三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

人口と食料

2023年05月01日 | 

人類はどのように人口が増えていったのでしょうか。
C・W・マリーン「祖先はアフリカ南端で生き延びた」(「日経サイエンス」2010年11月号)にこうあります。

約19万5000年前から約12万3000年前まで、地球は長い氷期が続いた。
この時期の気候は寒冷で乾燥しており、アフリカ大陸のほとんどは住むのに適さない土地になった。
この氷期の間に人口は急激に減少し、子どもを作ることができる年齢の人は、1万人以上からほんの数百人になった。
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1011/201011_040.html
6~7万年前、ユーラシア大陸に渡った群れの人口は数百から数千だった。

宮路秀作『経済は地理から学べ! 』によると、人口増と食料の供給は大きな関係があります。
ある地域における収容可能な人口数のことを可容人口という。
可容人口は、就業機会と食料供給量で決まる。
食料を自然界から獲得していたため、食料が安定して手に入らず、人口はさほど増えなかった。

ところが、1万年前の最終氷期の終了によって温暖化し、メソポタミアを中心とした西アジアで小麦の栽培が始まると、人口が急増した。
人口500万人だったのが、紀元0年には2億5千万人になった。

加藤徹『西太后』でも人口と食料の関係について書かれています。
中国では、一つの王朝の寿命はせいぜい2百数十年である。
ある王朝の建国当初は人口が少なく、農民1人あたりの農地面積も広いが、平和が続いて人口が急増すると1人あたりの可耕地面積も激減し、最低限の食糧の自給も不可能になる。国民は困窮し、国力は低下し、内乱や外国の侵攻によって社会は混乱する。
飢饉や戦争で人口は減少し、最後に王朝が倒れ、新しい王朝が始まる。その繰り返しだった。

康煕帝のころの人口は1億人。
その後の150年間で4倍に急増し、西太后が生まれる1835年の直前に4億人になった。
当時、人類の3人に1人は清朝人だった。
人口爆発の結果、1人あたりの農地面積は激減し、社会は困窮化し、官僚機構だけが肥大し、清朝の国力は衰えた。

鬼頭宏「「歴史人口学」からみる 食と人口の関係」によると、食料と人口の関係は日本でも同じです。

人口は農業技術の発達などにより増えるが、その一方で、人口増加による食料不足、社会の困窮、気象条件、干ばつ、飢饉、疫病などで減ることもあり、増減をくり返しながら、次第に増えていった。

食料生産の増加により、弥生時代の59万人から、奈良時代~鎌倉時代にかけて10倍以上の600万人から700万人くらいに増加する。
鎌倉時代から江戸時代に入る頃までの人口動向は資料がなくわからないが、15世紀の人口は1000万人と推定されている。

戦国期に1200万人になり、江戸中期に人口を3000万人に増える。
18世紀の人口は停滞期となり、最も多かった時に3200万~3300万人だった人口が、18世紀末には3000万人を切った。

18世紀の人口減退からの回復は18世紀末から始まって、19世紀に入るとほぼ順調に進む。
凶作や疫病がない状態が続いて出生率も高まり、農村の産業発展によって生活に余裕が生まれ、その需要増加が経済成長を促した。
明治維新以降は人口が急上昇し、1872年に人口は3481万人、1900年には4385万人になる。
https://www.yakult.co.jp/healthist/243/img/pdf/p02_07.pdf

国立社会保障・人口問題研究所HPに、世界と日本の人口の推移と推計があります。
世界の人口です。

紀元前7000~6000年 500万~1000万人
西暦0年 2~4億人
1650年 4億7000万~5億4500人
1800年 8億1300万~11億2500万人
1900年 15億5000万~17億6200万人 
https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2022.asp?fname=T01-09.htm

世界の人口は80億人弱。
地球全体での食料の最大供給量はどれくらいなのでしょうか。
いささか心配になってきます。

コメント
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