バート・D・アーマン『捏造された聖書』には、2~3世紀のキリスト教異端についても書かれています。
聖書を複製する書記は意味が通るように聖書の言葉を書き直すこともあったし、神学的理由で書き直すこともあった。
神学的理由の一つが異端を否定するため。
さまざまに異なる信仰を持つキリスト教徒たちは、自分たちの真理を他の者たちに教えこもうと努めていた。
こうした論争の中から、最終的にたったひとつの宗派が勝ち残った。
その宗派こそ、キリスト教の信経を定めた宗派だ。
その信経によれば、創造主である唯一神が存在し、その子イエスは人間であると同時に神であり、その死と復活によって救済がもたらされた。
2~3世紀のキリスト教の異端
・養子論者
イエスは人間であって神ではないという主張。
イエスは神ではなく、血と肉を備えた人間であり、それを神が、一般には洗礼の際に、「養子」として採用した。
養子論的キリスト論を奉じた宗派の一つがエピオン派で、イエスの信徒はユダヤ人でなければならないと主張した。
エピオン派は、神は唯一であると信じていたので、イエス自身は神ではなく、私たちと変わらない人間だと考えた。
イエスは普通の人間同様、親であるヨセフとマリアの性的結合によって産まれ(だから母親は処女ではなかった)、それからユダヤ人の家で育てられた。
イエスはユダヤ律法の遵守においてきわめて義であったので、神は洗礼の際に養子として採用した。
その時以来、イエスは自分が神から与えられた使命(他者の罪への犠牲として十字架の上で死ぬこと)を果たすために呼ばれたと感じ、召命に忠実に従った。
神はこの犠牲を讃え、イエスを死から甦らせ、天に上げ、今も来るべき審判の日に地上に舞い戻る時を待っている。
・仮現論者
キリストを完全なる神と見なす。
イエスは完全な血肉を備えた人間ではなく、神以外の何ものでもない。
肉体のように見えるものを持って地上に現れたから人間のように見えるだけ。
つまり、餓え、渇き、苦悩し、血を流し、死んだかのように見えるだけなのだ。
よく知られた仮現論者はマルキオン。
マルキシオンは使徒パウロの生涯と教えに完璧に入れ込んでいて、パウロこそが教会の黎明期以来の唯一の「真の」使徒だと信じていた。
パウロは、神の前に正しく立つことのできる者はキリストを信じた者だけであって、ユダヤの律法に書かれていることを実践した者ではないと述べている。
マルキシオンはユダヤの律法とキリストの福音とは全くの別物だと考えた。
律法と福音は同じ神に由来するということはあり得ないということになる。
そこでマルキシオンは、イエスとパウロの神は旧約聖書の神とは別物であると結論するに至る。
イエスはこの物質世界を創った神に由来するものではないので、この物質世界に属していない。
だから、イエスが現実にこの世に誕生したということはあり得ないのであり、物質的な肉体を持ってはいなかったのであり、実際に死んだのでもない。
そう見えたというだけの話にすぎない。
・分割論者
イエス・キリストを2つの存在であるとし、一方は人間、もう一方は神だと考えた。
分割的キリスト論を好んで唱えたのはグノーシス派。
グノーシスとはギリシア語の知識を意味する言葉から来ている。
救済のための秘密の知識の重要さを強調した。
この真実というのは、秘密の教え、神秘的な「知識(グノーシス)」であって、天界の神的存在のみがそれを伝えることができる。グノーシス派キリスト教徒にとって、キリストとは救済の真実を啓示する神的存在だ。多くのグノーシス派の教義では、キリストは人間イエスの洗礼の際に彼の許にやって来た。そして彼に使命を果たす力を与え、最終的には彼を見捨てて十字架で死なせた。だからこそイエスは、「わが神、わが神、何故あなたは、私をお見捨てになったのですか?」と叫んだのだ。グノーシス派にとっては、キリストは文字通りイエスを見捨てたのだ。
私には、イエスが神の子であり、処女懐胎によって生まれ、肉体の復活をしたという考えとどっちもどっちのように思えます。