真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO14 12月8日対米外交打切り通告文書(宣戦布告)②

2020年08月21日 | 国際・政治

 前ページで取り上げたように、アメリカ政府高官バランタイン氏は、東京裁判において、日本の宣戦布告が、実は「対米外交打切り通告文」であったこと、そしてそれは”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”といえるようなものであったこと、さらにそれが、”真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである”ことなどを証言しました。

 だから、日本の「宣戦布告」に、国際法上重大な問題があったことは否定できません。
 日本が対米英蘭に対する開戦を決定したのは、十二月一日の御前会議です。十二月二日には杉山参謀総長から寺内南方軍総司令官あて、下記のような軍機電報が発電されているのですが、八日の奇襲攻撃も決定されていたのです。
 参電第五二九号
一 大陸命第五六九号(鷲)発令アラセラル。
ニ 「ヒノデ」は「ヤマガタ」トス。
三 御稜威ノ下切ニ御成功ヲ祈ル。
四 本電受領セバ第二項ノミ復唱電アリ度。

 着々と準備が進められていたのに、宣戦布告が事前になされず、奇襲攻撃の後になったのはなぜなのか。
 この”「ヒノデ」は「ヤマガタ」トス”というのは、連絡会議において決定されていた「宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付テ」の”Y(X+1)日宣戦布告”とあるX(奇襲攻撃)について”X日ハ、十二月八日トス”の隠語であったということです。
 したがって、奇襲攻撃の翌日に宣戦布告をする計画が進められていたことがわかります。でもその後、関係者の間で攻撃開始と宣戦布告の関係について様々なやり取りが続けられ、バランタイン氏が証言したような「宣戦布告」になったようです。
 でも、決定にあたって石井大佐が述べたように、”事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した”という考えが働いていたことは否定できないと思います。”攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる”ために、日本の中枢で、堂々と国際法を無視した宣戦布告の話し合いがなされていたのです。

 そしてそれは、九ヶ国条約を蔑ろにし、ハル・ノートを米国の日本に対する最後通牒であり、宣戦布告であると受け止める姿勢と共通のものだと思います。
 九ヶ国条約を背景とする、ハル・ノート(「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」)の四つの原則
  (一)一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  (二)他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  (三)通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則  
  (四)紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
は、日本を不当に差別扱いするものではなく、ごく当たり前の原則だと思います。この原則を日本に要求することがどうして”米ノ回答全ク高圧的ナリ。而シテ意図極メテ明確、九国条約ノ再確認是ナリ。対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ。交渉ハ勿論決裂ナリ。…”ということになるのか、現在の常識的な判断では理解できないことだと思います。だから、ハル・ノートを最後通牒と受け止めた皇国日本は、やはり近代法の精神を尊重せず、”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、条約や国際法を蔑ろにする国であったと思います。

 さらに言えば、下記に抜萃した「対米外交打切り通告」は、どう考えてもいわゆる「宣戦布告」の文書ではないと思います。「戦ヲ宣ス」という言葉はどこにもありません。また書かれている内容も、大部分、武力を背景とした日本の対外政策を過去にさかのぼって正当化し、米国の対応をいちいち非難する一方的なものだと思います。 ハル国務長官がこの文書を読み、野村・来栖両大使に向かい怒りをあらわにしたのも不思議ではないと思います。
 また、開戦という非常事態の時に、「開戦の詔書」をはるかに上回る長文の「対米外交打切り通告」の文書を米側に手交したことも、何か意図的な気がします。当時の日本は”攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる”ためには、国際法無視も大した問題ではないと考える国だったのではないかと思うのです。

下記は、「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)から「外交打切り通告文」を中心に抜粋しました。
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        第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議

 対米外交打切り通告文の打電
 さて問題の対米外交打切り通告は、東郷外相發野村大使あて第901号、第902号、第907号の三つの電報をもって訓令された。十ニ月七日午前四時から発電する予定が、六日午後八時三十分からに変更された。第901号電は次のとおりである。

 第901号(館長符号)
 往電第八四四号ニ関シ、
一 政府ニ於テハ十一月二十六日ノ米側提案ニ付慎重廟議(ビョウギ)ヲ尽シタル結果、別電第902号ノ対米覚書ヲ決定セリ。
二 右別電覚書ハ長文ナル関係モアリ、全部(十四部ニ分割打電スベシ)接受セラルルハ明日トナルヤモ知レザルモ刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付、右御受領相成リタルコトハ差当リ厳秘ニ附セラルル様致サレ度シ。
三 右覚書ヲ米側ニ提示スベキ時期ニ付テハ、追ッテ別ニ電報スベキモ、右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様、文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ。
 別電の第902号電は通告文そのものであり、これを十四通に区分し、第十四通が前記通告文の最後の項(第七項)であった。そして第907号電が次のような覚書手交時刻を指令したものであった。
 第907号 大至急(館長符号)
 往電第901号ニ関シ
 本件対米覚書貴地時刻七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成るべく国務長官ニ)貴大使ヨリ直接御手交アリ度シ。

 右第901号と第902号の最初からの十三通は、十二月六日午後八時三十分から七日午前零時ニ十分の間に、外務省内電信分局から東京中央電信局に送られ、中央電信局はそれを六日午後九時十分から七日午前一時五十分の間に米国向け発電した。第902号の第十四通は迅速かつ正確な華府到着を期するため、米国のMKY及びRCAの両路線を通じ、一時間の差をおいて同文がそれぞれ発電された。その二重通信の着意は連絡会議において申合されていたことでもあった。すなわち右第十四通は七日午後四時外務省電信分局から中央電信局に送られ、中央電信局はそれを七日午後五時MKY経由、午後六時RCA経由でそれぞれ発電した。そして同じ要領に従った最後の第907号電の発信電時刻は、外務省電信分局が七日午後五時三十分、中央電信局が七日午後六時三十分(MKY)、又は同午後六時二十八分(RCA)であったのである。
 当時外務省電信課長であった龜山一二によれば、「当時の日米間に於ける通信状況は一般に良好で、電信連絡所要時間は大体三十分ないし一時間」であり、また「日米交渉関係電報はすべて官報であったばかりでなく、米国電信会社に於ても時局柄此の種電報の処理は迅速を期したものと想像せられ、仮に受信後二時間にして在華府(ワシントン)日本大使館に電報が送達せられたとすれば」ワシントン時間で次のような日時に訓電は日本大使館に到着していたはずであるというのであった。
 第901号      十二月六日十時ごろ
 第902号の十三通  同日午前十一時ないし午後三時ごろ
 第902号の第十四通 十二月七日午前六時ないし七時
 第907号      同日午前七時半ごろ
 以上外務当局の措置は綿密周到至れり尽くせりというべきであった。すなわち十二月七日午後一時(ワシントン時間)の外交打切通告は十分間に合うはずであった。

 外交打切り通告文手交の遅延
 しかるに右外交打切りの対米覚書が、野村大使からハル国務長官に手交されたのはワシントン時間十二月七日午後二時ニ十分であり、それより早くも一時間前(ハワイ時間七日午前七時五十分)ハワイ空襲は開始されていたのである。
 来栖大使に随行渡米した前亜米利加局第一課長結城司郎次及び当時駐米大使館附海軍武官補佐官であった實松譲大佐によれば十二月六日から七日(ワシントン時間)にかけての大使館の動きは以下のとおりであった。すなわち前記訓電第901号は六日(土曜日)正午までに解読を終了した。次いで続々到着した訓電第902号の始めの八~九通の解読も午後七時ごろまでに終わった。その間に「往電第902号ニ関シ申ス迄モナキコト乍ラ本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ、『タイピスト』等ハ絶対ニ使用セザル様、機密保持ニハ此上共慎重ヲ期セラレ度シ」という第904号訓電(東京時間十二月六日午後十一時外務省分局発信)が到着解読済みであった。
 当夜転勤の一館員のための送別晩餐会が催され、一時作業は中断したが、電信課員は右送別会終了後再び大使館に帰り、第902号電の第十三通までの解読を夜半までに全部終了した。右解読の進むに従い、前記第901号訓電の趣旨に基づき、それは点検、整理、タイプせらるべきものであった。その主任者は大使館の総務担当たる奥村勝蔵書記官であり、大使館高等官職員中一応タイプの打てるのは同書記官だけであった。しかるに奥村書記官は同夜友人との約束があり、右作業は翌日まで全く放置された。井口貞夫参事官、松平康東書記官、寺崎英成書記官ももとより不在であった。電信課員らも六日夕刻井口参事官から、自由行動を取ってもよろしいとの指示があったことでもあり、七日早暁当直一名を残して引揚げてしまった。その後に肝腎の第902号電の第十四通及び第907号訓電が到着しているのであった。
 いつも出勤の早い奥村書記官の日曜日十二月七日の出勤は遅かった。午前九時ごろ實松海軍武官補佐官が出勤すると、大使館にはまだだれもおらず
(当直の電信課員も日曜日のミサに行っていた)郵便受には新聞電報等がいっぱい詰まっていた)電信課員が出勤して電報解読に取りかかったのは午前十時ころであった。第907号電の解読が終わったのは午前十一時、第902号第十四通の解読完了は遅れて午後零時三十分ころであった。奥村書記官の出勤した時刻は明らかでないが、不慣れなタイプに時間を要するのは当然であり──不出来のため最初の十三通の打直しを行ったりした──第902号電すなわち対米覚書全文のタイプが完了したのは午後一時五十分であった。
 午前十一時ごろ第907号電の解読完了に伴い、直ちに電話をもって午後一時におけるハル国務長官との会見が取付けられた。最初は午餐の先約があるからウェルズ次官と会ってくれということであったが、間もなく国務省で午後一時会見すると申越して来た。米側は七日午前十時三十分までに、第901号、第902号、第907号電全部の暗号解読及び関係要路への配布を終っていたのである。 午後一時五十分覚書のタイプ完了に伴い、大使館玄関で待っていた野村・来栖両大使は、国務省に急行し午後二時ごろ到着した。書類の準備遅延のため午後一時の訪問が遅れるかも知れぬということは既に先方の了解を得ていた。覚書手交が午後二時ニ十分となったのは、国務省で約ニ十分待たされたからであった。それはハル国務長官が日本軍のハワイ空襲を確認するためであった。野村大使が「午後一時この回答を貴長官に手交すべく訓令を受けた」と述べたところ、ハル長官は「何故一時か」と尋ねた。野村大使は「何故なるを知らず」と答えざるを得なかった。ハワイ空襲が行われていたことなどもとより知る由もなかった。覚書を受取ったハル国務長官の口から出た言葉は「五十年の公生活において私はこれ以上恥ずべき虚偽歪曲に満ちた文書を嘗て一度も見て来なかった。この恥ずべき虚偽歪曲は極めて大規模であり、地球上の如何なる政府もこれを述べ得るものとは私は嘗て思いもよらなかった」というのである。虚偽歪曲に満ちた文書であるか否かは歴史が判定すべきことである。
ーーー
 外交打切り通告文
 問題の対米覚書の前記末項(第七項)を除く全文は次のとおりであった。

一 帝国政府ハ「アメリカ」合衆国政府トノ間ニ友好的諒解ヲ遂ゲ両国共同ノ努力ニ依リ太平洋地域ニ於ケル平和ヲ確保シ、モッテ世界平和ノ将来ニ貢献セントスル真摯ナル希望ニ促サレ、本年四月来合衆国政府トノ間ニ両国国交ノ調整増進竝太平洋地域ノ安定ニ関シ、誠意ヲ傾倒シテ交渉ヲ継続シ来タリタル処、過去八月ニ亙ル交渉ヲ通シ合衆国政府ノ固持セル主張竝此間合衆国及英国ノ帝国ニ対シ執レル措置ニ付、茲ニ率直ニ其所信ヲ合衆国政府ニ開陳スルノ光栄ヲ有ス

二 東亜ノ安定ヲ確保シ世界ノ平和ニ寄与シ、モッテ万邦ヲシテ各其所ヲ得シメントスルハ帝国不動ノ国是ナリ。曩ニ中華民国ハ帝国ノ真意ヲ解セズ不幸ニシテ支那事変ノ発生ヲ見ルニ至レルモ、帝国ハ平和克復ノ方途ヲ講ズルト共ニ、戦禍ノ拡大ヲ防止センガ為終始最善ノ努力ヲ致シ来レリ。客年九月帝国が獨伊両国トノ三国条約ヲ締結シタルモ亦右目的ヲ達成センガ為ニ外ナラズ。然ルニ合衆国及英帝国ハ、有ラユル手段ヲ竭シ重慶政権ヲ援助シテ日支全面和平ノ成立ヲ妨碍シ、東亜ノ安定ニ対スル帝国ノ建設的努力ヲ控制セルノミナラズ、或ハ蘭領印度ヲ牽制シ、或ハ仏領印度支那ヲ脅威シ、帝国ト此等諸地域トガ相携ヘテ共栄ノ理想ヲ実現セントスル企図ヲ阻害セリ。殊ニ帝国ガ佛国トノ間ニ締結シタル議定書ニ基キ、佛領印度支那共同防衛ノ措置ヲ講ズルヤ、合衆国政府及英国政府ハ之ヲモッテ自国領域ニ対スル脅威ナリト曲解シ、和蘭国ヲモ誘ヒ資産凍結令ヲ実施シテ帝国トノ経済断交ヲ敢テシ、明カニ敵対的態度ヲ示スト共ニ、帝国ニ対スル軍備ヲ増強シ帝国包囲ノ態勢ヲ整ヘ、モッテ帝国ノ存立ヲ危殆ナラシムルガ如キ情勢ヲ誘致スルニ至レリ。右ニ拘ラズ帝国総理大臣ハ本年八月事態ノ急速収拾ノ為メ合衆国大統領ト会見シ、両国間ニ存在スル太平洋全般ニ亙ル重要問題ヲ討議検討センコトヲ提議セリ。然ルニ合衆国政府ハ右申入ニ主義上賛同ヲ与へ乍ラ、之ガ実行ハ両国間重要問題ニ関シ意見一致ヲ見タル後トスベシト主張シテ譲ラズ。

三 仍テ帝国政府ハ九月二十五日、従来ノ合衆国政府ノ主張ヲモ充分考慮ノ上、米国案ヲ基礎トシ之ニ帝国政府ノ主張ヲ取入レタル一案ヲ提示シ議論ヲ重ネタルガ、双方ノ見解ハ容易ニ一致セザリシヲモッテ、現内閣ニ於テハ従来交渉ノ主要難点タリシ諸問題ニ付、帝国政府ノ主張ヲ更ニ緩和シタル修正案ヲ提示シ交渉ノ妥結ニ努メタルモ、合衆国政府ハ終始当初ノ主張ヲ固執シ協調的態度ニ出ズ交渉ハ渋滞セリ。茲ニ於テ十一月二十日ニ至リ、帝国政府ハ両国交渉ノ破綻ヲ回避スル為メ最善ノ努力ヲ尽ス趣旨ヲモッテ、枢要且緊急ノ問題ニ付公正ナル妥結ヲ図ル為メ前記提案ヲ簡単化シ、(一)両国政府ニ於テ佛印以外ノ南東亜細亜及南太平洋地域ニ武力進出ヲ行ハザル旨ヲ確約スルコト、(二)両国政府ニ於テ蘭領印度ニ於テ其ノ必要トスル物資ノ獲得ガ保障セラルル様相互ニ協力スルコト、(三)両国政府ハ相互ニ通商関係ヲ資産凍結前ノ状態ニ復帰スルコト、合衆国政府ハ所要ノ石油ノ対日供給ヲ約スルコト、(四)合衆国政府ハ日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルガ如キ行動ニ出デザルコト (五)帝国政府ハ日支間和平成立スルカ、又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ、現ニ佛領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スベク、又本了解成立セバ現ニ南部佛領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ之ヲ北部佛領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコト等、ヲ内容トスル新提案ヲ提示シ、同時ニ支那問題ニ付テハ、合衆国大統領ガ曩ニ言明シタル通リ、日支和平ノ紹介者ト為ルニ異議ナキモ、日支直接交渉開始ノ上ハ、合衆国ニ於テ日支和平ヲ妨碍セザル旨ヲ約センコトヲ求メタルガ、合衆国政府ハ右提案ヲ受諾スルヲ得ズト為セルノミナラズ、援蒋行為ヲ継続スル意思ヲ表明シ、次デ更ニ前記ノ言明ニ拘ラズ、大統領ノ所謂日支和平ノ紹介ヲ行フノ時機猶熟セズトテ之ヲ撤回シ、遂ニ十一月二十六日ニ至リ、偏ニ合衆国政府ガ従来固執セル原則ニ強要スルノ態度ヲモッテ、帝国政府ノ主張ヲ無視セル提案ヲ為スニ至リタルガ、右ハ帝国政府ノ最モ遺憾トスル所ナリ。

四 抑々本件交渉開始以来、帝国政府ハ終始専ラ公正且謙抑ナル態度ヲモッテ鋭意妥結ニ努メ、屡々難キヲ忍ビテ能フ限リノ譲歩ヲ敢テシタルガ、交渉上重要事項タリシ支那問題ニ関シテモ協調的態度ヲ示シ、合衆国政府ノ提唱セル国際通商上ノ無差別待遇ノ原則的遵守ニ付テハ本原則ノ世界各国ニ行ハレンコトヲ希望シ、且其ノ実現ニ順応シテ之ヲ支那ヲモ含ム太平洋地域ニ適用スル様努力スベキ旨ヲ表明シ、尚支那ニ於ケル第三国ノ公正ナル経済活動ハ何等之ヲ排除スルモノニアラザルコトヲモ闡
明セルガ、更ニ佛領印度支那ヨリノ撤兵ニ付テモ、情勢緩和ニ資スルガ為メ前述ノ如ク南部佛領印度支那ヨリノ即時撤兵ヲ進ンデ提議スル等、極力妥協ノ精神ヲ発揮セルハ合衆国政府ノ夙ニ諒解スル所ナリト信ズ。然ルニ合衆国政府ハ常ニ理論ニ拘泥シ現実ヲ無視シ、其ノ抱懐スル非実際的原則ヲ固執シテ何等譲歩セズ、徒ラニ交渉ヲ遷延セシメタルハ帝国政府ノ諒解ニ苦ム所ナルガ、特ニ左記諸点ニ付テハ合衆国政府ノ注意ヲ喚起セザルヲ得ズ
(一)合衆国政府ハ世界平和ノ為メナリト称シテ自己ニ好都合ナル諸原則ヲ主張シ、之ガ採択ヲ帝国政府ニ迫レル処、世界ノ平和ハ現実ニ立脚シ、且相手国ノ立場ニ理解ヲ持シ、相互ニ受諾シ得ベキ方途ヲ発見スルコトニ依リテノミ具現シ得ルモノニシテ、現実ヲ無視シ一国ノ独善的主張ヲ相手国ニ強要スルガ如キ態度ハ、交渉ノ成立ヲ促進スル所以ノモノニアラズ。
 今般合衆国政府ガ日米協定ノ基礎トシテ提議セル諸原則ニ付テハ、右ノ中ニハ帝国政府トシテ趣旨ニ於テ賛同吝カナラザルモノアルモ、合衆国政府ガ直ニ之ガ採択ヲ要望スルハ、世界ノ現状ニ鑑ミ架空ノ理念ニ駆ラルルモノトイフ外ナシ。尚日、米、英、支、蘇、蘭、泰七国間ニ多辺的不可侵条約ヲ締結スルノ案ノ如キモ、徒ラニ集団的平和機構ノ旧構想ヲ追フノ結果、東亜ノ実情ト遊離セルモノトイフノ外ナシ
(二)合衆国政府今次ノ提案中ニ、「両国政府ガ第三国ト締結シ居ル如何ナル協定モ、本取極ノ根本目的タル太平洋全域ノ平和確保ニ矛盾スルガ如ク解釈セラレザルコトニ付合意ス」トアルハ、即チ合衆国ガ欧州戦争ニ参入ノ場合ニ於ケル帝国ノ三国条約上ノ義務履行ヲ牽制セントスル意図ヲモッテ提案セルモノト認メラルルヲモッテ、右ハ帝国政府ノ受諾シ得ザル所ナリ。
(三)合衆国政府ハ其ノ固持スル主張ニ於テ、武力ニ依ル国際関係処理ヲ排撃シツツ、一方英帝国等ト共ニ経済力ニ依ル圧迫ヲ加ヘツツアル処、斯ル圧迫ハ場合ニ依リテハ武力圧迫以上ノ非人道的行為ニシテ、国際関係処理ノ手段として排撃セラルベキモノナリ。
(四)合衆国政府ノ意図ハ、英帝国其他ノ諸国ヲ誘引シ、支那其ノ他東亜ノ諸地域ニ対シ、其ノ従来保持セル支配的地位ヲ維持セントスルモノト見ルノ外ナキ処、東亜諸国ガ過去百有余年ニ亙リ、英米ノ帝国主義的搾取政策ノ下ニ現状維持ヲ強ヒラレ、両国繁栄ノ犠牲タルニ甘ンゼザルヲ得ザリシ歴史的事実ニ鑑ミ、右ハ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメントスル帝国ノ根本国策ト全然背馳スルモノニシテ、帝国政府ノ断ジテ容認スル能ハザル所ナリ。合衆国政府今次提案中佛領印度支那ニ関スル規定ハ正ニ右態度ノ適例ト称スベク、佛領印度支那ニ関シ、佛国ヲ除キ日、米、英、蘭、支、泰六国間ニ、同地域ノ領土主権尊重竝ニ貿易及通商ノ均等待遇ヲ約束セントスルハ、同地域ヲ六国政府ノ共同保障ノ下ニ立タシメントッスルモノニシテ、佛国ノ立場ヲ全然無視セル点ハ暫ク措クモ、東亜の事態ヲ紛糾ニ導キタル最大原因ノ一タル九国条約類似ノ体制ヲ、新ニ佛領印度支那ニ拡張セントスルモノト観ルベキニシテ、帝国政府トシテ容認シ得ザル所ナリ。
(五)合衆国政府ガ支那問題ニ関シ帝国ニ要望セル所ハ、或ハ全面撤兵ノ要求トイヒ、或ハ通商無差別原則ノ無条件適用トイヒ、何レモ支那ノ現実ヲ無視シ、東亜ノ安定勢力タル帝国ノ地位ヲ覆滅セントスルモノナル処、合衆国政府ガ今次提案ニ於テ、重慶政権ヲ除ク如何ナル政権オモ、軍事的、政治的、且ツ経済的ニ支持セザルコトヲ要求シ、南京政府ヲ否認シ去ラントスルノ態度ニ出デタルハ、交渉ノ基礎ヲ根底ヨリ覆スモノトイフベク、右ハ前記援蒋行為停止ノ拒否ト共ニ、合衆国政府ガ日支間ニ平常状態ノ復帰及東亜平和ノ回復ヲ阻害スルノ意思アルコトヲ実証スルモノナリ。

五 要之、今次合衆国政府ノ提案中ニハ、通商条約締結、資産凍結ノ相互解除、円弗為替安定等ノ通商問題、乃至支那ニ於ケル治外法権撤廃等、本質的ニ不可ナラザル条項ナキニアラザルモ、他方四年有余ニ亙ル支那事変ノ犠牲ヲ無視シ、帝国ノ生存ヲ脅威シ、権威ヲ冒涜スルモノアリ。従ッテ全体的ニ観テ帝国政府トシテハ、交渉ノ基礎トシテ到底之ヲ受諾スルヲ得ザルヲ遺憾トス。

六 尚英国政府ハ交渉ノ急速成立ヲ希望スル見地ヨリ、日米交渉妥結ノ際ハ英帝国其他関係国トノ間ニモ同時調印方ヲ提議シ、合衆国政府モ大体之ニ同意ヲ表示セル次第ナル処、合衆国政府ハ英、濠、重慶等ト屡々協議セル結果、特ニ支那問題ニ関シテハ重慶側ノ意見ニ迎合シ、前記諸提案ヲ為セルモノト認メラレ、右諸国ハ何レモ合衆国ト同ジク帝国ノ立場ヲ無視セントスルモノト断ゼザルヲ得ズ。

 対米外交打切通告が政府の訓令どおり実施されなかったことは、ルーズベルト大統領をして「だましうち」というキャッチ・フレーズの下に、米国民を挙げて戦争に向って一致結束させるための絶好の口実を与えてしまった。ビュートゥによれば、それは「日本政府の官憲によってかつて行われた失態のなかでも最も高価についたものの一つ」であった。

 

 

 

 

 

 


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国際法無視の風潮、大陸勢力と同化した帝国陸軍に原因? (ななしさん)
2020-08-23 17:05:55
いつも力の入った記事を有難うございます。
当方が思いますに、日露戦争あたりまでの日本の行動は、国際法的にも高く評価されていた様に思います。
日本軍の行状が悪化したのは、大陸への関与を深めてからだと思います。
要するに、大陸で日本軍は現地の勢力と組織的且つ人的に深く交流した結果、文化風土や倫理観に於いて大陸のレベルと同化し、現地軍閥化してしまったのが原因として大きいかと思います。
当方は、特に関東軍を日本軍と見做すべきではないとの考えです。関東軍は、明らかに日本政府の意図を無視して暴走しています。彼らは、では、何に従って行動していたのか?
関東軍参謀の、個人的な名誉欲や私利私欲のためなのか?
鍵となるのは関東軍情報部の活動です。陸軍特務機関は中国の青幇などと深く協力しており、阿片王と言われた里見甫(中国名・李鳴)などは、日本の為に働いていたのか大陸(客家勢力?)の為に働いていたのか、良く分からないところがあることです。そして関東軍の動きが、帝国陸軍全体の意思となって日本を支配しました。
要するに、戦前の日本は、大陸と深く関わったが故に、大陸に飲み込まれてしまったというのが正しい見方のように思います。現代でも、日立、JDI(ジャパン・ディスプレイ)、三菱電機、ミツミ電機、任天堂、パナソニック、ソニー、TDK、東芝、ユニクロ、シャープなどの日本の各企業が大陸に進出し、人的交流を深めた結果、大陸勢に飲み込まれつつあるように見えます。これもまた、同じような結果になるのではと危惧するところです。
返信する
恐れ入ります (syasya61)
2020-08-23 19:19:18
ななし様

コメントありがとうございます。

>日露戦争あたりまでの日本の行動は、国際法的にも高く評価されていた様に思います。

 司馬遼太郎も、そうした考え方をしていたようですが、朝鮮王宮占領事件や旅順虐殺事件をふり返ると、そうも言えないように思います。
ただ、そうした事件があまり知られておらず、逆に、国際法にのっとった軍の行動が報道等で広く知られるようになったからではないかと私は思います。もともと皇国日本の軍隊は、人命や人権を尊重する意識が希薄であったように思うのです。
もちろん
>大陸で日本軍は現地の勢力と組織的且つ人的に深く交流した結果、文化風土や倫理観に於いて大陸のレベルと同化し、現地軍閥化してしまったのが原因として大きいかと思います
 という側面はあると思いますが、里見機関による阿片による利益は、日本軍の中枢にも流れていたのであり、関東軍の暴走とばかりは言えないように思います。

 でも、下記のようなとらえ方は、大事だろうと思います。
>現代でも、日立、JDI(ジャパン・ディスプレイ)、三菱電機、ミツミ電機、任天堂、パナソニック、ソニー、TDK、東芝、ユニクロ、シャープなどの日本の各企業が大陸に進出し、人的交流を深めた結果、大陸勢に飲み込まれつつあるように見えます。これもまた、同じような結果になるのではと危惧するところです。
返信する
蒋介石も南京政府も日本軍部も毛沢東も、全部お仲間?その黒幕は青幇(ちんぱん)? (ななしさん)
2020-08-23 19:22:47
 里見が本格的に阿片と関わるようになったのは1937年に起きた第二次上海事変だった。特務機関から資金調達のための阿片の販売依頼があり、ペルシャから大量に密輸された阿片の販売に着手した。青幇、紅幇につながる盛文頤なる人物を仲介者として大量に販売するルートが見出された。「阿片王」の筆者、佐野真一によれば「裏社会に人脈のある里見にしかできない仕事だった」。
 里見は上海に宏済善堂という名の拠点を設け、ペルシャ阿片に引き続き、熱河阿片、内蒙古阿片の総元受けとなった。宏済善堂はもともと岸田吟香がヘボン伝来の目薬「精錡水」を中国で販売した善楽堂上海支店だった。「阿片王」には、阿片販売で得た利益について「半分は蒋介石、4分の1は南京政府の汪精衛が取って、残りの4分の1の八分を軍部に収めて、あとの2分を里見が経費を含めて取っている」という記述もあり、興味深い。阿片のお蔭で財政赤字だった南京市は「たちまち好転した」ともいわれている。
 戦後、帰国した里見は極東軍事裁判でA級戦犯として巣鴨に収容されたが、なぜか無罪放免となった。
https://domingo.amebaownd.com/posts/7558926/

 一方で毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

 例えば、佐野真一氏の著作によれば里見機関による阿片収益の取り分は、蒋介石(青幇)や南京政府に比べ、日本軍の方が少ない。
 その上で、日本軍は蒋介石とも戦わされているのだから、明らかに日本に不利益な取引になっている。こうした裏ビジネスの黒幕が青幇である証拠ではないだろうか。
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ご返信ありがとうございます (ななしさん)
2020-08-23 19:51:26
 ご返信を読む前に、次のコメントを書き込んでしまい申し訳ありませんでした。
 確かに、日本の軍隊では、人命や人権を尊重する意識が希薄であったというのは、その通りかと思います。それは最近に至るまで、高校野球でも暴力事件や或いは会社でのパワハラ、過労死などの現象にも表れていたかと思います。文化的、宗教的な背景があると思います。
 しかしながら、捕虜の扱いなどに関しては、規模や期間の違いが原因なのかも知れませんが、支那事変以後の方が悪化しているように感じます。虐殺事件などあったにしろ、日露戦争でのロシア人や第一次大戦でのドイツ人捕虜の方が、太平洋戦争での英米オランダ人捕虜よりも明らかに厚遇されていたように思うのですが。
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なるほど (syasya61)
2020-08-23 22:05:38
ななし様

 丁寧な再度のコメントありがとうございます。


>阿片販売で得た利益について「半分は蒋介石、4分の1は南京政府の汪精衛が取って、残りの4分の1の八分を軍部に収めて、あとの2分を里見が経費を含めて取っている」という記述もあり、興味深い。阿片のお蔭で財政赤字だった南京市は「たちまち好転した」ともいわれている。

 ということは、初めて知りましたが、情報源を確かめてみる必要性を感じます。

>戦後、帰国した里見は極東軍事裁判でA級戦犯として巣鴨に収容されたが、なぜか無罪放免となった。

 なぜ不起訴になったのか、疑問に思う一つです。何か取引があったのか、あるいは、アメリカにとっては、里見はあまり問題ではなかったのか…。

>しかしながら、捕虜の扱いなどに関しては、規模や期間の違いが原因なのかも知れませんが、支那事変以後の方が悪化しているように感じます。虐殺事件などあったにしろ、日露戦争でのロシア人や第一次大戦でのドイツ人捕虜の方が、太平洋戦争での英米オランダ人捕虜よりも明らかに厚遇されていたように思うのですが。

 それは間違いないと思います。でも、それは戦いがくり返され、長引き、大勢の犠牲者が出るようになるにつれて、人命軽視や人権無視がひどくなっていっただけで、もともと日本は、欧米のような近代法を発展させた考え方がほとんどなかったために、戦争をくり返せば、悪化する必然性があったのだと思います。
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