真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「旧約聖書」とイスラエルの所業

2024年01月13日 | 国際・政治

 下記は、「聖地 エルサレム」月本昭男監修(青春出版社)からの抜萃です。 「旧約聖書」で、神がイスラエルに与えたという「約束の地」、カナン(パレスチナ)には、どんな歴史があるのか、概略を知ることができると思います。
 そして、「旧約聖書」の記述を根拠に、ユダヤ人が、何世代にもわたって住み続けてきたパレスチナ人から土地や家を奪い、カナンの地(パレスチナの地)に住みつくこと、また、パレスチナの地に、イスラエルという国家を建国し、そのイスラエルという国からパレスチナ人を追い出そうとしているユダヤ人の方針が、許されるものでないこともわかると思います。
 なぜなら、紀元前に書かれた「旧約聖書」には、とても史実とは考えられないことがいろいろ書かれているからです。「旧約聖書」に限らず、「創世記」のような紀元前の話には、時の為政者が、自らを絶対的な存在とするために神と関連付けたり、また、自らに都合のよい「つくり話」を史実に含めて書いていることを考慮しなければならないのです。
 同書の著者も、”たしかに、このイスラエル民族のカナン定住は歴史上の事実である。とはいえ、この征服物語は、どこまでが史実たり得るだろうか。”と書いています。疑わしいことが書かれているのです。
 神代史の研究で知られる津田左右吉も、古事記日本書紀の既述、また、その解釈に関して、そうしたことを詳しく書いています。    

 先月、南アフリカイスラエルの「ジェノサイド」を非難し 国際司裁判所(ICJ)に提訴した問題に関して、昨日その審理始まったとの報道がありました。国際社会の力関係に左右されず、国際司裁判所(ICJ)が、事実に基づいて、法的な判断を下すことを期待したいと思います。

 南アフリカは、イスラエルのガザでの行為はジェノサイドであり、一刻も早いイスラエル軍による戦闘行為の停止や、パレスチナの人々への食料や水、医療などの提供を求めたと伝えられています。それは、世界中の人々の願いでもあると思います。
 日本のメディアは、こうした事実を詳しく取り上げてほしいと思います。また、その経過を取材し、くり返し取り上げてほしいと思います。そして、イスラエルに連帯の意を表明した政府を追及して、方針転換を促してほしいと思います。

 この件に関し、CNNニュースは、下記のように伝えています。 
” 南アの弁護団は「イスラエルの行為はジェノサイド行為のパターン」を示していると指摘。ICJに提出した84ページにわたる文書の中で、イスラエルがガザのパレスチナ人を殺害したり、深刻な害を心身に与えたりして「パレスチナの人々の身体的破壊をもたらすように計算された」状況を作り出すことでジェノサイドを行っていると主張した。
 加えて、イスラエルの政治指導者や軍のトップ、公職者らが明確な言葉でジェノサイドの意図を宣言したと指摘し、こうした言葉がガザで戦うイスラエル軍の兵士らによって繰り返されているとした。
 また、陳述の冒頭では、1948年以来、パレスチナ民族はイスラエルに組織的かつ強制的に土地を奪われてきた、などとこれまでの経緯にも言及した。

 この記事の中で見逃せないのは、
イスラエルの政治指導者や軍のトップ、公職者らが明確な言葉でジェノサイドの意図を宣言したと指摘し、こうした言葉がガザで戦うイスラエル軍の兵士らによって繰り返されている
 という部分です。私も、何人かのイスラエルの政治家や軍人の発言、主張を取り上げてきました。
 イスラエルは、ガザ北部の市民に、南部に移動するように指示しておきながら、その南部も容赦なく爆撃し、攻撃していることに示されているように、ジェノサイドの意図は、パレスチナ人をガザやヨルダン川西岸から追い出そうということなのです。パレスチナ人とは共存できないということを、公然と主張しているのです。
 だから、エジプトの大統領は、現在のイスラエルとパレスチナの戦争は、ガザ地区を支配するハマスとの戦いを目的とするだけでなく、「同地区に住む市民をエジプトへと追いやる試みでもある」と指摘し、ガザ地区のパレスチナ人の受け入れを拒否しているのです。隣国ヨルダンの国王も、「ヨルダンへの難民もエジプトへの難民もあってはならない」と同じようなメッセージを発したことが伝えられています。
 両国の難民受け入れ拒否の根底には、イスラエルがパレスチナ人を永久的にエジプトやヨルダンへと追い出し、彼らの国家樹立の要求を無効にしようとしているとの考えがあり、また、集団移住によって、平和がもたらされるのではなく、逆にパレスチナ人が移住地からイスラエルに対する攻撃を行うことで、平和が脅かされると恐れているのです。
 確かに、現在のイスラエルの残虐行為を見れば、追い出しに成功したとしても、パレスチナ人が、何とかしてイスラエルの暴力的仕打ちを乗り越え、パレスチナの地に戻ろうとすることは避けられないのではないかと思います。エジプトやヨルダンが恐れていることには、根拠があるように思います。

 関連して、CNNの下記のニュースも目が離せないと思います。
 英米が、イランに支えられたイエメンのフーシ(Iran-backed Houthis in Yemen)に対する攻撃を始めたというのです。
 現在のイスラエルのやりたい放題を受け入れない組織は、西側諸国では、「抵抗の枢軸」などと呼ばれるようですが、「ハマス」だけではなく、レバノンのイスラム教シーア派組織「ヒズボラ」やイエメンの反政府勢力「フーシ派」、イラクやシリアの民兵組織などがあるといいます。

  イスラエルは、日々敵を増やしているのではないかと思います。
 ”US and UK strike Iran-backed Houthis in Yemen
The strikes come after the US and its allies warned of consequences for the militant group’s repeated attacks on shipping in the Red Sea”

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                      第一章 聖書の時代

               有史以前のエルサレム  聖地のはじまりはオフェルの丘に

「創世記」に記された天地創造の記述。
 エルサレムを聖地とするユダヤ教、イスラム教、キリスト教の原点となっているのが、『旧約聖書』の中の「創世記」である。その記述によれば、天地は神によって創造された。
 神が「光あれ」というと光がつくられ、光と闇に分けられた。また、大空がつくられ、その上と下に水が分けられた。さらに、第三の日には、大地と海がつくられた、地には草、木を芽生えさせた。 
 その後、神は太陽、月、星をつくり、昼と夜をつかさどらせる。また、水に群がる生き物や鳥などを創造し、地の獣、家畜、土を這う生き物を創造した。
 その次に神が創造したのが、人間の男女アダムとエヴァである。当初、ふたりはエデンの園で自由に暮らしていたが、神から食べることを禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまい、追放されてしまう。その後、アダムとエヴァには、セトという男の子が生まれ、この家系からノアが生まれる。だが、ノアの時代には、人間は神から離れ、地上に悪がはびこってしまった。
 すると神は人間を創造したことを後悔し、これを滅ぼそうと考えた。ただし、「義人」ノアとその家族だけは助けようと考え、ノアに方舟をつくらせて、ノアの家族とその妻子、すべての動物をひとつがいずつ乗せた。そして、神は洪水起こし、方舟に乗ったもの以外はすべて滅ぼしてしまったのである。

 周辺文化の影響の下で成立したパレスチナの「創世記」
 では、史実に目を移そう。
 メソポタミアにおいて、のちに強大な統一国家を生み出す、高度な文明が築かれ始めるのは、紀元前3500年頃のことである。
 だが、パレスチナには強大な権力が誕生することがなく、常に文明の辺境の地であり続けた。
 パレスチナが政治的統一を見るのは、紀元前1000年頃のダビデの登場を待たねばならないのである。 とはいえ、パレスチナに人間が住み始めるのは意外に早い。石器時代の紀元前8000年頃まではナトゥーフ文化と呼ばれる狩猟文化の跡が見られる。この時代の遺跡からは狩猟・採集生活に寄りながらも、集住生活を営んでいた形跡が発見されている。
 さらに紀元前7000年頃には、オアシス地域にエリコのような都市が建設され始める。発掘によれば、この時代のエリコは2000人もの人々が住み、高さ4mの城壁に囲まれていたという。
 紀元前3000年以降、パレスチナの地は青銅器時代に入る。この頃になると、メギドやアラド、ゲゼルなどの都市の基礎が築かれ、「エブラ」という王国も北シリアに登場している。
 現在のエルサレム付近に人間が住みつき始めたのもこの頃とされる。後世に「神殿の丘」と呼ばれる場所の南に位置するオフェルの丘を中心に発展したとみられ、ここからは墓所など当時の生活の跡が発掘されている。
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                        族長アブラハム

                   カナンの地にやってきた諸民族の祖

 混迷のパレスチナにやってきたアブラハム
 紀元前3000年頃、北シリアではエブラ王国が登場し、エジプトとの交易を通じて繁栄した。やがてメソポタミアにアッカド王国が台頭し、エブラを征服。そのアッカド王国が衰退すると、パレスチナの地には新しい住民が侵入した。アモリ人と呼ばれる民族が現れ、メギド、シケム、ハツォルなどに堅固な城壁を持つ都市国家を築き上げたのだ。
 だが、ほどなくこの都市国家群もエジプトの影響下に取り込まれる。以降、アモリ人が築いたパレスチナの都市国家群は、エジプトの主権を認めながらも、互いに争いを続ける時代へと入って行く。『旧約聖書』において、神の啓示を受けたアブラハムがカナン(パレスチナ)にやってきたのは、こうした情勢下であると考えられる。
 伝承によれば、アブラハムは南メソポタミアのウルに生まれ、一族と共に北シリアのハランに移り住んでいたが、神に命じられ、妻と甥とともにカナンに着いた。ここで神はアブラハムに対して彼の子孫にこの土地を与えると約束したという。このアブラハムの物語には、サレムの王という人物が登場するが、このサレムこそエルサレムを指す。
 また、紀元前1900年頃のエジプトの呪詛文字にエルサレムの名が見える。この時期、エルサレムは既に都市国家となっていたのである。

 相争う民族の祖となった2人の子ども
 アブラハムには子がなく、妻サラも高齢だったため、仕え女のハガルがアブラハムの子を産むことになる。ハガルは、やがてイシュマエルという男の子を出産した。
 さらにアブラハム100歳のときに、信じられないことが起こる。なんと90歳の妻サラが、彼の子どもを出産したのだ。その男の子はイサクと名付けられた。
 イサクの誕生は、サラと、長男イシュマエルを出産したハガルとの関係を悪化させた。これに悩んだアブラハムに、神は「すべてサラの言うことに従いなさい。あなたの子孫はイサクが伝え、イシュマエルは一つの国民の父とする」と告げる。そこで、アブラハムはサガルとイシュマエルを追放。のちに追放された長男イシュマエルは、エジプト人の女性と結婚し、アラブ民族の祖となったと伝えられる。
 一方、次男イサクはアブラハムとともに、ベエル・スエバへ下り、その地にとどまった。年老いた母サラは、寄留先のマレム(ヘブロン)の地で亡くなり、その遺体を葬った場所は、のちにアブラハムの墓ともなり、イサクなど代々の族長の墓所として守られた。
 1974年から76年にかけた前述のエブラ王国の首都の発掘調査の際、多数の粘土板の文章が発見されている。この文書には、ヤハウェ、アブラハムなどに似た神の名や人名が見出されたと一部の学者が主張し、アブラハムに始まるイスラエルの始祖伝承との関係が議論の的となった。

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                      ヤコブとヨセフ
         
              ヨセフに導かれてエジプトへ移動したイスラエルの民。
 
 兄エサウの復讐におびえた弟ヤコブ
 アブラムの次男イサクは、父の死後、一族の長となった。彼の妻リベカは双子の男児を出産し、エサウとヤコブと名付けられた。イサクは勇猛な兄エサウを気に入っていたが、リベカは優しい弟ヤクブを愛していて、兄弟の間に争いが絶えなかった。
 やがて年老いたイサクは、エサウに相続権を譲ろうとした。エサウが狩りで得た獲物を料理させて食べ、その後彼を祝福しようというのだ。だが、これを知ったリベカは一計を案じた。年老いてすでに目の見えないイサクには、エサウとヤコブの区別も付かないと考え、ヤコブをエサウになりすまさせて、祝福を受けさせようというのである。
 作戦はまんまと成功し、ヤコブは相続権を得た。だが、エサウの復讐を恐れて、母の勧めによって母の故郷に逃亡。その途中、天国に昇る階段の夢を見たヤコブは、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。
 その後、ヤコブはハランに住む伯父ラバンのもとに身をよせ、やがて独立する。そして、兄エサウとの和解を志して会いに行く途中で、天使と格闘したという。その際、相手から「イスラエル」の名を与えられる。これがのちにイスラエルの民族名の由来となった。

 軍事的変革とともに訪れたカナンの社会的変革
 ヤコブには12人の息子ができた。このうちヨセフは母違いの兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまう。しかし、彼には夢占いの特技があり、王の信任を得て、エジプト王朝の高官にまでのぼりつめる。
 その頃、飢饉による流民が近隣諸国に発生し、エジプトに流入する。その中には、ヨセフの兄弟たちも混じっていた。故郷に残る父ヤコブの姿を思い浮かべたヨセフは、兄弟たちと和解し、彼らと父をエジプトに呼び寄せたいと希望する。

 故郷に戻った兄弟たちの話を聞いたヤコブは、一族のすべての者を連れてエジプトに移住することを決意し、ナイル川下流のゴセンの地で、平和な生活を始めたのだった。
 これ以降、イスラエルの民は、この地で子孫を増やして行く。同時にやがて生まれる一神教の概念の基礎が形成されていったと考えられている。それまでは自然神や地縁神など、その土地の神を信じていたのだが、徐々にそれら排して、自分たち独自の神を立てて、それを信じるようになっていたといわれる。イスラエルの民がエジプトにやってきたのは、一般にヒクソスの支配下にあった時代とされる。ヒクソスは紀元前1700年前後にエジプトに定着した民族で紀元1650年頃に王朝を樹立した。その勢力はパレスチナにも及び、同地を支配下に収めている。そのヒクソス支配下の時代、パレスチナには新しく戦車の導入が盛んに行われ、社会に大きな変革が起った。
 武力を用いて土地を支配する貴族が、納税を義務付けられた臣民を支配する構図が出来上がったのである。また町は堅固な城壁で囲まれた要塞都市へと変貌していた。
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                        カナン征服

                約束の地はいかにして手にいれられたのか

 土地を割り当てられ定住を開始した十二部族
 モーセに率いられたイスラエルの民が、いよいよカナンの入口まで迫っていた頃、当時のカナンでは前述のように、都市国家が分立する状況にあった。各都市国家は、それぞれがエジプトを宗主国としていたが、エジプトの勢力が衰えるにつれて、互いに激しい抗争を繰り広げるようになっていた。『旧約聖書』によれば、イスラエルの民は、モーセの後継者となったヨシュアに率いられて、ヨルダン川の渡河を開始。エリコを攻撃したとされる。
 エリコは、世界最古の町のひとつといわれ、堅固な城壁が築かれていた。だが、包囲七日目に城壁が崩れ落ち、イスラエルの民は、とうとう町を占領する。伝説によれば、エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊したといわれる。
 この戦いによって、ヨシュアの名声が一気に高まり、カナンの王たちは次々に彼の軍門に降った。   
 その後、カナン中部にも進出したヨシュアは、ついにイスラエル12部族に土地を割り当てたのである。
 たしかに、このイスラエル民族のカナン定住は歴史上の事実である。とはいえ、この征服物語は、どこまでが史実たり得るだろうか。
 これについては、人口のまばらな山地から低地に向かって浸透するように定住圏を広げていったとする平和浸透説、ヨシュアの征服を概ね事実とする軍事征服説、都市国家に対して周辺の農民たちが反乱を起こして支配権を確立したとする叛乱説の三つが挙げられてきた。
 近年の調査で、紀元前13世紀末から12世紀にかけて、パレスチナ東部の山岳地帯の広い範囲にわたり、小規模な居住地が突如として300以上も出現したことが判明した。しかも、そこから出土した土器はのちのイスラエルの特徴を示しているという。
 この発見から、イスラエルの民は、まずカナンの山地で生活し、農耕生活へと移行していたことが判明した。このため、イスラエルの成立については平和浸透説が有力視されるようになっている。

 激化の一途をたどった周辺民族との抗争
 かくしてイスラエルの各部族はカナンの地に住み着いたわけであるが、この時期にカナンにやってきた民族は彼らだけではなかった。
 ヨルダン川東岸にはエドム人、モアブ人、アンモン人が定住し、国家を築きつつあったのである。このため、実際には征服が完成したわけではなく、その後も周辺民族との間で激しい争いが続いていく。
 これに対して、イスラエル部族連合を一つにまとめ、いざとなれば自ら戦争指導者となって戦った士師(シシ)と呼ばれる指導者たちが登場したと『旧約聖書』は伝えている。
 『旧約聖書』には、デボラやサムソンといった12人の士師の名前が書かれ、彼らの活躍によってイスラエルの民は何度も危機を乗り越えるのである。
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                       サムエルとサウル

                 ペリシテ人の侵入を阻んだイスラエルの王

 最新鋭の武器を用いて侵入を続けるペリシテ人
 カノンを占領し土地を取得したイスラエルの民だったが、それで平穏が訪れたわけではない。周辺民族による侵入が盛んに行われた。その中でも、よく知られているのがペリシテ人による侵入だ。彼らは、もともとエーゲ海のミノア文明で有名なクレタ島から出てきた人々と考えられている。
 紀元前180年頃、ペリシテ人たちはエジプトと戦い侵入を阻止される。そこで、東部地中海の海岸線一帯に、それぞれの部族ごとにガザ、ガト、アシュケロン、アシュドド、エクロンという五つの都市国家を建設した。
 ペリシテ人はこの頃から、当時としては最新鋭の鉄製の武器を駆使して、内陸部への進出を始めた。ペリシテ人たちはカナンに侵入してさらに都市を築き、王を戴く国家をつくりあげていったのである。 イスラエルの民はそんなペリシテ人と抗争を展開するようになったのだが、紀元前11世紀頃にイスラエルを主導したのが士師サムエルである。
 ・・・以下略


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