https://blog.hatena.ne.jp/yumede-ai
【はてなブログ】の私のURL
(==> こちらにクリックして頂ければ、幸いです)
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
過ぎし4月14日、私が加入している【goo blog】が、
11月18日でサービス終了を知ったりした。
私はある民間会社に2004年10月に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたりした。
まもなく偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、
経済、社会、文芸などのあらゆる分野まで表現できる世界である。
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた。
この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、
記事を投書できる範囲であり、そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、
政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより
手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から7423日が過ぎている。
この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸20年が過ぎて、早や21年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
日に少なくとも一通は投稿してきた。
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの
生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)として残したいからであった。
そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
こうした中で、60代の投稿文の内容は、
やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。
そして70代になると、自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは12年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように
試行錯誤をしたりしている。
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
ここ10数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになり、
数多くの御方にお読み下さり、私がブログが継続できたこともあり、
偏(ひとえ)に感謝の一言です。
こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ15年ぐらい殆どの方が、心ある写真を添付されたりしてきた。
そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、
散文のような文章だけでの表現は、時流に残されてしまうかしら、
と私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、
散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。
過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、
我ながら独り微苦笑したりしている。
こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と御教示され、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。
或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。
何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。
このような長らく【goo blog】を活用させて頂いたが、
やむなく私は【はてなブログ】に移行する準備、移動、見習いの併行してきたが、
名残欲しく本日で、【goo blog】に別れを告げて、
明日より【はてなブログ】に移行します。
【goo blog】のブログ上で、多くの御方にめぐり逢え、
心の宝物と私は思いながらも、【はてなブログ】に於いても、
引き続き、御交流をお願い致したく・・・。
https://blog.hatena.ne.jp/yumede-ai
【はてなブログ】の私のURL
(==> こちらにクリックして頂ければ、幸いです)
そして新たな【はてなブログ】に於いては、読者、コメント、ブックマーク、スター、
写真の保存など、理解できない面があり、不慣れな園児のような状態ですが、
よろしくご指導の程をお願い致します。
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
こうした中で、昼下がりのひととき、私は煎茶を飲みながら、
ぼんやりと10年前の70歳の頃は、
どのような思いで過ごしているのかしら、と思ったりした・・。
そして私は、自身のブログを開いて、
まもなく2015年3月5日に於いて、
『70歳になっても、敗残者のような私でも、人生最良の時期と感じ深めて・・。』、
と題して、投稿した文を読み返したりした。
映画の世界では、リバイバル上映があるが、準拠して、
再公開させて頂く。
☆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-☆
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、
2004年(平成16年)の秋に定年退職し、年金生活を始めたひとりである。
こうした中で、最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。
そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、
自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、
出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。
或いは私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
そして私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、
つたない言動も多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
そして私たち夫婦は、子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。
やがて厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、
と願いながら年金生活を開始した。
年金生活を始めた当初、私は平素の買物に関しては、
自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして私は独りで、殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、
専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
その後も、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
こうした根底には、定年前の私は数多くの人たちと同様に多忙なサラリーマン時代であり、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたのである。
私は定年後した直後として、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。
そして少なくとも家内は、年金生活の今でも料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
私たち夫婦は、幸運にも大病することなく今日に至っているが、
やはり歯の老化だけは避けられず、
それぞれ幾たびか歯科医院で治療を受けたりしてきた。
こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
ひたすら歩くことが多くなっている。
私の日常の午後の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
そして定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。
雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は、特集に魅せられた時は買い求めたりしている。
ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。
或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚から
CD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。
そして私たちは、意欲と体力のあるうちに行きたい所があれば、
という思いで国内の各地を遊学してきた。
こうした中で、私たちは観光ホテルなどに滞在して、
周辺の山里、遊歩道、街並みの中をひたすら歩き、
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
たまたま定年後にブログの世界を知り、パソコンの故障、国内旅行で自宅を不在した以外は、
10年過ぎた今でも、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情は、脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、
とお互いに確認し合っている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、
私は苦笑したりしているのが、我が家の実態である。
こうした年金生活を私の60代の10年間を過ごし、
つたない私の長い人生の航路の中、何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
私は昨年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
総務省の公表に寄れば、日本の70歳以上の方は2383万人で、
総人口の19%近くの長寿社会を迎えている今日、
古来稀(まれ)なり・・は死語だよねぇ、と微苦笑を重ねたりした。、
しかしながら70代となれば、殆ど方は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。
このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、
どのように過ごせるか、と思案したりしてきた。
私は何かとプラス思考の単細胞であるので、
年金が減少、医療費の高騰、諸物価は不安定、何かと将来に不安となる中で、
ひとすら歩き、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命を保つことが肝要、
と思ったりしている。
そして私の父は42歳の若さで病死され、母は77歳の『喜寿』の祝いの後、病死されたが、
私は秘かに男性の健康平均寿命の71歳を超え、やがて男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、と念願したりしている。
もとより、こうしたことは自助努力も必要であるが、天上の神々の采配に寄ることであり、
定年退職するまで敗残者のような半生を歩んきた為か、
先苦後楽の人生航路と感じている私に、果たして・・と微苦笑したりしてきた。
そして70歳以降の人生は、体力の衰え実感させられる中、
『生きがい』、『気力』あるいは『意欲』があれば、晩年期は、その人なりに充実した人生になる、
と思いながら、微笑んだりしてきた。
しかしながら私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、
痛いほど理解させられたりしてきた。
或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。
やがて私は70代以上の方で自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った70代以上の方は、
選ばれた方かしら、と思いを重ねたりしている。
我が家は無念ながら金庫がなく、新築した36年前より、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、私たち夫婦は重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。
そして年金生活を始めてからは、どちらかがボケたり、死去することも恐れ、
銀行、郵便局で100万円の出し入れをする時は、お互いに確認したりしてきた。
或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
或いは年に4回ぐらいは、都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
体力の衰えた高齢者の私でも、一家の主(あるじ)の責務と確信を深めて、
家内のボディーガード兼お供、そして荷物持ちで、共に出かけたりしてきた。
こうした中で、我が家はふたりで一人前だよねぇ、と私は家内に言ったりしている。
このように私たち夫婦は、ささやかながら安楽な年金生活を続けている今、
いずれは私か家内か大病となり、やがてどちらかが『おひとりさま』となるので、
私たち夫婦としては、今が人生最良の時期かしら、と思ったりしている。
しかしながらこればかりは、天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。
☆ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-☆
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農業をしていた。
こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあったりした。
母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸がふたつがある農家であった。
母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は、周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。
託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、
幼児を預かる程度の施設が実態であり、お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、
ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は、若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すれば、白黒の(モノクロ)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。
私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。
私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。
この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのであった。
私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。
そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。
店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)に満たし、その後は一升瓶に移したりした。
この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事のある場合は、何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。
この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。
『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。
そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。
昨今、私はスーパーで買物をしている時、
丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
このような思いがあるが、多くの御方に支えられて、
私は今日に至っている、ときおり思い馳せることがあり、
空に向かって感謝している。
私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。
こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。
過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。
そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。
しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、経済、社会、文化などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。
この少し前の時代は、各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、経済、社会、文化などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後は、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から7420日が過ぎている。
この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸20年が過ぎて、早や21年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、
日に少なくとも一通は投稿してきた。
こうした根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの
生きてきた心の軌跡を発露して、自己表現のひとつとして、
心の証(あかし)として残したいからであった。
そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
こうした中で、60代の投稿文の内容は、
やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。
そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは10数年前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、
真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
文章修業が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤する時もある。
こうした中で、私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
ここ10数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになり、
数多くの御方にお読み下さり、私がブログが継続できたこともあり、
偏(ひとえ)に感謝の一言です。
こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ16年近く殆どの御方が、心ある写真を添付されたりしてきた。
そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまうかしら、と私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、
散文を綴りながら、危惧してきたのが本音でもあった。
過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら微苦笑したりしている。
こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。
或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。
何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方にブログの上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。
この間、私はブログ・ランキングに加入したりした・・。
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、
私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
確か加入数150万人ぐらいで、この当時の私は写真を添付する技量もなく、
ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。
そして私のサイトは訪問者数は、長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
まるで海岸の広い砂浜にある一粒の砂粒のような存在であった。
このように私は、やがて埋もれてしまうか、海に押し流されて消えてしまうか、
誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、
加入することとした。
そしてブログ・ランキングのサイトも、幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。
その後、2010年〈平成22年〉の秋に、
やはりブログ・ランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。
やがて投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安できるので、ふたたび本加入させて頂いた。
そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
まもなく世代のよしみに甘えて、シニア日記系『60歳代』に移行した。
やがて古希と称される70歳となり、『70歳代』に移行し、
昨年の9月に80歳となり、『80歳代』となったりした。
もとよりシニア日記系としては『50歳代』、『60歳代』、『70歳代』、
或いは『男性シニア』、『女性シニア』等が圧倒的に加入者数は多く、
たまたま80歳代の私は、加入している御方が少ない為か、
恥ずかしながら私は、昨年より1位となっている。
そして私は、『80歳代』は、殆ど毎日のように投稿していれば、
加入している御方が少ない為か、上位になるよなぁ・・、
と微苦笑したりしている。
しかしながら『70歳代』の時は、私のサイトは訪問者数は、
長らく日々1000人前後が多かったが、
『80歳代』になると、訪問者数は700人前後となり、
読んで下さる御方は、減ってしまった・・、と微苦笑したりしている。
このようなことを私は学んだりした。
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
恥ずかしながら、この時節に咲く芍薬(シャクヤク)は、
殆ど見ないできた・・。
私の幼年期は、農家の児として育てられて、
初春の頃には、梅の花、その後は桃の花、やがて桜の花、
この間に福寿草や水仙の花・・このような移ろいを見て、育ったりした・・。
この後は、公園、旅先で多彩な優雅な牡丹(ボタン)の花に魅了されて、
何かの書物で『立てば芍薬(シャクヤク)、座れば牡丹(ボタン)』と学んだが、
芍薬(シャクヤク)の花も見過ごして殆ど見ることなく、過ごしてきた・・。
たまたま私の住む市内にある都立の『神代植物公園』で、
週に一度ぐらい散策代わりに、歩き廻って、
まもなくベンチに座っていた時、前方の花を見ていた時、
高貴な色合い、形も優雅で、30秒ぐらい見惚れたりした・・。
まもなく近づくと、芍薬(シャクヤク)の一種と知り、
『これが芍薬(シャクヤク)かょ・・』、
と私は心の中で、呟(つぶや)いたりした。
恥ずかしながら、確か2週間前で、これ以来、
この公園の片隅に『ぼたん・しゃくやく園』あるが、
私は寄ったりしている・・。
こうした中で、齢ばかり重ねた私は、
と赤面しながら
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
市内にある都立の『神代植物公園』に於いて、
数多くの薔薇(バラ)が披露される恒例の『バラフェスタ 』が、
春のひととき、そして秋のひととき、毎年開催されている・・。
今年の『春のバラフェスタ 』は5月3日より6月1日まで開催される。
開催中は、百花繚乱のように多彩なバラの花が彩(いろどっているが、
毎年人出の多い中、ゆっくりと鑑賞が出来ないと思われる上、
バラに疎(うと)い私でも、開催される前の4月29日、
この後、開催された初日の5月3日、そして5日も、
散策代わりに訪れてきた・・。
本日も散策代わりに、『神代植物公園』に訪ねたりした・・。
今回の多彩なバラの花は、百花繚乱であったが、
いつも感じることは、それぞれのバラの開花の状況などは、
天候の気温などに左右されるので、関係スタッフの手入れも大変だなぁ・・、
と私は思ったりした・。
こうした中で、日曜日の為か、御年配の御方、家族連れのシニア世代、
幼児を伴った若きママ、女性グールプなど、多くが訪れていた・・。
こうした中で、写真の愛好の御方も、盛んに撮られていた。
そして私も、バラに不慣れな私でも、つたない感性を頼りに撮ったりした・・。
こうした中、ここ5年前の頃より、スマホで撮られる御方も多くみられ、
ときおり私は微苦笑する時がある。
私は魅せられたバラを撮ろうと、
カメラのファインダー越しに構図を数秒以内で決めていると、
スマホを持った御方が私の前に現れて、私は苦笑したりしている。
10年前の頃は、カメラのファインダー越しに構えている場合は、
私は少なくとも邪魔をしないように、その手前で静止して、
お互いの暗黙のエチケットがあったりした。
スマホが普及している今、バラを撮る場合は、
スマホを近づけて撮る御方が多く、後方でカメラを構えている人を
無視している御方が多く、私は苦笑したりしている。
今回、私は10数枚撮った後、後日の平日の午前中に撮れば良い、
と思いながら、バラ園を去ったりした・・。
そして私は、四季折々が明晰に変貌する雑木林を歩いたりした。
やがて私は、『深大寺門』より『神代植物公園』を辞して、
帰路に向かったりした。
私たちは子供に恵まれず、二人だけの家庭で、ささやかに過ごしている。
厚生労働省は24日、健康上の問題がなく日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」が、
2022年は、男性72.57歳、女性75.45歳だったとする推計値を発表した。
前回19年調査と比べ、男性は0.11歳短く、女性は0.07歳長かった。
平均寿命は、男性81.05歳、女性87.09歳。
平均寿命から健康寿命を差し引いた日常生活に支障がある期間は、
男性8.49年、女性11.63年で、
2019年と比べて男性は0.24年、女性は0.43年短くなった。
初調査の10年以降、縮小傾向が続いている。
もとより健康であれば、人それぞれのささやかな願いが叶えることもできるので、
80歳の私は改めて学び、微笑み返しをしてしまった・・。
そして私は健康寿命と平均寿命の悩ましい期間を限りなく少なくして、
介護される期間を短くしょう、と私は願っているひとりである・・。
私は殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩いたりし、
熱い夏も、何とか熱中症対策をしてを乗り越えてきた・・。
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
こうした中で、本日の8日、家内が通院している都立の総合病院に、
私はボディ・ガード兼お供で同行した・・。
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
午前中のひととき、スーパーに買い物を行った時、
野菜売り場で、筍(たけのこ)を見かけたりした。
我が家より近くに私の生家があり、私の兄宅が住み、
10数年前の頃までは、庭の片隅に5坪前後の孟宗竹があり、
この時節、筍(たけのこ)が育ち、私は頂いたりしていた・・。
☆この当時、玄関内で記念写真ねぇ、と戯(たわむ)れに撮ったりした ☆
今や兄宅の庭の片隅にあった5坪前後の孟宗竹も消え去り、
やむなく筍(たけのこ)を食べたいときは、
スーパーなどで買い求めている・・。
ぼんやり久々に、この筍(たけのこ)の写真を見ていると、
遠い昔の70年前の頃に生家にあった竹林に思い馳せたりした・・。
私は農家の三男坊として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の9月下旬であった。
やがて地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、
耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには土蔵、物置小屋と称した納戸がふたつある農家であった。
そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の中旬過ぎの頃になると、祖父と父は、
殆ど毎日のように筍(たけのこ)を掘り出して、
やがて父は数週間ぐらい期間は、青果市場に出荷していた。
秋になると、祖父と父は地表に竹の根が出そうになったのを
最低50センチぐらい堀り起こし、枯れた竹の葉、肥料を施(ほどこ)して、
地中に埋めたりしていた・・。
こうした中、次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、
父によく怒られたりした。
春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。
そして4月の中旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、
筍(たけのこ)を掘り出すためであった。
この微かな地割れを専用のスコップで、60センチぐらい堀り、
やがて大きな筍(たけのこ)を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、
商品価値が激減するのであった。
地上から5センチ以上芽がだした筍(たけのこ)は、
皮は黒ずみ、身が固くなるので、子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
そして地中にあった良質の筍(たけのこ)は、青果市場に出荷していた。
まもなく竹林に残した筍(たけのこ)は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも日増しに成長するのを眺めたりして、歓び心を躍らせていた・・。
夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。
秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで、
多くの家で使われていた時代であった。
その後、1953年〈昭和28年)の春に父は病死し、
翌年に祖父も他界した。
そして父と祖父は大黒柱だったので、農家のノウハウを失くした生家は
衰退していった。
やがて私の生家、周辺の農家も、この後は東京のベットタウンに急速に変貌し、
住宅街となり、もとより田畑は消え去り、そして雑木林、竹林も無くなっていった・・。
この間、私が小学生の4年生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に大きな邸宅があった。
傾斜には、竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。
そして私は近所の父親の知人より、小説家が引っ越してきた、と私は聞いたりして、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた・・。
『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ・・』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。
後年、私が高校生に入学してまもない時、最寄駅に近い本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明記されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。
私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍(たけのこ)の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。
私の生家では、少なくとも30センチの高さ、
根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍(たけのこ)かょ、と感じたりした。
このような思いがあり、地方の御方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。
この後、確か2006年(平成16年)の5月に、
購読している読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事が掲載されていた。
無断ながら引用させて頂く。
《・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。
タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。
とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。
これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。
それほど盛んに栽培されたタケノコだが、関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。(略)・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。
その後、私は2009年〈平成21年〉の4月、
私たち夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。
この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。
この時は、4年前に、家内と団体観光ツアーで
この『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか2時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。
一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、『竹徑亭』に寄り、
抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、
それぞれの色合いに染められ、この時節を教示してくれた。
この後、奥にある曲水の庭の外れに、『江南竹林の碑』と明記された石碑があり、
漢文で碑文が明示されていたので、私は『仙厳園』に入園した時に頂いた解説文を読んだりした。
《・・「浄国公(21代吉貴)が琉球に江南竹(孟宗竹)のあることを聞き、
日本にはまだないので、植えたいと願って取り寄せたが2株しかもらえず、
それを仙巌園の裏山に植えた。
その後、この竹が繁殖し、藩内のみならず国内各地に移植した。
そのタケノコがおいしくて、万人に愛されている。
この竹で利益を得るものは、浄国公のおかげだから、その名をたたえよ」・・》
こうした解説文を読み、この地から日本の各地に孟宗竹が拡がり、
やがて多くの方に筍(たけのこ)を愛食されたのか、
と私は長らく孟宗竹の竹林を見つめていた・・。
10数年前の頃まで、近くに生家だった私の兄宅より、
この時節になると筍(たけのこ)を毎年頂いたりしていた・・。
兄の宅の宅地のはずれに、わずか5坪ぐらいの竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしていた。
このカラスと称した筍(たけのこ)であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、幼年期の愛惜感も増して、
この世の最上の食べ物のひとつである、と思いを深めながら頂いたりしていた。
しかしながら今や、兄宅の庭の片隅にあった5坪前後の孟宗竹も消え去り、
やむなく筍(たけのこ)を食べたいときは、
スーパーなどで買い求めている・・
そして年金生活の中、ときおり遠方に散策したりする時、
偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。
或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。
私たちは子供に恵まれず、二人だけの家庭で、ささやかに過ごしている。
こうした中、本日の午前中は雨が降り、
私は散歩を取りやめたりした。
そして家内は、『救急医療情報キット』の内容を見直ししませんか、
と私に言ったりした。
まもなく冷蔵庫に保管してある市より指定された処にある
☆調布市ホームページ==>
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした・・。
やがて『胸膜炎』(急性冠症候群)と病状とされる中、
しばらく経過観察したく・・ と入院が余儀なくされて、
結果的に8泊9日の入院となったりした、苦い体験がある。
この時に
私は意識があり、もとより
『お薬手帳』など、同乗した家内が持参したりした・・。
この後、まもなく我が家は、私と家内別に、
市から推薦されている『
たとえば後期高齢者になった私としては、
◎後期高齢医療証者
◎
◎私の病歴とかかっている病院名(市の指定用紙)
そして私は『日本尊厳死協会』に加入しているので、
末期に過剰な延命処置を防止する為、具体的な要望を表記した証書を
添付している。
このような明記された書類を我が家の冷蔵庫に、