『ミリンダ王の問い』で、ミリンダ王がナーガセーナに釈尊は死刑を是認していたかどうかを問答しています。
「尊者ナーガセーナよ、また尊き師は、次の〈詩句〉を説かれました。
「この世において、他人を害するなかれ。他人を喜ばし、親切なれ」
しかるにまた、「折伏すべき者は折伏に値いし、摂受すべき者は摂受に値いす」と言われました。
尊者ナーガセーナよ、折伏とは、手を切り、足を切り、なぐり、しばり、拷問にかけ、死刑に処し、生命の存続を断つことです。〈したがって〉この言葉は、尊き師にふさわしくなく、また、尊き師は、この言葉を口にするにふさわしくありません」(略)
「大王よ、盗賊は折伏者によって、このように折伏されるべきです。呵責すべき者を呵責し、処罰すべき者を罰し、追放すべき者を追放し、縛るべき者を縛り、死刑に処すべき者を死刑にするのです」
「尊者ナーガセーナよ、しからば、盗賊を死刑にするということは、もろもろの如来によって是認されましたか?」
「大王よ、そうではありません」
「しからば、なぜ、もろもろの如来は、盗賊が教誡されるべきものであると是認されたのですか?」
「大王よ、およそ、死刑に処せられる者は、もろもろの如来の是認によって、死刑に処せられるのではありません。みずからのなした行ないによって、死刑に処せられるのです。大王よ、しかしながら、思慮ある人が〈ブッダにより〉真理の教誡をうけていながら、しかも、罪なく過(とが)なき通行者を捕えて、殺すことができるでありましょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、それはなぜですか?」
「尊者よ、〈その通行者には何ら〉罪がないからです」
「大王よ、それと同時に、盗賊はもろもろの如来の是認によって、殺されるのではなくして、みずからのなした行ないによって、かれは殺されるのです。これについて、教誡者が何かあやまちを犯すでしょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、しからば、もろもろの如来の是認は正しい教誡です」
『ミリンダ王の問い』の折伏と摂受の注です。
折伏一辺倒云々は某団体への批判でしょう。
それはともかく、折伏とは死刑・身体刑・拷問の意味だとする経典があったのか疑問です。
ナーガセーナは苦を列挙する中で、裏切り者に科せられる拷問の種類をあげています。
粥壺の刑(頭蓋を割って、沸騰した粥を流し込む)も苦しみである。
貝剃の刑(磨いた貝のように、砂利で頭皮をこする)も苦しみである。
ラーフの口の刑(口を鉄針で開き、そのなかに油を注いで、火を点ずる)も苦しみである。
光環の刑(全身を油布でまいて火をつける)も苦しみである。
光明の手の刑(手を油布でまいて火とつける)も苦しみである。
蛇の皮剥ぎの刑(首から膝にかけて皮膚を細長く剥ぎ、足のまわりにたらす)も苦しみである。
皮剥ぎ衣の刑(細布のように、剥いだ皮膚をそれぞれ毛髪で結び、ヴェールをかぶったようにする)も苦しみである。
かもしかの刑(膝と肘とをいっしょにしばり、鉄板の上にかがませて、下から火をつける)も苦しみである。
肉鉤の刑(肉鉤でつりあげられる)も苦しみである。
カハーバナ貨の刑(カハーバナ銅貨の大きさに、身体を寸断する)も苦しみである。
灰汁裂きの刑(刃物で身体を傷つけ、灰汁を注ぐ)も苦しみである。棒廻転の刑(両耳の孔を鉄棒で刺し通して、大地にころがす)も苦しみである。
藁ぶとんの刑(骨をつぶすほどたたいて、身体を藁ぶとんのようにする)も苦しみである。
熱した油をそそがれるのも苦しみである。
犬どもに喰われるのも苦しみである。
生きているまま串刺しにされるのも苦しみである。
刀で首を切られるのも苦しみである。
注に「インドの諸王のある者たちが、極端に残忍であったことは疑いなく正しいが、これら一連の刑罰名が、一般に知られていたものとは考えられない。おそらく、拷問が特別視されたとき、機械的につくり出されたものもあったであろう」とあります。
ミリンダ王はこうした拷問や死刑を釈尊が認めたかどうかと尋ねているわけです。
ところが、ナーガセーナはそれには答えず、死刑になるのは業の報いであり、釈尊の是認とは関係ないと言うばかりです。
死刑になるのは自ら作った行為(業)の報いではなく、死刑制度があるからです。
死刑制度がなければ死刑になることはありません。
ですから、死刑は政治の問題です。
ところが、ナーガセーナは政治の問題を業の問題にすり替えています。
戒律の一番目を不殺生戒とした釈尊が死刑や残虐な身体刑、拷問を認めたとは思えません。