真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの謀略、日本の戦後三大事件とアメリカの戦争

2023年04月14日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争が続き、台湾有事が心配される現在、私は、下山事件帝銀事件、その他の事件を細部にわたって調査し、精密に論証した「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)は、極めて示唆に富むものであると思います。
 特に、
 ”一つの大きな政策の転換は、それ自身だけでは容易に成し遂げられるものではない。それにはどうしてもそれにふさわしい雰囲気をあらかじめ作っておかなければならぬ。この雰囲気を作るための工作が、さまざまな一連の不思議な事件となって現れたのだと私は思う。
 という指摘は見逃すことができません。
 アメリカは、戦後日本の事件のみならず、いろいろな戦争で、この”雰囲気を作るための工作”をしてきたと思います。
 ベトナム戦争では、ペンタゴン・ペーパーズの暴露で、トンキン湾事件の捏造が明らかになり、湾岸戦争では虚偽の「ナイラ証言」が、反イラク感情を高めるために利用され、イラク戦争では、大量破壊兵器の存在に関わる文書が捏造されたものであったことが明らかになっています。これらは、アメリカの戦争を正当化するための ”雰囲気を作る”工作であったと思います。
 そして、下記に抜萃したように、朝鮮戦争でも、「北朝鮮軍による、不意打ち的な38度線突破の侵略」を印象づける報道が、世界中に流布され、”雰囲気を作る”ために利用されたと思います。

 でも、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)に対し、これは”反米的な意図で書かれた”のではないか、とか、こういう書き方は「固有の意味の文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間物めいた”ヌエ的”なしろもの」というような非難があったといいます。
 私は そうした非難は、アメリカと何らかの関わりがある人か、あるいは、当時の日本が直面していた重要問題を理解しない人の非難だと思います。
 なぜなら、米ソ冷戦が厳しさを増していたこの時期、 日本国内でも、二・一ゼネストが計画され、革新勢力による民主人民政府の樹立を目指すような大きなうねりがあったことを見逃していると思うからです。
 当時、GHQの主導権も民政局(GS)から参謀第2部(G2)に移って、いわゆる「逆コース」が始まり、日本という国の針路が、GHQによって大きく「右方向」に変えられつつあったことをしっかり見る必要があると思うのです。

 下山事件をはじめとする、戦後三大事件や、それに類する数々の事件によって、日本の民主化は頓挫し、日本に再び、治安維持法下の、”共産主義者(赤)を恐ろしい犯罪者”とするような空気が漂うことになってしまったように思います。そしてそれこそが、GHQのねらいだったのだと思います。
 それを松本清張は、”下山事件が起こってから、この闘争(国鉄労組の闘争)は台風の眼の中に原子爆弾を打ち込んだように衰弱し、雲散霧消してしまった”と表現しています。そうした変化は、真実を知るために見逃してはならないことだと思います。
 GHQは謀略事件によって、日本の民主化の歩みを停止させ、アメリカ傘下の右翼的な国家に引き戻すことに成功したということができると思います。

 また、松本清張は、”私は自分のやり方を、あたかも歴史家が資料をもって時代の姿を復元しようとしている仕事をまねた”と書いていることも、見逃すことのできない大事なことだと思います。
 ”史家は、信用にたる資料、いわゆる彼らのいう「一等資料」を収集し、それを秩序立て、綜合判断して「歴史」を組み立てる。だが、当然、少ない資料では客観的な復原は困難である。残された資料よりも失われた部分が多いからだ。この脱落した部分を、残っている資料と資料とを基にして推理してゆくのが史家の「史眼」であろう。従って、私のこのシリーズにおけるやり方は、この史家の方法を踏襲したつもりだし、また、その意図で書いてきた
 というのです。したがって、その姿勢を考慮しない非難は、的外れだと思います。
 
 さらに、警察には、スタンドプレーではなく地道に歩いて聞き込みを続け、証拠を積み重ねて犯人を見つけ出せ、という犯罪捜査の鉄則があるといわれていますが、松本清張は、まさにその鉄則通り、さまざまな調査をもとに、同書を書いていることも見逃してはならないと思います。

 だから、簡単に非難できるような内容ではなく、同書のどこがどう”反米”であり”ヌエ的”なのかの具体的な指摘なしには、成立しない非難だ、と私は思います。
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                     謀略朝鮮戦争
    2
 朝鮮戦争の端緒についてよく云われる「南北のどちら側が先に攻撃を仕掛けたか」という問題は、今日でも興味のある謎である。アメリカ国務省の発表では、「北朝鮮軍が、1950年6月25日日曜日の夜明け直前(朝鮮時間)38度線を越えて、大韓民国に対し、全力をあげての攻撃を開始した、という最初の公式報告は、朝鮮に駐在する米国大使ジョン・J・ムチオから受取った。同大使の報告を国務省で受取ったのは土曜日の夜、即ち、6月24日の東部日光節約時間午後9時26分であった。北朝鮮の共産政権が大韓民国に対して開始した奇襲こそは、世界の平和への狂暴な攻撃であった。この奇襲は、人民自らによって選ばれ、国際連合の協力を得て樹立され、世界における自由な諸国家の大多数によって承認された一独立政府の治政下にある、平和に満ちた人民に対し向けられたものであった」(『朝鮮白書』)とあって、北朝鮮側の侵入と断じている、ところで、この日は丁度日曜日であったため、奇襲が真珠湾の攻撃と同じ性質だと見るむきもあった。
 ジョン・ガンサーは書いている。「(1950年)6月25日日曜日朝早く、私は妻と共に京都から東京へ帰って来た。そして、そのまま日光へ旅行に出かけた。発車の間際になって、ホイットニー少将は私たちを見送りながら、日光へは同行できなくなった、と云った。マッカーサーに云われて、丁度この日曜日総司令部へ出る必要ができた、とのことだった。しかし、これは何か変なことでもあったためとは思われなかった。総司令部の幹部どころは、大抵、日曜日にも呼び出されることになっていたからである。時間は「午前8時20分だったが、丁度そのころ朝鮮で起った事件については、総司令部ではまだ誰も知らなかったと思う。日光に着いて、世界で最も華麗な見物の一つである寺院を見物して、丁度昼食を取ろうとしていた時、この高官の一人が思いがけなく電話に呼び出された。彼は私たちの所へ戻ってくると、低い声で『大ニュースですよ。韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始したんです』と云った」(『マッカーサーの謎』)

 ガンサーのこの文章は、いろいろの本によく引用されている。確かにこの時は、韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始した、と高官は囁いたというのである。ガンサーはつづけて、「このニュースは、どちらが侵略を始めたかという点については、とんでもなく間違ってはいたが」とあっさり主客の位置を変更している。つまりその高官は昂奮のあまり、間違えてしまったというのだ。
 ガンサーはつづけて云う。「東京の総司令部は云わずもがな、韓国駐在のアメリカ人たちも、完全に不意を衝かれたかたちであった。いずれも、まるで太陽が突然に消え失せでもしたかのようなひどい愕き方だった。北朝鮮側としては戦術上の完全な奇襲に成功したわけで、それはまた戦略上の奇襲でさえもあった。まことに真珠湾以上の醜態だった。われわれは眼をつむっていたばかりでなく、われわれの脚までがぐっすり睡っていたのである」
 
 この記事は、そのまま日本国民の印象でもあった。当時の日本の各新聞の第一報は、いずれも「北鮮軍、38度線を侵入」と大きく書き立てている。だから日本国民の大多数は今でも、北朝鮮軍が南朝鮮軍に仕掛けた、と信じている。
 ガンサーによると、6月25日朝、北朝鮮軍は、正規軍四個師団および警察隊三個旅団という大部隊を繰り出して攻撃し、戦線には7万人の将兵が投入され、約70台の戦車が四カ所の違った地点で同時に行動を起した。このような軍隊を集めて、武器と装備を与え、予定の日に広い戦線に亙って一斉に予定の攻撃にすべり出すには、最少限、一か月の準備が必要であったに相違ない、という意味を云っている。もし、そうだとすると、この38度線の動きをワシントンの国防総省(ペンタゴン)は何も知らなかったのであろうか。38度線の両側は、それまで何百回となく小戦闘を繰返し、極度の緊張にあった。現に、国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスは、戦争の勃発する2日前、38度線の最前線の塹壕の中に入って視察し、東京に帰っている。もし、アメリカ情報網が北側の「不意打ち」の動きを全く「眼を閉じ、両脚さえもぐっすり睡り込んでいた」なら、随分、だらしない話である。
 ワシントンの新聞記者たちは、これを確かめようとして中央情報局長官ロスコ・H・ヒレンケッター海軍少将に質問したが、彼は、「朝鮮では、今週、または来週ごろ、侵略が始まるかも知れない状況だった」し、米国の諜報機関はこれを知っていた、と言明した。また、同少将は、次の日、上院歳出委員会の非公開会議に出席して、「米国諜報網が虚を衝かれたのではない」ことを共和党議員に納得させながら、一方では、「北朝鮮軍は南朝鮮侵略の能力を一年以前から持っていたが、実際に進撃して来るかどうか、また進撃して来るとすればどんな予定表になるか、を予見するのは不可能であった」と語った。これは彼の前言と喰い違っているが、次の日、上院委員会に呼び出された同少将は、秘密会でさらに説明を行った。この時、聴聞会室から出て来た委員たちは、ヒレンケッター少将の証言が前のアイマイな声明とは全然違ったもので、諜報機関の報告の綴じ込みを取出したりして、自分が虚を突かれたのではないことを証明したので、委員たちは「中央情報局がよくやっていた」ことを納得したそうである。(I・F・ストーン『秘史朝鮮戦争』)
 さて、東京のマッカーサーの司令部はどうであったか。
「しかし、マッカーサーは朝鮮にあまり注意を払っていなかった。かれは動乱が勃発するまで僅かに一度しか朝鮮を訪問していない。それもたった一日だけで、それは1948年8月の韓国独立式典に列席するためだった。そのまた韓国が独立した8月15日以後は、朝鮮に対しては政治的にも軍事的にも、かれには何の責任もなかったのである。元帥のほうには何ら非はなかったのである。朝鮮はかれの管轄ではなかった」とガンサーはマッカーサーのために弁護している。しかし、さすがに、これではいかにも困ると思ったのか、つづけて、「しかし、その半面、かれはアメリカの極東軍最高司令官として、朝鮮の事態にはもっと深く注意していて然るべきであったろう」と柔らかくたしなめている。朝鮮がマッカーサーの管轄外であったということは、同時に朝鮮が極東軍司令部の管轄外であったということになる。これは誰が聞いてもおかしな話で、ただ三百代言的な強弁としか取れない。朝鮮にはホッジ中将が司令官として駐在していたが、無論、極東軍最高司令官としてのマッカーサーとつねに連絡があったことは云うまでもないことだ。
 それにマッカーサーの最高情報長官ウイロビーG2部長は、ワシントンと同様に北朝鮮軍の侵入を事前にしらなかったのであろうか。

 これに対して、戦争の勃発した6月25日早朝の平壌放送は、内務省の報道を伝えた。「今6月25日払暁、南朝鮮カイライ軍は、38度線全域に亙り、38度線以北地域に不意の進攻を開始した。不意の進攻を開始した敵は、海州方面西方からと、金川方面と、鉄原方面から38度線以北地域に向かって1キロ乃至2キロまで侵入した。
 朝鮮民主主義人民共和国内務省は、38度線以北地域に侵入した敵を撃退するようにと、共和国警備隊に命令を下した。警備隊は進攻する敵を迎え撃って苛酷な防衛戦を展開している。共和国警備隊は、襄陽(ヤンヤン)方面から38度線以北に侵入した敵を撃退した」
 いろいろな資料から見て、南朝鮮側では、戦争勃発を予見したさまざまな準備処置が講じられていたことがうかがえる。しかし、北朝鮮軍側に、この「処置」があったかどうかを知ることは出来ない。これは、その資料が乏しいためか、それとも、その「処置」が「皆無」だったか、どちらかである。しかし、全く皆無だったとは常識的に思われない。何故なら、38度線ではそれまで千回以上の小戦闘が繰返されていたし、また、のちに触れるような南朝鮮側の臨戦態勢の情報がキャッチされなかったとは思われないからである。だから南朝鮮側の「侵入」を受けるや、直ちにこれを受けて軽く斥け、さらにあれだけの猛追を行ったのは、当時、ただ防衛的な態勢で、手薄な警備隊のみが配置されていとは考えられないのだ。この辺は、ガンサーの云う北朝鮮の態勢や、アメリカ切っての軍事記者ハンスン・ボールドウィンが書いたような、「北朝鮮軍四個師団の主要部分および警察軍旅団と報告されている部隊二つが38度線に配置されておりおそらく日本製と思われる軽戦車および中型戦車、ソ連式122ミリ野砲約30問その他の重装備が前線に配置され、部隊の集結が目に着くようになってきた」
という報告は、その数字をどの程度信用するかは別として、防禦から大攻撃へ直ぐに移れるだけの兵力の配備はあったように考えられる。
 このことに関してだが、退役後のマッカーサー自身の証言がある。戦闘以前の北朝鮮軍の配備について、彼は次のように云った。「双方とも、軽装備と呼びうるものを組織しました。南朝鮮の国境警備隊は正規の警察よりはいくらか強力で、当然、国境を警備していましたが、正規軍には比較すべくもありませんでした。私の記憶によれば、北朝鮮軍の保安隊は、彼らの云う四個旅団に組織されていました。そして、この旅団は、その強さに於ては北朝鮮の正規軍と同じくらいでした。しかし、北朝鮮側が38度線に沿って配置した保安隊の背後では、新しい軍隊が組織されていました。この軍隊は慎重に組織され、おそらく鴨緑江(アムノツカム)の北方で──多分、満洲で慎重に訓練されていました。要するに、北朝鮮軍は38度線から遥かに離れた遠い所に配置されていたのです。それは防衛のための配置であって、攻撃のための配置ではありませんでした」
 これは不思議な証言である。北朝鮮軍は攻撃のための配置をしていなかった、とマッカーサーは証言する。これは彼が罷免になってからの言葉だが、アメリカが国連に持出した際に説明した北朝鮮の侵略は、この言葉でどう説明できるのであろうか。ストーンもこのことについて「何故、北朝鮮側は完全に準備が出来てから侵略を始めなかったのか。その理由は、おそらくウイロビー少将が説明してくれるだろう」と書いている。
 それは、それから1年後になってウイロビーが「いわゆる北朝鮮軍全軍は、数週間に亙り待機の態勢にあり、38度線に沿っていつでも行動に出られる準備を整えていた」と述べたことに照応する。また、アチソンが米国諜報機関の能力について上院議員に質問されたとき、「私は諜報上の失敗があったとは思われない」と述べ、6月25日以前に提出された北朝鮮軍の企図に関する諜報の実例とした二つの報告は、これまでかなり言及されている。その一つは、米極東軍司令官の綜合週間情報で、それは、1950年3月10日に、「北朝鮮人民軍は1960年6月に南朝鮮を侵略開始の予定、との報告に接した」と云っている。米極東軍司令官とは、もちろんマッカーサーである。また、韓国が北朝鮮と戦った場合、米国はどこまで支持してくれるかという問題について、米上院外交委員長コナリーがワシントンの有力な週刊誌に与えたインタビューは、東京の英字紙『日本タイムス』に5月3日転載されたが、その見出しは「コナリー、共産軍が米軍を南朝鮮から追い出すと予言」と大きく掲げている。
 マッカーサーがどのような言葉を隠していても、南朝鮮が北朝鮮に仕掛けるかもしれない警報は、頻々と米側に補足されていたのである。「米情報機関はよくやった」と賞められたヒレンケッター海軍少将は、CIAの二代目の親分だったが(この年10月、彼は更迭されている。その後に有名なアレン・ダレスが就任した)、まさにワシントンの情報機関は知っていたのである。もちろん、東京のG2もこれを知っていた。ワシントンよりも東京の情報機関が朝鮮により多くの情報網を置いていたことは、その地理的関係からいっても、現地軍の直接影響からいっても、想像に難くない。朝鮮における情報が直接ワシントンに行った場合もあったに違いないが、それよりも多くの場合、東京からの情報が中継されたと考えるのは妥当であろう。公式、非公式の各種記録が示すように、G2は比類なき情報網を持ち、謀略機関としては第一級を誇っていた。その中には、CICや、独立したキャノン機関や、Y機関などと呼ばれるものが存在し、専門に、中国、北朝鮮、ソ連情報に数十億円の巨費とあらゆる機能を投入して接触していたし、各種の暗号や通信書簡までも極秘裏に捕捉していた。
 しかも、これほどの態勢にあり、「不意打ち」を喰らった印象を与え、アメリカ本国でも上院外交委員会が騒いだのは何故であろうか。また、ガンサーが日曜日に日光に見物に行くほどGHQの空気がのんびりしていたのは何故であろうか。ここで、一つの犯罪を企む犯人はつねにアリバイを工作することを、何んとなく連想するのである。アメリカ軍が韓国軍を38度線の前面に置いて、あくまでも一方的な防衛態勢で、北朝鮮軍の攻撃を予知できなかったと主張することが、この場合アリバイなのである。
 国連の現地視察員が、「韓国軍が侵略を目的とする作戦は不可能である」旨の報告書を国連安全保障理事会に書いたのが、戦闘開始の前日6月24日で、これはアメリカにとっても極めて好都合なアリバイとなった。

 


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