夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには『おひとりさま』の生活、ぐうだらな私でも特別演習と思いながら・・。

2013-08-17 13:38:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
          
私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
このブログのサイトに毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。
                               

こうした中で私たち夫婦は、週に一度ぐらい駅前に出かけたりして、日常の雑貨品などを買い求めたり、
年に数回はデパートに行ったりしているが、
このような時の私は、家内のボディガードそして荷物持ちのお供のような状態となっている。

こうしたありふれた私たち夫婦の年金生活に於いて、
ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と社交辞令のような言葉を頂いたりしている。

私たち夫婦は38年ばかり寝食を共にした結婚生活の中で、
お互いの欠点に目をつぶり、そして特に定年後の年金生活になると、お互いの趣味を尊重し、
それぞれの時間を『ひとりを愉しむ』時を過ごしている。

こうした私たちの根底には、こうした生活がいつまでも続けば良い、と思ったりしているが、
いずれのどちらかは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
強く思いの趣味を持てば、残された方の『おひとりさま』の生活は少しでも心がやすらぐ、と思ったりしている。
                                  

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004〈平成16〉年の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
               
家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市(旧・高田市)に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
そして83歳となっている今としては、
身体は衰えても心は溌剌として元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。
          

たまたま今回、家内は過ぎし8月13日より独り住まいとなっている家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。
そして万一、私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となる特別演習かしら、と思いながら過ごしたりしている。
               
そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
何かと主婦は大変な知恵と体力で日々の責務を果たしている、と改めて実感したりした・・。
          
愚図の私の『おひとりさま』となっている昨今、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に5分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷煎茶を飲んだりした。
朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしてきた。

昼食は冷茶、インスタントのアイスコーヒーを飲みながら、レーズンロールのパンを3つばかり食べたり、
或いは菓子パンを食べたりしてきた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
冷茶を飲みながら食べたりしてきたが、
なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。
          
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたりしている。
こうした中で、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりしているが、
現役時代の業務よりも、ただちに成果が明白なるので、水遊びを兼ねて楽しんだりしている。

この間、平素のように本を読んだり、居間でビデオ棚から映画の作品を観たり、
或いは音楽棚から聴きたいCDを取りだして聴いたり、
ときには昼寝を甘受したりしてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、もとより家内のいる平素日常生活から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。
          
こうした中、ときには愚図でクウダラな私でも、何とか過ごしているが、
年金生活の一部の男性諸氏の中で、愛妻にまとわりついて頼ってばかりいる諸氏、
ときには愛妻を解放して、お友達たちと数泊でも旅行でも行ってらしゃい、といったような言動をしないと、
残されて独り住まいとなった時、泣くのは諸氏である、このような意味合いの言葉を、
私は敬愛している作家の曽野綾子さんのご著書から学んでいる。

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『貯蓄:「ゆとりある老後」に必要な資金は、1億1856万円』に驚き、やがて苦笑して・・。

2013-08-16 12:42:52 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、パソコンを開いた。
私の場合は、トップベージには【YAHOO! JAPAN】に指定しているが、
このページには『トピックス』として主要な記事の見出しが羅列されている。

この中のひとつとして、『ゆとりある老後 必要な資金は』と見出しされていた・・。

私は年金生活を享受しているが、やはり気になり、クリックしてしまった・・。

この直後、『貯蓄:「ゆとりある老後」に必要な資金は、1億1856万円』と表題され、
年金生活を邁進している私は、今頃になって『1億1856万円』必要と教示されても、
と困苦して、戸惑ったりした。
          
そして記事の提供元は、ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』であり、
私も特集記事に魅了された時に買い求めることもあるので、信頼できる内容が多いのであるが、
私は戸惑いながら、どうして『1億1856万円』が必要なのょ、と思いながら記事を精読した・・。

ジャーナリストの山本信幸さんの寄稿文を無断ながら、長く引用させて頂く。
《・・(略)・・
定年後の生活にいくら必要か?  という質問にひと言で答えるなら「1億円」である。
大卒社員の生涯賃金の3分の1に相当するお金を、老後のために確保することなんてできるのだろうか?  

まずは老後の生活には毎月いくらかかるかという話から始めよう。
2010年度の総務省・家計調査報告によると、
夫65歳以上、妻60歳以上の高齢無職世帯の夫婦の1カ月の平均支出が26万4948円。
対する収入は22万3757円。毎月4万1191円の赤字である。

ここで注目すべきは「年金面では恵まれているリタイヤメント世代でも、
公的年金だけでは生活ができない」ところにあるとFP(ファイナンシャルプランナー)の大竹のり子氏は指摘する。
しかも「収支が赤字になる状況は、現役世代がリタイヤする頃になっても解消されないどころか、
もっと厳しい状態になる」(大竹氏)ことはほぼ確実だ。

この生活で夫婦ともに90歳まで生きると仮定して、60歳以降、年金以外に必要なお金は約3000万円だ。
ところがこの平均的な支出では、旅行やレジャー、趣味を楽しむゆとりのある生活はできないと多くの人は考えている。
          
2010年度「生活保障に関する調査」(生命保険文化センター)によれば、
夫婦で老後にゆとりある生活を送るには36万6000円の収入が欲しいという。
その場合、30年間で必要な額は約6700万円にも膨れ上がる。

とはいえリタイヤ直後の65歳と、20年後の85歳では生活の仕方も変わるはずだから、
生涯にわたって毎月36万6000円使うというわけではない。
老後のお金に詳しい経営コンサルタントの岩崎日出俊氏は、こう試算している。

60歳まで生きた男性の平均寿命は82.84歳、女性は88.37歳まで生きるという統計(2010年簡易生命表)がある。
余裕を持たせて夫87歳、妻92歳まで生きると仮定し、
最低限の生活のためには月24万円、ややゆとりある生活のためには月30万円かかるとすると、
最低限生活では1億776万円、ゆとり生活では1億1856万円確保しなければならない。

しかし年金が7274万円支給されるので「不足分は最低限生活で3502万円、ゆとり生活で4582万円になります」。
・・(略)・・》

ここまで私は読んだら、年金生活のスタート時点に4500万円あれば、ゆとり生活ができる、
と苦笑しながら安堵したりした。
          
この後の記事は、現役世代の今後の年金生活を思案している方たちの不安を解消する為に、
懇切丁寧に記載されているが、省略する。
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130815-00010268-president-nb
☆『YAHOO! JAPAN』<==『トピックス』
           <==『プレジデント 』<==2013/8/15 11:45 『貯蓄:「ゆとりある老後」に必要な資金は、1億1856万円』☆

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
          
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

こうした中で1998〈平成10〉年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
          

この間、私は55歳の時に出向を命じられた時、改めて家内と、第二の人生を話し合ったりした。
具体的には、私たちの第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事であった。

こうしたことを実現するためには、
各出版社から数多くの本が発売されていたので、私なりに買い求めた。

『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
~50代から考えておきたい~『「定年後」設計 腹づもり』(三笠書房)などを読んだりした。

そして雑誌では、 ~50代から読む「大人の生き方誌」~『ほんとうの時代』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、
そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

こうした中には、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、
予定表も作成したりした。

このようなことをしても、退職後の生活は狂いがあり、
私たち夫婦は、お互いに月次、年次の概要計画、そして実績表を作成して、確認している。


私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                          
或いは雑木の多い小庭に古ぼけたの家に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。
          
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしている。

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『全国戦没者追悼式』、無力な私でもテレビ実況中継の前で、黙祷を重ねて・・。

2013-08-15 15:34:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
平素の買物の専任者の私はスーパーで買物した後、いつもの散策も短めとした。

もとより本日は68回目の『終戦記念日』を迎え、政府主催の『全国戦没者追悼式』が、
NHKテレビ放送でも実況中継されるので、私は居間にあるテレビの前で視聴した・・。

式の当初、天皇、皇后両陛下をお迎えしている時、私もソファの椅子から立ち上がり、
背筋を正して視聴していた・・。
そして国歌を斉唱になると、かぼそい声ながらも私は唄いだした。
          
この後、安倍首相の式辞を拝聴した・・。

《・・天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表多数のご列席を得て、
全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。

祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、
政府を代表し、式辞を申し述べます。

いとしいわが子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命をささげられた、
あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。
そのことを、片時たりとも忘れません。

御霊を悼んで平和を祈り、感謝をささげるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、
しばし瞑目(めいもく)し、静かにこうべを垂れたいと思います。

戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道をまい進してまいりました。

きょうよりもあす、世界をより良い場に変えるため、
戦後間もない頃から、各国・各地域に、支援の手を差し伸べてまいりました。

内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、幾たびか、互いに助け合い、乗り越えて、今日に至りました。

私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り開いてまいります。
世界の恒久平和に、あたう限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。

終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまには、ご健勝をお祈りし、式辞といたします。・・》

私は久々に、首相として相応しい式辞のお言葉を発露された、と感じたりした。

この後、正午の時報に合わせて黙祷の時、私もテレビの前で、襟を正して黙祷をしたりした。

そして天皇陛下のお言葉《・・戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります・・》を拝聴した。
          

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。

そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、
洗面した後、朝の6時半過ぎに玄関の軒下に下り立ち、襟を正して、皇居の方面に向かい、黙祷した・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ46年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
          

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の現実に生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。


私はここ7年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
          
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。

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『主婦がやりたくない家事ランキング』を私は学び、昭和妻の家内は微苦笑し・・。

2013-08-14 12:09:36 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、ネットでニュースを見ようと『YAHOO! JAPAN』を開いた後、
やがて『雑誌』コーナーを見ていたら、
『主婦がやりたくない家事ランキング』と題された見出しがあった。

私は何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信念のひとりであるので、
こっそりとこの記事を読んでしまった・・。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130812-00000303-dime-soci
☆『YAHOO! JAPAN』<==『雑誌』
           <==『@DIME 』<==『主婦がやりたくない家事ランキング』☆

高齢者4年生の私は読み終わった後、驚きながら、やがて長らくため息をした・・。
          
《・・やりたくない家事は何かという質問では、
1位「掃除」、2位「洗濯」、3位「食器洗い」、4位「料理」、5位「アイロン掛け」・・。

その理由を聞いたところ、
1位「面倒くさい」、2位「苦手」、3位「時間がない」・・。

自動式の家具の中で一番ほしいものはどれですか?と聞いたところ、
1位「ロボット掃除機」、2位「自動食器洗い機」、3位「自動洗濯&乾燥機」・・》

こうしたことを読み返したりすると、私たちが過ごしてきた時代と違うのかしら、と苦笑したりした。
          

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004〈平成16〉年の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
                          
このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

たまたま13日から家内は家内の母宅に泊りがけで行って、孤軍奮闘している。
そして私は『おひとりさま』の生活になっているが、
毎夜の一定時間に、本日の出来事などを家内と電話連絡をしている。

昨夜も家内と電話連絡の最後に、私は『主婦がやりたくない家事ランキング』を話題に、
数分間話したりした後、家内は微苦笑しながら、
私たちが過ごしてきた専業主婦の時代と変わったのよ、このような意味合いの言葉を言った。
          

この『主婦がやりたくない家事ランキング』の出元は、
《・・インターネットで注文できるクリーニングの宅配サービスやクラウド型トランクルームを運営するホワイトプラスに於いて、
2013年7月19日~25日の7日間、20~49歳の主婦を対象に
「家事に関する調査」をテーマとしたインターネットリサーチを実施した。・・》
こうしたことを知れば、もとより私たちの世代と違うのである。

そして私の長兄、妹の甥っ子たちの家庭も、夫婦で共稼ぎして家計が成り立っているのが大半だし、
それぞれの若き40歳前後の夫婦たちは、それぞれ善戦をよぎなくされている。
このようなことを思い馳せれば、多忙の中、主婦の立場としても、少しは自身の時間を過ごしたく、
今回のような結果になった、と私は感じたりした。
          

私の現役サラリーマンの時代は、先輩たちが高度成長の中で猛烈に業務を推進していたので、
私たちの世代も準拠して、それぞれ奮戦して、家庭の収入の責務を果たし、
妻たちは家庭を守りながら子育てし、専業主婦としての責務を果たしていた時代であった。

多くのサラリーマンの妻たちは、高度成長からバブル経済が破綻する1990〈平成2〉年頃まで、
専業主婦として家庭を維持してきたので、私は『昭和妻』と敬称したりしてきた。

我が家は無念ながら子供に恵まれなかったが、
家内は「掃除」、「洗濯」、「料理」なども主婦の勤めと信愛して、
日常の最優先として、明るくしてきてくれた。
      
年金生活を私たち夫婦が始めても、私が日常の買物の専任者となった程度で、
私たち夫婦の共通趣味の国内旅行が増えたり、週に一度ぐらいは外食をしたりする以外は、余り変わらない。
         
先週の猛暑の時などは、天気予報で明日の日中は快晴、と家内は前夜に知ると、
当日の朝2時半過ぎに起床して、洗濯をしたり、掃除をしたらしい。
そして日の出の時間に合わせて、家屋に隣接した外干しの竿に、干したりしていた、
と愚図の私は6時過ぎに、聞いたりした。

『昨今の山ガールだって・・この時節は3時半に起床して・・5時に次の行程を歩きだすのが、
夏山の標準日程なのに・・XXちゃんは早すぎるょ』
と私は若き学生時代に山歩きのクラブでテント生活をしてきた体験を含めて、
家内に言ったりしてきた。

我が家の家内は、このように早朝から奮戦して、お昼寝を30分して、
過ごすことが多くなっている。

そして雨の日は、洗濯がてきなくなり、幾分平素の覇気がなくなっている。

こうした状況を長らく見てきたので、家内も昭和妻のひとり、と私は微苦笑したりしている。

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年金の『実際の平均受給額』を学び、年金生活の私は微苦笑を重ねて、そして・・。

2013-08-13 11:45:56 | 時事【社会】
私は一昨年の2011年10月31日、このサイトに於いて、
【 年金の『実際の平均受給額』を学び、年金生活の私は微苦笑を重ねて・・。】
と題して投稿したが、
数多くの方にお読み頂き、 昨今でも殆ど毎日50名前後の方たちにお読み頂くことがあるので、
過ぎ去りしの古き投稿文に対して、少し驚きながら悦んでいる。

異例であるが、今回は再掲載し、改めてこれから不安げに年金生活を思案される方、
或いは年金生活をされる方たちにお読み頂きたく、あえて再掲載をする。

そして、この投稿文に関して、その後の私の想いも、記載する。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜に小雨が降り、今朝は雨上がりの清々しい中、陽射しが射し込む穏やかな日を迎えている。

いつものように購読している読売新聞を読んでいたら、思わずひとつの記事を精読した・・。

25面にある【社会保障】面にある一つの記事で、
『年金のきほん』の連載と思われ、第二回として明示とされ、
     《  いくら受け取れる
              モデル世帯 月23.2万円  》
と見出しされていた。

そしてイラスト付で『厚生労働省のモデル世帯の年金額』、そして『実際の平均受給額』を、
夫と妻と区分しながら、月別の概算額が表示されていたので、思わず読んでしまったのである・・。

社会情勢に疎(うと)い私でも、『厚生労働省のモデル世帯の年金額』は程ほどに認識しているが、
『実際の平均受給額』については無知であった。
          

この記事は、読売新聞の社会保障部の所属と思われる林 真奈美さんが綴られた記事であるが、
無断であるが、二十歳以上の方であれば誰でも解り易いので、あえて転記させて頂く。

《・・
日本の公的年金制度は、全国民共通の『基礎年金』は1階部分とし、
その上に会社員を対象とする厚生年金が乗る2階建ての仕組みです。

会社員は老後に、『基礎年金』と『厚生年金』の両方をもらえます。
厚生年金に加入したことのない自営業者などは、『基礎年金』だけです。


まず、『基礎年金』の金額から見ていきましょう。

国内の20歳以上60歳未満の人は、年金制度への加入が義務づけられていて、
基礎年金の受給額は、基本的に保険料を納めた期間に比例します。
40年間すべて納めた場合の満額で、年78万8900円(今年度)。
月額で約6.6万円です。

保険料の未納期間があれば減額されます。
例えば10年未納で納付期間が30年だと、満額の4分の3で月約4.9万円。
所得が低くて保険料を免除された場合も減額されますが、
未納と違い、その期間の分も年金が一部支給されます。
          

次に、2階部分の『厚生年金』を見ていきましょう。

厚生労働省は、平均的な賃金(年収560万円)で40年間働いてきた男性と、
その間ずっと専業主婦だった妻の夫婦を『モデル世帯』と位置づけています。
この場合の夫の『厚生年金』が月に約10万円です。

世帯として見ると、
夫の受給額は、『基礎年金』加わって、月に16.6万円。
妻は、『基礎年金』だけで6.6万円。
合計23.2万円となります。


ただ、現実は『モデル世帯』と異なります。
実際の受給額の状況を見ると、『基礎年金』の平均額は月5.4万円。
厚生年金受給者の平均額は、『基礎年金』を含めて月15.7万円(本人分のみ)です。

なお、公的年金の受給には、加入期間が原則として25年以上があることが要件です。
今後短縮される可能性もありますが、要件を満たさないと1円ももらえません。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行、カッコを付けた。
          

この記事の中で、イラストが付けられて、
『厚生労働省のモデル世帯の年金額』
        夫・・・『基礎年金』6.6万円、『厚生年金』10万円
        妻・・・『基礎年金』6.6万円

この下段には、『実際の平均受給額』として、
        夫・・・厚生年金受給者15.7万円(『基礎年金』含む)
        妻・・・『基礎年金』5.4万円
と月額の受給額が明記して、描かれている。

私は『厚生労働省のモデル世帯の年金額』を確認した後、
『実際の平均受給額』を見て、この人生は多事多難であり、新卒された方が長らく勤めて、
やがて定年退職時まで無事に勤めあげられる方は、100%ではないよねぇ、苦笑させられたのである。

そして私は音楽業界のリストラ烈風の中、関係取引会社で定年の五年前に出向となり、
何とか定年退職を迎えられたので、サラリーマンの悲哀は深く理解しているひとりである。
          

このように長らく執拗に転記してきた私の理由のひとつとして、
私の小学4年生の頃から映画好きな映画少年、高校生に突然に読書の底知れぬ魔力に取りつかれて、
やがて大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして、あえなく敗退し、やむなく民間会社に中途入社した。

そして35年近く勤めて、定年退職を迎え、
直後から年金生活を過ごしてきた偏屈な軌跡を歩んできたからでもある。

もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達されたエリートとは、
遥かに遠い存在であり、
中小業の音楽業界のあるレコード会社の管理、情報畑などに35年近く勤めてきたが、
中流家庭の多くの方たちが大学卒業後に程ほど民間会社に入社し、
38年勤めて定年退職を迎えるケースの人たちに、
遅ればせながら何とか追いつきたい、と私なりに奮闘し、年収なども含めて秘かな願望があった。

こうしたことが根底があったので、年金生活に入る前には、
『厚生労働省のモデル世帯の年金額』を強く意識させられたのである。
          

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活をしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、私は独りで買い物、散策をしている。
          

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。・・】
          
こうした【 年金の『実際の平均受給額』を学び、年金生活の私は微苦笑を重ねて・・。】
と題して投稿文を一昨年の2011年10月31日、このサイトに投稿していた。

今回、この原文に写真を添付した。

この投稿文に関して、年金生活をしている私の心境としては、
確かに年金の『実際の平均受給額』は重要であるが、
私は年金を始める時点に、何よりの根幹は、どれだけの貯金などがあるか、最重点とした。

このことに関しては、経済ジャーナリストの荻原博子(おぎわら・ひろこ)さんの寄稿文から、
改めて再確認をしたりした。

文藝春秋の季刊誌『SPECIAL』(2011年春号)で、
荻原博子さんの寄稿文の『投資より現金』の一節の中で、年金生活の資金の核心を述べられている。

《・・総務省の家計調査によると、65歳以上の夫と60歳以上の妻、
無職の2人の世帯で、一カ月かかるのは27万円(平成21年度の調査による)。

そこから公的年金を差し引いた金額をAとすると、
A X 12カ月 X 年数(85歳なり90歳なり、自分が生きると仮定する年齢 - 現在の年齢)。

それが、この先自分に最低限必要な額となります。

もしそれが3000万円で、退職金、企業年金、預貯金を足して4000万円あるならば、
残り1000万円は何に使ってもいいことになります。・・》
          
この荻原博子さんの寄稿文の『投資より現金』に私は激励されて。
ささやかな豊かな老後を送るにはどうすれば良いか、改めて思案させられたが、
やはり、自身なりの《生きがい》を見いだして、日々充実した生活を過ごす、と確信を深めている。

その上に、小心者の私は痴呆症は避けたく、自宅付近の路線バスの利便性に恵まれた所でも、
ひたすら歩いて、季節のうつろいを享受している。

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お盆休みの時節、私は『故郷(ふるさと)』の歌を心の中で唄い・・。

2013-08-12 12:06:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
過ぎし10の土曜日の朝、ぼんやりとNHKのテレビのニュースを視聴していたら、
《・・お盆をふるさとや行楽地で過ごす人たちの帰省ラッシュは10日がピークとなり、
   各地の高速道路は、朝早くから渋滞が始まっています。
   また新幹線と国内の空の便も午前中から混み合う見通しです。・・》
確かこのようなことを麗(うるわ)しき若き女性のキャスターが報じていたので、
お盆休みが始まった、と私は教えられた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいるが、
私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、お盆は8月1日の変則地域で、
私たち夫婦は実家の長兄宅を訪れ、長兄夫婦、親戚の方たちと談笑した後、お墓参りをしてきた。

家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。

その上、私の両親も亡くなり、家内の父も死去し、天上の人となり、
家内の母は私より14歳の齢上で、身体は衰えあるが心は溌剌で独り住まいとなっている。

このような状況となっているので、帰省ラッシュは私たち夫婦にとっては、
遠い世界の出来事と感じたりした・・。
          

しかしながら私は、サラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷(ふるさと)の生家に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。

この根底のひとつとして、夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の過ぎた半年を回顧したり、今後の心の整理に良いのではないか、と想像を重ねたりしていた。

こうした中で、生家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。

いずれにしても、せっかくの貴重なお盆休みの休暇の時、往還の交通は混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。

このように心情を思い馳せると、私は毎年ひとつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。

文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』であり、遊歩道を散策して、
人影のない所で、時折かぼそい声で唄ったり、或いは心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。
          

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。

そして田んぼの中核に湧き水もあり、この周囲にミソハギの朱紅色の花が咲き、
          
この湧き水からは小さな川に注(そそ)ぎ、この川から長兄、次兄は鰻(うなぎ)をときおり獲ったりした。
この近くに蓮(ハス)専用の半反(約150坪)ぐらいの田んぼがあり、この時節は純白の蓮の花が咲いていた。

母屋の周囲には蔵、納戸小屋が二つばかりあり、周辺に竹林、雑木林があり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

この頃の生家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑が拡がる中、雑木林、竹林も多く、
のどかな田園地帯であった。

このような心情を秘めている私は、
高度成長期の頃から、地方出身の方たちが、大都市で勤務し、近くに生活されている方の中で、
多くの方たちが夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。

もとより時代は激しく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の余りの急速な変貌に驚いたり、ときには悲しみを覚(おぼ)えたりした。

このような思いも重ねれば、そりぞれの地方出身の方たちも、
生家の周辺の大きく変貌し、帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。
                                
このような思いをしていた私は、失われた故郷(ふるさと)の情景、
そして過ぎ去った自身の60年近くの時の流れに愛惜を重ね、

♪兎(うさぎ)追いし かの山
 小鮒(こぶな)釣りし かの川
 夢は今も めぐりて、
 忘れがたき 故郷(ふるさと)
 ・・(略)・・

♪山は青き 故郷
 水は清き 故郷
【『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌(六年)】

この時節になると、『故郷(ふるさと)』の歌が想いだされてしまい、心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。

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『ブログ通信簿』、アラフォー世代と採点され、高齢者の男性の私は微苦笑して・・。

2013-08-11 13:38:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
中小業の民間会社を35年近く奮闘して定年退職を2004(平成16)年の秋に迎え、
まもなくブログの世界を知り、色々のブログ・サイトに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005(平成17)年の新春に加入した。

この間、他のブログ・サイトに夢中になり、二度ばかり中断したが、
2008(平成20)年の5月以来は継続し、今日に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿し、
ブログ歴は9年生となっている。

先ほど、【gooラボ】のサービスのひとつとして、
『ブログ通信簿サービス』があり、こっそりと受験をした・・。
          
この『ブログ通信簿サービス』の『ブログ通信簿』は、
《 このブログ通信簿は、あなたのブログを分析し、通信簿を作成するサービスです。
  早速、あなたのブログのURLを入力して通信簿を作成してみましょう。 》

そして、この前提条件としては、
《 通信簿は最新記事10件から分析されるため、内容により結果は変わります。
  本サービスは、ブログを楽しくご利用いただくための試みであり、
  ブログや作者個人を評価するものではありません。 》

このように明記されたので、私はブログURLを入力した・・。


そして、下記のように『私のブログ通信簿』が表示された・・。
          

私は小学・中学生の時は、学業の通信簿は『2』と『3』の多い劣等生だったので、
このような結果になったのかしら、と微苦笑したりした・・。

そして何よりも驚いたのは、【ブログ性別とブログ年齢】・・採点の私の結果・・『女性』、『42歳』
と診断されたことである。

ここ10数年、 40歳前後(35~44歳)の女性をアラフォー世代と称せられているので、
高齢者の68歳の男性の私は、ボクも若き女性アラフォー世代のグループに入るの、と微苦笑したりした。

そしてキョンキョンと愛称される小泉今日子さんは、現役の業務で一度だけお逢いしたことがあるが、
確か47歳になられたと思っているが、
あのキョンキョンよりも私は若いのか、と溜息をしたりした。

私は投稿文には殆ど68歳と明記しているが、ご近所の奥様たちの多くから、
貴方はお歳よりお若いわぁ、とおだてられているので、このせいかしらと思ったりした。
しかしながら私の顔写真は、このブログサイトに恥ずかしくて掲載していないので、
やはり投稿内容、そして感性が若いかしら、と微笑んだりしたのである。
          
そして《過去最新記事10件から分析される》の規定があるので、
私の最近の投稿文を振り返った・・。

8月10日・・【『都立『神代植物公園』、この猛暑の時節に訪ねれば、百花斉放となり・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/912dc2256578598e3c115421c53346c4

8月9日・・・【『長崎の鐘』の歌を心の中で唄い、やがて黙祷をして、尊い命の冥福を・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/4e6fe7c3ba497bca4ded72d0d3702ced

8月8日・・・【暦(こよみ)の上では『立秋』を迎えても、東京郊外でも残暑は厳しく・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/165236b8103a0ced05c268cb3e84f138

8月7日・・・【『電気設備』の安全点検日、我が家も4年に1回、点検員の方が来宅され・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/e4cf4c69821ce944fd487c39e521f9c5

8月6日・・・【『私たちはヒロシマを忘れてはならない』と、無力な私でも、改めて教示されて・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/88e4a2be351996ff1b2d242d4627a732

8月5日・・・【映画『二十四の瞳』(昭和29年)、私なりのささやかな思いを幾たびか重ねて・・。 】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/8419e4e77a51f6328c163bc7181311f2

8月4日・・・【私は《てんびん座》に該当するが、どうしていつまでも《てんびん座》なの、と不思議に思い・・。 】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/357a606e9a36a544118bae6a17ca61f6

8月3日・・・【ブログのランキングの『にほんブログ村』に、私が加入している理由は・・。 】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/fadd216f4d7a49bc9c1b9d8d6c6bb81f

8月2日・・・【『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』、遅ればせながら私は5年前に教示され・・。 】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/7ef547a976d0a893ce09233a605ac76f

8月1日・・・【『お盆の日』、私の住む地域は、古来より8月1日となり・・。 】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/3e1b36f018722582352da74b9c7a4fc2

私は年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴っているが、今回の評価に戸惑ったりている。
          
☆【主張度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 主張度は、ブログにどれだけ自分の意見や感情などを書き込んだかによって決まります。
  「5」が最もこのような傾向が強いことを表します。》

私の投稿文はここ一年半ぐらいは、少し抑制して綴ったのかしら、と苦笑した・・。
私は政治、経済などで、余りにも心の節度が欠落した言動を新聞で読んだり、
或いはテレビのニュースを視聴した時、休火山が爆発したかのように投稿したこともあった。

たとえば過ぎし民主党の鳩山政権の時は、園児のような言動、
管政権の時は高校の生徒会のような言動、
と辛辣に投稿したことがあったが、糠(ぬか)に釘(くぎ)のような結果となり、
時間の浪費と思い、その後は政治の話題を減少させたので、こうしたことが影響しているのかしら、
と苦笑したりした。

☆【気楽度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 気楽度は、ブログの中にある、ポジティブな表現とネガティブな表現との比率によって決まります。
 例えば、「楽しい」などポジティブな内容がたくさん書かれている場合は「5」になります。》

 
私は真摯に綴り、ときには楽しく投稿文を認(したた)めているが、たまたまこのようなことが反映されたと思う。
しかしながら私は、平素に於いて、中年以上の女性のしぐさ、表情、そして言葉が何よりも「ときめく」ので、
ご近所の奥様たちとの私のさわやかな会話を綴れば、少なくとも『4』以上は自信ある、
と秘かに思ったりしている。
          

☆【マメ度】・・・採点の私の結果・・『4』
《 マメ度は、ブログの更新頻度によって、判定されます。更新頻度が高くなると「5」になります。》

日に少なくとも1通は投稿し、駄文が多く恥ずかしい限りであるが、単純に反映されただけである。

☆【影響度】・・・採点の私の結果・・『2』
《 影響度は、あなたのブログがどの程度引用されたかを統計処理して算出されます。最高が「5」です。 》

私は幾つになっても人生の不勉強で、確固たるテーマで文章修行をして、
心の深淵まで表現しなさい、と解釈している。

☆☆【通信欄】
《 主張度、気楽度、マメ度、影響度から総合的に判断しています。
  また、「話題」や「目指すべき職業」も文書の内容から推定しています。 》

私の採点の私の結果は、『あなたは「保健委員」タイプです。
そのマメさで、どんな仕事もこなせるでしょう。
もっと自分の意見を言っても、ものごとの良い面にも目を向けましょう。
詩人を目指しましょう』このように明記された。

「保健委員」タイプとは私として思いがけないことであり、
遠い昔の50数年前の高校時代に於いては、風紀委員に選出され、
ある一時時期に、副校長か教頭の先生と共に、毎朝校門の脇に立ち、
登校してくる同級生などの服装をチエックする立場であった。

しかし、私が可愛いと思った女子生徒の表情、しぐさに見惚(みと)れることが多かったので、
もとより風紀委員としては失格だった、と微苦笑している。
          
定年退職後の年金生活の今としては、短歌を詠む歌詠み(うたよみ)人と称される歌人より、
年に数回ぐらいは、心の深淵まで表現した随筆を書きたい、と思ったりしている。

今回、齢ばかり重ねた私は、『ブログ通信簿』を恥ずかしながら授与したが、
たかがブログ、されどブログ、深い世界であると思いながら、微苦笑している。

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都立『神代植物公園』、この猛暑の時節に訪ねれば、百花斉放となり・・。

2013-08-10 10:51:32 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
我が家の小庭は、長きに彩(いろど)ったアメリカン芙容は終わりを告げて、
木槿(ムクゲ)も晩成期のように花は少なくなり、わずかな夏の花となっている・・。

私は少し寂しい心情となり、私の家から徒歩50分ばかりの都立『神代植物公園』を訪ねてみょうと、
昨日の朝、思いたった・・。

しかし昨今は猛暑の時節となり、熱中症を避けるために、異例であるが路線バスの車内の冷気に頼り、
結果として、昨日の9日の日中のひととき路線バスで往還した。

『神代植物公園』の正門で、園内の最新の『神代花だより』(平成25年8月)を頂くと、
今月の花の見ごろとして、ムクゲ、スイレン、ハス、サルスベリ、
隣接している『水生植物園』に於いては、ミソハギと明記されていた。

そして私は幼年期は農家の児として育ったので、スイレン以外は故郷(ふるさと)の原景と感じながら、
微笑んだりした。


私は早速『むくげ園』に向かったが、途中の『はぎ園』で、足を止めて長らく見惚(みと)れたりした。
          
私は桔梗(キキョウ)の花に30代の頃に圧倒的に魅せられて、
我が家の小庭の大半を植えて満喫したが、殆ど手入れをしなかったので、数年後に消え去ってしまった。

こうした苦い体験もあったが、昔の恋人に逢えたような心情となり、見惚れてしまったのである。

この後、『むくげ園』で各種のムクゲを鑑賞して、こんなに品種があるの、と眺めたりした。
   

        

私は園内を幾たびか彷徨(さまよ)うように歩き、この暑い時期でも数多くの花にめぐり逢えた。
   

   

   

古来より多くの花が一斉に開くことは、百花斉放(ひゃっかせいほう)と伝えられた名言があり、
私はこの百花斉放に重ねるように、歩き廻り、盛夏のひとときを過ごした・・。


この後、『さるすべり園』で数多くの淡紅色の花を鑑賞した。
          
この花を眺めていると、私は定年退職の数か月前2004〈平成16〉年の8月、
退職記念として初めてデジカメを購入して、不慣れなデシカメのテスト撮影に、
この『さるすべり園』で撮ったりした・・。

私は定年退職後は年金生活をしてきたが、過ぎ去る歳月の速さに、余りにも早い、
と微苦笑をしたりした。

そしてこの時も『さるすべり園』を鑑賞した後、
隣接している『水生植物園』に於いては、ミソハギも見たりしたので、
私は回想するように『水生植物園』に向った。

そしてミソハギは、以前よりも広く植えられて、数多く彩っていた・・。
   
幼年期の頃、生家に於いては、田んぼの一角に湧水があり、この周囲にミソハギがあり、
お盆の時に欠かせない花であったので、私としては愛(いと)しい花のひとつとなっている。

そして私は『神代植物公園』を長らく四季折々に訪ねているが、
何よりも暑さに苦手な私は、夏季だけは数えるばかりとなっている。
      
いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあった。

この当時は神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであり、
私は1960(昭和35)年の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961(昭和36)年の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された。

私は中学時代は、自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を
下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

そして私がそれぞれの時期に心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
          
心の濾過(ろか)を浄化されたりしてきたので、
私にとっては心の故郷(ふるさと)のひとつとなっている。

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『長崎の鐘』の歌を心の中で唄い、やがて黙祷をして、尊い命の冥福を・・。

2013-08-09 07:47:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、洗面した後、主庭のテラスに下り立ち、長崎の方に向かい、
かぼそい小さな声で『長崎の鐘』の歌を唄いだした・・。

もとより私は亡き歌手・藤山一郎さんのように美声に唄えなかったこともあるが、
思いを込めると胸が熱くなり、その後は心の中で唄ったりした・・。

この後、襟を正して、手を合わせながら黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

          
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、冷酷にも人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の本日『長崎被爆』、
そして15日の敗戦となった『終戦記念日』は、黙祷をして46年は過ぎている・・。

そしてかの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信して、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
          
そして本日の9日、長崎市は68回目の「原爆の日」を迎える。
平和公園(長崎市)で開かれる平和祈念式典は午前10時35分に始まり、
被爆者や遺族の代表、安倍首相ら政府関係者、各国大使らが出席し、
原爆投下時刻の同11時2分に全員で黙祷を捧げることとなっている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


私は過ぎし2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代に、
多くの同級生と共に強制的に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私たち夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたりした。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
          
永井 隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。


私は1944(昭和19)年9月に東京の郊外で農家の三男坊として生を受けたが、
1950(昭和25)年の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

http://www.youtube.com/watch?v=3ZqJL9TtSF4
☆【YouTube <==『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー、作曲・古関祐而、唄・藤山一郎 】☆

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
母に連れられて、私は生まれて初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。

その後、私は永井 隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、1962(昭和37)年であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。


私は長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時代を含め、この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、
責務として数多く撮った結果、当人の永井 隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20)年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井 隆氏は、妻子がある身なので、
この時に妻に自身の余命を告げるのであるが、この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。

その後は、9日の当日、爆心地からほど近い長崎医大の診察室にて被爆し、重傷を負いながらも救護活動にあたり、
やっとのお思いで10日、独り残した妻(ふたりの子供は疎開させていた)の元に帰宅すれば、
焼けただれて崩壊した家の台所跡で、骨片だ程近い状態となった遺骸を発見する。

そして妻の愛用していたロザリオで、遺骸は妻と判明し、その骨片を拾い埋葬する。
その後、救護班を組織したりし、被爆者の救護に専念する・・。
          


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井 隆氏の軌跡に、
圧倒的に感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井 隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・
・・》
               
『平和塔』の書物の『如己堂(にょこどう)』と題された中に於いては、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井 隆氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ無力な私としては、これしか言葉にできない。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったりすることもある・・。
               

私は永井 隆・著作の『長崎の鐘』は、随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946(昭和21)年8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
               
『長崎の鐘』の歌謡曲の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ65年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。

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暦(こよみ)の上では『立秋』を迎えても、東京郊外でも残暑は厳しく・・。

2013-08-08 08:05:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
昨日の朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『立秋〈りっしゅう〉』と明示されて、秋に入る日、と教示されても、
もとより暦(こよみ)の上での旧暦のことであり、何かと暑さに苦手な私は微苦笑した・・。

この後、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、花梨(カリン)の枝にたわむれている。

そして私は、たわわな紫紅色の花の木槿(ムクゲ)を眺めたり、
              
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
或いは一週間前の頃から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は23度、昼下がりは34度前後、夕暮れの6時は30度前後で、
快晴の一日と表示されている。
そして、この先の一週間も、ほぼこのように猛暑の日が続く晴れマークが続いている。

昨日までは平年並みの30度前後の暑さだったのに、どうして暑さが増すのょ、
と戸惑いながら青空を見上げたりしていた。

そして私は高齢者4年生で、何かと単細胞の性格なので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は、お互いに熱中症に気をつけましょう、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

   
            この夏季の長き日々、我が家の小庭は、数多くのアメリカン芙容が咲いている。

我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように健気(けなげ)に鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。
               
いずれにしても立秋を過ぎれば、『暑中お見舞い申し上げます』に別れを告げ、
『残暑お見舞い申し上げます』と先人の人たちが、時候の挨拶として伝えられているが、
私は暑さに苦手な身なので、余り熱くならないでねぇ、と青空を見上げて、懇願しているのが、
昨日の日中のひとときであった。

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『電気設備』の安全点検日、我が家も4年に1回、点検員の方が来宅され・・。

2013-08-07 14:57:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
過ぎし一週間の前、郵便受け入れ箱に、小さな用紙が入っていた。

私は何かしらと見たら、東京電力より『電気設備の安全点検』のお知らせであり、
点検日は8月6日の午後0時~2時まで予定させて頂きますが、
ご都合の悪い方は、ご連絡下さい、と書かれていた。
そして東京電力から委託された『関東電気保安協会』と明記されていた。

私は昼の12時から2時間の間であったので、
平素の買い物の担当の私は、いつものようにスーパーで買い物を済ませた後、
散策だけは取りやめにすればよいかしら、と私は家内に話したりした。

昨日の6日の当日の朝、家内はいつもより早めに室内掃除を念入りにし、
一家の主(あるじ)私は、『電気設備の安全点検』の担当者の立ち会うことにした。

昼の12時過ぎて間もない時、玄関のチャイムが鳴り、
私は応対に玄関のドアーを開けると、温厚そうな60歳前後の男性の方で、
『電気設備の安全点検で、お伺い致しました』
と明るく大きな声で、私に挨拶した。

『暑い中、大変ですねぇ』
と私は点検員に応じた。

『早速ですが・・室内にある分電盤を見せて頂きたいのですが・・』
と点検員は私に言った。

我が家の分電盤は洗面所の片隅の壁に設置してあるので、案内した。
          
この後、点検員の方は、ブレーカーの状況、ネジの緩(ゆる)みなどを見たりした後、
何かしら測定器を取りだして、漏電の有無を測定しています、と私に教えてくれた。

まもなく、『異常ありません・・これで今回の点検は、すべて終わせて頂きます』、
と点検員の方は私に明るく言った。

『そうですか・・家の外壁の一角にある電力のメーター関係は、よろしいのですか?』
と私に点検員の方は私は訊(たず)ねた。
                       
『先程、最優先に、門扉から玄関の庭を通って、電力のメーターを点検させて頂きました・・
正常でした』
と点検員の方は私に言いながら、一枚の用紙を私に手渡した。

『電気設備 安全点検の結果について』と題された用紙で、
主なご家庭のコンセントや照明などへの配線の『電灯設備』の欄には、
『異常は認められません』の欄に○印で囲まれていた。

そして裏面には、『主な点検実施個所』として、図形も表示されて、
屋外の点検として、メーター付近の配線状況、漏電の有無の測定、
そして室内の分電盤として、ブレーカーの状況、ネジの緩みなど
チエック印が付いていた。

私はたった数分足らずの点検時間であったので、
『効率よく点検して下さいまして・・』
と私は点検員の方に労(ねぎら)いの言葉を言ったりした。
               

我が家は電気の東京電力、ガスの東京ガス、水道の東京都水道局、
そしてネット、電話のNTT東日本フレッツ光は、もとより日常生活に欠かせないので、
ときより管轄元からこのような親切な安全確認の定期点検がある。

電気の東京電力からの定期点検は、オリンピックの開催と同じように四年毎に実施されているが、
たとえ5分ばかりであっても、安全第一のことを配慮すれば必要と思い、
私は微笑んだりしたのである。

我が家は電気の使用量は、夏季になるとクーラーの冷気に頼ることが多いので、
電気使用料金は高くなっているが
ガスの使用は少なく、ガス料金は程ほど廉(やす)くなっている。

寒い季節になると、電気の使用量は少なく、
暖房のガスの使用量が多くなり、もとよりガス使用料金は高くなっている。

このような実情なので、世の中は巧(うま)く出来ている、と私は微笑んだりしている。

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『私たちはヒロシマを忘れてはならない』と、無力な私でも、改めて教示されて・・。

2013-08-06 07:19:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の5時半過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
          
本日は、68回目の原爆の日を迎える。
そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、安倍首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなっている。


私は少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして46年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
          

本日、黙祷を終えた後、昨日の読売新聞の朝刊に掲載されたひとつの記事を思い浮かべた。

《 オリバー・ストーン氏「被爆者に謝罪したい」》と見出しされた記事で、
サブタイトルには、《 原爆忌に合わせ来日 》と明記されていた。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・
「プラトーン」「JFK」などで知られる米国の映画監督オリバー・ストーン氏(66)が4日、
広島市内で読売新聞のインタビューに応じ、
「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ。
(米国人として)被爆者に謝罪したい」と語った。

ストーン監督は昨年、第2次大戦前夜の1930年代からオバマ大統領登場までの米国の現代史について、
独自の視点で描くテレビドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」を制作。
その中で、原爆投下はソ連(当時)へのけん制が目的で軍事的に不要だったと主張している。

今回は原爆忌に合わせ広島、長崎を初めて訪問、被爆者との対話などを予定している。

インタビューで、ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきたと説明したうえで、
「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが、
歴史をもっと深く見るようになった。
私は歴史に対して建設的でありたい。
日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい」と話した。

被爆者との対話については、「私の気持ちは激しく乱れることだろう。
私は戦後生まれで、(戦勝国の)恩恵を受けてきた一人であり、
(被爆者に求められれば)謝罪したい」と語った。

ストーン監督はこの日、広島平和記念資料館を見学。
「ボロボロになった衣服などを見て、現代の繁栄した街との対比に大きな衝撃を受けた。
私たちはヒロシマを忘れてはならない」と感想を述べた。

読売新聞・朝刊 2013年8月5日 【社会】面の記事より転記
・・》
注)新聞記事の原文より、あえて改行を多くした。
               

私は今年の4月が毎月一冊刊行された、
オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1~3』(早川書房)の日本訳を
読んだ一人で、三冊に及ぶ大作であり、アメリカの近現代史である。
   
これまでのアメリカ史は、ともすれば光の部分、アメリカの功績が強調された書物が多かったが、
本書は影の部分に焦点を当てて、今日のアメリカの混迷の実態の原因を追究する為、
第一次世界大戦の時期から、アメリカを中核とした歴史を動かしてきた主要国の動向を、
怜悧に表現されている。
               
本書が刊行された後、4月初旬から逐次にNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』として放送されたが、
本書の方が、圧倒的に当事者の心情を余すところなく深淵まで描写している。

もとより主要国は国益の基で、それぞれの時代に怜悧に言動してきたことが、具現的に明記されている。
まして世界大戦、冷戦時代、各国の戦争など20世紀であったので、
日本では敗戦後に何かとアメリカの影響下にあり、平和ボケの人には苦い薬、と私は感じたり、
多々教示もされた本でもある。

このような思いのある私は、今回の読売新聞の記事に於いて、
オリバー・ストーン氏が《原爆忌に合わせ広島、長崎を初めて訪問》を知り、
読売新聞のインタビュー記事を精読させられのである。

『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』の本書を読んで、
広島の原爆投下の記載に於いては、
【・・当時のアメリカでは、誰から見ても軍事的な面は圧倒的な勝利下の状況であったが、
疲弊し困憊している敗戦を目前にしている日本には、投下は不要と思われたが、
アメリカの首脳部の方の大半は、ソ連(当時)への牽制が目的であり、戦後のアメリカの突出した優位を配慮して、
投下の決断をした。

そしてこの原爆投下した以降、空前の破壊威力を主要国が知ることとなり、
やがてソ連(当時)も対抗上、水爆実験を成功し、そして東西冷戦の時代となり、
その後は主要国の各国は、核保有国の根源となった。・・】

このような要約と思われるが、私はそれぞれの各国の当事者の心情を多々教示された。
                     

東京の郊外の調布市では、この日の8時15分少し前になると、
私の自宅の近くの高台の拡声器からは、
『広島に原爆を落とされた日です・・
皆様で・・亡くなわれて多くの人たちに・・哀悼の意を表して・・黙祷しましょう・・』
とゆったりと誰でも判りやすいように、伝えられているのが、平年の習わしとなっている。

そして私は思わず、再び姿勢を正して、広島の方面に手を合わせて黙祷している・・。
               
しかしながら冷酷で厳然たる事実として、敗戦後の日本の長きの平和は、
国際の主要国の怜悧な国益に基づき、核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか表面上は、不条理ながらも、今日を迎えている事実も確かなことである。

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映画『二十四の瞳』(昭和29年)、私なりのささやかな思いを幾たびか重ねて・・。

2013-08-05 11:16:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜、家内と共に夕食を頂は、やがてテレビを視聴しょうとスイッチを入れたら、
ある民間会社のテレビで、ドラマ『二十四の瞳』が放映されていた・・。

私は終盤の30分ぐらいしか視(み)ていなかったのであるが、
現代の昨今から社会状況下して、あの背景となった時代を視聴者の方に思い重ねるには無理がある、
と苦笑したりした・・。

私は木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954=昭和29年)を鑑賞して、
これまで、ほぼ10年於きぐらい観賞してきたが、
改めて日本人の誰しもの素直に、心の琴線を揺り動かす突出した日本映画の史上に燦然と輝く名作である、
と確信しているひとりである。
                
私は高峰秀子、松山善三さんの随筆、或いは木下恵介・監督の証言、そして映画評論家の方たちより、
《・・第二次世界大戦の終結から7年後、1952(昭和27)年、
この戦争が女性教師と生徒たちにもたらした数多くの苦難と悲劇を描いた作家・壺井 栄・著作『二十四の瞳』が発表された。

映画は、この原作同様、1928(昭和3)年から1946(昭和21)年までの18年間を描いている。

撮影は、原作発表の翌年 春にかけて行われ、その年の9月に公開された。
何よりも根幹となす、原作者、監督(兼脚本)はもとより、撮影、音楽、美術、照明などのスタッフ、
そして主演女優をはじめ、子役を除くキャスト全員が、第二次世界大戦の戦時下を生きた人々である。

言論の自由のない軍国主義を突き進んだ日本、そして、敗戦によりそこから解放された日本、
2つの時代の日本を生き、その空気感の違いを身を持って知るスタッフ・キャストたちにより制作された映画である。

撮影は、原作発表の翌年1953(昭和28)年の春から1954(昭和29)年の春にかけて行われ、
その年の9月に公開された・・》
このように学んできたひとりである。
                              
この後、私はぼんやりとこの『二十四の瞳』を初めて観賞した頃に思いを馳せたりした。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。

幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。

この間、私が小学2年の三学期の1953(昭和28)年の3月に父が病死し、
翌年の1954=昭和29年の5月に祖父も他界され、生家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

こうした困窮した生家の生活の中で、私は母に懇願して独りで映画館に通ったのは、
確か私は4年生の頃で、東映の『笛吹童子』、『里見八犬伝』等の娯楽映画を満喫していた。

この当時、我が家の最寄駅は、京王腺のつつじヶ丘駅(当時は、金子駅)であり、
児童の私としては、15分の道のりで、通学していた滝坂小学校は駅に近くあった。

この当時の映画館は、大映撮影所に近い調布駅の繁華街に『調布銀映』、
日活撮影所の最寄駅だった布田駅には『調布映画劇場』、
その後、都心のベットタウンに変貌し始めた千歳烏山駅には、『千歳映画劇場』が新築されたりした。


このような時代の背景の中で、確か1955(昭和30)年の小学4年生だったと思われるが、
学校の高学年の4年生以上、先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
布田駅にある『調布映画劇場』で『二十四の瞳』を観賞した・・。
              
私は同級生と座席に座り、たまたま女の同級生と並んだのである。

『二十四の瞳』の児童のひとりの女の子、松ちゃんが困苦した家庭の中で、
百合の花の絵柄のついたアルマイトのお弁当箱が欲しい、と母親に懇願するシーンで、
隣席の同級生が泣き出し、俺も泣かないとまずいかなぁ、と思ったりした。

私は観賞しながら、小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして私が涙を浮かべたのは、この松ちゃんが奉公に出され後、
同級生だった人たちが、ほぼ全員揃って修学旅行に来て、
引率してきた大石先生が、たまたま同僚の人とふたりで、
偶然に食事処で、従業員として働かされている松ちゃんと再会するシーンであった。

松ちゃんは同級生だった人たちに身を隠し、帰船する同級生を波止場で見送るシーン、
私は涙をポロポロと流れていた・・。

しかし恥ずかしながら、この当時は、ストーリーも完全に理解できなかったのである。


後年、二十歳の私は、映画青年の真似事をしていた時で、、
確か銀座の名画が上映されている映画館のひとつの『並木座』だったと記憶しているが、
この『二十四の瞳』を観賞した。

この時は、何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった・・。

そして、この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』の歌は、これ以来、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の片隅が蘇(よみがえ)り、『浜辺の歌』を心の中で唄ったりしている。
          

尚、この『二十四の瞳』は、封切公開されたのは1954(昭和29)年9月14日であり、
この当時の松竹の宣伝ポスターの文面には、
《・・
美しい景色に囲まれた瀬戸内海小豆島!
          女教師と十二人の教え子が綴る涙ににじむ愛の物語!
・・》
と私は後年に知ったのである。

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私は《てんびん座》に該当するが、どうしていつまでも《てんびん座》なの、と不思議に思い・・。

2013-08-04 15:05:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、家内は居間でいつものように読売新聞の朝刊を読んだりしていた。
私は近くで、バソコンであるビジネス情報のサイトを見たりしていた。

『あなたの今週の運勢・・
経験が成長を導いてくれるとき・・ですって』
と家内は私に言った。

何かしら日曜版の定例特集の片隅に『星のお願い』があり、家内が愛読しているコーナーでもある。

私は『占い』は信用しないひとりであるが、占いの診断結果を告知されれば、
小心者の私は、少し気にする程度であるので、微苦笑したりした。

こうしたことよりも、私は9月下旬に生を受けた身であるが、
地球は回転し、天空の『いて座』、『おとめ座』、『かに座』などの星座も動くので、
どうして私は、いつまでも『てんびん座』なの、と不思議に思っているひとりである。

こうした事を以前に、家内に言って、よくも35年も会社に勤められたわねぇ、
と言ったような、あきれた表情をされたので、私は困苦して、これ以来公言をためらってきた・・。
          

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた・・。

まもない時、家内は読売新聞の日曜版で、『星にお願い』の今週の運勢を見ながら、
『貴方の今週の運勢・・仕事&勉強で手を抜くと成績ダウン。
気合を入れて頑張ろう・・ですって』
と家内は微笑みながら、私に言った。

『そぉ・・じゃあ、ブログは手を抜かず、綴るょ・・』
と私は家内に言いながら、近寄った。

家内の指す新聞には、《てんびん座》と書かれていた。

『ちょっと、教えて・・
この《てんびん座》っていうのは、一生変わらないの・・?』
と私は家内に訊(たず)ねたのである。

『変わりませんわょ・・』
と家内は、めずらしく私に断言したのである。

『本当・・初めて知ったょ!』
と私は少し驚いて、家内に言ったのである。

私は、色々な星座がコロコロと、一定の法則で変わる、と今まで固く信じてきた・・。

私は齢ばかり重ねても 世の中の常識とされることが、
恥ずかしながら無知なことが多すぎる、と苦笑することがある・・。

特に理工系の理科、数学、物理、天文学などは学生時代も劣等生であったので、
どうして飛行機は、空の中を飛んで、目的の空港に行けるの、
どうして船は、海に浮かんで、航路を進んで、目的の港に接岸できるの、
未だに解らないことが多すぎるのである。

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ブログのランキングの『にほんブログ村』に、私が加入している理由は・・。

2013-08-03 08:25:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ある民間会社に35年近く勤めて、2004(平成16)年の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして年金生活を始めたが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

2008(平成20)年の 4月の初めの頃まで、幾つかのブログサイトに加入して彷徨(さまよ)い、
この中のひとつのブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。

そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活している今日までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

やがて併設していたブログに準じた【OCN Cafe】のサイトも2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とし、今日に至っている。

この後、昨年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、『夢逢人かりそめ草紙』に改名している。
                          

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、文才に乏しく試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008(平成20)年の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
               

こうした中で、『にほんブログ村』のシニア層の多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの半年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。

              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したこともあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも10名のお方もいる。
               

私がブログを書き始めて8年半となるが、
特に『にほんブログ村』に於いては、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できているのも事実であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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