東京オリンピックのエンブレム(なんで英語なのか)盗作疑惑、そしてサントリーのトートバッグのデザイン模倣、この騒ぎはなかなかおもしろい。
たまたま読んでいたA・S・バイアット『抱擁』に、こんなことが書かれて、うーむと考えてしまいました。
そういえばシドニイ・シェルドン『鏡の中の他人』にも、笑いについて同じことが書かれてあったと思い、調べてみましたら、コメディ作家がこんなことを言ってます。
まったくの独創的作品を生み出す、まして大量にとなると不可能かもしれません。
寺山修司の短歌はほとんどが盗作だという話を思い出し、ネットで調べました。
寺山「莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優」
中村草田男「蜀の火を莨火としつチエホフ忌」
寺山「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
冨澤赤黄男「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」
他にもたくさんあります。
寺山修司の短歌は模倣、焼き直しという批判があったが、現在は問題とはされていないとのことです。
短歌には「本歌取り」といって、他人の作品の一部を使って自分の歌を作ることがされています。
ネットで「本歌取り」の意味を調べますと、このように説明されてます。
転じて、現代でも絵画や音楽などの芸術作品で、オリジナル作品へのリスペクトから、意識的にそのモチーフを取り入れたものをこう呼ぶ。オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかにし、その上で独自の趣向をこらしている点が、単なるコピー(パクリ)とは異なる。
岡嶋二人『あした天気にしておくれ』はメイントリックに先例があるからというので、江戸川乱歩賞に落選しました。
このように岡嶋二人氏は説明していますが、もっともだと思います。
斬新なトリックを考えだすのは困難なわけで、前例のあるトリックであっても、模倣、借用、引用、下敷き、参照、応用によって、どういう作品を作り出すかだと思います。
佐藤研二郎氏のデザインは、本歌取りか、それともパクリなのか。
佐野研二郎氏は「第三者のものと思われるデザインをトレースし、そのまま使用するということ 自体が、デザイナーとして決してあってはならないことです」と非を認めていますから、盗作なのでしょう。
それでも佐藤研二郎氏が「○○氏の作品にインスパイアされた」などと弁明したら許されたのだろうか、と考えてしまいます。
どれが独自の趣向で、どこからが盗作、剽窃なのか、その判断は難しいように思いました。
この騒ぎでもう一つおもしろいのが、佐野研二郎氏の妻の「確かにトートバッグのデザインを監修したのは佐野です。しかし、細かい実務を担っていたのは何人かの“部下”です」と、部下の責任にしていること。
リクルート事件(未公開株の収賄)での高石邦男文部事務次官の「妻が株をもらった。私は知らない」という言い訳を思い出しました。
高石邦男氏は衆議院選挙に自民党公認で立候補する予定が、公認からはずされ、無所属で出馬したもののあえなく落選。
高石邦男氏は事務次官時代に日の丸・君が代教育を強制した愛国心あふれる人です。
「戦争に行きたくないのは利己的」の武藤貴也議員、国会議員枠の未公開株が買えると23人から約4200万円を集めたが、株の購入ができず、約700万円が返済されていないそうです。
国会議員枠の未公開株なんてものが実際にあるとしたら、これは大問題です。
それはともかく、サミュエル・ジョンソンの「愛国心はならず者の最後の隠れ家」という名言がふさわしい方たちです。
それと佐藤研二郎氏の「部下が」ということ、日本は誰も責任を取らない仕組みになっているということがこういうところにも表れていると思いました。
たとえばBC級戦犯です。
捕虜の虐待、民間人の虐殺などは上官の命令に従ったわけですが、では誰が責任を負うべきなのか。
しかし私にしても、森永ヒ素ミルク中毒事件での実刑判決はかわいそうだ、この人だけの責任ではないのにと思いました。
盗作疑惑がどのように終結するか、楽しみです。
(追記)
エンブレム(こんな言葉は使いたくありませんが)の使用中止となりました。
新国立競技場も白紙撤回です。
この責任を誰が取るのか、これまた楽しみです。
いつものように曖昧に終わるのでしょうか。