三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

一殺多生(3)

2020年08月10日 | 仏教

三浦和浩「『立正安国論』における「釈迦の以前」と「能仁の以後」に関する一考察」に、有徳王と仙予王(仙預王)が仏教を誹謗する婆羅門を殺したという『涅槃経』の記述を、このように要約してあります。
http://u0u1.net/j0Wy

『涅槃経』には、覚徳比丘を護る為に武器を持って謗法者と戦った有徳王の故事や、仙予王による謗法者(婆羅門)殺害の故事、あるいは釈尊の前生(国王)における婆羅門殺害などが説かれている。これらの殺害行為の結末がどのようであったかと言えば、有徳王は阿閦仏国土に往生して仏の第一の弟子となり、また仙予王はそれ以来地獄に堕ちることがなかったというのであるから、『涅槃経』においては正法を護持する為の武装、あるいは謗法者の殺害については、それを積極的に肯定しているものと捉えることが出来る。


この問題について迦葉菩薩が、菩薩が我が子を愛するように一切衆生を救済するならば、どうして如来は前世に国王として菩薩の修行をしていた時に婆羅門の命を断絶したのか、そしてどうして地獄に堕ちないのかと、釈尊に質問をする。
この問いに対して釈尊はこのように答えている。

どうして婆羅門を殺すようなことがあろうか。菩薩は様々な方便を用いて衆生に無量の寿命を恵施する。菩薩は六波羅蜜を行じて衆生に無量の寿命を恵施するのであるから、菩薩が衆生の命を奪うということは無いのである。(略)
大乗を誹謗した婆羅門を殺害したことで、結果的に彼らの寿命を延ばしたのであり、その意味ではこれは「殺」にはあたらない。


南岳慧思『法華経安楽行義』には、正法護持のためには必ずしも軟語によらず、仙予王や有徳王の警えのように、謗法の婆羅門や悪比丘を殺害して、結果として彼らの寿命を延ばすなどの功徳を与えた場合もあることを指摘している。

論書でも菩薩の殺人を肯定しています。
弥勒『喩伽師地論』には次のようにあります。

若し諸の菩薩、菩薩の浄戒律儀に安住すれば、善権方便にして利他の為の故に、諸の性罪少分現行するに於て、是の因縁に由りて、菩薩戒に於て違犯する所なく、多くの功徳を生ず。謂く菩薩、劫盗賊の財を貪らんが為の故に多くの生を殺さんと欲し、或いは復た大徳の声聞独覚菩薩を害せんと欲し、或いは復た多くの無間の業を造らんと欲するを見るが如し。是の事を見已りて発心し思惟す。我れ若し彼の悪衆生の命を断たば、那落迦に堕つ。如(も)し其れ断たざれば、無間の業成じて当に大苦を受くべし。我れ寧ろ彼れを殺し那落迦に堕つるも、終に其をして無間の苦を受けしめざらんと。是の如く菩薩意楽し思惟し、彼の衆生に於いて、或いは善心、或いは無記心を以って、此の事を知り已りて、当来の為の故に深く慚愧を生じ、憐愍の心を以って、而も彼の命を断ず。是の因縁に由りて、菩薩戒に於いて違犯する所なく、多くの功徳を生ず。(もし菩薩戒をそなえている菩薩が、他者を救済する目的において罪を犯すことがあったとしても、それは戒律を犯したことにはならず、むしろ多くの功徳を生ずることになる。例えば物ほしさに多くの人を殺そうとしている盗賊がいて、それを見た菩薩が、「私がこの悪人を殺せば私は地獄に堕ちる。もし彼を殺さなければ彼が地獄に堕ちる。私はむしろ彼を殺して私が地獄の苦しみを受けることで彼を地獄に堕ちないようにしようと思う」と考えて、憐れみを以てその悪人を殺した場合、それは戒律を犯したことにはならず、逆に多くの功徳を生ずる)


望月信亨『仏教大辞典』の「殺生戒」の項に、「古来、一殺多生の説と称せらるゝ所なり」とあります。
古来というのがいつ、どこなのかわかりませんが、能『鵜飼』には一殺多生という言葉が使われています。

岩落と申す処は上下三里が間は堅き殺生禁断の処なり。鵜使多し。夜な夜な忍び上つて鵜を使ふ。何者なれば堅き殺生禁断の処にて鵜を使うらん。(略)狙ふ人々ばっと寄り。一殺多生の理に任せ、かれを殺せと云ひ合へり。(岩落は上下三里の間が殺生を禁じられている。鵜使いが多い。夜毎、忍んで鵜を使う。何者が殺生禁断のところで鵜を使うのか。狙っていた人々がばっと寄り、一人殺して多くを生かすという道理にまかせ、「彼を殺せ」と言い合った)

室町時代初期に、一殺多生の意味を多くの人が知っていたわけです。
鵜使を殺すことがなぜ一殺多生なのか。
魚を生かすことになるからか、鵜使に殺生を犯させないためか、どっちでしょうか。

無着『摂大乗論本』には、菩薩行として次の記述がみられる。

諸の菩薩は是の品類の方便善巧に由りて殺生等の十種の作業を行ずるも、而も罪有ること無く、無量の福を生じて速かに無上正等菩提を證す。(菩薩の殺生は過失がなく無量の福を生み、速やかに菩提を得る)


三浦和浩さんは「釈尊の前生における衆生救済の為の方便としては殺害行為も許容されるものと考えられる」と書いています。
単純に「婆羅門は一聞提であるから殺されても構わない」ということではない。
殺生を是認するというのは仏菩薩の場合に限って説かれている。
殺生という行為が衆生に許される説示例はない。
多くの人の命を奪おうとしている悪人について、菩薩が憐れみの心をもってその悪人の命を断っても罪にはならず、むしろ功徳になる。
菩薩の殺害行為の動機は、殺されようとしている多くの衆生の命を救うという意味での慈悲の心によるのみならず、悪人が堕地獄することを防ぐという慈悲の心が存するのである。
菩薩の殺生は智慧と慈悲による菩薩行の一面であり、菩薩の衆生救済という利他行を指すものである。
謗法の婆羅門の寿命を延ばすということにこそ、『涅槃経』の主張の本質があると考えることができる。

つまり、仏法を誹謗することは大罪だから、殺害することで三悪道に堕ちることを防ぐ、すなわち救済だというわけです。
殺人を救済であり、慈悲行であるという考えは、オウム真理教のポアと同じ理屈だと思いますが、三浦和浩さんもオウム真理教には触れていません。

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