夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

映画『二十四の瞳』(昭和29年)、私なりのささやかな思いを幾たびか重ねて・・。

2013-08-05 11:16:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜、家内と共に夕食を頂は、やがてテレビを視聴しょうとスイッチを入れたら、
ある民間会社のテレビで、ドラマ『二十四の瞳』が放映されていた・・。

私は終盤の30分ぐらいしか視(み)ていなかったのであるが、
現代の昨今から社会状況下して、あの背景となった時代を視聴者の方に思い重ねるには無理がある、
と苦笑したりした・・。

私は木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954=昭和29年)を鑑賞して、
これまで、ほぼ10年於きぐらい観賞してきたが、
改めて日本人の誰しもの素直に、心の琴線を揺り動かす突出した日本映画の史上に燦然と輝く名作である、
と確信しているひとりである。
                
私は高峰秀子、松山善三さんの随筆、或いは木下恵介・監督の証言、そして映画評論家の方たちより、
《・・第二次世界大戦の終結から7年後、1952(昭和27)年、
この戦争が女性教師と生徒たちにもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた作家・壺井 栄・著作『二十四の瞳』が発表された。

映画は、この原作同様、1928(昭和3)年から1946(昭和21)年までの18年間を描いている。

撮影は、原作発表の翌年 春にかけて行われ、その年の9月に公開された。
何よりも根幹となす、原作者、監督(兼脚本)はもとより、撮影、音楽、美術、照明などのスタッフ、
そして主演女優をはじめ、子役を除くキャスト全員が、第二次世界大戦の戦時下を生きた人々である。

言論の自由のない軍国主義を突き進んだ日本、そして、敗戦によりそこから解放された日本、
2つの時代の日本を生き、その空気感の違いを身を持って知るスタッフ・キャストたちにより制作された映画である。

撮影は、原作発表の翌年1953(昭和28)年の春から1954(昭和29)年の春にかけて行われ、
その年の9月に公開された・・》
このように学んできたひとりである。
                              
この後、私はぼんやりとこの『二十四の瞳』を初めて観賞した頃に思いを馳せたりした。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。

幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。

この間、私が小学2年の三学期の1953(昭和28)年の3月に父が病死し、
翌年の1954=昭和29年の5月に祖父も他界され、生家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

こうした困窮した生家の生活の中で、私は母に懇願して独りで映画館に通ったのは、
確か私は4年生の頃で、東映の『笛吹童子』、『里見八犬伝』等の娯楽映画を満喫していた。

この当時、我が家の最寄駅は、京王腺のつつじヶ丘駅(当時は、金子駅)であり、
児童の私としては、15分の道のりで、通学していた滝坂小学校は駅に近くあった。

この当時の映画館は、大映撮影所に近い調布駅の繁華街に『調布銀映』、
日活撮影所の最寄駅だった布田駅には『調布映画劇場』、
その後、都心のベットタウンに変貌し始めた千歳烏山駅には、『千歳映画劇場』が新築されたりした。


このような時代の背景の中で、確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
布田駅にある『調布映画劇場』で『二十四の瞳』を観賞した・・。
              
私は同級生と座席に座り、たまたま女の同級生と並んだのである。

『二十四の瞳』の児童のひとりの女の子、松ちゃんが困苦した家庭の中で、
百合の花の絵柄のついたアルマイトのお弁当箱が欲しい、と母親に懇願するシーンで、
隣席の同級生が泣き出し、俺も泣かないとまずいかなぁ、と思ったりした。

私は観賞しながら、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして私が涙を浮かべたのは、この松ちゃんが奉公に出され後、
同級生だった人たちが、ほぼ全員揃って修学旅行に来て、
引率してきた大石先生が、たまたま同僚の人とふたりで、
偶然に食事処で、従業員として働かされている松ちゃんと再会するシーンであった。

松ちゃんは同級生だった人たちに身を隠し、帰船する同級生を波止場で見送るシーン、
私は涙をポロポロと流れていた・・。

しかし恥ずかしながら、この当時は、ストーリーも完全に理解できなかったのである。


後年、二十歳の私は、映画青年の真似事をしていた時で、、
確か銀座の名画が上映されている映画館のひとつの『並木座』だったと記憶しているが、
この『二十四の瞳』を観賞した。

この時は、何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった・・。

そして、この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、これ以来、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の片隅が蘇(よみがえ)り、『浜辺の歌』を心の中で唄ったりしている。
          

尚、この『二十四の瞳』は、封切公開されたのは1954(昭和29)年9月14日であり、
この当時の松竹の宣伝ポスターの文面には、
《・・
美しい景色に囲まれた瀬戸内海小豆島!
          女教師と十二人の教え子が綴る涙ににじむ愛の物語!
・・》
と私は後年に知ったのである。

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