真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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欧米の恣意的パレスチナ政策とオスマン帝国の遺産ぶんどり合戦

2024年01月30日 | 国際・政治

 「君はパレスチナをしっているか」(ほるぷ出版)の著者、奈良本英佑氏は、同書のなかで、

第一次大戦は、中東から見た場合、「瀕死の病人」オスマン帝国の遺産ぶんどり合戦にほかならなかった。
 形のうえでは、オスマン帝国はドイツ側につくのだが、この大戦の実態は、イギリス、フランス、ドイツを中心とするヨーロッパの強大国、いわゆる「帝国主義列強」によるオスマン帝国の分割戦争だったといってよい。”
 と書いていましたが、その後、イギリスやフランスは、ぶんどった領土を「委任統治」という名目で支配するのです。その「委任統治」について、奈良本氏は 
”イギリスは戦争に勝ってパレスチナを手に入れた。もう少し正確にいうと、「委任統治」というかたちでパレスチナを支配することになった。委任統治の建前は、この大戦後につくられた国際連盟にかわって統治するということだ。本来なら国際連盟が直接統治すべきだが、それはむずしいので、かわり文明国であるイギリスがその役割を引き受けようと言う理屈だ。
 この委任当地は、永久につづくものではなく、その地域の人々が自分たち自身で独立した政府を運営できるようになるまでの、一時的なものとされた。この人々があたらしい政治の機構をつくり、それを運営するのに必要な人々を教育するために、イギリスが国際連盟にかわってお手伝いするのだ、と説明された。
 と書いていますが、「委任統治」が、名ばかりで、実態はかけ離れたものであったからです。それは、今回取り上げた「ピール報告書」が示しています。ピール報告書には、”ユダヤ人が古い故郷に帰る権利を国際的に認められたかれらといって、ユダヤ人がアラブ人をかれらの意に反して支配する権利まで認められたわけではない。”などという記述もあります。

 見逃せないのは、そうしたパレスチナ人の主権や権利侵害が、現在のイスラエルによるパレスチナ政策に引き継がれていることです。だから、イスラエルを含む欧米のパレスチナに対する姿勢は、国際法に反しているのです。

 先月、イスラエル軍がガザ地区で続けている軍事作戦について、南アフリカが、パレスチナ住民の「集団殺害」であり、「ジェノサイド条約に違反している」として、国際司法裁判所に訴えました。
 訴えを受けて、国際司法裁判所は、イスラエルに対して、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐため、あらゆる手段を尽くすという、「暫定的な措置」を命じました。それは残念ながら南アフリカのの求めた「軍事作戦停止」を命じたものではありませんでしたが、一歩前進だと思います。
 それは、南アフリカの国際関係・協力相が、記者団の取材に対し、「われわれの主張に基づいた措置が命じられたことに満足している。この措置を実行し、機能させるためには停戦が必要となる」と述べ、南アフリカのラマポーザ大統領が、この「暫定的な措置」について、「これは国際法や人権、そして正義の勝利だ。国際司法裁判所が大多数の判事の賛成で措置を命じたことを歓迎する。裁判所の命令がパレスチナの人々に苦痛を強いているこの危機を終わらせる道を開くことを願っている」と述べたということでわかると思います。

 南アフリカ政府は、イスラエルによるパレスチナの占領や、ガザ地区の封鎖を、かつてのアパルトヘイト=人種隔離政策と同じだと以前から非難していましたが、この南アフリカの主張を受け入れないイスラエルやイスラエルを支えるアメリカ政府を中心とする西側諸国が、世界平和の障害になっていることは、否定できないだろうと思います。

 イスラエルの ネタニヤフ首相は「ユダヤ人国家への差別 拒絶する」などと言ったようですが、とんでもないことだと思います。また、「イスラム組織ハマスに対するガザ地区での軍事作戦は、イスラエルの自衛権の行使だ」と主張したことも報道されていますが、実際は、イスラエル軍の見境のない攻撃によって、女性や子どもを中心とする一般市民が多く犠牲になっていることから、その主張のごまかしは通用しないと思います。イスラエル政府の高官や軍人の諸発言から、イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げつつ、実際は、パレスチナ人を難民として周辺国に追い出す作戦、さらには、留まるパレスチナ人の殲滅作戦を続けていることが察せられるのです。

 イスラエル軍の攻撃が続くガザ地区南部のラファで避難生活を送る人たちからは、国際司法裁判所が「軍事作戦の停止」を命じなかったことに対する不満の声があがっているということ、また、南部ハンユニスから避難している男性が、「国際司法裁判所の判断はパレスチナの人々に不公平でイスラエル軍の利益になるものだと思う」と言ったということを、NHKのウェブニュースが伝えていますが、「君はパレスチナをしっているか」奈良本英佑(ほるぷ出版)を読めば、パレスチナがイスラエル建国以来、欧米によって、主権や利益が侵害され続けてきた歴史がわかります。そして、それがいまだに終わっていないということだと思います。
 私は、エルサレムに住むパレスチナ人の男性が、「ICJの決定は完璧なものではないが、正しい方向だと思います。これによってイスラエルはパレスチナの人々に対する戦争犯罪者という立場におかれました」と主張したことに、同意するものです。
 課題は、イスラエルに対する国際司法裁判所の「暫定的な措置」の命令を、次の段階に進めることだと思います。
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                 4 失敗したイギリスのパレスチナ支配  1937年、「ピール委員会の報告書を発表」


 イギリスパレスチナ「委任統治」にのりだす
 イギリスは戦争に勝ってパレスチナを手に入れた。もう少し正確にいうと、「委任統治」というかたちでパレスチナを支配することになった。委任統治の建前は、この大戦後につくられた国際連盟にかわって統治するということだ。本来なら国際連盟が直接統治すべきだが、それはむずしいので、かわり文明国であるイギリスがその役割を引き受けようと言う理屈だ。
 この委任当地は、永久につづくものではなく、その地域の人々が自分たち自身で独立した政府を運営できるようになるまでの、一時的なものとされた。この人々があたらしい政治の機構をつくり、それを運営するのに必要な人々を教育するために、イギリスが国際連盟にかわってお手伝いするのだ、と説明された。
 イギリスがこのようにして手に入れた元オスマン帝国領は、シリア・パレスチナの南部とメソポタミアだ。フランスも、やはり委任統治というかたちで、シリア・パレスチナ北部、それに小アジアの一部を手に入れた。
 この委任統治というあたらしい制度は、「抑圧された民族の解放」という表向きの戦争目的と、オスマン帝国の領土ぶんどり合戦という戦争の実際とのあいだの矛盾をとりつくろうためのものだった。 また、この制度は、イギリスが、シオニスト、アラブ人、フランス人に対してそれぞれ行った。互いに相いれない三つの約束のあいで、なんとかつじつまをあわせようとするものでもあった。アラブ人たちは、こんな大国の「お手伝い」など「余計なお世話だ」と断った。とくにシリア・パレスチナの分割には激しく抵抗した。だが、イギリス、フランスを中心とする諸国は、強引にこの制度を押しつけてしまった。

 委任統治領が切りきざまれた
 こうして、それまで人々が自由に行き来きしていたこれらの地域は、二大国が支配するそれぞれいくつかの「委任統治領」に切りきざまれてしまった。現在の中東諸国の国境線は、このときの境界線をもとにしている。定規で引いたような不自然な国境線は、当時の列強のごり押しを反映している。  
 かつてのシリア・パレスチナから切りはなされたパレスチナは、こうしてつくられた委任統治領のひとつなのだ。
 イギリスはパレスチナの統治にあたって、バルフォア宣言の目的実現の責任を持つことになった。「非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利を損うことなく」「パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設する」というあの目的である。
 こうしたことの大わくは1920年4月の「サン・レモ会議」で、イギリス、フランス、イタリア、日本の四か国によって決められ、細かいことは1922年7月、国際連盟で承認された。日本はイギリスとフランスが前もって取り決めていたことを黙って認めただけだが、全く責任がないとはいえないだろう。
 今日、私たちがパレスチナというとき、この委任統治領となった地域を指している。面積は約16,300平方キロ。北半分は、ざっと、海岸平野、丘陵地帯、ヨルダン渓谷の三つに分けられ、南半分は大部分が砂漠だ。また、現在「パレスチナ人」とは、この地域で生まれた人々と、その子孫の全体を指す。
 だが、ここでは、当時の呼び方に従って、パレスチナの住民を「アラブ人」(地元のムスリムとキリスト教徒)と「ユダヤ人」(地元のユダヤ教徒とヨーロッパ出身のユダヤ人移民」に大きく分けて、話を進めよう。

 委任統治が破産する
 さて、パレスチナの委任統治は八方破れのイギリスの東方政策につぎはぎをあてたものにすぎなかったので、たちまち、ほころびが出てきた。そして、バルフォア宣言からちょうど20年後の1937年、イギリス政府によって任命された調査団の報告書は、委任統治の破産を公に告げるのだ。
 これは一般に「ピール調査団」と呼ばれ、その報告書は、パレスチナをユダヤ人の国とアラブ人の国とに分割するよう、初めて提案したことでも知られる。
 ピール報告書のさわりの部分を、ざっと訳してみよう。
「ユダヤ人が多数派となりユダヤ人の国をつくることを望んで彼らの移民を援助することと、アラブ人の意志に逆らって、パレスチナを力ずくでユダヤ人の国に変えることでは、まったく話が別である。 これが、委任統治制度の精神とそのめざすところに反しているのは明らかだ。これでは、パレスチナでアラブ人が多数を占めている間は、民族自決の原則を認めず、ユダヤ人が多数を占めたとき、はじめてこの原則を認めるということになる。……これは、事実上、……トルコ人の支配をユダヤ人の支配に置きかえることにほかならない」
「今、このせまい地域のなかで、二つの民族のあいだに争いが起きていて、これをしずめることは不可能だ。約百万人のアラブ人が、ざっと40万人のユダヤ人と陰に陽に対立している。かれらのあいだに共通の場はない。アラブ人社会は基本的にアジア的だが、ユダヤ人社会は基本的にヨーロッパ的だ。かれらは、宗教も言葉もちがう。かれらのそれぞれの文化、社会生活、ものの考え方、立ち居ふるまいは、たがいに調和しない。もちろん、彼らの民族的な願望も両立しない」
 これは、パレスチナの委任統治制度が最初からかかえて矛盾をはっきりと指摘している。「民族の自決」といえば、「ユダヤ人の民族郷土」と「非ユダヤ人の権利」は、パレスチナで両立するはずがなかったのだ。

 パレスチナ分割を提案したピール報告書
 そこでピール報告書は、苦肉の策としてパレスチナ分割を提案する。海岸平野部と、北部丘陵地帯のうち、ガリラヤ地方と呼ばれる一帯、ヨルダン川上流の二つの湖の西岸周辺をユダヤ人の国に、残りの大部分をアラブ人の国にする。そして、エルサレム周辺と、ヤーファをふくむ小さな地域だけを委任統治領として残すものだ。
 海岸と内陸の湖周辺、この二つを連絡するマルジュ平原は、シオニストが土地の買取と、入植地の建設を計画的に進めていた部分だ。これが提案された「ユダヤ人の国」の骨格になっている。
 この国はパレスチナ全土の五分の一にすぎなかったが、最も肥沃な農地と、テル・アビブ、ハイファ、アッカという重要な海岸都市をふくんでいた。このうち純粋にユダヤ人の都市といえるのはテル・アビブだけだ。しかも、この提案は、ガリラヤ地方のアラブ人を集団で移転させる計画をふくんでいた。
 シオニストは条件つきでピール分割案を認めるつもりだったが、アラブ側は拒否した。パレスチナの土地の一番いいところがユダヤ人に与えられたうえ、アラブ人の移住まで要求されたからだ。そこで、イギリスは、分割は不可能とあきらめ、委任統治政策の大転換を行う。1939年のことだ。
 だが、その前に、時計の針を前にもどして、なぜ「委任統治は失敗」というピール報告書がつくらなければならなくなった、もう少しくわしく見てみよう。
 委任統治がはじまって20年にもならないうちに、パレスチナでは何もかもが大きく変わってしまった。この時期に中東の他の地域でパレスチナほどはげしい変化に見舞われたところはあまり例がない。
 第一に、人口、なかでもユダヤ人の人口が急激にふえた。第二に、土地、特に農業に適した土地が、あっという間にユダヤ人によって買い占められていった。第三に、その結果、パレスチナの社会や経済の構造が足もとからゆらいだ。人と人、家族と家族、村と村、町と町、これらと政府、こうしたものを結びつけていた、これまでの約束をごとや仕組みが役に立たなくなったのだ。
 まず人口から見よう。1920年以後、ヨーロッパから大変な数のユダヤ人移民が、この小さな土地へ押し寄せて来たことがわかる。それは「流れ」よりも「波」といったほうがよい。最初の大きな波は1924年~26年。第2のさらに大きな波は、1933年か~39年に寄せている。第1のピークは1925年の33,800人、第二のピークが1935年の61,800人だ。
 1920年頃までの移民は、ロシア・東ヨーロッパからの社会主義者や理想主義者が多く、共同農場や労働組合の基礎をつくった。これに対し、この第1の波をつくったのは主にポーランド出身の中産階級(商工業者や職人)で、かれらによってパレスチナのユダヤ社会の都市が発展する。第二の巨大な波は、ドイツのナチス政権が生み出したもので、ドイツやオーストリアなどの出身者が多い。かれらの大部分は、シオニズム運動への賛否にかかわりなく国を追われた難民だった。これによって、パレスチナに多数の起業家が移住し、多額の資金が持ち込まれた。

 ナチスとアメリカ、イギリス 
 この事情を簡単に説明しよう。極端な反ユダヤ主義で知られるナチスは、1933年に政権を取るが、第二次世界大戦をはじめるまでは、「ユダヤ人絶滅」ではなく、追放政策を進めていた。そこで、シオニストとナチスと取引して裕福なユダヤ系ドイツ人を、その財産と共にパレスチナへ移住させる協定(1933年、「ハアヴァア協定」)を結んだ。
 一方ナチスに迫害されたユダヤ人を救おうと、アメリカのルーズベルト大統領が呼びかけて1938年7月、フランスのエビアンで三十二ヶ国の国際会議が開かれた。しかし、南米の小国ドミニカ共和国を除けば、いずれの参加国も多数のユダヤ人難民を受け入れる意志のないことがはっきりした。
 ナチスは、アメリカやイギリスの偽善の化けの皮が剥がれたと喜び、シオニストも会議の失敗に満足した。ユダヤ人はパレスチナに逃げるほかなくなったからだ。
 こうしてパレスチナの人口は、委任統治の前の年(1919年)にアラブ人53万3千人、ユダヤ人5万7千人だったのが、10年後には、それぞれ約74万人と16万人に、ピール報告の出された1937年には、先に見たように約100万人対40万人になった。さらに10年後には約130万人対60万人となる。全人口の1割にもならなかったユダヤ人が、三分の一を占めるようになるのだ。
 つぎに土地を見よう。「買い占め」という言葉を使ったのは、シオニストたちがアラブ人の地主から買った土地は二度とアラブ人には売り渡さず、また、その土地でアラブ人が働くことを認めなかったからだ。
 別表を見て欲しい。委任統治の直前までのユダヤ人の所有地は4万5千ヘクタールあまりと推定されている。これが土地の買い占めを通じて、10年後には。10万ヘクタールに近づいた。
 ユダヤ人の所有地は、イスラエルの独立宣言(1948年5月14日)が発表される直前、委任統治政府から与えられたものなども含め。18万から20万ヘクタールに達していたと推定される。小さい方の数字によると、パレスチナ全土の約7%。耕作適した土地の約12%になる。この。数字は頭に入れておいてほしい。ピール調査団の分割案や、つぎの章で話す国連の分割案にアラブ人が強く反対した理由のひとつがよくわかかるはずだ。
 シオニストに土地を売ったのは、主として都市に住むアラブ人の不動産地主だった。かれらにとっては、大金さえれば、アラブ人農民の生活がどうなろうと知ったことではなかったのだ。

 ラブ人社会の抵抗と敗北
 最後に、アラブ人社会の構造がどう変わったか。
 アラブ人が無抵抗だったわけではない。かれらは、シオニストの移民と土地の買占めの禁止、または大幅な制限、委任統治制度そのものの廃止、そして、アラブ独立国家の承認を求めて激しくたたかった。
 1920年代には、国際連盟や他の中東諸国、イスラーム諸国への働きかけ、デモや請願など平和的なやり方で、イギリスの政策を変えるよう訴えたが、効果はなかった。シオニストの土地買い占めによって実に多くの小作農民が農地から追い出され、ユダヤ人の商工業者の流入によって、アラブ人の同業者は破産に追い込まれていった。
 これらに対する不満は、1929年の「西の壁(または、嘆きの壁)事件」と呼ばれる暴動となって爆発する。おどろいた委任統治政府は、はじめて本気で政策を変えることを考えるが、シオニストに抗議されると、たちまち、これまでどうりの政策を続けることを約束してしまう。
 アラブ人はこれにはげしく怒り、イギリス政府に対して強い不信感をいだくことになった。第二の巨大な移民の波に危機感をつのらせたかれらは、1936年、全土で六ヶ月のゼネストに入った。港で働くアラブ人労働者は貨物の積みおろし作業をやめ、アラブ人の商店主たちはユダヤ人の生産者やお客との取引を拒否した。アラブの農民たちは武装して、イギリスの兵隊や警察を襲いはじめた。パレスチナ・アラブの「大反乱」と呼ばれるものだ。
 前に述べた「ビール報告書」は、これを見て「委任統治は失敗」と結論したのである。
 このころ、土地を失った農民は都市へ流れ込み、都市ではアラブ人商工業者の破産がつづいていた。こうしたなかで、大家族を中心にまとまっていた伝統的なアラブ人社会が解体していく。一方、アラブ人のなかから、学校の教育・委任統治政府の職員や、鉄道、港湾労働者といった人々からなる新しい階級が生まれてくる。だが、これらの階級を中心とした近代的なアラブ人社会が形づくられる前に、大反乱はイギリス軍によって粉砕される。
 こののち、イギリスははじめて委任統治政策を大きく手直しして、ユダヤ人移民と土地の売買をかなりきびしく制限する。しかし、すでにおそすぎた。
 この政策は、シオニストを敵に追いやっただけで、アラブ人を味方につけることもできなかった。アラブ人は、もはや、イギリスを信用しなくなっていたからだ。こうして委任統治の失敗は決定的になった。
 第二次世界大戦が終わってまもなく、イギリスはパレスチナを手放すことになる。この大事なときにパレスチナのアラブ人たちは、結束してつぎの時代にそなえることができなかった。アラブ人社会は大反乱で力をつかい果たし、バラバラに解体れていたのだ。
資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      ビール報告書 
 ……確かに、歴史に照らしてみれば、ユダヤ人がパレスチナを支配することと、トルコ人の支配とを同じように考えることはできない。しかし、ユダヤ人が古い故郷に帰る権利を国際的に認められたかれらといって、ユダヤ人がアラブ人をかれらの意に反して支配する権利まで認められたわけではない。……
 今、この狭い地域のなかで、二つの民族の間に争いが起きていて、これを鎮めることは不可能だ。約100万人のアラブ人が、ざっと40万人のユダヤ人と、陰に陽に対立している。かれらの間に共通の場はない。アラブ人社会は基本的にアジア的だが、ユダヤ人社会は基本的にヨーロッパ的だ。彼らは宗教も言葉も違う。彼らのそれぞれの文化、社会生活ものの考え方、立ち振る舞いは互いに調和しない。もちろん、彼らの民族的な願望も両立しない。こうしたことが平和にとって最大の障害になっている。もしアラブ人とユダヤ人が、彼らがそれぞれの民族的な理想について互いに譲り合い。それらを一つにするよう真剣に努力し、時間をかけて一つの国籍ないしは二重国籍を持った国民を作り上げていく。まだそれらは共に暮らし、共に働くこともできるようになるだろう。だが、これらは不可能である。世界大戦とこれにつづく一連の出来事によって、アラブ人たちは自由な統一されたアラブ世界の中に、過去のアラブの黄金時代を復活させるのだという希望を抱くことになった。ユダヤ人たちも同じように、過去の歴史に魅せられている。だからアラブ人とユダヤ人の民族的な融合と同化は問題なのだ。アラブ人の描くユダヤ人は、エジプトやかつてのアラブ人が支配したスペインのユダヤ教徒でしかない。1937年6月22日


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