三日坊主日記

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裁判員制度を考える8 無罪推定

2008年11月16日 | 日記

読売新聞社社会部裁判員制度取材班『これ一冊で裁判員制度がわかる』に、こういう質問が書かれてある。
「法律や裁判の勉強をしておく必要は?
事前に特別な必要なありません。裁判員制度の趣旨は法律家だけではなく、一般市民の良識や多様な視点・感覚を刑事司法に取り入れることにあるからです」
「法律の知識は、裁判員には必要ありません。求められているのは、普通の生活を送っているあなたの「良識」や「常識」です」
ということは、裁判官は良識や常識が欠けているということになるのだが。

そもそも、裁判官の知識や経験よりも一般市民の良識や常識のほうが間違いないのだろうか。
良識や常識が欠けている裁判官もいるだろうが、一般市民の良識や常識もあやしいものだと思う。
たとえば、無罪推定の原則。
「疑わしきは罰せず」を法律の素人が理解し、納得できるかというと、かなり難しいと思う。

無罪推定の原則とは何か。
私も正確なことはわからないが、こういうことだと思う。
1,裁判で有罪の判決を受けるまでは未決拘禁者は無罪の推定を受ける。
2,有罪の立証をするのが検察の仕事で、弁護側に無罪を立証する責任はない。検察が有罪の立証ができなければ無罪。
「検察官が有罪だと言うその言い分が、本当に間違いなく正しいか」ということを皆で考えるのであって、「検察官と弁護人とどちらが正しいか」ということを決めるのではない」川副正敏日弁連副会長
3,有罪かもしれないと思っても、合理的な疑問があれば無罪にしなければならない。
「常識に従って判断し、有罪とすることに疑問が残る時は、無罪にしなければなりません」
つまり、「疑わしきは罰せず」ということ。

どうして無罪推定の原則があるのかというと、99人の有実の人が仮に無罪となったとしても、1人の無辜の人が有罪になってはいけない、という人権尊重の理念による。

しかしながら、私を含めてほとんどの人は逮捕=有罪だと思ってしまっている。
その原因の一つは、マスコミは被疑者が逮捕されたら犯人扱いすること。
産経新聞の「産経抄」なんか、和歌山毒入りカレー事件の林真須美被告の弁護人は林被告が本当に無実だと信じているのか、林被告を説得して自白させるよう説得すべきだ、というようなことを書いていた。
「弁護士は被疑者の私的利益の代弁者ではないはずだ。社会正義を実現させ、真実の究明のために弁護人も協力しなければならない。それが弁護人の使命や職務であり、そこにこそ職業倫理も存在している。だがこの弁護団はそういう社会的要請にこたえているように見えない」
産経抄は弁護士の仕事、そして無罪推定の原則をまったく理解していないわけで、和歌山弁護士会が産経新聞に申入書を出している。
産経新聞はどのように返事をしたのだろうか。

伊藤和子『誤判を生まない裁判員制度への課題』によると、ニューヨーク州のルース・ピックホルズ裁判官は陪審員選定手続の際にこういう質問をしている。
「いま被告人はここに座っていますが、証拠が提出されて有罪が立証されるまで、被告人は無罪と推定されます」
「いまは、何の証拠も提出されていないのだから、あなたはこの被告人を無実とかんがえなければなりません」
「被告人は自ら無罪を証明する必要はありません」
「証人がすべて真実を述べるわけではありません」
「警察官の証言だからといって、最初から信用して話を聞くことはできません」
「全ての証拠によれば、彼女は多分有罪だろう、とあなたは判断した。しかし、合理的な疑いを超えていない。あなたは無罪判決をしなければなりません」
このように、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に関する陪審員の理解を徹底して確認する作業が行われているそうだ。
これらの質問にちゃんと答えることができるかどうか、私も自信がない。

免田栄氏が再審で無罪判決を勝ち取った時ですら、立川談志氏はラジオ番組で「絶対やってないわけないんだよね」と話している。
ロス疑惑の三浦和義氏にしても、無罪判決が出たのに「やっぱりやってる」と思っている人は多いと思う。
そういう人(産経抄も含む)は裁判員に選ばれないことになるはずだが、実際はどうなるのだろうか。

さらには、被害者参加制度が始まり、被害者とその弁護士が裁判に参加できるようになった。
証人や被告人に対して直接質問することができるし、検察官の論告、求刑のあと、意見の陳述もできる。
あすの会の岡村弁護士は
「被害者がありのままの思いを法廷で伝えてこそ、裁判員は市民感覚を生かした判断をできるはずだ」(読売新聞社社会部裁判員制度取材班『これ一冊で裁判員制度がわかる』)
と言ってるが、私は被害者が裁判に参加することには反対である。

「刑事裁判では、有罪が確定するまでは、被告が罪を犯していないものとして扱わなければならないという「無罪推定」の原則があります。被害者の思いとは別に、検察官がみなさんの常識に照らしてみて疑いのない程度まで犯罪事実を証明できない限り、無罪としなければなりません。この刑事裁判の基本ルールは被害者の方も理解しているはずです」
本当に被害者参加人は無罪推定の原則を理解しているだろうか。

船山泰範・平野節子『図解雑学 裁判員法』に、
「被害者参加人は、検察官の論告・求刑にとらわれず主張できるため、裁判員の心証の形成に与える影響が強すぎるのではないかという懸念もあります。たとえば、検察官が保護責任者遺棄致死罪で懲役20年の求刑をしたところ、被害者の遺族は殺人罪で死刑を求刑することもあるのです」
とあるが、涙ながらに訴える遺族の言葉を聞くと、「感情に引きずられず、冷静に!」と言われても無理じゃないかと思う。
光市事件のようにマスコミまで一緒になって「死刑だ」と騒ぎ立てたら、冷静に判断するなんてできない。

「報道の仕方によっては事実認定や量刑が必要以上に重くなるのではないかという危惧感は否めません」(船山泰範・平野節子『図解雑学 裁判員法』)

模擬裁判ではどうなのだろうか。
【迫る裁判員制度】求刑上回る主張も 被害者参加の模擬裁判
 事件の被害者や遺族が公判に参加する「被害者参加制度」を取り入れた模擬裁判2日目が4日、東京地裁(森島聡裁判長)で開かれ、裁判員6人を含めた評議と判決の言い渡しが行われた。前日の公判で、遺族側は検察側の求刑(懲役8年)を上回る懲役10年を求めたが、判決は求刑通り懲役8年となった。
 評議では、裁判員から「遺族が納得できるなら、求刑よりも重い罪で構わない」と遺族側の感情を重視する発言が相次いだ。評決で裁判員3人が懲役10~9年を主張したが、多数決で懲役8年に落ち着いた。懲役10年を主張した裁判員役の会社員、小島建さんは判決後、「遺族が癒されるように気持ちを酌みたいと思った」と話した。
 公判は、飲酒運転による衝突事故で相手の車を運転していた男性を死亡させた危険運転致死事件が扱われ、量刑が争点だった
。(産経ニュース7月4日

多くの場合、検察の求刑をちょっと下回る判決が出されるのだが、被害者が検察よりも多めの求刑をすることによって重罰化となるだろう。
裁判に参加する被害者が本当に無罪推定の原則を理解しているかどうか、裁判官は質問すべきだと思う。

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