたら、この馬標大坂冬の陣大坂夏の陣で実際に使われたかもしれませんねぇ

   

これは何だと思いますか?

「唐銅二百目短筒(からどうにひゃくめたんづつ) 銘 延宝二年甲寅七月吉日 辻弥兵衛之種作」です。

「短筒」といえば、ピストルみたいなものだと思っていましたら、これは、長さこそピストル級ですが、口径でかいでかい 4~5cmはあろうかというシロモノです。

この短筒はどうやって使ったんだろ
そもそも片手で持てるとは思えませんし、仮に両手で支えたとしても、発射の威力で手首破壊されること必至です
超ミニの大砲として、台座に据えて使ったんだろうな、こんな感じで…

サイズとしてはこんなものですから…

   

お次も初めて拝見したもので「折紙」というものです。

「折紙」といっても、紙を折って鶴や兜を形づくる遊びでも、スタバ使い切りドリップコーヒー(旅行に出かける際の私の必需品)でもなく、

刀剣をはじめ、書画や茶道具に添えられる鑑定書である。奉書の紙を横に二つ折りにし、作者名や評価額を示す代付(だいつけ)などが記される。代付は「金子○○枚」「代○○貫目」などと表記される。金子1枚は大判1枚(およそ10両、銅銭40貫)に相当した。
刀剣の折紙は、江戸幕府に仕え、刀剣の研ぎ・浄拭い(きよめぬぐい)・目利きを生業とした本阿弥家によって発行された。鑑定に際しては宗家の当主を中心に一族で検討し、その結果を宗家当主が自筆で認めるのを常とした。

だそうです。
この「折紙」は、刀剣(銘 肥前国住人忠吉作)の鑑定書で、

肥前国忠吉
正真 長サ2尺3寸2分 表裏二筋樋○○ ←読めない
代金子15枚
寛政3年 亥
卯月3日 本阿 [花押]

と書かれています。鑑定者本阿弥宗家17代の光一(こういつ)。
ちなみに本阿弥光悦はこの本阿弥家の人で、一旦は宗家の婿養子になったものの、義父に跡継ぎの男子が生まれたことで別家をたて、以降、創作活動に励んだそうな。
その後の日本にとって、光悦が「鑑定業」を本業にできなかったことは幸いだったんじゃなかろうか?

   

お次は梨子地大小の(こしらえ)です。

ピントが甘くて残念なんですが、なんともきらびやかな拵です。
これというのも、この大小(打刀と脇指)を所用していたのは、「質素倹約」を旨とする享保の改革なんぞ無視するかのように名古屋の街を盛り上げた7代藩主・徳川宗春公です。

説明には、

派手好みの宗春らしい趣を持つ大小拵である。総体に金粉を透明の漆で塗り込めた豪華な梨子地の鞘で、刀装具の細工も精緻である。小柄・笄には網地に葵紋を散らし、鐔は三葉葵紋と六葉葵紋を前面に散らして、密な魚々子(ななこ)を打つ。

とありました。
この説明の中に聞き慣れない「六葉葵紋」というのが出てきますが、私、ここに来る途中、徳川園の塀の瓦「六葉葵紋」を見つけて、なんじゃこりゃ? と思っておりました

尾張徳川家は、「六葉葵」裏紋に使っていたのかな?

   

ほぉ~と思ったのは、「三所物」の説明書きでした。

三所物(みところもの)の英訳が「Sword Fitting」というのが何とも良くて、

三所物とは、小柄(こづか)・(こうがい)・目貫(めぬき)の3点の総称である。
これらは同文様・同一作者であることを原則としている。
江戸時代には刀剣装具については厳しい格式があり、小柄・笄をつける身分の武士は、上級のものに限られていた。
加えて、大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例とされた。後藤家は足利将軍家をはじめ、徳川将軍家に代々仕え、不動の地位を築き上げた。
(以下略)

出ましたな、後藤家
現在の日本銀行本店の場所に屋敷を拝領し(金座)、江戸時代を通じて金貨(大判・小判ほか)の鋳造・製作を独占していたという後藤家のことは知っていましたが、「大名家や旗本の正式な拵には必ず後藤家で製作された金具を用いることが慣例」だったとは知りませんでした

と、ここで、以前、私が東京国立博物館で撮った写真を載せます。

これは、「業平東下り図揃金具」(モチーフは伊勢物語です)。
左の上にある細長ぁ~いのが、頭を掻いたり髷をちょっと手直しする時に使う「笄(こうがい)、その下、左の2つの小さな金具が、刀身と柄とを固定する「目貫(めぬき)、その右の長方形のものが携帯用カッターナイフのような小柄(こづか)の(え)で、ここまでの3組「三所物」です。右にある二つは、上が刀の柄の先端に付ける「柄頭(つかがしら)で、その下が柄と鍔との境目に付ける「縁頭(ふちがしら)

この「業平東下り図揃金具」18世紀の作品で、作者は後藤光理。やはり後藤家(光理は12代目)でした

18世紀ともなると、江戸の太平の世が続いて、武士たちも「粋(いき)」とか文学的素養を誇示するようになったんでしょうねぇ

そうそう、刀の鍔の中央には刀身を通す大きな穴があって、その両脇小柄を通すための小さな穴が一つずつ開いているものですが、中には小さな穴が一つしかないものがあります。
これは小柄と笄をつけられない身分の武士のものだったということでしょうか

ちょうどキリのよいところで、徳川美術館の見聞録は「#2-6」につづきます。

つづき:2025/01/21 2025年最初の遠征は愛知へ #2-6

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-3

2025-01-18 15:03:35 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-2」のつづきです。

名古屋市市政資料館第4~7常設展示室をすっ飛ばして「控訴第貮號法廷」だったという第8常設展示室から。

旧刑事訴訟法時代の法廷が再現されていました

この復原法廷は、大正11年(1922)にこの庁舎が新築された際の名古屋控訴院第2号法廷を再現したもので、刑事合議制の公判をモデルにしています、
当寺の控訴院は、地方裁判所の第一審判決に対する控訴などの裁判が3人の判事によって行われ、正面の法壇の中央に判事、その左側に検事、右側に裁判所書記が着席しました。(以下略)

この辺りは、朝ドラ「虎に翼」を視ていた人にはすっかり馴染んだ光景です。
この手前には、実際に使われたという弁護士の法服と法冠が展示されていまして、

戦前の法服・法冠は、明治23(1890)年11月1日に施行された「裁判所構成法」によって定められました。当時、海外の国々の法服にならって、内外に威厳を示す法服ということで、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の黒川真頼教授が依頼を受け、デザインしました。ヨーロッパの法服を参考にして、それに古代の官服のイメージを加えた和洋折衷のものとなっています。
判事や検事の法服には襟と胸に唐草模様と桐の刺繍がほどこされています。実は、この刺繍の色で官職が、桐の個数で裁判所の等級が区別されています。判事の刺繍は紫色大審院判事が7個、控訴院判事が5個、地方裁判所と区裁判所は3個でした。検事については刺繍の色は緋色桐の数は判事と同じ書記深緑の唐草模様の刺繍のみ。弁護士襟と胸唐草模様のみの刺繍がほどこされていました。

さらに説明板によれば、現在も裁判官が着用する法服の色がなのは、は他の色に染まることがないため、『公正さ』を象徴する色として選ばれている」のだそうな。

この法服の規定や、法廷での座席からは、検事の位置づけが現在とはかなり違うことが判ります。ちなみに現在、検事は、法服を脱ぎ法壇から降りて、弁護士と同じ高さで向き合っています。

上に載せた復原法廷は、

名古屋地方裁判所単独制による裁判を行うために設けられていた法廷を、傍聴席の一部を除き、昭和23年(1948)ころの模様に再現したものです。
裁判所構成法が施行された明治23年(1980)以降の地方裁判所では、法廷における裁判は、判事3人による合議制が採用されていましたが、昭和22年裁判所法に変わってからは、単独制が原則になりました。

というもの。
そういえば、「虎に翼」で、新潟地裁三條支部での裁判とか、新潟地裁での暴行事件の裁判をトラちゃんひとりで裁いていましたっけ…

   

時代が行ったり来たりしていますが、明治23年名古屋地裁が出した判決言渡書のレプリカが展示されていました。

用箋の右上に大きく「天皇ノ名二於テ」と印刷されているのが特徴的ですが、

明治23年11月の明治憲法施行に伴い、菊の紋章「天皇ノ名二於テ」の文字が記載されました、翌年2月廃止されました。

と、この用箋が使われたのは、わずか4か月足らずの期間だったみたい
どうしてこんなに短期間に変更されたのでしょうか?
大日本帝国憲法では、

第五十七條 司法權ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判󠄁所󠄁之ヲ行フ

と規定していましたから、判決言渡書「天皇ノ名二於テ」で始まっても不思議はないのですがねぇ…
もしかして、下級審で「天皇ノ名二於テ」出された判決が上級審で覆ることがあるということが関係しているのかなぁ

法律に関してド素人の私にはよく判りませんので、先に進みます

   

最後の第11常設展示室は元「控訴第壹號 大法廷」

この中は復原された「陪審法廷」でした。

正面の法壇上に判事席があるのは他の法廷と一緒ですが、左側には、

法壇上に検事席、法壇下のひな壇に弁護人席があり、右側には、

ひな壇状の「陪審員席」がありました。

日本でも陪審制を採っていた時期があったことは聞いたことがある気がしますが、現在の裁判員裁判どう違うのでしょうか?

この陪審法廷は、昭和3年(1928)陪審法の施行に伴い、この庁舎の西側に新築された陪審庁舎内に設けられていた法廷の主要部分を移設したものです。
陪審制度は、(1) 特定の刑事事件の第一審公判に、一般人から抽せん等で選ばれた12名の陪審員が列席して、犯罪事実の有無を評議して答申する、(2) 裁判所は答申を不当と認める時は、他の陪審に付すことができ、相当と認めるときは採用して判決を宣告する、というものでした。
陪審裁判が全国で行われた事件数は、施行の翌年には143件を数えましたが、陪審裁判には控訴ができなかったことや、多額の費用を要したことなどの理由により、その後次第に活用されなくなり、ついに昭和18年(1943)に施行が停止され、今日に至っています。

だそうで、要は、一般人が「犯罪事実の有無」を答申し、裁判所はその答申が相当と認めるときはそれを採用して判決を宣告する、というものらしい。
でも、裁判所が答申を不当と認めた場合には別の陪審に付すことができるのでは、あまりにも陪審員の評議や答申を軽視してるのではないかと思われます。

なお、現在の裁判員裁判は、最高裁のサイトによれば、

証拠をすべて調べたら,今度は,事実を認定し,被告人が有罪か無罪か有罪だとしたらどんな刑にするべきかを,裁判官と一緒に議論し(評議),決定する(評決)ことになります。
評議を尽くしても,意見の全員一致が得られなかったとき,評決は,多数決により行われます。
ただし,裁判員だけによる意見では,被告人に不利な判断(被告人が有罪か無罪かの評決の場面では,有罪の判断)をすることはできず,裁判官1人以上が多数意見に賛成していることが必要です。
有罪か無罪か,有罪の場合の刑に関する裁判員の意見は,裁判官と同じ重みを持ちます

だそうで、一般人(裁判員)がプロの裁判官と一緒に議論・評決するところが、陪審制との大きな違いのようです。
私に「裁判員」の役目が回ってくることなんてあるのかな?

   

名古屋市市政資料館の見学の最後に、1階にあるという留置場を見に行きました。

そして、これが独居房の内部。

でも、どうして裁判所の中留置場があるんだろうか?
と不思議に思ったら、「留置場の謎」と題する説明板がありました。

この建物ができた大正11年の名古屋控訴院だった頃、こちらの留置場はどのように使われていたのでしょうか。
実は、この留置場がどのような目的に使われていたのか詳しく記録した資料は残っていません(中略) 当時は、裁判官と検事が同じ建物に居たことから、おそらく、現在でいう「裁判中の被告人」や「まだ起訴されていない被疑者」の立場にある人などを、取り調べのためにこの建物に呼び、一時的に収容しておくために用いられた場所であったと考えられます
ですから、この留置場は、「懲役○年」といった判決をうけた囚人が刑に服す場所ではないようです。
現在の裁判所には、主に裁判を受けるために裁判所に移送された被告人が、自分の裁判が始まるまで、一時的に収容される「仮監(かりかん)」という場所がありますが、「留置場」はありません

だそうです。
この説明板の別の部分で、裁判中の刑事被告人や死刑確定者を収監する拘置所は、東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡の8か所しかないことを知りました。
もちろん、日本各地に「拘置支所」はありますが、拘置所が東京以西にしかなく、しかも関西に3か所も集中しているのはどうしたことなんでしょ?

そんな疑問を感じつつ、名古屋市市政資料館見学を終えました

   

ここで、ちょっと「法服・法冠」の話を蒸し返します。

戦前の「法服・法冠」似た装束の人たちの写真を見たことがあります。

東京美術学校の記念写真です。(最前列の左から6人目が岡倉天心)
もしかして、東京美術学校の教官・学生の制服も、デザインしたのは黒川真頼さんか? と思ってしらべたところ、こちらのサイトによると、宮田亮平東京藝術大学学長(当時)曰く、

東京美術学校が設立された時代の日本の裁判官や国会の議長の衣装は、威厳を作るための制服として西洋風ではなくて日本の装束として、聖徳太子をヒントに作られておりました設立当時の東京美術学校の制服も、日本のファッションデザインを確立された黒川真頼先生が岡倉天心の命によりデザインしたものです。当初の評判はあまり良くなく5年ほどでなくなってしまったものですが、黒川真頼先生がデザインされたえび茶色の装束をまとってみると、本学の創立120周年を迎える記念の年の卒業式に最適な姿で、『命』という文字を揮毫できたと思います。

ですと
ビンゴ

    

ということで、いやぁ面白かった

外に出た私は、名古屋市市政資料館の周りを一周したのち、次の目的地「徳川美術館」へと向かいました。

つづき:2025/01/19 2025年最初の遠征は愛知へ #2-4

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-2

2025-01-17 15:47:25 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #2-1」のつづきは、名古屋市市政資料館3階の見聞録です。

なお、名古屋市市政資料館1階は基本的に「書庫(この施設は名古屋市の公文書館でもある)、2階閲覧室と市民が借りられる集会所になっていて、3階司法と名古屋市政に関する常設展示室企画展示室に割り当てられていました。

まずは「檢事長室」のプレートが掲げられた第1常設展示室「名古屋控訴院メモリアル」

この建物は「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」だったわけですが、

明治22年(1889)大日本国憲法が発布されたのに伴い、司法の分野においても、裁判所構成法などにより近代的な司法制度が定められました。裁判所構成法はドイツにならい、大審院・控訴院・地方裁判所・区裁判所の組織形態をとり、大審院は東京に、控訴院は全国7か所(のちに8か所となる)に、地方裁判所・区裁判所は各地に設置されました。裁判所庁舎は、従来の建物を流用した木造から、大審院をはじめとして煉瓦造へ、更に鉄筋コンクリート造へと、時代とともに変遷していきます。控訴院庁舎も、明治10年(1877)竣工の建物を転用した長崎控訴院から、大正15年(1826)竣工の札幌控訴院まで、その構造・様式・規模ともさまざまです。全国8か所の控訴院庁舎のうち、現在も残っているのは、札幌と名古屋の2か所のみです。

だとか。
へぇ~、現存する控訴院庁舎は札幌と名古屋のみとな

旧札幌控訴院(現札幌市資料館)の建物は、2022年4月の旭川・札幌遠征のとき、外観だけ拝見しました (記事)

旧札幌控訴院の車寄せを良く見ると、

「目隠しした女性」「天秤」「剣(天秤の支柱)と、「正義の女神(テミス)」をイメージさせるレリーフで飾られていました(「札幌控訴院」の字体がステキ)。
一方、旧名古屋控訴院はと言いますと、

何やら金色に輝く徽章が掲げられていまして、「これは何?」と思っていました。
すると、第1常設展示室に、そのレプリカが展示されていて、こんな説明がされていました

この建物の正面、車寄の上部に神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾が取り付けられています。
この建物は裁判を行うところであり、人が人を裁くという厳粛な行為が行われる神聖な場所であるところから、建築的にも、装飾的にもいろいろと配慮がなされています。それは、神聖さを建築的に表すドーム秤の絵が描かれているステンドグラスなどにも示されていますが、公正な裁判を意味する神鏡と神剣を組み合わせたこの装飾もこうした趣旨を表したもので、厳正で公平な裁判を静かに主張しています。

神鏡は、真実を写すということで、「目隠しした女性」の代わりだと考えればよいということでしょうか

   

第2常設展示室立派会議室

この部屋は、創建時控訴院の会議室として設置され、長い間、重要な役割を果たしてきました。部屋の南側は露台に通じる扉北側には奉安所を設け、重厚な調度品を置いて、全体に荘重な雰囲気をかもし出しています。(中略)
この部屋は、長い歳月の中で幾度か内装を変えられたので、残された文献や当時の写真、聞きとり調査などを手掛かりとして創建時の姿に復原したものです。

説明にある「奉安所」とは、いわゆる「御真影」を飾っていた場所と推察しますが、頭上に菊の御紋をいただき、これでもか とばかりに何重ものカーテンで飾られた設えは、「いかにも」威厳をたたえていました

一方で、天井のシャンデリアは、意外と質素

まぁ、ここは宴会場(ボールルーム)ではなく「会議室」ですからねぇ…

   

第3常設展示室は、第4~7常設展示室での名古屋市政に関する展示への「つなぎ」のような感じの「名古屋近代建築史」

ここで私の目を惹いたのが、「いとう呉服店」の模型でした。模型、それも建物の模型となると、私、目がないのですよ

この建物は、中区栄の交差点にありました。
明治43(1910)年に、いとう呉服店の店舗として建設されましたが、大正14(1925)年には、松坂屋百貨店と改称され、南大津通りの現在地へ移転したため、その後は栄屋の店舗となっていました。久しく名古屋のひとびとに親しまれていた建物でしたが、戦災を受けてとりこわされました。(中略)
道路が交差する角地にあったため、それぞれの道路に面して出入口を付け、屋上のドームも二方向からの景観に対応するように配置されています。設計者は、建築家鈴木禎次です。
この建物は、名古屋の商店建築が、江戸時代かの古い形式から、近代的な商業建築へと移り変わる初期の様子をよく示しています。

そうか、松坂屋「いとう呉服店」から始まったのか…
と、ここで以前から知りたいと思っていた謎を解明できました。

松坂屋の商標は、で囲まれた井桁の中に漢字一文字が書かれたものなのですが、私はこの漢字が読めず、ずっとスッキリできずにいました

この記事を書くにあたって調べてみると、松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに詳細な説明が載っていました。

通常「いとうまる」と呼ばれている松坂屋の商標は、創業家である伊藤家の「藤」の文字を、組織と団結を表す「井桁」と完全を意味する「円」で囲んだものである。1784年(天明4)に記された「暖簾の明細書」には「白揚り 紋丸の内は井筒藤字(白揚りとは模様を白く染め抜くこと、井筒は井桁の意)と表現されている。この、「いとうまる」の商標がいつ定められたものかは確かではないが、それが史料に出てくるのは、暖簾分けを成文化した1768年(明和5)の「定録(さだめろく)」が最初であった。この定録には、支配人以上は「いとうまる」、支配脇以下は井桁のない「まるふじ」の暖簾を許すということが記されている。呉服店の暖簾は、木綿製の紺染めを白抜きしたものが一般的であったが、松坂屋では、地色がもしくは赤(柿色)のものを用いていた。

なるほどぉ~
と納得したのもつかの間、新たに「なぜ『いとう呉服店』『松坂屋』という屋号に変えた?」という疑問が沸いてきました。
これもまた松坂屋名古屋店のSHOP BLOGに答えがありました

1768年(明和5年)4月、名古屋の伊藤屋は、江戸・上野広小路の呉服店であった松坂屋を買収し、念願の江戸進出を果たしました。買収が成立すると、屋号は長年にわたり江戸市民に親しまれた松坂屋名を存続し「いとう松坂屋」として地域密着経営を展開したこともあり、上野店はめざましい繁盛ぶりであったとのことです。
伊藤屋は1910年(明治43年)「株式会社いとう呉服店」を創立し百貨店に転業しました。その後、国内では洋装が主流となり、呉服店という名称が時代にそぐわないものとなったため、1925年(大正14年)には名古屋、上野、銀座、大阪の全店の商号を松坂屋に統一し「株式会社松坂屋」が誕生することになったのです。

これはこれは…
買収した江戸の呉服店の屋号を継承して旧松坂屋以来の顧客をつなぎとめたと共に「いとう松坂屋」新しい顧客を獲得したというわけですな。
でも、1925年に、上野・銀座だけでなく、名古屋・大阪の店も「松坂屋」に統一してしまったとは… 名古屋では反発はなかったのでしょうか? それにしても経営陣は思いきったことをしたものだと思います。

ここでふと思い出した話。
1980年代、日産自動車が、米国ではそれまで「DATSUN」「NISSAN」と使い分けていたブランド名を「NISSAN」に統一したのですが、このとき、米国のユーザーからは、「乗用車メーカーのDATSUNが、小型トラックメーカーのNISSANに買収された」と誤解されたのだとか…。

と、かなり脇道に逸れてきたところで、「#2-3」につづきます。
「#2-3」では、「名古屋市政」に関する展示をすっ飛ばして「司法展示」のことから再開します。

つづき:2025/01/18 2025年最初の遠征は愛知へ #2-3

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2025年最初の遠征は愛知へ #2-1

2025-01-15 14:52:44 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2025年最初の遠征は愛知へ #1」のつづきは、愛知遠征2日目(1月12日(日))編の始まりです。

私は、遠征2日目名古屋市内の観光にあてて、昼下がりの早めの新幹線で帰ることにしていました。
ただ、その観光スポットとして出発前からピックアップしていたのは、朝ドラ「虎に翼」東京地裁に見立てられていた名古屋市市政資料館(旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎)だけでした。
この状況は当日朝になっても変わらず、地図アプリを見ながら、観光スポットルートを検討していました。
そして、最終的に決めたのが、「#0」で書いたように、名古屋駅⇒名古屋市市政資料館⇒徳川美術館⇒鶴舞公園⇒名古屋駅という周回ルートでした。

9時をちょいと過ぎた頃に行動を開始し、まずは名古屋駅へ。
リニア中央新幹線の名古屋駅新設工事のために複雑怪奇になっている道路(多くが車両通行止め&歩行者専用になっていた)を難なく通過して名古屋駅に着くと、コインロッカーに荷物を入れて…と思ったら、名古屋駅のコインロッカーって、なんとも目立たない
京都駅なんて、これでも足りぬか とばかりに、あちこちにコインロッカーが並んでいるのですが、名古屋駅勝手が違いました
それでも、「コインロッカー検索機」で場所を確認すると、使い勝手の良さそうなエリアにあるコインロッカーに荷物を入れ、さぁ、身軽になったぁ でした。

名古屋駅から地下鉄桜通線久屋大通駅地下鉄名城線と乗り継いで、名古屋城駅で地上に出ました。

ここから私はルートを間違え、わざわざ市役所・県庁の裏手を通る遠回り(逆回り)ルートを歩いてしまいました。
市役所・県庁の裏手には、県や市の公館が立ち並んでいて、日曜日だけに閑散としていました。

県庁ではなにやら工事が行われているようで、養生壁危なっかしい

と、左手の立派なお屋敷の門を見ると、、、

「大村秀章」ということは、知事公邸なんですな

さて、空濠に架かる久屋橋を渡ると左に曲がり、空濠を眺めながら進みました。

空濠は草刈りなどしっかりと管理・整備されているようでした。
名古屋城は空濠が多いイメージですから、名古屋市は空濠管理に手慣れているのでしょうね。

「市政資料館南」交差点を左折すると、この辺りの住所は、、、、

町名表示

そのものズバリ「東外堀町」でした

ここで右手に瀟洒な洋館を見つけました。

門柱には「愛知懸議員會館」とありますが、いったい何のための建物?
どうやらこの建物は、名古屋市長も務めた大喜多寅之助さんの事務所兼邸宅として1920年に建てられたものらしい。
そして、1952年に愛知県の所有となり、現在に至るというもの。
でも、やはり何に使っているか良く判りません。
「議員会館」といえば、国会議事堂の裏に3棟立っている「議員先生たちの集合事務所」のイメージなのですが、ここはそんな使われ方をするには狭すぎます。県議会議員先生たちの社交場なら判りますが…

このように、道を間違え、遠回りしてしまった故に、空濠やら愛知県議員会館を眺めることができたわけで、結果オーライです

   

そして、名古屋市市政資料館に到着

いやぁ良い建物です

名古屋市市政資料館パンフレット(300円)から抜き書きしますと、

この建物は、大正11(1922)年に、当時の司法省によって名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎として建設されて以来、昭和54(1979)年3月に名古屋高等・地方裁判所が現在の新庁舎に移転されるまでの間、中部地方の司法の中心として活動し、歴史を深く刻み込んできました。
また、この建物は、煉瓦の、花崗岩の、銅板の、スレートのを組み合わせた華やかさと荘重な構成にまとめあげた、ネオ・バロック様式を基調とする建築様式をとっており、日本の近代建築における大正末期の動向を忠実に表現しています。
こうした経緯から、歴史的・文化的にも貴重な遺産として、昭和59(1984)年5月21日、国の重要文化財に指定されました。
名古屋市では、この建物が市民の皆さんに残されている重要な文化遺産であることから、この建物が持っている歴史的特性を踏まえながら、文化的に有効に活用していただくことができるよう、名古屋市市政資料館として整備したものです。

だそうです。

ちなみに、帝冠様式の代表的な建物であるところの名古屋市役所は1933年愛知県庁は1938年の竣工です。
わずか10年の間に建築様式もずいぶんと様変わりしたものです。

さて、車寄せを抜けて中を見ますと、

階段があって、その奥にも階段
こういう、構図、好きなんですよねぇ~

最初の階段を登って2階に入ると、

おぉ、「虎に翼」で何度も出てきたあの階段

この階段を登る前に、2階をウロウロしてたところ、「虎に翼」の出演者の皆さんの色紙が飾られていました。

この中で、伊藤沙莉さんの色紙が「はて?」しててかわいかった

この色紙が飾られている場所の裏側は事務室になっていまして、わたしはここで名古屋市市政資料館のパンフレットを購入しました。
そこで驚いたのは、「領収書を発行しますので、苗字だけ教えてください」と言われたこと。そういえば、駿府城址パンフレットを購入したときも、職員さんから苗字入りの領収書を発行してもらったっけ…
レジスターを1台置けば良い話なのだけれど、コスト的には、職員さんの手を煩わせるほうがマシなのかな…

階段を昇り、2階を見下ろすとこんな感じ。

それにしても、色づかい「裁判所」だったとは思えないほど明るいのはどうしたことでしょう?
天井なんて、こんな色と意匠だし、

階段突き当たりのステンドグラスも、裁判所らしく「天秤」の意匠を使いつつも、優美で、そして明るい

そういえば、去年の紅白歌合戦での米津玄師さんと「虎に翼」とのコラボ企画は、この名古屋市市政資料館で収録されたものでしたが、床を緑にして、階段の両端ほかには球状のフロアライトを並べて、さらに華やかに演出していましたっけ

あのコラボ企画で、トラちゃん「よねさんと呼びかけるシーンがあったのですが、あの「よねさん」米津さんにもかけてるよね

   

名古屋市市政資料館は、「建物展示」のほか、「市政展示」「司法展示」が常設展示の 3本柱になっていました。
私のばあい、名古屋の市政にはほとんど興味がありませんから、もっぱら「建物展示」「司法展示」を楽しんだわけでありまして、その辺は「#2-2」につづきます。

つづき:2025/01/17 2025年最初の遠征は愛知へ #2-2

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

2024-12-11 17:11:06 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8」のつづきです。

致道博物館で次に見学したのは、「民具の蔵(旧御隠殿土蔵)」です。

見た目、普通の蔵ですが、

この土蔵は江戸時代末期に御隠殿に付属して建てられました。明治時代以降は、旧藩主酒井家伝来の武具や調度品を収納していました。敷地内には幾つも土蔵がありましたが、現存するのはこの一棟のみです。致道博物館の展示室拡張のため、1956(昭和31)年に「民具の蔵」と改称、現在は庄内地方の民俗資料を展示しています。

という由緒ある建物です。
内部には「庄内地方の民俗資料」が展示されていましたが、「#8」で書いたようにデジカメのバッテリーがギリギリだったこともあって、一枚も写真を撮りませんでした

と、「#5」で外から写真を撮った「赤門」の説明板がありました。

田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わります。乳金具(釘隠)などの金物類は古い形式をとどめています。
1892(明治25)年、台風で破損したために修復しましたが、2004(平成16)年8月の台風で破損、古材をできる限り用いて当初の姿に再建しています。
江戸時代、将軍家の姫君が大名家に嫁ぐ際には、江戸屋敷内に姫君のための特別な住居を構えて朱塗りの門が建てられました。これを表門の黒門に対して赤門といいます。
赤門は、大名に嫁いだ将軍徳川家の娘の敬称である「御守殿(ごしゅでん)」「御住居(おすまい)」のために許された特別な門で、焼失しても建て替えが許されませんでした。

だそうです。

「赤門」といえば、東京大学のシンボルにもなっている「赤門」を思い出しますが、あちらも同様の性格のものだったのか? (大名屋敷の表門のような番所付きの大仰な門だけど) と調べてみたら、東大のサイトに答えがありました。

旧加賀屋敷御守殿門 (赤門) 文政10(1827)年建立
赤門の呼名で広く一般に知られているこの門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門であった。明治36年現在の位置へ移されたが、元は15メートルほどキャンパス寄りに位置していた。明治30年頃から始まる医科大学の建設のためであったという。文政10(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れした。赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものである。

だそうで、まさしく徳川家から嫁入りする姫のための門でした。

で、御隠殿の赤門は、1864(元治元)年に移築されたそうですから、「#5」で浮かんだ疑問「誰の為の門?」は、9代藩主酒井忠発公と鐐姫との婚姻に際して建てられた門っぽい。
更にWikipediaには、鐐姫は、

文久3年(1863年)3月、世子忠恕の未亡人・瑛昌院(山内豊煕の二女)を伴って鶴岡に下り御用屋敷新御殿に移居した。

そうですから、間違いなさそうです

   

最後に見学したのは、「旧鶴岡警察署庁舎 [重文]です。
「#5」で使った写真ですが、トリミングし直して、もう一度載せます。

なかなかインパクトのある水色です。
そういえば、札幌の豊平館も、外壁はながら、軒裏や窓枠ほか、水色の縁取りが印象的だったなぁ…
ちなみに、豊平館が建てられたのは、「#5」で書いた旧西田川郡役所と同じ1881(明治14)年で、この旧鶴岡警察署庁舎が建てられたのは1884(明治17)年ですから、流行りのようなものだったのでしょうか?

説明板を転記します。

明治新政府の維新を示すために建設したとされ、旧西田川郡役所と同様に初代県令・三島通庸が命じ、高橋兼吉が設計しました。擬洋風建築における一つの到達点を示すものと評価されています。もとは市内馬場町にあり郡役所と隣接していましたが、1957(昭和32)年警察署移転に伴い、地元の建築士会が中心となって保存のため当地に移築しました。
外部窓廻りなどにルネサンス様式を模していますが、宝形造(方形造)の堂々たる外観で、屋根の大棟や破風妻飾りなどは在来様式を巧みに取り入れています。
5年に及ぶ保存修理工事と調査を経て、水色の外観や3段構造の取調室などが復原されました。
創建当初の姿によみがえり、2018(平成30)年6月から公開が始まりました。

またまた登場した三島通庸高橋兼吉
それはともかく、この建物のどこが「宝形造」? と思ったら、こちらのサイトの写真を見ると、入母屋造の1階の上に、「宝形造」の2階が乗っかっているんですな。こりゃ、下から見ても判りませんって…
それよりなにより、鶴岡警察署1950年代半ばまでこの建物を使っていたらしいことに驚きます 「鶴岡警察署の沿革」によれば、

昭和31年10月 庁舎の老朽化、県重要文化財指定を機に鶴岡市馬場町(現、鶴岡地区医師会館)に移転新築

とあります
「庁舎の老朽化」とありますが、築70年超ですから、そりゃ老朽化しますよ

説明板に、「3段構造の取調室などが復原されました」とありますが、その復原された取調室衝撃的でした。
廊下から取調室に入ると、、、、

おわぁ、なんじゃこりゃ

ほとんど時代劇でみる「お白州」じゃありませんか

試しに被疑者目線だとこんな感じ。

「お白州」と違って板敷きですが、むしろに座らされて、二段高い場所で椅子に座る取調官を見上げたら、感じるのは「威圧感だけです
しかも、背後の「中段」には警察官が立っていたのでしょうし…

明治の初期は、こんな取調だったんですな。

説明板によれば、

取調室は、比較的早い時期に改造された。
2室の仕切り壁は撤去、3段の床組は最も高い位置に揃えられ、出入口は窓に変えられた。
この取調室は、その後、宿直室、倉庫、書庫と用途が変遷している。

だそうで、さすがに「お白州」長続きしなかったようですな

ということで、致道博物館の見学はおしまい。
いやはや楽しめました

   

致道博物館を退出した私は、鶴岡公園(鶴ヶ岡城趾公園)の中を通って駐車場に向かいました。

今回、私は、「鶴岡城下町めぐり共通券」を使っていまして、ここまでの「旧風間家住宅 丙申堂」「風間家旧別邸無量光苑 釈迦堂」「致道博物館」に加えて、「鶴岡市立藤沢周平記念館」も観ることができました。

でも、もう、「お腹いっぱい」状態で、「鶴岡市立藤沢周平記念館」は素通りしました
これでは「元を取れない」可能性があったわけですが、無理する必要はありませんしね…

それよりも私にとって大事なのは、「#6」で書いた鶴ヶ岡城「鬼門消し」を見ることでした

明治初年の廃城以降、都市改造や公園の整備ほかで変化しているでしょうけれど、見つかるかな? と歩いていくと、、、、

おぉ、コレっぽい
旧本丸の北東角で、内堀がL字形に屈曲しています
ますます大満足の中で、鶴岡公園を出て、駐車場に戻りました。

こうして、16:00ちょい前にクルマに乗り込み(鶴岡市散策は約4時間)、いざ、帰る

   

基本的に来た道をとって返す中、山形県の北西端にあたる遊佐町付近で、生まれて初めて日本海に沈む夕陽を見ることができて、さらに大満足

あとで知ったところによると、遊佐町には、小樽でのニシン漁をなした青山家の本邸があって公開されているのだそうで、いつかここにも行ってみねば
私は、北海道開拓の村旧青山家漁家住宅を観て、小樽小樽貴賓館(旧青山別邸)を観てそこでにしんそばを食べた経験がありまして、WOWOWで放送された「ゴールデンカムイ 北海道刺青囚人争奪戦」に、その両方が登場して大盛り上がりしました。
ここまで来れば、旧青山本邸にも行かないわけにはいかないぞ と心に決めている私です。

それはさておき、秋田市内まで戻って来たところ、ちょうど帰宅ラッシュ時で、渋滞に巻き込まれたのは想定外でしたが、それでも、18:30までには、無事、別邸に帰着したのでありました。
あ~、楽しかった

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8

2024-12-10 18:29:19 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7」のつづきです。

私が「おひょう~欣喜雀躍した建物というのは、

「旧渋谷家住宅(多層民家)」です。

「兜造り」のなんとカッコイイこと

角度を変えて見てもカッコイイ

説明板によると、この建物は文政5(1822)年に建てられたものだそうで、

県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家です。山峡の雪深い地域に対応した4層構造になっています。江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力を生業としていました。
明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高(たか)ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場としました。「兜造り」と呼ばれる近世のとれた美しい茅葺き屋根が特徴です。

だそうです。

10年ほど前、「日本の民家 一九五五年」という二川幸夫さんの写真展を観て、日本の古民家の美しさに心を震わせたのですが(記事)、この写真展で「旧渋谷家住宅」の写真を見た気がします。

帰省Uターン後、安くなかった図録を見たのですが、田麦俣集落の遠景が載っているだけで、あれまぁ 気のせいだったのか? でした。
ところが、この記事を書くにあたって「日本の民家 一九五五年」展をググったところ、こちらのサイトに行き当たり(展覧館のタイトルを間違えてる)、その会場内の写真の3枚目に、この「旧渋谷家住宅」の写真がある
そうだよねぇ~ 私が「見た気」になっていたわけではなかったのがうれしい
で、「旧渋谷家住宅」致道博物館移築されたのは1965年ですから、二川さんは田麦俣集落で撮影したんですな

では、中へ。

写真の右下、軒下にある格子状のものは、田植えの前に、苗を植える目印を田んぼにつけるためのローラー(?)だよね…。

それはさておき、旧渋谷家住宅に入ってすぐ、左側に縄のれんが下がっていました。
居酒屋みたいだな、と思ったら、なんと、トイレでした

どうしてこんな入口のそばにトイレを設置したんでしょ?

近所の人が「渋谷さん、いるかい?」なんてやってきたときにトイレに入っていたら気まずいだろうに…

と思ったら、この家に「玄関」はなく、来客縁側から入ったのだとか

玄関が無いというというのは一般的なのかな? と思って調べてみたら、こちらのサイトには、

一般の農家では玄関はないため、土間から座敷へあがります。その土間から一段高くなった場所は長式台と呼ばれます。

と書かれていました。
なるほど…。

さて、2階の「お蚕さまルーム」に上がってみました。

わぁ、真っ黒

3階へ続く階段も、天井(3階の床裏)も、小屋組も煤けて真っ黒です
なんでも、家の中の竃や囲炉裏で火を焚くことで、立ち昇る煙の成分茅や木材をコーティングして防菌、防虫の効果を発揮して、また、家の中に対流を作って風通しも良かったのだとか。

でも、「お蚕さま」は煙たくなかったのかな?

この屋根裏を良く見ると、は真っ黒になっていません。恐らく、定期的に葺き替えをやっているのでしょうな

2階から1階に降りると、(うまや)がありました。

一つ屋根の下農耕馬と一緒に暮らしていたというわけですな。
馬栓棒が、かなり使い込まれたと見えて、テッカテカ

最後に、外から3階と屋根を見上げて「旧渋谷家住宅」の見学は終了です。

「旧渋谷家住宅」の横に、ポールが立っていますけれど、これは恐らく避雷針でしょう。
茅葺き屋根最大の弱点火災ですから…。

   

お次は、築40年と、致道博物館の見学スポットとして最も新しい建物「重要有形民俗文化財収蔵庫」

実は、デジカメのバッテリーギリギリの状況でして、この辺りから撮影枚数を減らしていました予備を1個持って行っていたのですが、これが充電していなかったヤツで、なんとも間抜けな話です

そんな状況で撮った1枚がこちら。

「金(かね)はかり」分銅です。

「両替屋」のシンボルマークとして使われがちな分銅ですが(銀行の地図記号もこの意匠)、どうしてこんな形をしているのでしょうか?
昔、理科の実験で使った上皿天秤に付属していた分銅は、円筒形の上につまみがついたものと金属片でしたよねぇ。

ちょっと調べてみたところ、Wikipediaによると、

この両替に用いられる天秤は、承応2年(1653年)に世襲的特権を与えられた、京都の秤座で製作されたもののみ使用が許された。また分銅については、寛文元年(1661年)に世襲的特権を与えられた彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。そのため量目の単位としてのは江戸時代を通じて均質性が維持されている。

ですって
これで、分銅の形が同じ理由は判りましたが、「なぜあの形なのか」未解決

Wikipediaは、

この分銅の形は蚕の繭をかたどったものといわれている。

としていますが、見えないことはないけれど、ちょっと無理があるような…
なぜ繭の形なのか判りません
単に「指でつまみやすいから」だったりしませんかね?

というところで、「#9」(おそらく完結編)につづきます。

つづき:2024/12/11 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

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