伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ』は、ニューエイジ・スピリチュアリティに好意的であるところが気に入らないが、和尚(オショウ)ラジニーシ・ムーブメント(ORM)を取り上げた第4章~第6章はすこぶる面白い。
伊藤雅之氏自身、10代後半に自分を変えたいと強く思っていて、哲学、宗教、心理学、そして精神世界の本を読んでいたという。
そして、ラジニーシ(オショウ)の本を読んで瞑想をし、セラピーを受け、ラジニーシがいたアメリカのオレゴン州にあるコミューンを訪れている。
ORMだが、教団の展開、ラジニーシの発言、信者の気持ちなど、オウム真理教とそっくりなのである。
教団の運営や思想、瞑想法だけでなく、事件を起こし、その言い訳まで似ている。
ラジニーシ(1931年生)によれば、人間の究極的な目的は光明を得ることであり、それは自己が宇宙全体から分離していない意識状態である。
つまりは、意識変容することで宇宙意識と一体化し、究極のリアリティがどうのこうのという、よくある教義らしい。
ラジニーシは意識変容を促進する手段として、さまざまな瞑想テクニックを開発し、グループ・セラピーを提供した。
最初は自らの思想を講演し、瞑想のキャンプを開催するだけだったが、1970年ごろを境として、サニヤシン(弟子)にイニシエーションを授けるようになる。
サニヤシンはサンスクリットの名前を与えられ、オレンジ色のローブとラジニーシの写真入りロケットをつるした数珠を身につけた。
1974年、インドのプーナに広大なアシュラムが開かれて多くの欧米人が訪れるようになると、ラジニーシは少数の弟子以外とは個人的に接することが難しくなり、アシュラムの運営は側近が担当するようになった。
地域住民との摩擦が生じ、1981年にアメリカのオレゴン州に本拠地を移す。
ORMは全体主義的になり、コミューンに永住する者はすべての個人財産を処分して寄付することが要求された。
そこでも、近隣住民との摩擦が絶えず、1985年には主治医の殺人未遂、近隣レストランでのサルモネラ菌の混入と住民約750名の食中毒、公共施設の放火などによって幹部たちの逮捕された。
ラジニーシは国外逃亡を試みて逮捕されたが、司法取引の結果、釈放、アメリカを去ってインドに戻る。
ところが、これでORMがつぶれたかというと、ラジニーシは講演など続け、信者も増えている。
1990年にラジニーシは死亡したが、組織は今でも大きな影響力を持っており、日本にもOSHO・JAPANなどの組織が活動している。
欧米ではカルトとみなされている。
どうです、オウム真理教とそっくりでしょう。
アメリカでの事件に対する教祖や信者の反応がオウム真理教・麻原とまるっきり同じなんですな。
ラジニーシはこのような言い訳をしている。
ラジニーシは悟っているんだから、側近が事件を起こすことぐらいわかっていてもよさそうなものだが。
そして、こんなしょうもない文句を言っている。
この責任転嫁、被害者意識、つまらない言い訳も麻原彰晃とそっくり。
グルとか最終解脱者と自称しているのなら、もう少しましなことを言えないものか。
信者の多くは比較的裕福な家庭に育った、教育程度の高い30歳前後の若者である。
信者たちは事件についてどう感じたかというと、ラジニーシが逮捕されても、サニヤシンたちは彼に対して疑いを抱くということはなかった。
「悟った人のことは分からない」
などと、信者は言っている。
思考停止しているわけだ。
そして、こう弁護している。
「自分たちの責任だと思った。あれほど、和尚が言っていたにもかかわらず、自分たちの盲目性っていうかさ、そこに宗教つくっちゃったりとかさ、誰かに従うとかさ。」
「一連の事件をラジニーシが黙認したのは、サニヤシン全般の従順な態度を戒めるためであると捉えていた」
信者は事件を意義ある出来事として都合よく解釈している。
事件は事実であり、ラジニーシの欠点は認めても、教え自体は真実だと考える人もいる。
どうしてそこまでラジニーシを信じきれるのかというと、体験があるからである。
体験(特に神秘体験)を価値あるものとして意味づけすることは危険である。
瞑想というと何かいいイメージを持ちがちだが、瞑想によって逆に自我を固めるだけではないかと思ってしまう。
オウム真理教は少しも特殊ではないことがよくわかる。
要するに、「光明を得る」と言うことは、自己満足を無限に生産する自慰的構造に過ぎず、そうであるが故に、信者はこの教祖に対して考えることが出来ないという思考停止になっていくということになりますでしょうか。
欠点になるような教えであれば、何かしらの問題があるでしょうし、いや、問題を見出すべきでしょう。それが出来ないのであれば、大した教えではないということであります。
そして、大した教えではないから、ますます妄信してもらわなくては意味が無くなっていくという、宗教堕落デフレスパイラル突入でありますね。
本来の自分というのは我(アートマン)であり、宇宙意識との一体とは梵我一如の焼き直しです。
本来の自分を知り、宇宙意識と一体になるために瞑想をするわけですが、そこで得られる体験によって、教えが真実だと証明されたと思いこみます。
おっしゃるとおりの「自己満足を無限に生産する」教えですね。
だけど、形は違うにしても既成仏教も「自己満足を無限に生産」してはいないか、という問いかけをしないとダメだと思います。