私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。
家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004〈平成16〉年の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
そして特に家内の母が独り住まいの生活をされた頃からも、
私たち夫婦は家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a5/ec62fd23958015c5b227c66b42ebbb3f.jpg)
こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、
私たち夫婦と家内の母と3人で、過ぎし2008(平成18)年2月中旬の時に長崎を訪れた。
家内の母の根底には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であり、
この当時の日本が敗戦にたどる時期を悲惨と過酷な時期を実感してきたので、
この前後も、何かと慰霊の心情を深めて、沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』なども、私たち夫婦も同行してきた。
そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。
そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。
私は旅立つ前に、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/ab/adcd79885a781fda16eb9d7dc94084b7.jpg)
やがて『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。
この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
六と九で十五だ
忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験 ながいまこと 》
と明記されていた。
ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。
私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/50/bc7baf35e649ff1220da99a52e7f0f62.jpg)
私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、
そして15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。
かの大戦に於いて、もとより余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信を深めながら、
戦争を知らない私でも、深い心の傷として今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/86/1f440d968bee58c53bf1b0a597cbcc5c.jpg)
こうした中で私は年金生活をしている今、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。
そして永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』の本に関しては、
もとより数多くの本を読んだりしてきているのが、今回は省略する。
このような私の真情から、永井 隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は
六と九で十五だ
忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験 ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思いながら、早や5年が過ぎている。
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私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。
家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004〈平成16〉年の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
そして特に家内の母が独り住まいの生活をされた頃からも、
私たち夫婦は家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた。
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こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、
私たち夫婦と家内の母と3人で、過ぎし2008(平成18)年2月中旬の時に長崎を訪れた。
家内の母の根底には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であり、
この当時の日本が敗戦にたどる時期を悲惨と過酷な時期を実感してきたので、
この前後も、何かと慰霊の心情を深めて、沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』なども、私たち夫婦も同行してきた。
そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。
そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。
私は旅立つ前に、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/ab/adcd79885a781fda16eb9d7dc94084b7.jpg)
やがて『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。
この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
六と九で十五だ
忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験 ながいまこと 》
と明記されていた。
ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。
私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く教示され、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/50/bc7baf35e649ff1220da99a52e7f0f62.jpg)
私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、
そして15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。
かの大戦に於いて、もとより余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と確信を深めながら、
戦争を知らない私でも、深い心の傷として今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。
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こうした中で私は年金生活をしている今、たとえば読書に関しては、
この8月の時節になると、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。
そして永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたり、
6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』の本に関しては、
もとより数多くの本を読んだりしてきているのが、今回は省略する。
このような私の真情から、永井 隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は
六と九で十五だ
忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験 ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思いながら、早や5年が過ぎている。
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