『生きて帰ってきた男』は、小熊英二氏が父親の小熊謙二氏に聞き取りした伝記ですが、すこぶるおもしろい。
昭和・平成の社会史、生活史でもあります。
小熊謙二は1925年、北海道常呂町佐呂間生まれ。1932年、母親が亡くなり、東京に住む母方の祖父母に育てられる。
祖父は高円寺で菓子屋を営んでいた。
食事は米と漬け物が中心で、魚は3日に一度くらい食べた。
「水道はあるし、佐呂間より食生活はいいように感じた」
小熊家は佐呂間では上の階層に位置していたが、それでも生活程度がよいと感じさせるほど、都市と農村の格差は大きかった。
謙二の兄は中野の公設市場で天ぷら屋を営んでいたが、兄が結核で20歳で死ぬと、祖父が天ぷら屋を引き継いだ。
野菜天ぷらが1個1銭、イワシ天ぷらが1個2銭から3銭だった。
1929年の時点で、小学校員の月収は46円だったが、東京の市立中学の入学年次の学費は、直接経費だけで146円19銭だった。
1937年の中等教育への進学率は13%、旧制中学に限れば7%だった。
謙二は佐呂間に住む父親に学費を出してもらって、早実中学に入る。
1940年、燃料や材料が手に入らなくなり、祖父は天ぷら屋を廃業する。
1942年、謙二は富士通信機製造に就職、月給取りになる。
1944年、召集され、満州で敗戦、そしてシベリアに抑留される。
独ソ戦争でのソ連側の戦死者は1500万人とも2000万人ともいわれる。
ソ連の人口は、1940年の1億9597万人が、1946年には1億7390万人、約11%減った。
集団農場(コルホーズ)の男女比は、1940年が1対1だったのが、1945年には1対27となった。
日本の戦歿者は約310万人、1940年の内地人口約7306万人の約4%。
1946年3月までにシベリアで死亡した日本軍捕虜は約10%とされる。
ドイツ軍の捕虜になったソ連軍将兵は約570万人、前線での虐殺や収容所での悪待遇で200万人から300万人が死亡し、死亡率は約6割といわれる。
おまけにスターリンは独ソ開戦直後の1941年8月に「捕虜になることは祖国への背信行為、裏切りであり、極刑に処される」という命令を出していたため、生きてソ連に帰った人たちは悲惨だった。
ソ連軍の捕虜になったドイツ軍将兵約330万人のうち、死亡者は約100万人。
日本軍の捕虜になった英米軍捕虜の死亡率は約27%。
ちなみに泰緬鉄道建設による連合軍捕虜の死者は1万2619人、死亡率は約20%。
マレーシア、インドネシア、タイ、ビルマのロームシャは約7万4000人が死んでいて、死亡率は37%。
日本軍も1万2000人のうち、1000人が死亡。
「ソ連軍は日本軍よりましだと思った。ソ連軍は、任務を離れたプライベートな関係のときは、将校と兵士が気楽に話しあっている。メーデーなどの休日には、収容所に家族を連れてきて、一緒にダンスをしたりする。上官は暴力をふるわないし、理由がちゃんとあれば兵士が抗弁することもできる」
1946年12月、謙二は数人の捕虜仲間とロシア人の民家に泊まった。
戦争未亡人らしい女性と子ども2人だけで暮らしていたが、着のみ着のままで、家具がなく、暖炉だけはあったが、あとは炊事用の鍋と食器くらいで、土間の部屋には寝台もなく、寝るときに外套をはおって横になっていた。
「戦前戦後を通じて、日本でこんな生活を見たことがない」
こうした状況のために、捕虜に供給された物資が、ロシア人たちによって横流しされた。
ソ連内務省の予算収支によると、捕虜労働による収益が収容所の維持管理費に見合わず、1946年度には3300万ルーブルの赤字を連邦予算から補填した。
日本でも、朝鮮統治は赤字だったともいわれる。
1948年8月に日本に帰り、父親の住む新潟に行く。
ここまでで約半分、なんとも波瀾万丈の人生です。
戦後も住まいや仕事を何度も変え、結核にかかって1951年から1956年まで結核療養所に入っています。
立川のスポーツ品店に勤めて、ようやく生活は安定します。
2013年に聞き取りをしたそうですが、88歳のお父さんの記憶力のよさには驚きます。