三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』

2020年03月05日 | 

『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』はジョン・ディクスン・カー(1906年~1977年)の評伝。
出版部数、印税、収入なども書かれています。

処女作の『夜歩く』は1929年に、300ドル(現在の4550ドル)の前払い金と次の二作をハーパー社から出すという条件で契約を結んだ。

1930年、カーは1年に2冊の作品をハーパー社のために書き、ハーパー社は印税を毎月100ドル(現在の1555ドル))支払うことになった。

1933年の『弓弦城殺人事件』は出版後一か月で重版され、およそ4500部が販売された。
『盲目の理髪師』はイギリスでは、出版後およそ一か月で約1500冊売れ、アメリカでは出版後六か月間で2715冊売れたが、期待はずれだった。

1935年7月、カーはハーパー社と、1936年の秋から1年間に2冊の本を出版するという契約を結び、毎月291ドル(現在の5500ドル)の収入を保証されることになった。

1936年5月、モロー社はカーが年に2刷の本を書くと約束したら、モロー社とハイネマン社の両方から毎月50ポンド、あるいは250ドル(現在の4680ドル)以上の金額を支払うと申し出た。
ハーパー社との契約を合わせれば、毎月500ドルから600ドル(現在の11230ドル)になり、大恐慌の時代としてはかなりの収入になった。

1935年、『火刑法廷』をジョン・ディクスン・カーの名前で出せば、イギリスで約千冊の予約注文を保証できるが、別の筆名で出すと、新人作家の作品となると約400冊くらいしか期待できないと指摘される。

1935年、『デヴィル・キンズミア』のアメリカでの販売部数は、出版後2か月が経過した時点で566部、『盲目の理髪師』は同様の期間で2715部だった。

アメリカで千部売れたとしても、カーの手もとに入る印税は200ドル(現在の3780ドル)にすぎない(ということは、1冊あたり50セントの印税)。
1937年に出版予定の『火刑法廷』は1937年中に印税を550ドル(現在の9936ドル)もたらすと見積もった。
定価2ドル(現在の36ドル)で2750部の売り上げを見込んでいる。

同じ年、歴史物の『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』は価格が2.5ドル、200ドルの印税をもたらすと考えた。
翌年以降の数字を加えても、『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』は2400部どまりと予想された。
カーの探偵小説は歴史物の3倍以上売れたということである。

カーの本名での収入はアメリカが3分の2、イギリスが3分の1。
1940年代は25セントのペイパーバックが花盛りになり、十万部以上が印刷されることもしばしばだった。
1940年から1943年にかけてカーの著書15冊がアメリカのペイパーバックになった。

1942年、『皇帝のかぎ煙草入れ』は好調な売れ行きを見せ、定価2ドル(現在の31ドル)の本が1か月で6405部売れ、1943年末までに総販売部数はほぼ9千部に達した。
1944年6月、再版の権利を買った出版社は定価1ドル(現在の14ドル)で5千部を印刷し、9月にはハードカバーの廉価版が定価49セントで2万部、ペイパーバックが定価25セントで15万部印刷された。
『死が二人をわかつまで』は1944年8月の出版から1944年末までに12829部売れた。

思ったのは、1930年代のカーの作品はあまり売れていないということ。
初版の発行部数は少なくても3千部だと聞いたことがあります。
ウィキペディアによると、1930年代のイギリスの人口は約4千7百万人。アメリカは1億2千万人から1億3千万人で、現在の日本と同じくらいです。
なのに、ハードカバーの本が現在の3千円以上と高いことはあるにしても、カーの小説はせいぜい数千冊程度しか売れていません。

カーに比べて、フィッツジェラルドは驚くほど原稿料が高いし、本も売れています。
1934年の『夜はやさし』は1万5000部です。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/fa52031ff8a4e1d3f2b01a8144e21d9e
そのころのアメリカでは、探偵小説よりも純文学のほうが人気があったんでしょうか。

コメント
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