真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO10 キーナン検事の東条尋問①

2020年08月05日 | 国際・政治

 キーナン検事の問いに答える東条被告の主張に、私は少なからず疑問を感じます。
 そのいくつかを指摘したいと思うのですが、先ず、大東亜建設について”できるだけ平和的な方法をもってをやりたいと思っていた”と答えているところがあります。でも私は、「大東亜」の考え方自体が、関係国の主権を蔑ろにするものであったことを見逃すことができません。 

 昭和15年7月26日、東条が陸軍大臣の時に閣議決定された、「基本国策要綱」の「一、根本方針」に
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す
 とありますが、これは、
天皇の御稜威(ミイツ)”を”四方”に広げる、という”肇国の大精神”に基づく方針です。したがって、皇国日本の方針に背くことを許さない、現人神・天皇を戴く「大東亜」の建設ですから、周辺国の主権は当然、限定されたものにならざるを得ず、平和的な方法で実現できるものではなかったと思います。
 1941年(昭和十六年)十二月八日の「開戦の詔書」の中に”中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ…”というようの言葉がありましたが、天皇の御稜威を四方に広げることを受け入れない中国が、東亜の平和を攪乱したことになっています。
 ”兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”というような考え方が、「基本国策要綱」の背景にあるのだと思いますが、そうした考え方で「大東亜」の建設をしようとする限り、平和的な方法で達成できるはずはなかったと思います。

 さらにいえば、現実に台湾の植民地化も、韓国の併合も、満州国の建国も、平和的に進められたとはいえませんし、日中戦争の経過を見ても、日本の外交が平和的でなかったことは明らかだと思います。
 だから、”できるだけ平和的な方法をもって”というのは、関係国が主権を放棄しない限りあり得ないのであり、現実に”武力をもって”進められたのです。

 例えば、日本軍第二師団が吉林軍の武装を解除しようとしたとき、吉林省政府と日本軍第二師団の仲介に動き、熙参謀長と師団長の会談の場を設定した当時の吉林総領事・石射猪太郎は、「外交官の一生」(中公文庫)のなかで、”師団長がこの会談は軍事的なものであるから、外交官は席をはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った”と書いているのですが、その後しばらくして”今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶体絶命これを承諾した。ただし、吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた”という連絡が、熙参謀長の張秘書からあったと書いているのです。外交問題も、軍が武力をもって進めていたことがわかります。

 次に、1941年十一月二十三日、日本の艦隊が真珠湾を攻撃するために単冠湾(ヒトカップ)を出発したことは、海軍統帥部の作戦準備行動であり、東条は知らなかったというのですが、私はあり得ないことではないかと思います。確かに、真珠湾奇襲攻撃作戦の詳細は海軍の立案でしょうが、もともと海軍の永野修身・軍令部総長も山本五十六・連合艦隊司令長官も、ハーバード大学に留学した経験があり、また駐米大使館付武官もやっており、アメリカ通です。アメリカとまともに戦うことは避けたかったと思います。嶋田海相も当初は日米開戦に反対だったと聞いていますし、終戦時の米内光政海相も開戦前の五相会議の席上で、日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、日本の海軍に”勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません”と述べたといわれています。アメリカとの国力差を肌で感じていた海軍の関係者は、日米開戦を望んでいなかったことがわかります。
 逆に和平を模索していた近衛首相に、一刻も早い対米開戦を要求したのは、陸軍大臣東条英機であったといいます。海軍善玉論に組するつもりはないのですが、日米開戦を主導したのは陸軍だと思います。だから、下記のキーナン検事の問いに対する陸軍大臣東条の答えは信じ難いのです。
問「あなたは日本艦隊が真珠湾を攻撃せよという命令を受けて出発したのを、単に作戦の準備であったというのか」
 答「そういう細かいことをお聞きになっても私は知りません。海軍の統帥部に関することですから、はたしてあなたのいうように当時真珠湾を攻撃せよという的確な命令を出したかどうかはわかりません」
 日本の命運をかけて主力艦隊が真珠湾奇襲攻撃に向っている事実を、当時総理大臣兼陸軍大臣であった東条が知らなかったということはあり得ないと思います。奇襲攻撃が成功しなければ、日本軍は勝てる見込みがない、といわれていたのです。さらにいえば、海軍関係者が心配した通り、奇襲攻撃が成功したにもかかわらず、圧倒的な国力差によって日本は敗けたのです。だから、そんな一か八かの真珠湾奇襲攻撃について、日米開戦の流れを作った陸軍の大臣東条が知らないわけはないと思います。
 また、真珠湾奇襲攻撃と並行して、1941年十二月八日、大日本帝国陸軍第二十五軍がイギリス領マレー方面の攻撃を開始していることも見逃せません。「開戦の詔書」に”朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス”とあるように、米国のみならず、英国にも宣戦を布告し、日本から遠く離れたところで、陸軍と海軍がほぼ同時に攻撃を開始しているのです。宣戦布告との関係で、周到に準備されていることは明らかだと思います。真珠湾奇襲攻撃は海軍の作戦準備だったので東条が知らなかった、ということはあり得ない話だと思います。

 また、たびたび天皇に謁見していながら、真珠湾攻撃については、天皇に話していない、というのも、あり得ないと思います。
 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から「歴史的な大尋問」題された文章のなかの”キーナン首席検事の反対尋問「軍国主義を宣伝するのか」”と”正月の法廷”と”真珠湾と日本艦隊”の部分をを抜粋しました。
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            第二十二章 白熱 東条尋問録

                歴史的な大尋問

 キーナン首席検事の反対尋問「軍国主義を宣伝するのか」
 大晦日の三十一日朝、ブラナン弁護人が退いたあとをうけて、首席検事のジョセフ・キーナン氏が反対尋問に立った。
 キーナン検事は「被告東条!」と呼びかけ、歴史的な大尋問の火ぶたを切った。
 問「被告東条、私はあなたに対し大将とは呼ばない。それはあなたも知っている通り、日本にはすでに陸軍はないからである。……一体あなたの証言というか、議論というか、過去三、四日にわたって証言台に立ち弁護人を通じてのべた宣誓口供書の目的は、あなたが自分の無罪を主張し、それを明白にしようとの意図であったか、それとも日本の国民に向ってかつての帝国主義、軍国主義を宣伝する意図のためにおこなわれたものであるか」
(ブルウエット弁護人から妥当な反対尋問でないと異議を申し立てT、この質問は却下)
 問「あなたは米国および他の西欧諸国に対して攻撃をする言訳のひとつとして、これらの諸国があなたの大東亜共栄圏に関する計画を邪魔しておったからだというのか、それが戦争を正当化するひとつの理由であったというのか」
 答「原因にはなります。しかしながら直接の原因ではない」
 問「これらの戦端が開始されるころ、およびその以前あなたの意図は大東亜に新秩序を樹立することであるとあったのを認めるか」
 答「もちろん一つの国家の理想として大東亜建設ということは考えていた。しかもできるだけ平和的な方法をもってやりたいと思っていた」

 正月の法廷
 年が明け、1948年(昭和23年)の一月六日。キーナン検事の尋問は鋭さを増していく。
 問「まず東郷外相より野村大使にあてた通信の第一節に注意を喚起する。
『熟議に熟議を重ねた結果ここに政府、大本営一致の意見にもとづき日米交渉対策を決定す。右は五日開催予定の御前会議において帝国の主要国策とともに確認をまつのみ、本交渉は最後の試みであり、わが対策は名実ともに最後案と御承知ありたく』
 とある。この文章を記憶しているか」
 答「よく記憶しています」
 問「この甲案、乙案は日本大使からアメリカに提出された最後案であったのではなかったか」
 答「外交上の最後案として使ったろう」
 問「二つの文章は一人の日本人から他の日本人に通知されたもので、その二人の日本人があなたのいう外交的な言葉をつかっていたのでしょうか。あるいは大真面目に話しておったのでしょうか」
 答「それは大真面目に話していたのはわかり切った話」
 問「その事実はこういうことを示すのではないか。連絡会議は最後案としてこの案を採択し、日本の大使に対しこれが最後の案で、これ以上変更することはできないという訓令を与えたことを示すものではありませんか」
 答「それはその通りしめしたであろう。しかし外交というものは相手があります。相手の出方によってまたやる点というものは変更してくるのです。そこのゆとりはどこの国でももっておるのです」
 問「その翌日(十一月五日)東郷外相はつぎのような電報を野村大使に送らなかったか。『右で妥結不可能な際は、最後の局面打開策として乙案を指示するつもりだから、甲案にたいする米国側の態度を大至急通報ありたし』」
 答「よく知っています」
 問「『第四節、今次訓令は帝国政府の最後案なり、前電に申しのべたことにして事態すこぶる逼迫し、絶対に遷延を許さざるものである。……』」
 答「今日においても日本が日米交渉に非常に焦燥していたという感じを新たにします」

 真珠湾と日本艦隊
 問「あなたは日本の艦隊が真珠湾を攻撃するために日本を出発した日を知っておるでしょう」
 答「この裁判で知りました。それは単冠湾(ヒトカップ)をニ十三日に出たということを知ったのです」
 問「さてこの日本艦隊が日本を出発したのは、東京においてハル・ノートが受領される前であったのは事実ではないか」
 答「それは事実です。作戦準備行動です」
 問「あなたは日本艦隊が真珠湾を攻撃せよという命令を受けて出発したのを、単に作戦の準備であったというのか」
 答「そういう細かいことをお聞きになっても私は知りません。海軍の統帥部に関することですから、はたしてあなたのいうように当時真珠湾を攻撃せよという的確な命令を出したかどうかはわかりません」
 問「あなたはこの艦隊がもっとも強力な機動部隊の一つであったことを否定するか」
 答「強力ということはなにに比較してのことですか、米国艦隊に対するものですか、あるいは抽象的なお尋ねですか」
 問「私の尋ねているのは、有史以来海軍によって派遣された機動部隊としてもっとも強力なもののひとつであったことを否定するのですか」
 答「有史以来と申しますと? ──航空母艦のできたのは最近だと思います。日本艦隊の一部であることは肯定致します」
 問「言葉のやり取りをしようとは思わないが、この艦隊が歴史上、1941年十一月二十六日までの間においてもっとも強力な機動部隊ではなったかと聞いている」
 答「相当強力なものと思いますが、有史以来ということになると私は海軍ではありませんから明確には答えはできません」
 問「あなたは現在連合艦隊の作戦命令は十一月五日に発せられたことを知っていたか」
 答「知りません。作戦準備命令はそのころ出たことをこの法廷で知りました」
 問「これが発せられた十一月五日当時においては知らなかったと言うのですか」
 答「知りません」
 問「あなたは総理大臣としてこの艦隊が十一月ニ十三日にしろニ十六日にしろ日本を出発したことも知らなかったわけですね」
 答「事実において知りません」
 問「それではあなたはまず真珠湾を攻撃すべきであるということを、艦隊が真珠湾に向って進行中に知ったか」
 答「それは艦隊の進行中知ったというよりも、十二月一日の御前会議決定にもとづいて当然攻撃開始に向って行動しつつあると想像しておりました。しかもその間において日米交渉が万一にでも打開できれば、技術上許す範囲においていつでも作戦行動を停止するということで行動していたと承知している。(裁判長にそれを知った日付を答えなさいと注意)
1941年(昭和十六年)十二月一日の御前会議において知りました」
 問「あなたはこの御前会議において艦隊が真珠湾を攻撃するため進行中であったことを知ったか、然りとか否とか答えて下さい」
 答「それは否と答えましょう」
 問「それでは最初に知ったのはいつか」
 答「イエスとかノーで答えるというのはつらい。御前会議においては真珠湾攻撃うんぬんということは出ていなかったのです。それで私は否と答えた」
 問「それでは御前会議において作戦部隊が合衆国あるいはその領土を攻撃するため出動中であるということがあきらかにされたか」
 答「そういう作戦に関する具体的なことは御前会議、連絡会議において採り上げられませんでした。そういうことは統帥部から提案すべきものではないのです」
(裁判長、いつ最初に真珠湾が攻撃されることになっていることを知ったか、と質問)
 答十二月一日か二日でしたか、日付けははっきりしませんがそのあたりのところです」
 問「それでは誰があなたに対し真珠湾を攻撃することになっていると話したか」
 答「陸軍大臣の資格において参謀総長から聞いたと記憶します」
 問「それが十二月一日の御前会議において知らされた情報ですか」
 答「違います」
 問「あなたが参謀総長からこの情報を受けたとき、あなたのほかに誰かいたか」
 答「誰もおりません」
 問「あなたはこの情報を天皇に伝えたか」
 答「伝えません。伝える責任をもちません」
 問「それは誰の責任か」
 答「当然軍令部総長、参謀総長の責任です」
 問「日本の総理として政府の首班としてこの情報を天皇に伝える義務はないと主張するのか」
 答「内閣総理大臣としてはありません」
 問「あなたの1941年当時の政府運営の観念においてはこういう計画が実施される前に、天皇はこの通知をうける権利をもっておったと考えるか」
 答「いまの純作戦のことであれば、政府としてはその責任はもちません。統帥部としてはあるていどの大綱は申し上げたろうと思います」
 問「その計画というのはすなわち真珠湾を攻撃するという計画ですね」
 答「もちろんです」
 問「十二月一日か二日から七日の間に天皇に謁見したか」
 答「たびたび謁見しました」
 問「その際戦争の問題について話したか」
 答「いま的確に記憶せぬが、当然お話があったと思う」
 問「真珠湾攻撃について話したか」
 答「しません」
 問「それに触れなかったのは故意か、あるいは遠慮したのか」
 答「それを含んだもっと大きな戦争について話した。真珠湾攻撃は戦争の一部です」
 問「真珠湾攻撃が天皇に話すに足りない、つまらないものだというのか」
 答「そうとられると困る。小さいものとは思わぬが、戦争の全体からいえばなんといっても一局です」

 


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